やっと、さよなら

 九月のある土曜日の昼下がり、日立京悟は家でテレビを見たり本を読んだりして過ごしていた。しかし集中できない。野球中継の解説も、スポーツ小説の文章も、全くといっていいほど頭に入ってこない。
 今日は日立家にある人が訪れる。
 京悟がやきもきしていると、母の日立留美と姉の桐子が帰宅した。留美の手には客人に出す菓子の袋がある。桐子は大学の講義を飛び出して留美と合流したらしい。
「単位とか大丈夫なの」
「全然。私、割と成績良いから。京悟に似なくてよかったよ」
 桐子はいつものスタンスで京悟をからかうが、その語調は少し遠慮がちだった。本日の来客は、さすがの桐子も緊張を隠せない相手なのである。
 その人物は、ややあってから姿を現した。
「どうも、日立さん」
「いえ。もうあれから二年以上ですのに、わざわざありがとうございます。お上がりください」
「では、失礼いたします」
 スーツにネクタイを締めた年輩の男は、名を鷹村修治といい、京悟の父、日立夏也が殺害された事件を当時から調査している刑事である。
「どうですか、あれから」
 鷹村は何気なくそう切り出した。桐子が菓子と茶を差し出すと、「お構いなく」と言いおき手をつける。
「子供たちも、だいぶ本来の生活を送ることができるようになっています」
「そうですか。京悟くんは」
 テーブルの斜め向かいの席に座っていた京悟は突然指名されて驚いたが「今でも、たまに思い出すことはあるけど、もう平気です」と伝えた。
「相変わらず、強いな。お子さん、もう中学三年生でしたっけ」
「はい。先日、吹奏楽のコンクールがあって」
「ほう、吹奏楽。意外ですな、彼は体つきも男らしいところがあるのに」
 吹奏楽だってそれなりに大変だった、と京悟は反論したかったが、子供っぽいかなと思いやめておいた。
「まあ、夏也さんもそれは同じでしたがね」
 鷹村は京悟の父の名を出すことを今でも少しためらうが、それが鷹村の優しさでもあることを、京悟は理解していた。
「こいつ、お父さんっ子だったんです」桐子は湿っぽい空気はどうにも苦手らしく、変に堅苦しく話すことはしない。
「だから、吹奏楽に?」鷹村が聞き返した。京悟はどきっとした。コンクール前、荒川翔に伝えた自分の気持ちの変化を、京悟はまだ家族にも話していなかった。いつかは話さないといけないと思っていたが、どうやって言い出せばいいのかが分からなくて、この日までずるずると引き延ばしてしまっていた。
 いい機会だと思った。
 京悟は鷹村と母と姉に、翔に伝えたことをほぼそのまま打ち明けた。初め、自分がどういう気持ちで野球部でなく吹奏楽部に入ったのかを。そのせいで翔とは決別してしまったことを。そのことでずっと葛藤してきたこと、翔のことが怖くて、自分から避けていたこと、翔のことがいつまでもいつまでも頭から消えなかったことを。
 そしてその葛藤の奥には、父の姿が隠れていたことも。
 三人とも、京悟の話をじっと聞いていた。京悟は決して話し上手ではないので、途中、自分でも何を言っているのか分からなくなることもあったが、留美も、桐子も、鷹村も、京悟をせかすようなことはせず、話が終わってもしばらく押し黙っていた。鷹村が口を開いたのは、数分ほど経ってからのことだった。
「よかった。もう自分は、ここに来なくてもよさそうだ」
 鷹村はそこで、初めて微笑んだ。いかつい容姿の割に、えくぼがはっきり浮かんでいる。
 京悟は、すでに見抜かれていたことを知った。事件をいくつも抱える刑事が、なぜ自分の家にだけ頻繁に訪れるのだろうと、京悟はいつも疑問に思っていた。それは、他でもない自分のことを見守るためだったのだ。日立京悟が自分の本当に気持ちに気づき、過去から旅立つことを待ってくれていた。
 鷹村が帰る時、京悟は深く頭を下げた。犯人のこと、裁判のことなど、まだまだ話し合わなければならないことはある。でもこれからは、鷹村は電話でやり取りすることを留美に話した。これからは私ばかりに頼ってばかりもいられません、と言い添えて。
「京悟」
 時刻はもう五時過ぎだった。鷹村を見送った留美は、憂いを帯びる夕日の光に照らされながら、気丈にも優しくほほえんでいる。
「さっき京悟が話してくれたこと、明日、お父さんにも伝えに行こう」

 翌日の日曜日。かつて日立夏也が最後に参加した、警察音楽隊の定期演奏会が開かれた日。つまり夏也の命日でもあった。
 京悟はいつも私服でいいと言っていたのに、今日は制服を着た。ちゃんとした格好で、父に別れを告げようと思ったからだ。
 墓前には、夏也の同僚の警察官が多く集まっていた。留美と桐子とで、一人ずつお礼の言葉をかけた。京悟もそれに合わせて頭を下げた。そうして一人、また一人と墓を去り、いつしか日立家の三人だけになってから、桐子や京悟が改めて墓石に水をかけたり、花を供えたりした。
「父さん」
 両手を合わせながら、京悟は自分にしか聞こえないような声で切り出した。
「俺、もう大丈夫になったから。ずっと自分の中に変なものがあったけど、もう取れた。これからは自分のしたいようにする」
 言いたいことがあるのに、父を前にしても、上手く言葉が繋がらない。京悟は思い悩みながら、訥々と話した。その間、留美と桐子は目をつぶって手を合わせながら、京悟のことをいつまでも待っていた。
「今までありがとう。それから、さよなら」
 言葉はそこで終わった。桐子は、京悟の顔をのぞき込んだ。
 京悟は泣いていた。
 桐子は、京悟が泣いているのを生まれて初めて見た。桐子はどうしようかと少し考えたが、
「こらっ、泣くな」
 いつものように、頭を叩いた。桐子は無理して笑いながら、京悟の短く刈った髪をさすった。
「これからだよ」
 物言わぬ父は、静かにそこにいる。どこへも行かない。
「私たちは京悟を助けてあげられない。家族、つったって所詮は他人だから。頼れるのはいつも自分だけ。外野は応援しかできないの。あんたが野球場の観客席で、翔くんを演奏で応援していたのと同じように」
 京悟はようやく泣きやんだ。姉の声に耳を傾ける。
「でも全力で応援する。もう自分なんかどうなったっていいやっ、とか思いながら京悟のことを思ってる。ホントだよ、これ。普段は口には出さないけどさ」
 京悟はおもむろに制服の上着を脱いだ。そして父の墓に背を向けて、そこからゆっくりと歩き出した。
「ちょっと、なんか言いなさいよ」
「誰かがヘンなこと言うから、暑くなってきた」
「……京悟!」
 二人は騒がしく言い合いながら歩いた。留美はそんな二人を見ながら、改めて墓に向き直る。
「よかったね。お父さん」
 そう言って笑った。