吹奏楽部の強化合宿を終え、残りのゴールデンウィークも何事もなく過ごした日立京悟の元に、あるニュースが舞い込んできた。
「今年の野球部、県大会初戦敗退だって」
「えっ、嘘」
「投手の荒川翔が、てんで駄目だったらしい。サインはしょっちゅう間違えるし、コントロールもブレブレで」
「期待のエースってさんざん言われてたのになあ」
京悟は驚愕のあまり、しばらく教室の自分の席から動けなくなった。今年の夏の中学校野球大会で、荒川翔が登板することは京悟も知っていた。一年生の時から圧倒的な実力を見せつけてきた翔のことだから、きっと全国大会へと駆け上がるだろうと思っていたのに、京悟が最後のコンクールに出るよりも前に、翔が最後の夏を終えてしまった。京悟は、もう迷っている時間などないことを悟った。
始業時刻ぎりぎりで登校してきた翔は、慰めの声をかけるクラスメイトたちをないがしろにするかのような態度を取った。黙れ、話しかけるな、放っておいてくれ。そんな非情な言葉をためらいもなく投げつけるので、翔の周りには一日で人がいなくなっていた。京悟は、いてもたってもいられなくなり、放課後、とうとう声をかけた。
「翔」
当然のごとく、無視される。他の生徒はまるで翔から逃げるように出ていってしまったために、今教室にいるのは京悟と翔の二人だけだ。
「話がある」
「なんだよ。俺のことを笑うのか」
意外と早く呼びかけに答えてくれた。京悟は唾を飲み込み、音を鳴らす。
「大会のこと聞いた。その、忙しくて、応援には行けなかった。悪い」
「別にお前になんか頼んでない。どうせ、あれだろ。忙しいっていうのは吹奏楽部だろ。お前はいいよな、去年は県大会にこぎつけたって? お前にはそれが合ってたんだ。ボール追いかけるよりラッパ吹いてる方が、京悟にはお似合いだったってことだよ」
「去年はコンクールにも出られなかった」
「……なんだと」
「きっと、俺が翔のことで、野球のことで悩んでいるのを、沢城先生に見透かされたからだと思う。いや、本当のところは分からないけど。でも、去年の今頃は居残り組でいろいろやってた。野球場にも行った」
二年目の野球部応援演奏には、コンクールを優先して沢城は来なかった。そのため、代理として京悟が指揮を務めた。翔たちに背中を向ける形になったために、京悟は試合をあまり見られていないし、翔も京悟に気づくことはなかった。気づいたところで、何かが起こるというわけでもなかったが。
「俺のせいって言いたいのかよ」翔は自分の席に座ったまま、投げ出している足で誰かの机を蹴っている。「お前が勝手に野球やめて、勝手にその罪悪感を別の場所に持ち込んだからそんなことになったんだろうが」
「そうだ」京悟は素直に認めた。
「分かってんなら、もう俺と関わり合いになろうとするな。もう、全部終わったんだ」
すべてを諦めたかのような翔の言葉に、今度は、京悟は答えを出さなかった。いぶかしむ翔を相手に、一呼吸置いてから自分の決意を少しずつ伝えていく。
「今日は、自分でそのことにけりをつけようと思って、呼び止めた」
「どういう意味だよ」
「俺は今までずっと、野球をやめたから、翔と仲違いしたから、何事にも集中できずにいたんだろうって思ってた。でも最近、いろいろと考える時間というか、機会があって、それで思うようになった。原因は翔じゃないって」
七月の初め、授業後でもまだ外は明るい。窓が開け放たれており、かすかな風が教室の中に吹き込んでいる。京悟は拳をぐっと握りしめ、胸の中にため込んでいた言葉を、無理矢理に押し出す。
「俺が本当に忘れられないでいるのは、親父のことだ」
言ってしまった。
きっと翔は目の色を変えて掴みかかってくるだろうと京悟は覚悟していた。ところが翔は依然着席したまま、京悟を睨みつけてもいなかった。京悟はおずおずと先を続けた。
「俺は小さな時から親父のことが好きだった。休みの日は、いつも一緒に遊んでもらってた。今思い返してみたら、生まれて初めてのキャッチボールの相手もしてくれた。なんでも上手にできて、多少のことは笑って許してくれて、警察官で、格好良くて」
息苦しくなって、そこで一旦切る。蝉の声と、木々の葉の擦れ合う音が混じって聞こえる。
「俺の父親が音楽隊にいたってことは、言ったっけ」
「ああ」
とても小さな返事だ。
「警察音楽隊っていうところに所属していて、定期的に演奏会を開いていたから、よく家族で聞きに行った。トランペットを吹いていた。学生時代は運動ばかりしていたらしくて、楽器を始めたのは大人になってから、なんて言ってたけど、全然へたくそじゃなくて、すごく楽しそうに演奏してた。自分自身でも楽しんでたし、聞きに来てくれているすべての人を楽しませてやろう、っていう感じがあった。親父が……死んだ日も、きっとそうだったって思ってる。その日は野球の練習があったから、演奏会には行けなかったけど」
日立夏也の死を、家族の誰もが間近に見ることなくすんだのは、神様がこれまで私たちに利かせてきた機転の中では一番だったわね、と姉の日立桐子がいかにも大学生らしく言っていたのを思い出す。錯乱した乱入者に殺された父。あんなに元気で聡明だった父。犯人を今更憎んでも仕方がない。しかし、当時小学生だった京悟には、その事実はあまりに酷だった。
「たぶん親父があの日死んでなくて、今でも生きていたとしたら、俺は翔と一緒に野球を続けてた。でも親父がいなくなって、俺はトランペットを始めようって決めた。どれだけ楽しかっただろうって思ったから。それだけの理由だと今まで思ってた。思うような結果が出ないのも、今まで続けてきた野球に未練があるからだ、翔に悪いことしたなって思い続けていたからだ、って思い込んでた。全部、翔のせいにしてた。じっくり練習を重ねていけば、そのうち忘れられるってずっと思ってた」
京悟が忘れたいと思っていたこと。
それは、荒川翔ではない。
日立夏也はもうこの世に存在しない。荒川翔は生きている。京悟と共に歩いていくはずだった道を、たった一人で進んでいる。
「俺って、ただ親父が死んだことを未だに受け入れられていないからこんなことしてるだけなんだ。翔を裏切ってまで吹奏楽部に入った。それで親父が帰ってきてくれるんじゃないかって、本気で考えてたかもしれない」
京悟は言って、自分が中学三年生にもなってこんなにも子供じみたことを考えていたのか、と改めて我ながら呆れた。そんな自分がどうしようもなく嫌になる。
「でも今日で終わりにする」
無意識のうちにすり替えていた問題に、ようやく真正面から向き合えた。今まで見えていなかった根っこの部分を、自らの手で掴むことができたのだ。
「翔から逃げるのはもうやめる。今すぐ放り出すのは無責任だからしないけど、コンクールが終わって吹奏楽部を引退したら、親父のために生きていくことをやめる。離れる」
京悟は父親の傍にいて、いつまでもとどまっていた。まるでその場所だけ時間が止まったままであるかのように。
時計の針を止めていたのは、他でもない京悟だった。そしてその針を動かすのもまた、京悟だ。
決意を伝え終えた京悟は、呼吸のリズムを整えて、翔の反応を待った。途中から、翔は一言もはさむことなく京悟が話すままに任せていた。もしかして、聞いていなかったのか。京悟がそう確かめようとすると、
「意味、分かんねえんだけど」
翔は静かに、怒りに満ちていた。
「話があるっていうから、それがすんだら俺も言おうかと思ってたのに。俺も京悟のことが忘れられずにいるってことを……。絶対に口きいてやるもんかって、決めたのに、それなのに、少したってすぐに変な気持ちがうようよわいてきて、学校の勉強にも、野球にも集中できなくてさ。結局中学最後の大会は負けるし、今こうして京悟とも話しちゃってるし。だから、もういいかってやっと思いかけたのによう」
翔は傷だらけの手で拳を作り、目の前の机を叩いた。きっとよほど硬球を投げ込んだのだろう、荒れた手が京悟の目からも見て取れる。
「なんなんだよ、それは! 俺はずっとお前のせいで苦しんでたのに、お前はよくよく考えたら親父のことで悩んでたって? 自分がどうしようもない奴だって分かったから、これからはそれをやめたいって? ……もう、悩まないって……? なんなんだ。じゃあ俺は、どうすればいいんだ」
前屈みになっていた翔は、勢いよく上半身を反対側に反らし、天井を仰ぐ。そのまま、片腕で両目を隠した。
「気づくのが、遅すぎるんだよ」
もう戻れない。京悟の時間が止まっても、進みだしても、それ以前からやり直すことはできない。京悟が己の中に潜んでいた感情を暴いたところで、京悟はこのまま吹奏楽部を続けるしかないし、翔は野球部を引退するしかない。それを京悟は分かった上で翔に話をした。栗垣に言われたように、自分で自分にけじめをつけるために。たとえそれが苦い結果になったとしても、悔いることはない。そのぐらいの覚悟があった。
翔と物も言わずに別れた後で、京悟は久しぶりに旧体育教官室に行ってみることにした。海風薫とあそこで顔を合わせてからも、時折訪れたことはあったが、三年生になってからは一度もなかった。相変わらず寂れた建物の階段を登り、小さな海を眺める。夕暮れに染まる海は、京悟のずっと遠く向こうにあるけれど、確かに波打っている。時間は今も、流れている。
卒業までに、もう一度だけ翔とキャッチボールができたらいい。それだけでいい。翔と再び仲を深めるなんて贅沢なことは言わない。
荒川翔は時の流れに負けていた。
だからこそ京悟は、自分が負けてはいけないと強く思う。これからは翔のために頑張っていこう。翔が、翔なりに立ち直ってくれるのをいつまでも待とう。
そこまで決めて、京悟は泣きそうになった。目をぎゅっとつむってたえた。一人きりだったのに、泣いてもいいやとは思わなかった。