「今年、強化合宿を計画しています」
海風薫たち中学三年生が、ついこの間京都から奈良を巡り歩く修学旅行から帰還した、ある日の放課後、音楽室。三年生は一、二年生たちに自分のセンスで選んだ土産をそれぞれ渡し、後輩の反応を見て楽しんだりする傍ら、自分たちがこの吹奏楽部において残り少ない時間しか活動できないことを、ひしひしと感じ始めていた時。おなじみの全体練習開始を告げる合図が指揮棒によって放たれた。その直後に、沢城から先のような台詞が言い放たれた。部員たちは普段聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「今年のゴールデンウィークは、土日も重なって連休数が例年より多いですね。その期間を利用して、吹奏楽部全員の技術向上の為に、合宿に行きたいと思っているのですが、皆さんの意見を聞かせてください」
連休がすべて練習で埋まることは、部員の誰もが覚悟していたので、それに関しては不平不満を述べる者は今更いない。だが、まさか練習目的とはいえ合宿に連れて行ってもらえることになるとは思ってもみず、部員たちは色めく。
「いや、あの先生。私たち三年生は修学旅行に行ったばかりです。沢城先生も同行されましたよね」古高葉子が部室内に立ちこめる雰囲気をかき消すかのように意見を述べる。他の三年生もそれに同調するように何度も頷くが、実はこの後沢城がなんと言うかは、皆大方予想がついていた。
「それが何か問題でも」
「はい?」
「当初の計画では、修学旅行のバスに楽器を積み込んで、三年生だけ旅行先で練習させるつもりでいたのですが、それはさすがに可哀想だと思ったので取りやめにしました。ならばみんなが思う存分修学旅行を満喫した後で、一、二年生もまとめて強化合宿に出かければ万事解決。そういうわけで、今ここでその提案をしています。古高さんは何か反対意見があると?」
「……いえ。ないです」
古高は頭痛をこらえるかのように片手で額を押さえている。
「吹奏楽部全員ってことは、居残り組の子たちも一緒ですか」この質問は側近久良谷蛍を取り戻して以来ご機嫌の女王、倉下鈴花。
「はい。全員連れて行きます。もちろん、副顧問の栗垣先生も、様々なサポートをお願いするために引っ張っていこうかと」
つまり、雑事をさせられるということだ。隅っこで部員の出席人数を日誌に書きとめている栗垣が、「へっへ」とどこか悲しげな笑みを漏らした。
「では、本格的に決定ということにします。詳細はおいおいここで連絡しますので、皆さん準備をするのを忘れないようにしてください。遊びに行くわけではないので、その辺りくれぐれも勘違いしないように」
最後の一文に力を込めて、沢城はそう言い締めた。遊びに行くわけではない、それは分かっているけれど、部員たちはその後の練習にあまり集中できないほどに、合宿の時を今か今かと心待ちにするのだった。
「忘れ物ない?」母、日立留美がしつこいほどに聞く。日立京悟はそれに答える。「ないよ」
「修学旅行の荷物の一部を使い回しちゃったけど、別に気にしないよね」
「うん、まあ」そう言って少しせき込む。
強化合宿出発日、朝の日立家。沢城が計画したという点において、えもいわれぬ不安を抱えながら出かける支度をした京悟は、ほんの少し体調が優れないことを気にかけつつも、朝日の眩しい中外へ出た。
「修学旅行のすぐ後に強化合宿。沢城先生って、生徒たちをいじめるの好きだよねえ」
「いってきます」京悟は姉桐子の軽口を無視するのが習慣になっていた。桐子はこのことをあまり快く思っていない。
「今度はもっとセンスのいいお土産買ってきなさいよ。って、合宿に土産はないか」
それでも続く桐子の言葉を聞き流し、京悟は重たい鞄を片手に学校へ歩いた。ここでも汗っかきな体質が災いして、学校へ着く頃には夏服がすっかり濡れてしまっていた。
「京悟、一人だけ雨に打たれてきたみたい」
有賀つばさたちにからわれるほどだった。とはいっても、汗ばかりはどうしようもできないので、京悟はきまりが悪そうにしながらその場をやり過ごすしかなかった。バスに乗り、滴る汗を拭っているとまた咳が出た。
「おい日立、お前風邪じゃないだろうな」
栗垣が言い寄る。京悟は「違います」とその時は答えた。
バスに揺られること数時間、一同は合宿先である若草市青少年文化センターにやって来た。周囲に緑を育てているその建物は横に広く、大ホールにはおよそ百五十人もの人員を収容することができるという。現在の深水中吹奏楽部の総人数は五十人程度で、三分の一しかいない。
「去年の県大会で、わかば文化会館のホールを経験した人たちは分かると思いますが、この地域で行われるコンクールの会場は、県大会以降、ホールの構造上音の響きが大幅に異なってきます。地区大会では通用した音の出し方も、他のホールではそうはいきません。今回の合宿で重点的に行うのは、音の根本的な改善です。これをテーマに、三日間頑張っていきましょう」
到着して間もなく通された大ホールにて、部員たちは合宿の概要をはじめとした三日間のスケジュールについて説明を受けた。朝の起床は早く、ラジオ体操にランニングから始まり、午前中は基礎練習をこなし、昼食と短い休憩を挟んで、午後からようやく合奏に入る。夕食、風呂の時間もさほどなく、消灯時間も早い。
「運動部かよ」
中後航がその大きな頭を大げさに垂れて文句を言った。「いや、下手な運動部よりきついだろ」と続ける者もいた。自由時間はあるにはあるが、練習時間の方が遙かに多く、結局のところ疲れて遊ぶどころではなさそうだ。男子部員はやはりそれが不満のようで、つい言葉に出てしまったようだった。
ところが沢城はそれを咎めることなく、むしろ申し訳なさそうに、
「去年の県大会で思うような結果が出なかったのは、私がゲネプロの時間を取れなかったことが原因です。あらかじめ、みんなには機会を与えると伝えてあったと思いますが、私の仕事の都合もあり……いえ、これは言い訳ですね。悔しい思いをした人も中にはいるでしょう。本当に、ごめんなさい」
そう言って、深く頭を下げた。部員たちは、沢城に謝られることなど初めてで、互いに顔を見合わせて戸惑った。
しかし、直後にはいつもの厳しい沢城の顔に戻っていた。
「では気を取り直して、始めます。各自、大至急用意してください」
散らばる部員たちについていって、京悟も自分の部屋に向かい、楽器やら楽譜やらを用意した。チューナーの電源を入れようとすると反応がないので、乾電池を取り替えようと思い、裏側の蓋を取った。
その時、京悟はその場でふらついた。
なんだか、頭がじんじんと熱くなっている気がする。鋭い痛みもある。これはもしかすると、今朝からいろいろなことが折り重なり、本当に風邪をこじらせてしまったのかもしれない。
「京悟、先行くぞ」
有賀と中後が部屋を出ていく。一人残された京悟は、思うように動かない体を引っ張るように、それについていった。しっかりしろ、と自分に言い聞かせた。この合宿で今後の吹奏楽部の命運が決まるのだ。少しくらいの体調不良で休んでいる場合ではない。結局京悟は、沢城や栗垣に何も言わず練習に参加した。
ホールが広すぎて、沢城の言う通り、部員たちは音を良く響かせることができない。対策としては、より大きく息を吸い、より大量に吹き込むという単純かつ体力を要する方法を繰り返し行い、会得するのみだ。腹にたくさん息をためられるように、皆立ったまま音を出し続けた。京悟は視界がかすんでいくのを感じながら、必死に練習を続けた。それが一、二時間続くと、今日はもう時間がないので、このまま合奏を行うことになった。
「中盤、オーボエの主題の部分を徹底的に」
「はい」久良谷蛍が楽譜をめくる。
不幸中の幸いか、沢城が示した箇所では京悟の出番はなかった。椅子に腰掛けると、いくらか気分がましになる。
だが、京悟はもう体力の限界近くまできていた。
「ピアノ、若干音弱めて」
「オーボエその調子。もっと出してもいい」
沢城の声も、途切れ途切れにしか聞こえなくなってくる。今は座っているが、ちょっとでも押されたら、すぐに倒れてしまいそうだ。でも、ピアノとオーボエが奏でる音楽を邪魔したくない。ああ、やっぱり初めから申し出ておくべきだった。
「日立くん、どうしたの」
京悟の異変に気づいた薫が、京悟の肩をそっと揺らした。次の瞬間、
「日立くん!」
演奏が止まった。
京悟は床に倒れていた。
「先生、日立先輩が!」
「おいどうした」
「京悟!」
部員たちが口ぐちに京悟の名を呼ぶ。沢城は血相を変えて京悟の元へ近寄った。近くにいた薫たちは、沢城の手によってその場から退かされた。
「まったく、もう」
沢城は、誰の目にも明らかに取り乱していた。部活動中に急病人がでるのはこれが初めてだ。それはこの吹奏楽部員たちがもともと根気のある生徒ばかりだったからでもあるが、顧問沢城の判断力も大きく関係していた。部員がもうこれ以上は無理だというところまで練習をし、後はすっぱりと止める。その見極めがあったからこそ、今まで熱中症に倒れたりする部員は現れなかった。
「とりあえず別の部屋に運びます。栗垣先生、人を呼んできてください。他の人は待機」
「だっ」
「えっ?」
「大丈夫、です」
京悟は辛うじて立ち上がった。まだ頭痛と発熱は続くが、意識は失わずにすんでいた。
「寝ていればよくなると思うので、先に部屋に行っています」
「一応私もついていきます」沢城は勝手に歩き出そうとした京悟の前にたちはだかる。
「体調が悪い時はそうだとあらかじめ……」
申し出なさい、と言おうとしたのだろうか、沢城は不意に黙り、ホール出口に体を向けた。
「なんでもありません。さあ、こっちへ」
京悟は沢城と共に大ホールを後にした。
休憩用の個室のベッドの中で、京悟は眠っていた。珍しく夢を見た。
見渡す限りの青い空の下で、京悟と荒川翔がキャッチボールをしている。翔は笑顔でボールを投げ、また京悟からボールを受け取る。時には取り損ねることもあり、翔は「いっけね、ごめん」と陽気に謝ってボールを追いかけていく。京悟は以前の決別などすっかり忘れて、翔と楽しい時間を過ごした。やがて疲れて、二人並んで地面に横になった。
「あのさ、京悟」
「ん?」
「高校に上がっても、一緒に野球やろうぜ」
「もちろん。俺もう、新しいグローブとバット買った。わざわざ電車で専門店行って」
「マジで? すげー! その店、なんていう名前? 俺にも教えてよ」
二人は、そうやっていつまでも野球のことばかり話している。この前の試合で強力な投手に当たったこと、その投手に歯が立たないことが悔しくて、翔は走塁の時冒険してスライディングばかり決めてはユニフォームを前も後ろも真っ黒にしてしまうので、後で母親にひどく怒られたこと。エピソードのすべてが、あまりに現実味を帯びていた。京悟はいつしか、きっとこれは夢じゃない、このままずっとこうでいい、と心から願い、信じていた。
「京悟はさ、なんで野球やろうと思ったの」
「うーん。お父さんに、勧められたから」
「京悟の親父って、ケーサツ官だっけ」
「そう。でも普段は音楽隊にいて、演奏会ばっかりやってる」
「なんだよ、それ。ただの暇人だろ」
「違う。ちゃんとやる時はやるから。それに演奏も聞きに行ったことあるけど、すごかった」
「すごかった?」
「うん。とっても楽しそうだった。楽器が生きているみたいだった。その中でも、お父さんのトランペットが一番良かった」
「……京悟って、親父のこと大好きだな」
「……うん……」
…………。
翔が喋らなくなる。京悟は翔の方へ顔を向けようとした。そこからはもう翔の姿が消えていた。どこへ行ってしまったのかと、京悟は体を起こして辺りを見回した。何もない、誰もいない。空だけが真っ直ぐで、どこまでも青い。
翔はもう、自分の隣にはいない。
そして……。
「日立くん、入るよ」
聞き覚えのある声で、京悟は目を覚ました。それまで自分が見ていたものが夢であることを理解し、深い喪失感に包まれた。
「失礼します」
伏し目がちになって入室してきたのは海風薫だった。京悟はびっくりしてベッドから出ようとしたが、
「あ、そのままでいいよ。日立くんの楽譜とか置きに来ただけだから」
と言うので、おとなしく布団を首元までかけるが、なんとなく横にはなれなくて、中途半端に上半身を起こしている。寝る前に着替えた寝間着はすでに寝汗でびっしょりだ。その感覚がどうにも気持ち悪くて、京悟はとうとう布団を半分めくり上げた。
「具合はどう」京悟の楽譜と折り畳み式譜面台を鞄の傍に整理して置き、薫が訊ねる。
「だいぶいい」
「そっか。明日早いけど、出られそう?」
「出る。これ以上迷惑をかけられない」
「よかった。みんな言ってたよ。日立くんがいないと演奏がしまらないって」
「ああそう」
「……汗、すごいね。着替えた方が」
「後でちゃんと替えるよ」
薫は制服のままだ。対して京悟は寝間着姿で、その落差がどうしようもなく恥ずかしくなった。とっさにさっきめくった布団をまたかぶる。
「もういいから、海風も部屋に戻れ」苦しまぎれにそう強がる。
「分かった。おやすみ」
「おやすみ」
京悟は薫が退室した後、別の寝間着に着替えて再び寝床に入った。薫の予期せぬ登場で、後でじっくり思い起こそうとしていた夢の内容をほとんど忘れかけていた。そのことが気になって仕方がなかったが、窓の外で輝く月を、布団の隙間からぼうっと見ているうちに、二度目の睡魔が訪れる。
何かが頭の中に、確かに残っている。その何かとは京悟にとって非常に大切なものである。未だ止まったままの京悟の時間を進める、一本のねじになりうる、何か。
京悟は翌日から合宿に復帰した。体調は至って良好、むしろ万全で、一日、つまり三日分遅れた練習量を取り戻そうとするかのように、京悟は人一倍張り切り、人一倍汗をかいた。コンクール演奏曲も沢城の納得のいくものに仕上がったようで、合宿最終日の前日には練習終了時刻も予定より早まり、部員たちはその辺を散歩したり施設を見学したりと、少しばかり自由な時間を楽しんだ。
その日男子部員と栗垣は、一足先に風呂に入ることになった。広々とした大浴場を、数人で貸し切る。修学旅行では人が多すぎてくつろぐにくつろげなかったが、この少人数なら余裕を持って足を伸ばせる。京悟は肩まで湯船に浸かった。
「あー、生き返る。蘇生する」
頭にタオルを乗せた有賀が学校で習ったばかりの言葉を使って風呂の気持ちよさを表現する。中後と秋郷は隅で体を洗っている。
「おい日立、もう体は平気なのか」湯船の一番奥で、栗垣がふんぞり返りながら訊ねる。
「はい。もうなんともないです」
「そうか。ならいいが。ところで、例の件はちゃんとけじめがつきそうか」
「何? なんの話?」
「うっせえ、有賀には関係ねーよ」
例の件とは、おそらく翔のことだろう。京悟は傍に放置してあったタオルを絞りながら、しばし熟考する。そうして、あるひとつの答えが、ぼんやりと湯気のように浮かんだ。それと向き合うことは、京悟にとって相当に辛く、苦しいものだったが、それでも逃げてはいけないと思った。
「なんとか、なるかもしれないです」
「本当か」
「はい、たぶん」
栗垣は両手で湯をすくい、自らの顔にかける。湯で濡れた栗垣の髭面には、満足そうな笑みが表れていた。「しっかりやれよ」
「つーか、教師と生徒が一緒に風呂に入るかフツー。きゃー、セクハラだ」
「馬鹿かお前は。毛も生え揃ってない癖に、ふざけこと言いやがって」
他愛ない有賀と栗垣の会話をよそに、京悟は一人、翔と会う約束をどうとりつけようかと算段をした。自分から行動を起こさなければ、何も変わらない。翔に話しかけるには勇気がいる。不安も山ほどある。でも、このことはまず絶対に翔に伝えたい。そうすれば、きっとうまくいくはずだ。
京悟は決意した。