卒業

 年が明け、三学期は瞬く間に過ぎていく。
 三年生たちはそれぞれの思う進路を見定め、ある者は仲間を連れて、ある者は仲間と別れてまで新たな環境へ進む準備を整える。
 荒川翔と月丘めぐみは校内推薦を受け、海風薫と日立京悟は一般入試に挑み、皆無事に合格することができた。そのほかの生徒たちも同様に高校入学を決め、後は卒業を待つばかりだった。
 めぐみは相変わらず薫と京悟の関係を疑っていたし、京悟と翔の関係が修復されることもなかった。ただ、それぞれ仲が悪いわけではない。普段は話したりするし、必要ならば行動を共にしたりもする。彼らの周りに立ちふさがる壁は、決して取り去られることはないけれど、高くそびえ立っているわけでもない。彼らはそれを分かっていて付き合っている。そしてふと、そのことを考えたり意識したりすると、気恥ずかしくなったり、悲しくなったりと、おかしな気持ちになったりするのだった。
 やがて、卒業式の日が訪れた。

 薫は桜の木の下を通って、深水中学校へ続く坂道を登る。今年は桜の開花が早く、満開とまではいかないが、すでに美しく花を咲かせている。薫は桜の花が好きだ。はらはらと散る花びらをわけもなく目で追いかけたくなる。
 登校し、教室に入った。ややあって沢城が現れて、心の準備をする暇もないまま体育館前に整列して向かった。春が近づいてきているが、外はまだ少し肌寒い。入場の時間になるまで、静かに待機しろとの命令が出た。列は瞬時に崩れた。
「どうしよう海ちゃん。私、絶対泣く」
「泣いてもいいと思うよ。今日くらいは」
 薫はもうほとんど涙目になりかけている月丘めぐみと穏やかに話をした。時折、ちらっと後ろの方に目をやると、京悟の見慣れた制服姿がある。誰と話をするでもなく、校舎の音楽室のあたりをじっと眺めていた。薫も同じように目をやる。
 窓の向こうに小さく、沢城の譜面台が見える。演奏の改善点などを書き連ねたホワイトボードが見える。壁に貼られた音楽家の絵が見える。そのどれもが毎日のように見飽きるほど見ていたものなのに、またあの部屋にいってしばらく眺めていたいなと思う。でももうきっと、あの部屋には来ることはない。
 薫は目線を下げた。京悟ももう音楽室を見ていなかった。
「三年生、もうすぐ入場します」
 学年主任の小西奈央によって号令がかかり、薫たちは再び列を作る。海風薫は、列の一番前になる。前には沢城がいる。
「後輩たちの演奏、聞いてあげてね」
 薫はその声を、確かに聞いた。
 途端に落ち着かなくなる。胸の花を少し触ってみる。なんとなく髪を整える。胸が、どきどきする。
 扉が開いた。
 安らかな音色が聞こえてくる。
 沢城の後に続いて、ゆっくりと歩いていく。絨毯の上を、一歩一歩踏みしめる。だんだんとよく聞こえるようになってくる吹奏楽部の演奏に目を奪われそうになるが、前だけを見る。指揮をしているのは二年生の新部長だ。引退後に決まったらしいので、薫はその人の名前を知らなかった。
 気づけば、席に座っていた。演奏も終わっている。ちゃんと聞こうと思ったのに、旋律が全く耳に入ってこない。演奏そのものは素晴らしかったけど、なぜか頭が忘れようとする。
 式はしめやかに行われた。卒業証書授与の時は一人一人大きく返事をしてから受け取る。薫は自分でも驚くくらいに大きな声を出せた。林校長の笑顔が、薫の緊張を和らげてくれた。
 式の最後は、三年生全員による合唱だった。薫は、クラスメイト、吹奏楽部員、そして家族のことを思いながら、心をこめて歌った。三学期に沢城の指導の下何度も練習した。沢城は吹奏楽部でしたように厳しくはなかったが、久しぶりに受ける沢城の指摘のひとつひとつが懐かしくて、他のみんなが面倒くさそうにしている中で、薫は一生懸命きれいな声を出そうと努めた。本番の合唱はすぐに終わってしまった。なんでこんなに早く終わってしまうのだろう、と思った。もっともっと歌いたい。薫は最後の一声にそんな気持ちをこめていた。
 自分はもう卒業するのだ。
 それなのにそのことを受け入れられないでいる。こうして式に出ているのに、明日もまたこの深水中学校に来るんだと心のどこかで考えている。そのことに今気づいた。
 薫はそこで、少しだけ涙を流した。
 卒業式は終わった。

 教室に保護者とまとめて通されて、薫たちは沢城から簡単な卒業の言葉を述べられ、そのままあっけなく解散になった。薫はめぐみと一緒に教室を出る前に、沢城に勇気を出して声をかけた。吹奏楽部の演奏はとってもよかったです、と一言だけ伝えた。沢城は薫に柔らかな笑みを見せた。
「ありがとう。さあ、これが最後の指示です。高校生になりなさい。海風薫さん」
「はい」
 薫とめぐみは教室を出た。二人の母親が後ろで仲良く談笑している。校庭に出ると、帰りを惜しむ卒業生とその親たちで賑わっていた。仲良し同士で写真を撮る人たち、先生と話し込んでいる人たちもいる。薫とめぐみも写真を撮った。
「薫、もっと笑って」
 母の栞にそう言われるほど薫は照れくさくなって、結局微笑み程度にしかならなかった。
 その後も二人の母親の話が続くので、薫はめぐみと校庭を見て回っていたが、やがてめぐみがしびれを切らしたように、
「ねえ海ちゃん。こんなことしてていいの」と言った。
「どうして」
「海ちゃんにはしないといけないことがあるじゃないの。さあ、ほら」
 薫はめぐみの言いたいことが分かる。でも曖昧にはぐらかしてしまう。そんなやり取りが繰り返されていると、そこへやけに若い私服姿の女性がやってきた。
「薫ちゃん、卒業おめでとう」その上、フレンドリーに話しかけてくる。笑顔が眩しい。
「あ、こんにちは」薫は思い出した。
「海ちゃん、この人誰」
「日立くんのお姉さんだよ。名前は……」
「日立桐子です。うち、お父さんが来られないからさ、京悟のためを思って代理として来たってわけ。大学も今休みなの。いやー、それにしても中学校の卒業式っていいよね。小学校ほど子供じゃなくて、高校ほど大人じゃない。ちょうどよく素敵」
「はあ」薫とめぐみは揃って、桐子の言っていることの意味があまりよく分からない。
 それでも薫の口から京悟の名が出ると、めぐみが何か怪しげな表情をする。日立桐子の向こうには京悟の母である日立留美もいた。栞とめぐみの母の間に加わっている。ところが、肝心の京悟の姿がどこにもない。
「あいつふらっとどっかに行っちゃってさ。お母さんに捜してきなさいって言われたけど、中学校の中を私が捜し回ったらいろいろとまずいでしょう。二人で、お願いできない?」
「海ちゃんが、海風さんが捜すそうです!」
「えっ、月丘さん」
「もう! 海ちゃんの馬鹿」
 めぐみが薫の両肩に手をかける。
「まさかこのまま何も言わずに帰る気じゃないよね。そんなの私、許さないから。海ちゃんがちゃんとやるべきことするまで、私がお母さんたちのことうまくごまかしておくから。さっ、早く行ってきて!」
 薫は無理矢理にその場から追放された。口を真一文字に結ぶめぐみと、にやにやと事の成り行きを見守っている桐子が、そこに残った。桐子がふと呟いた。
「いいなあ。私ももっと、ああいうことしたかったな」

 京悟のいそうな場所には、薫も大体の見当はついていた。本来は立ち入り禁止である旧体育教官室に、京悟はきっと訪れている。今からそこにひとりで行くのだと思うと、薫は卒業式よりも緊張してきてしまう。
 誰もいない木々の通りを、薫はとぼとぼと歩いていく。建物の近くにも桜が植えられており、かすかに見える屋根に花びらが数枚落ちていた。薫は角を曲がり、建物に近づく。
 階段の一段一段にも、桜の花が散っている。まるで薫をその先へ導いているかのようだ。なるべく足音を立てずに、上に登った。
 三年前より少し大きくなった背中があった。
「日立くん」
 今度は薫の方から話しかける。京悟は驚いたのか勢いよく立ち上がり薫の方を向いた。手には卒業証書の筒が握られている。
「海風」その名を口にする京悟は、慌てるでもなくあの日と同じ佇まいだ。
「お姉さんが捜してるよ」
「ふん。あんな馬鹿姉貴はほっといていい」
「駄目だよ、そんなこと言っちゃ」
 言葉をうまく繋げない。京悟もよく喋る方ではないので、気まずい沈黙が流れ出す。薫は次の言葉を必死に考えるが、思うように声を出せない。
「あ、あのさ」
「ん?」
「この前聞いたけど、高校一緒じゃなかったよね」
「ああ」
 ある日教室で話す機会があった時に、二人は互いが別々の高校へ行くことを知った。そのことは二人をひどく驚かせた。そういえば入学してから三年間、なんだかんだといって行動を共にすることが多かったな、と。
「わたしは高校でも吹奏楽やろうと思ってるんだけど、日立くんはどうする?」
「考え中。でも今更野球再開したって、よっぽどのことがないと甲子園には行けないだろうな」
「そっか。……あの、ごめん、嫌だったら答えなくていいけど、荒川翔くんとはどうなったの」
「なんで海風が翔のこと知ってるんだ」京悟は腕を組んで眉間にしわを寄せる。
「あ、えっと、クラスの噂を偶然聞いちゃって」薫は慌てて言葉を付け足す。
「あ、そう。そういえば結構騒がれたか」
 京悟は腕をほどくと、打楽器部員でもないのに、卒業証書の筒で手すりを叩き、不規則なリズムを取る。
「一応、和解はした。でももう元には戻れないって。悪いが詳しい事情は言いたくない」
「う、うん。いいよ。二人が仲の悪いままお別れしちゃうのかな、って思って聞いただけだから。ごめんね」
「余計な心配をさせてたなら謝る」
「そんなこといいってば」
「そうか」
 京悟は筒を持たないもう片方の手で、頭をさするようにして掻いた。
 薫は、昔の自分からは想像もできないようなことを言っているこの瞬間が、後で考えてみてもとても不思議な心地がした。日立京悟は同級生の男の子で、紛れもなく異性なのに、話していても嫌じゃない。そこから逃げ出してしまいたくならない。
「ちょっとこっちに来てみろ」
 京悟が親指で示すので、薫は京悟のすぐ隣に立った。そうして指された方向に目を向ける。
 かつて見た、小さな海があった。
 海は少しも変わっていない。遠くで小さく波打つばかりだ。でも、ずっと見ていたくなる。
「ここも取り壊されたら、もう見られなくなるな」京悟が少し悲しそうに言った。
「うん。でもまたどこかで見える場所が見つかるよ。いつかは」
「そうかな」
「そうだよ」
「…………」
 再び沈黙しかけるところを、薫が遮る。
「あの」
 薫は京悟の方へ体を向けた。
 言い終わった後、どうしようもなく恥ずかしいだろうけど、それでも、言っておかないといけないと思った。
「日立くん、今までありがとう。わたし、日立くんがいたから、今まで頑張れたと思う」
「……そうなのか」
「うん……。日立くんとは別の高校になっちゃうけど、家は近いままだし、会おうと思えばいつでも会えるから。これからも、仲良くしてね」
 薫は片手を差し出した。
 京悟は放心していたが、薫の手に気づくと、たくさん時間を割いたのち、おずおずとそれを握った。
 小さな海を背景に、二人の握手が春の光に照らされる。
 その瞬間薫は、京悟の前で初めて笑顔を見せていた。

 薫と京悟は、旧体育教官室から帰る道のりの最中で、少ないながらも中学校の思い出を語り合った。あっという間に校庭に戻ってきてしまい、二人は案の定悪意に満ちた祝福を受けた。時間差を作るべきだったと、京悟は激しく後悔した。薫はあまり気にならなかった。
 皆、別れることを惜しんだが、いつまでも中学生として一緒にいることはできない。緩やかに、だが確実に流れていく時間が、卒業生たちにそのことを優しく教えた。いつしか校庭から、人の姿は消えていた。
 海風薫は、この中学校で出会ったすべての人のことをしっかりと覚えておこうと思った。そしてこれからまた始まる新しい生活に向けて、自分のペースでいいから、止まらずに歩いていこうと決めた。
 今いるこの場所から先へ進むのは、とてつもなく辛くて、苦しいことだけれど、絶対に逃げることはできないし、避けることもできない。許されるのは、思い出した時にふと振り返ることだけだ。
 薫は今でもたくさんの不安を抱えている。
 それでも、かつてのように目を背けない。
 自分の力で自分を変えていくために。