体育大会、文化祭と、学校行事が次々と三年生の限られた時間の中で通り過ぎていく。それらの行事では、三年生を失った吹奏楽部の演奏が披露された。日立京悟はその一音一音にしっかりと耳を傾けた。かつて自分は演奏する側だったのに、今では観客席で関心の薄そうな一般生徒たちの中に混じって、演奏を聞くことしかできない。京悟は外野になっていた。外野は応援することしかできない。でも、応援ができる。京悟は演奏終了後に、誰よりも大きく拍手をした。心からの拍手だった。
卒業が近づくにつれて、京悟は事あるごとにたったひとつの心残りを思い出す。荒川翔と、もう一度だけキャッチボールをすることだ。二、三回だけで構わない。翔の球を受けて、返したい。ただそれだけだった。
京悟が翔に心の変化を打ち明けたあの日以来、二人は少しずつではあるが、その冷えに冷え切った関係を徐々に修復していく兆しを見せた。話したりはしない。だけど、例えば給食当番で偶然一緒になった時は、文句も言わずに共同で作業し、教科書を忘れたりすると、互いに見せ合うこともあった。それには双方の固い沈黙がつきものだったが、翔は特に嫌そうな顔を見せない。京悟は翔に拒絶されないことを確認するたびに、ほっとする。そのかわり、翔は必要最低限の会話しかしようとしない。そのため、京悟は十二月になっても翔を公園に来るように誘うことができずにいた。翔と決別したあの公園でするキャッチボールこそに意味があると、京悟は漠然とながらも考えていたのだ。
涼しい秋も去り、これからは冬がやってくる。冬休みになると、翔をますます誘いにくくなるだろう。京悟は翔の家を知らない。行ったことがあるかどうか、それすらも覚えていなかった。冬休みが明ければ、学年末考査に受験と、もはやキャッチボールなどと言っている場合ではなくなる。どうしても、十二月の間に翔に直接声をかけたかった。
とりあえず、翔はどの高校に行くのかどうかを聞いてみたかった。京悟は、姉の日立桐子の強い勧めにより、若草高校に行くことになっている。県大会常連、地方大会でも好成績というなかなかの実力を誇る野球部と吹奏楽部を持ち、きっと京悟が部活動のことで万が一迷ったとしても、ここなら大丈夫でしょ、と桐子にパンフレットを差し出されたことがあったためだ。クラス担任の沢城も納得した。年明けには入試があるが、きっと大丈夫だろうと、京悟をそっと後押しした。
翔はどこへ行くのだろう。そんな疑問が、京悟を捉えて離さない。
同じ高校だとしたら、それは素直に嬉しい。三年間時間ができる。またかつてのような関係に、完全にとはいかないまでも、少しは近づけるかもしれない。京悟は意を決し、ある日の授業後、翔に声をかけた。
「あのさ。これから、時間あるか」
翔は立ち止まるが、答えない。
「ちょっと付き合ってくれ」
京悟は単刀直入に申し出ることはできなかったが、とりあえず公園に連れて行こうと思った。翔はしばらく黙っていたが、やがて京悟の隣に並んだ。京悟が歩き始めると、翔もそれについていった。京悟は安堵して、学校を出た。二人は無言のままてくてく歩き、公園に到着した。
京悟はこの日のためにと持ってきたグローブを翔に手渡した。京悟も自分の手にグローブをはめて、その中にボールを収める。もう片方の手でボールを持ったりミットに戻したりを繰り返してみたが、少年野球時代の感覚がまだ残っている。
「少しだけでいいから、投げないか」
思い切って、翔に言う。翔は何も言わずに手にグローブをはめて、京悟から距離を取った。京悟も少し離れて翔と向き合った。
公園で、少し向こうに、グローブをつけた翔。
懐かしい光景だった。京悟はそれを見るだけでもう十分だったが、我慢できずにまずは軽くボールを投げる。翔は楽々ミットに収め、これまた軽く返してくる。さすが深水中野球部の投手というべきか、翔の動作は軽かったのに、京悟は危うくボールを取りこぼしそうになった。その後、何回か投げ合っているうちに、翔がボールに力を入れてくるようになって、京悟はとうとう取ることができなくなった。ボールがミットの上を飛んでいく度に、「ごめん!」と言いおいて急いで取りに行った。そんなやり取りが何度も続いたので、京悟はなんだかやりにくくなって、十数球ほど投げたところで翔に終わりを告げた。最後の方はキャッチボールになっていなかったが、京悟は満足だった。とてもいい時間だと思った。
「翔は、どの高校受けるの」
鞄を置いてあったベンチに二人で腰掛けてから数分、京悟が聞いた。翔はぼそぼそと高校名を口にした。京悟はその高名を耳にして、固まった。
「野球で学校に特別推薦してもらえることになったから。成績は大目に見てくれるって」
「えっ、じゃあ」
「ああ。ずっと遠くの県だ。寮に入る。たぶん家にはずっと戻らないし、お前とももう、二度と会わない」
「そう、か」
京悟は、自分が知らず知らずのうちにすっかり思い上がっていることを理解した。翔は自分のことをだんだんと許してくれるだろうと、高をくくっていたのだ。自分が原因で深めた溝を、これから少しずつでも埋めようと思っていたのに、その溝はもう京悟には手の施しようがないほどに、あまりに深くなりすぎた。
「お前はどうせあれだろ」
「あれって」
「海風薫とかいうやつと一緒の高校だろ」
「いや、海風がどこに行くのかは知らない。俺が受けるのは若草高校だけど、海風は、そんな理由で高校を決めたりはしないと思う」
「どうだか」
「なんで、そこで海風が出てくるんだよ」
京悟の問いに、翔は答えない。すでにグローブを外してしまったその手には、ボールがやわらかく握られている。
「京悟が、俺に対してすまないと思ってるのは、分かるよ。いきなりキャッチボールしようとか言い出して、この公園に連れてきて。やり方はへたくそだけど、それでもまあ、十分すぎるくらいに。でも仲直りとか、そういう気分にはもうなれん。俺たちってまだ子供だけど、もう子供じゃないんだよ」
「それこそ、意味が分からん」
「ははっ、そうかも。悪い」
翔は苦笑する。グローブにはまる京悟の片手は、じっとりと汗をかいている。
「前に言っただろ。気づくのが遅すぎるって。あの時は感情にまかせてそう言ったけど、仮に京悟がもっと早く気づいていたとしても、俺はもう京悟と関係を元通りにする気はさらさらなかった」
「一年の時から?」
「ああ。でもお前のことが忘れられずにいたってことは本当だぞ。またお前と野球ができたらいいなって、そんなことばっかし思ってた。でもそれはもう無理だっていうことも分かってた。だってお前はもう吹奏楽部の人間だから。俺とお前がかつてバッテリー組んでたことなんか、もう誰も覚えてねえしな」
「俺はずっとおぼえてる」
「お前は、な。俺だってそうだよ。でもな、とにかくもう駄目だよ。これはあれこれ細かい理由とかそういうのを並べ立てるようなことじゃない。お前がなんと言おうと駄目だ。お前だってそれは分かってんだろ」
「分かってても言いたかった」
「……馬鹿かよ」
小さくそう呟いて、翔は立ち上がり、いつまでも俯くばかりの京悟にグローブを返した。京悟が顔を上げると、翔はもう鞄を肩に提げている。
「今日はちょっと楽しかったぜ」
「そうか」
「じゃあな」
「うん」
翔は京悟に背を向けて歩き出した。京悟はその姿を途中まで見ていたが、ある時、ふと視線を逸らした。次に翔の姿を探しても、もうどこにもいなかった。
――分かってても言いたかった。
自分が発したその言葉を、京悟は何度か反芻する。十二月の寒空は、青と灰色の混じった、まるで雨模様のそれだった。