吹奏楽部はを三年生たちを失ったが、その後活動を休止しているわけではない。次のコンクールに向けて準備を開始し、それと並行して学校行事における演奏の練習に励む。海風薫が将来のことで手一杯で部活のことを考える余裕がないのと同じように、残された部員たちもまた、引退した先輩たちに思いを馳せている余裕などなかった。部活での沢城は相変わらず厳しいようだ。薫が職員室に用があり音楽室の近くを通りかかった時、久しぶりに怒号を聞いた。薫は心臓が止まるのではないかと思うくらいに驚いたが、それが自分に対するものではないと分かると、こっそりほっとして、心の中で部員たちにエールを送った。
沢城先生は全国大会に行けなかったことを悔いているだろうかと、薫は未だに思うことがある。演奏直前、沢城は不安と緊張でいっぱいの部員たちに対して、私にすべて任せて、と言っていた。新幹線の中でも、薫の手を固く握り、薫にこの日だけは頑張ってほしいとすがるように告げた。薫はそんな沢城の姿を見ていると、やっぱりこの先生は、本当は優しい人なんじゃないかと思えてくる。月丘めぐみにいくら否定されても、その考えは縮こまることはあっても消えてなくなることはなかった。最後にそのことだけ、もし機会があれば聞いてみたいと思っていた。
隣のクラスにいる元部長の古高葉子が声をかけてきたのは、そんな時だった。
「海風さん。今度三年生のみんなで、もう一度部室に行かない? まあ、何をするってわけでもないけど」
「部室かー。邪魔にならないかな。もうすぐ文化祭も近いし、みんな忙しいと思うよ」
「だからこそでしょ」
横から倉下鈴花が割り込んできた。
「あたしたちががつんとアドバイスしてあげないでどうするの。それに私物とか片づけなきゃいけないじゃん。そういうの、卒業間近になってから慌ててやり出すのってなんかださいし、それに何よりあのオバさんに何か一言言ってやらないと気がすまない」
古高は苦笑しながら眼鏡の位置を直した。
「倉下は、部室に顔出す前にその口の悪さを改めた方がいいんじゃない」
「は?」
それでも、「ババア」から「オバさん」に変化しただけ一年の頃よりはましになっていると、薫は密かに思う。
何はともあれ、古高は他の三年生にも声をかけた。数人は受験勉強などを理由に断ったが、薫がよく見知っている者のほとんどは誘いに応じた。古高から、沢城にも事前に話をしたが、
「そうですか」
とあっさり了承を受けられたという。
そうして迎えた来訪日、久々の三年生の登場により、どこか和やかな雰囲気に包まれていた吹奏楽部は、また以前の緊張感を取り戻した。特に倉下の影響力はもはや沢城にも匹敵するほどで、下級生たちが奏でるクラリネットの音色はどこか怯え気味だった。
薫は日立京悟や雨内泉希と共に、音楽準備室の私物を片づけた。といっても楽譜はもう使わないので、整理して棚にしまい備品として提供することにした。その後は楽器を一度出して長年の汚れを拭き取るべく丹念に磨いた。部員だった頃、楽器の掃除はただただ面倒な作業でしかなかったのだが、この日はあっという間に終わってしまう。ケースにしまう時は、ちょっとだけ泣きそうになってしまったりもした。
「おっ、やってるな」
栗垣もこの集まりを聞きつけてひょっこり顔を出した。男子部員と仲が良いらしく、有賀つばさと他愛ない話で盛り上がっていた。
一同は音楽準備室を後にして、しばらく部員たちの自主練習を眺めていると、沢城がやってきて音を止めた。譜面台を指揮棒で叩く、すっかりおなじみの動作だ。
「三年生の皆さん、今日はわざわざ集まってくれてありがとう。まず文化祭、それから、卒業式では、このメンバーで皆さんに演奏を披露しようと思っていますので、楽しみにしていてください」
沢城はいつもの丁寧語によって言葉を並べ立てたが、やがてふいに沈黙した。指揮棒がゆるゆると振り下ろされる。
「……せっかくなので、今日は皆さんにある話をしようと思います。三年生の皆さんは、興味がなければ勝手に帰ってもらっても構いません。あまり、聞いていて気持ちのいい話でもないので」
誰も一歩も動かなかった。
沢城はそれを確認すると、目の前の譜面台に置かれた楽譜を意味もなくめくりながら、少しずつ語った。
「私はこの学校に来る前にも、吹奏楽部の顧問を務めていたことがあります。その時、トランペットにある一人の女子生徒がいました。ここでは名を仮にKさんとします。そうですね、海風さんをより一層おとなしくしたかのような、そんな子でした」
薫は恥ずかしくて下を向いた。まさか自分より引っ込み思案な中学生が、それも同じ吹奏楽部にいたとは思いもしなかった。
「Kさんには、吹奏楽部に友達がいました。同じ女子で、仮にHさんとします。Hさんは、物事に対して少しだけ斜に構えるようなところがありました。それでも二人はコンクールや学校行事に向けて、初めの頃は互いを励ますように頑張っていました。でも」
ここで、沢城は楽譜をめくる手を止める。
「Kさんがめきめきと上達していくのに対し、Hさんはいつまでたっても初心者同然、というのも彼女は練習ということをまるでしませんでした。当時の私はHさんのことを放置していました。練習もしないような人に気をかけている余裕がなかったからです。Hさんは、いつしか部活をさぼるようになりました。そして何をし始めたかというと、あろうことかKさんを迫害対象とし、複数人によって執拗に攻撃するようになりました。具体例を挙げるのは避けます。でも、もちろんKさんにはなんの罪もありません。完全なるHさん側の被害妄想です。自分が楽器を吹けるようにならないのは、Kのせいであると」
雲行きが怪しくなってきた。だが薫は沢城から目をそらそうとは思わない。音楽室を出ようともしない。先生がせっかく先生にとってとても辛いことを話してくれている。自分が聞かなきゃだめだ。
「Kさんは、Hさんに迫害を受け続けても、Hさんのことを唯一無二の親友だと信じていたそうです。KさんにはHさん以外に親しい人はいなかったようなので。そしてやがて、事件が起きました。Hさんは誰もいない音楽準備室にKさんを連れ込み、その手にKさんの愛用していたトランペットを持ち」
沢城の指揮棒が再び持ち上がり、ある場所で停止した。部員たちの視線が集中する中、それは勢いよく振り下ろされた。
「Kさんの頭を殴りました」
声にならない悲鳴が、薫の体を駆ける。その人は、一体どんな気持ちになっただろう。自分が今までずっと使ってきた楽器で頭を叩かれる。想像しただけで、怖くなる。
「みんなにとって嫌なことを考えさせてしまい、すみません。所詮は女子中学生の腕力です。凶器が金属だったとはいえ、Kさんの傷はそれほどの大けがにはなりませんでした。私は準備室で一人うずくまっているKさんを見つけると、急いで保健室に連れて行きましたが、調べてみれば、軽い打撲扱いです。頭の傷は、命に別状はないようでした。頭の傷は。私は事情を聞いて、すぐにHさんに罰を与えようとしました。しかしKさんにそれを止められてしまいました。私はなぜHをかばうのかとKさんに聞きました。Kさんはこう答えました」
もう疲れた。もう何も考えたくない。
だから先生はもう、Hさんに何もしなくてもいいし、自分のことも放っておいてほしい。
「私は何も言えなくなって、それ以来死人のように口をつぐむKさんに黙って従いました。事件はただの事故として、学校やKさんの家族等に報告しました。KさんとHさんは、次の日から吹奏楽部に来なくなりました。私は、Kさんのことに気づいてあげられなかった自分の愚かさに苛立ち、吹奏楽部の顧問を降りました。私は、逃げたのです」
沢城の首が前に傾き、長い髪がその顔を隠す。部員たちは思い思いの反応を返した。沢城に同情の視線を送る者、沢城を軽蔑の眼差しで見据える者、気持ちがぐちゃぐちゃになって、どういう反応をすればいいのか分からない者。
「私はその次の年から転勤が決定しました。私は残された部員たちに自分なりに罪滅ぼしとしてできる限りのことはしました。といっても、進路選択の際にじっくり話を聞いたりするなど、その程度のことしかできませんでしたが。今思えば自己満足にもなっていませんでしたね。そうして私はその中学校を出て、少し休養を頂いたのち、この若草市立清水中学校にやって来ました。後は皆さんの見聞きした通りです。私は、とにかく今の自分にできることをしようと思いました。生徒の誰もが欠けてはいけない、傷を負ってはいけない。かといって優しくするだけでも駄目だと。この学校に新しく吹奏楽部を作ったのは、自分を戒めるためでもあり、何よりみんなに知ってほしかったのです。音楽の楽しさを。みんなで音楽を奏でることの素晴らしさを」
隣に立っている京悟が、ぐっと拳を握ったのが薫の視界に入った。
「Kさんとは、今でもたまに会っています。現在彼女は東京の某会社に無事就職し、向こうで新しく友人を作って、穏やかに暮らしているそうです。Hさんは、知りません。いつか、私が面と向かって事件について問いただす必要があるとは思っています。ちなみに、事件自体は警察にも明かしていません。それもKさんの意向です。でもみんなに口止めをするつもりはありません。告発するならどうぞしてください。悪いのはすべて私です」
沢城は背筋を伸ばした。髪をかき分けて、いつもの凛とした表情を見せる。話はこれで終わりのようだった。沢城は自らの過去を明かした。かつてそんなことは一度たりともなかったのに。
「なぜ私がこのような話をしたか、分かりますか」
ややあって、古高が答える。「私たちに同じようなことをしてほしくないからですか」
「そんなことは当たり前です」
「じゃあ、他に理由が」
それぞれ、顔を見合わせる部員たち。その中で沢城の考えが予想できているのは、誰一人としていない。
「みんなに、私のことを監視していてほしいからです」
沢城は譜面台を両手で掴み、それを支点として体を斜めに傾けている。
「私はこの話を三年ごとにここでしていこうと思っています。ですから皆さんが卒業した後は、いつでもいいのでこの音楽室に来て、私がちゃんと吹奏楽をしているか見張ってください。私が吹奏楽の世界で活動を続けていけば、Kさんは元気でいてくれると思うので。私はKさんのために、そしてみんなのために一生をかけて吹奏楽をやり続けようと……」
「嫌です」
倉下が一歩前に出た。皆が倉下の方を見る。
「なんであたしたちがそんなことしなくちゃいけないんですか」
「……そうですね。ごめんなさい」沢城は怒らなかった。そのままがっくりとうなだれる。
「次にここに来るのは、ただ単に先生に挨拶したいと思ったり、後輩の顔を見たいと思った時だけです。どうせ沢城先生のことだから、監視されてようとなかろうと、吹奏楽の顧問を続けるでしょう。先生はそういう人だもん。あたしだって無駄に三年間沢城先生のこと敵視してたわけじゃないです」
沢城は沈黙を守っている。
「それに先生はちっとも悪くないですよ。悪いのは全部そのHとかいう人でしょ。そいつのせいでKさんも苦しんで、先生も苦しんでいて。そんなくだらないやつのために、二人ともそんな気持ちのまま生きていくなんて、ありえない。そんなのおかしいです」
「ありがとう、倉下さん」沢城はまだ笑おうとしない。「……そうだ、海風さん」
「はいっ」突然名前を呼ばれて、薫はびっくりした。
「初めて顔を合わせた時、あなたには全国大会に連れて行くと約束しましたね。それを果たすことができなくて、悪かったと思います。いきなりごめんなさい。このことばかり気がかりで」
「や、やめて、ください」
薫は緊張で胸が張り裂けそうだった。こんなことを言ってしまっていいのだろうかと思った。それでも、言葉は口から放たれる。
「沢城先生は、もっと怒ってください。そんなことで謝らないでください。先生は、厳しいことが優しさというか、その、先生が今まで厳しく教えてくれたから、コンクールでも頑張れたし、三年間くじけずに部活を続けてこられたんだって思います」
沢城は、目を見開いて薫のことを見ていた。
薫は顔を真っ赤にして、泣きそうになりながらその場でじっと堪えていた。
「海風さんは優しいのね」
薫が顔を上げると、沢城が笑っているのが目に入った。
その笑顔は、今まで見たこともないほどに明るくもあり、また悲壮感にも満ちていた。
「やっぱりあなたは、あの子に似ている」
三年生は、一足先に音楽室を出た。薫がさっさと帰ってしまおうと階段を駆け下りていくと、その先にはすでに古高と倉下がいた。倉下は薫に気づくと、たまには一緒に帰らない? と聞き、半ば強引に薫を連れた。
「倉下、すっきりした?」古高が訊いた。
「微妙。相手が思うように食い下がってこないからさ、あたしもテンション削がれちゃって。もっと言ってやろうかとは思ったけど」
倉下は薫の肩を強く叩いた。薫は本気で痛いと感じた。
「まあでも、あたしの次にこの人が続きを代弁してくれたから、今日のところはあれでいい」
薫は返答に困って、曖昧に受け流すことしかできなかった。
「で、まだ戦うつもりなの。今日のところは、ってことは」古高はどこか面白がっているとでも言うような口調だ。
「うーん、どうだろ。あんな重たい過去勝手に告白されちゃうとね」
「じゃあ、もう先生を睨んだりするのは止め?」
「そうかな。でももし今度ふざけたこと言ってきたら、このクソババア! ってみんなの前で叫んでやる。それまではまあ、一応は素直にしといてあげる」
とことん攻撃的だ。薫が普段聞き慣れない危険な言葉の数々に恐縮していると、
「はー、よかった」と古高が大げさに言った。
「何」
「もし倉下が沢城先生と変な確執残したままだったら、どうしようかと思った。私部長だから、そういうことにも気を配らないといけないと思うの。でも安心した。今の言葉は、終戦宣告と受け取っていいんだよね」
「……古高ってさあ、あたしのこと馬鹿にしてない?」
「まさか。私はね、みんなで気持ちよく卒業式を迎えたいの。ただそれだけだよ」
「ふーん」
その後、薫は古高や倉下と吹奏楽部での出来事を思い返しながら歩いた。それは薫にとって不思議な時間だった。なぜなら三人とも、あらかじめ示し合わせたかのように、沢城の話しかしなかったからだった。
風が少し冷たくなってきた。
卒業の時が、確実に迫ってきている。