地区大会から県大会にかけて、深水中吹奏楽部は持てる力を遺憾なく発揮し、他校の生徒たちを圧倒した。各審査員たちも、深水中の演奏を力強く真っ直ぐな名演と評価し、二大会ともに金賞を獲得、深水中は地方大会へ進出した。その喜びたるや、部員の誰もが、これまでの人生の中で間違いなく一番の出来事だと感じたほどだ。自分の学校の名前が代表として読み上げられた時、海風薫は思わず椅子から飛び上がった。柄にもなく両手を振り上げたりした。笑顔を振りまき、また、感激でむせび泣く部員たちを見ていると、この瞬間がずっとずっと続けばいいのにと思った。みんなで勝ち取ったこの一瞬を、みんなで、いつまでも楽しんでいたいと思った。
清水中も、深水中と同じく着実に地方大会への階段を駆け上がっていった。清水中の演奏は揺るがない。例年通りの中学生離れした表現力を武器に、地方大会進出を決める。二つのしみず中は、共に同じ舞台へ立つことになった。コンクールは勝ち負けじゃない、自分たちが良い演奏をすればいいだけ、皆がそう自分に言い聞かせていたけれど、どうしても対抗心の方を優先してしまう。
薫は、今年こそ負けたくない。
互いが互いを知らぬまま好敵手として見、また強く意識していた。その状態をまるで冷戦のごとく保ちつつ、夏休みが明けて九月、二学期が始まった。しかし二校は授業を休んで地方大会会場へ赴く。彼女たちの夏はまだ終わっていない。
アラームが鳴るよりも早く起きた。
洗面所で顔を洗った。部屋に戻り、静かに制服に着替えた。鏡の前でリボンの位置を直す。鞄の中身を確認してから、居間に降りた。母の栞がもう朝食を作って待ってくれている。
「薫、おはよう」
「おはよ」
別に凝った朝ご飯ではない。一杯の温かい白飯と味噌汁、卵焼きと小さく切ったバナナが数枚。薫はゆっくりと食べ始めた。
「日本人はやっぱり和食よね。って、バナナは和じゃないか」
栞が言った。自分の緊張をほぐすためにわざと言ってくれているのだと分かると、薫はご飯がいつもよりおいしく感じた。
「いつもありがとうお母さん」
「やーだ、何いきなり。そんなこと言わなくていいから、あんたは今日のことだけ考えてなさい」
「うん」
食事を終えて、テレビを少し見た。情報番組では、薫がこれから出かける場所など露知らず、芸能人たちが楽しそうにお喋りをしている。こんな日はより一層、画面右上の時刻表示がよく働く。歯を磨くうちに、出発の時間になってしまった。
「薫。その、頑張ってね」
「分かった」
「あーもう。なんでこうさ、気の利いた言葉とか言えないんだろうね、お母さんって」
「今日のお母さん、なんか変」薫は、栞の気の揉みように少し笑った。仕事で会場に来られないのがよほど悔しいらしい。
靴を履き外に出た。まだまだ残暑が厳しい。蝉の声も衰えを知らずやかましい。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
吹奏楽コンクール地方大会当日、薫は不思議なほどに落ち着いていた。
駅に部員が集まっていた。楽器はすべて会場に輸送済みのため、ここから体だけの移動となる。ほどなくして全員集合し、沢城が点呼を取る。栗垣率いる居残り組は少し遅れてやってくるので、ここにいるのはコンクール組だけだ。
「いよいよですね」
雨内泉希がいつになく緊張した面持ちで薫に話しかける。
「全国大会、行けるといいですね」
「う、うん」
本当は、行かなきゃ駄目だ、と声を大にして言いたかったが、曖昧に返事をするだけにとどめてしまった。いくら最後の大事な戦いを前にしているとはいえ、自分はやはりただのおとなしくて引っ込み思案な女子中学生なのだということを、改めて感じた。気持ちそのものは至って平静だし、課題曲も、自由曲も、飽きるほど練習した。それでも薫は、自分がすごく立派になったとは思わない。演奏では遠慮せずにいろいろなことを表現できるけれど、日常生活では自分の会話の拙さ、人との付き合い方の不自然さを思い知らされるばかりで、性格がまったく変わっていないと思うことがままある。吹奏楽部に入って、薫は大きく変われた気になっていたが、それは違う。
何かに、誰かに変えてもらうことを待っていては駄目なのだ。当初からやっぱり、もしかして、と恐れてはいたけれど、結局は自分の考え方がすべてで、自分の行動が自分を決める。
薫は、朝からそんなことに思いを巡らせていたせいで、新幹線に乗っている最中に気分が悪くなった。通路側の席のためか、景色も見えないし、隣は部員ではないため、席を替わってほしいとも言いにくい。トンネルを何度も通過したからなのか、耳も詰まったような感じがして気持ち悪い。そんな些細なことで、薫は不安になった。
「海風さん」
通路を歩いてきた沢城が薫に声をかける。薫は座席のシートにもたれていた上半身をすぐに起こした。
「顔色が悪いけど、大丈夫ですか」
「はっ、はい。大丈夫です」
瞬発的にそう答える薫を、沢城はいつもの鋭い目つきで見据えていた。ところが急にその場にしゃがみこみ、薫の片手に沢城の手を重ねた。薫が戸惑っていると、沢城は頭を垂れて、何も言わずにうずくまっている。
「せ、先生」
「お願い」
それは、沢城の発した声とは思えないほどに優しい。
「今日だけでいい。今日だけ、頑張って。海風さん。思いきり、鳴らしていいから」
薫にしか聞こえないような声量で、沢城は言った。沢城は薫の返答を待たずに、その場から去った。隣の人が物珍しそうに薫をちらちら見た。
薫の心は、怖いくらいに温かく、静かだった。
若草市のある県の隣の隣のそのまた隣の県にグリーンシティという建物が存在する。
吹奏楽のコンクールだけにとどまらず、プロの音楽家による有料演奏会に有名芸能人が主催するディナーショーなど、多種多様な催しが日々開かれている。その多くが入場料を取るにふさわしい上質なものである。ちなみに今回のコンクールもこれまでは違って一般客は入場料を払っている。
「うちらの演奏って、そんなに価値あるのかな」
「お金を取るにふさわしい演奏をしろってか?」
「無理だよそんなの」
入る前から緊張を隠せずにいる部員もいれば、
「うおー、でけーな」
「向こうにあった塔みたいなのって何」
「さあ。たぶん俺たちじゃ入れないだろ」
中に入っても外観について語らう部員もいた。
つまるところ、地区大会や県大会前の雰囲気とあまり変わらない。用意された楽屋で楽器など用意し、最後の練習を行った。
「もう、課題曲はいいです」
沢城の表情も、何もかもを押し殺したかのように無感情を保っている。課題曲は練習しない。それは沢城の決断だった。
「自由曲の頭。トランペットとユーフォニアム、一回やりましょう」
薫たちは言われた通りに演奏した。冒頭部分を一度だけ、なので、すぐに終わった。外がだんだんと騒がしくなってくるのが分かる。そろそろ深水中の出番だ。沢城の全体に向けた最後の指示が飛ぶ。
「トランペットはとにかく緩急をつけることが大事です。静かな時は静かに、荒れる時は大いに荒れて。クラリネットは問題ないですね。実力を見せつけてあげてください。オーボエは、しっとりと歌うように……と、これは以前も言いましたね。ホルン、後半の出だしから音を外さないこと。打楽器はこの前話した最短移動経路をもう一度確認しておく。ティンパニはしっかり重厚に」
沢城の指摘に対し、部員が大きな声を上げて返事をしていると、出演二十分前になった。沢城はその場を切り上げて、部員たちを舞台袖に移動するよう促した。部員たちは暗い廊下をてくてく歩いていった。建物の造りが新しいためか、コンクリートの無機質な臭いが少しした。
「皆さん」
前の学校の演奏が続く中、沢城が部員に語りかけた。その語調は、とても穏やかだ。
「私に任せてください。みんなは何も心配する必要はありません。いつも通りに」
部員たちは戸惑ったが、力強く返事した。「はい」
やがて、入場した。
観客席が縦に長い。席に座って遠くを見据えても、後ろの方の人の顔は全く見えない。舞台は大変広く、椅子の間隔が今までにないほどに離れている。
薫は、先に座った日立京悟の顔を一瞬だけ見てから、自分の席についた。
すっと胸が軽くなる。
照明の下で、光り輝くトランペットを構える。
まず、課題曲を演奏した。もう楽譜を見なくても次の音が分かる。他の楽器の音を聞く余裕ができる。世界をそうぞうする。自分の音と、みんなの音を合わせて、数分間でひとつのテーマを表現する。
課題曲が終わった。
皆が静かに楽譜をめくる。
沢城が再び指揮棒を取る。
空気が張りつめる。
薫は、トランペットを構えた。
曲が始まる。
*
東の空が赤く染まる。
海の町の朝は早い。その日一番に飛び起きた船乗りが、塔に上って旗を揚げる。それは本日船出をするという知らせでもあった。町全体に響きわたるように、大きく二度、四度と鐘を打ち鳴らす。眠っていた町が、ゆっくりと目を覚ます。
すると、つなぎ止められた船が並ぶ港に、ぞろぞろと船乗りたちが集まった。朝焼けに目をしかめながら、次々船に乗り込んでいく。
船乗りの一人が叫んだ。ヨーソロー。
他の船乗りたちも、口々に何か大声で海に向かって叫ぶ。それを合図に錨が揚げられ、つながれていた縄も外れ、船は解き放たれた。
船乗りたちを乗せた船は、そよぐ海風をうけながら出航した。船の進路につきまとうかのように波が起き、海はしぶきで白くなる。空は抜けるような快晴だ。船乗りたちは帆を掲げた。風はだんだんと強くなっていく。
船が揺れた。いつの間にか、海も荒れだしている。船乗りたちは甲板で右に左に揺られる。まるでシーソーの上にいるかのようだ。それでも男たちはくじけない。
こんな波、小波にすぎない。構わん、進めっ。
船長は言った。男たちはそれに続き言葉にならないような叫びを上げながら、荒れる海の中を突き進んでいく。船の揺れはどんどん激しくなる。ロープが飛ぶ。浮き輪が飛ぶ。魚を捌くナイフが飛ぶ。帽子が飛ぶ。ついには、船員が吹っ飛ぶ。帆が破けて、舵が取れなくなって、いよいよ船は転覆するのも時間の問題だ。
最初の空の青さはどこへいってしまったのか。航海はずっと続いて、今では雲で真っ黒、雨も降り、風も吹き、船は揺れに揺れていた。ある者は船首にしがみつき、ある者は甲板の中央で高笑いしながら仁王立ち、またある者は船酔いで吐いていた。
地獄のような嵐は、やがて収まった。
船が揺れなくなったのは、もう夜もすっかり更けた頃。
波の立たない静かな海で、船は一旦錨を下ろして止まる。朝まで待つことにしたのだ。
男たちは、嵐の疲れをとろうと横になり、死んだように眠った。小波の音が、彼らの子守歌代わりになった。真ん丸の月が船をほのかに照らしている。
ある男は眠る気になれず、甲板から海を眺めていた。すると、何か低い音が聞こえた。なんだろうと思って男は耳を澄ました。そして分かった。鯨だ。鯨の鳴き声だ。
一体どこにいるのだろう。男は目を凝らして真っ暗な海を見回した。しかし鯨の姿はどこにもいない。ただ、腹の底に響くような、低くて、それでいてどこか悲しそうな鳴き声が、海風と波の音に混じって遠くから聞こえてくるだけ。男は諦めて、その音をいつまでも聞いていた。
そうしていると、突如、船長が起きてきて言った。まだ夜明け前だが、出発しよう。
船員たちは眠い目をこすり、船を動かした。船はゆっくりと夜の海を進んでいく。夜明けが近いとはいえ、夜の海は何が起こるか分からない。しばらく速度を上げずに、真夜中の航海は続いた。
ある船員が、アッ、と声を上げた。
東の空に、また昨日のような朝焼けが滲んでいたのだ。
船長が大声を上げた。いつまでも寝ぼけているな、野郎ども。気合いを入れろっ。
男たちは嵐で壊れた箇所をせっせと直した。吹っ飛んだものを元に戻した。帆も新しく張り替えた。そうしているうちに空がぱっと明るくなった。朝が来たのだ。
船乗りたちはまたワーワーと叫んだ。船の速度はぐいぐい上がる。昨日の調子を取り戻した。
時間が経つと、やはり海は荒れ出す。また船が揺れて、船員も船の外に放り出されそうになる。だが今度は、男たちも立ち向かう。
船はどこまでも進んでいく。
海の男たちは、まだ見ぬ何かを求めて、航海を続ける。時には叫び、時には静かに眠り、時には夢を見る。
果てしない、海の向こうへ。
*
深水中の出演は終わった。
薫は放心したように何も語ることなく、楽器を片づけて観客席に入った。その後も滞りなく続くコンクールをぼんやりと聞いていた。ある時、沢城がどこに行ったかどうかが気になって、あたりをきょろきょろと見回したが、見つけることはできなかった。
全中学校の演奏が終了し、後は結果を待つのみとなった時、薫はトイレに立った。するとかつての県大会の時と同じように、矢落あいに呼び止められた。薫は狼狽えることなく矢落の方を向く。呼び止めておきながら、矢落は何も語ろうとしない。薫は矢落の口が動くのをずっと待ったが、横に立っていた中上川大雅が、
「きみの演奏に心底惚れたってさ」
と代弁した。薫は中上川の声をそこで初めてまともに聞いた。
「いえ。まだまだ清水中にはかないません」
薫が正直に言うと、矢落は微笑した。
「そうだよ。そんなことは分かってる。あたしたちは負けてないもん」
「全国大会、行けるといいですね」
「あんたたちもね」
「ありがとうございます」
「だから、敬語はやめて」
「ごめんなさ、いいえ、ごめん。矢落さん」
「ふん」
矢落は露骨に薫から顔を背けた。
薫は一礼してから、その場を後にした。矢落と中上川は、その後ろ姿を目で追っていた。
「最初聞いた時から嫌な予感はしていたけど。あの子、とんでもないね」
「でもきみの見るところでは、脅威は彼女だけだろ。あの学校はもう、この先には行けな
いよ」
「そうかもしれない。けど」
矢落は、かつて薫に向けたような笑みを浮かべている。
「高校でも吹奏楽やるのかな。あの子――海風薫」
コンクールの結果は、以下の通りだった。
清水中学校、金賞。全国大会進出。
深水中学校、金賞。
「いわゆる、ダメ金ってやつね」誰かがポツリ、とつぶやいた。
金賞を獲得したからといって、代表に選出されるわけではない。部員たちはそのことを十分に分かってはいたが、発表された時は揃って絶句してしまった。楽屋に戻ってからは、しくしくと泣く者が後を絶えなかった。あと一歩のところで及ばなかった。薫は生まれて初めて本気で悔しいと思った。何がいけなかったのかをいつまでも考えていた。しかし、そんなところは何一つとして浮かんでこない。これが精一杯だ。持てる力をすべて出し切った。あれ以上の演奏は無理だ。それが結論だった。それなのに薫は悔しくて泣いている。ぼうっと一点を見つめたまま直立不動になっていた京悟と、沢城を除いて、皆が涙を流していた。
「みんなありがとう」
駅に帰り、解散する前、沢城が言った。
「みんなは頑張ってくれました。演奏を聞いていればそれは分かります。何を言ってもみんなは悲しいだろうし、悔しいだろうと思います。でも、私はみんなの指揮ができたことを誇りに思っています。今日は、お疲れさまでした」
夕暮れの包む駅舎の中で、涙声の混じった吹奏楽部員たちの別れの挨拶が響いた。
海風薫たち初代部員は、吹奏楽部を引退した。
「ただいま」
気づいたら薫は自宅の玄関にいて、家族にそう呼びかけていた。
闘いを終えた薫を初めに出迎えたのは、弟の真だった。栞は台所、父の明はまだ仕事で帰っていない。変わらぬ日常がそこにあった。
「おかえり。もうすぐご飯できるって」
なんの変哲もない、いつもの言葉だったが、薫にはそれがとても安心できる一言だった。自然に微笑み、とりあえず自室に荷物を置くために二階への階段を上ろうとする。すると真が、
「そうだ。あのさ、今度リコーダーのテストがあるんだ。後で教えてくんない? 高い音が全然出なくってさー」
返事をしようとしかけた薫は、そこで気づく。
中学生になってから今まで吹奏楽を続けてきたが、すべてのきっかけになったのは真の何気ない一言だった。当時の真が一時期ではあったものの心惹かれていたリコーダー。その後の両親の後押しもあったけど、真があんなことを言いだしたりしなければ、薫は吹奏楽部には入っていなかっただろう。
「真、ありがとね」
「……え、何が?」
きょとんとする真をよそに、薫はちょっぴり悪戯っぽく笑ってその言葉の理由をごまかした。