ごまかしてきた思い

 海風薫と日立京悟は、部活動だけでなく教室でも沢城の顔を見ることになった。二人とも、それ自体は嫌ではなかったが、普段音楽の授業と部活でしか顔を合わせたことのない沢城と、吹奏楽に全く関係のないところで何かを話したり、言いつけられたりするのは、妙に気まずいというか、やり辛かった。毎朝定刻通りに教室にやってくる沢城は、最初こそいつもの威圧感を惜しみなく発揮していたものの、それ以後は吹奏楽部でするように怒鳴ったり、物を蹴り飛ばしたりすることは一切なく、むしろ薫たちにも優しかった。
「今年のみんなは、進路の選択という、人生を決める場所に立たされていますね。私もできる限りみんなを支えていきたいと思っています。焦らなくてもいいです。中学校生活最後の一年を噛みしめながら、少しずつ自分のしたいこと、行きたい高校をかためていってください」
 それでも吹奏楽部での沢城を知らないクラスメイトたちは、沢城のことを恐れ、陰口を叩いていた。裏で何を考えているか分かったものじゃない、きっと進路のことだって、表向きはあんなこと言っていたけど、きっと腹の中じゃどうでもいいとか思っているに決まっている。
 薫は、沢城の相変わらずの悪評高さに対して、しょうがないよな、とあきらめの気持ちを抱きつつも、自分くらいは沢城のことを信用しようと決めていた。それになんだか最近は、沢城が何を考えているか、ちょっとずつ分かるようにもなれてきている。ふと、沢城先生って実は、優しくしたいけどあえてしていないのではないか、などと想像してみたりする。そして吹奏楽部で厳しい指導を受けると、やっぱり違うのかもと思い直す。マウスピースを扱い始めた新一年生にまでいきなり怒号しているのを見かけると、自分の感性が信じられなくなったりもする。
 今年の新入部員は、去年に比べると少なくなっていた。県大会出場という新たな実績をあげたのだから、きっと大量に押し寄せるだろうと期待に胸膨らませていた部員たちは、去年が多すぎた、仕方がないと笑いつつも、陰では意気消沈していた。薫も、トランペット希望者が一人しかいないことをちょっとだけ残念だと感じたが、こればっかりは運も絡んでくるし、たくさん来られてもそれはそれで困ってしまうから、最後はその一人を頑張って教えていこう、そう考え方を改めることにした。
「和歌崎智絵です。よろしくお願いします」
 和歌崎は長い髪に大きくぱっちりとした目をした、中学一年生らしからぬ容姿をしている。薫は、彼女がどことなく清水中の矢落あいに面影が似ていることに気づく。
「三年の海風薫です。えっと、トランペットは他の楽器に比べて目立つし、吹奏楽全体を引っ張っていく役割もあるから、頑張っていこうね」
「はあ」
「…………」
 あくまで第一印象だが、いまいち、やる気が感じられない。現在二年の秋郷信男は、入部当時から理知的な雰囲気を醸し出しながらも練習姿勢には静かな情熱を見せていた。薫は和歌崎を秋郷とどうしても比較してしまう。大丈夫かなこの子。嫌われてしまったりしないだろうか。
「海風」
 そこへ日立京悟がやって来た。日直の仕事があったらしく、少し遅れての登場だ。
「あ、日立くん。この人トランペット希望者だって」
「ああ。んと、三年、日立京悟です。一応、金管のまとめ役やっています。でも人に教えるの、あんまし上手くないから、頼るなら海風の方で」
「そんな」と薫が不満げに言っている傍で、和歌崎は京悟のことをじっと見据えていた。薫はそのことが少し気になった。
 薫の勘は割とよく当たるもので、和歌崎は薫よりも京悟に積極的に話しかけるようになった。和歌崎の教育係は成り行きで薫ということになっていたが、和歌崎は譜面や技術の面で分からないことが出てくると大抵は京悟に聞きにいった。人に教えるのは下手と言っておきながら、簡潔かつ丁寧に答えてくれる京悟を、和歌崎は慕うようになっていた。
 対して薫には、敬語ではあるものの気の抜けた受け答えしかしないので、薫は和歌崎に苦手意識を持ち始めていた。いつしか薫は和歌崎のことを意図的に避けるようになっていた。また、京悟は和歌崎といつも一緒にいて、それまで薫は京悟と一緒に部活に来たり家に帰ったりしていたのに、それも自然となくなっていった。
 薫が和歌崎に何か不穏なものを感じていると、ついにそれを決定的なものにするかのごとく、和歌崎が「話があります」と言って薫を女子トイレに呼び出し、薫にとってとんでもないことを打ち明けた。
「あたし、日立先輩のことが好きです」
 そうなんだ、とはすぐに言えない。
「海風先輩って、日立先輩に彼女がいるかどうか知っていますか」
 どうしてそんなことを自分に聞くのだろう。薫はすぐに応答できずまごつく。薫の知る限りでは、京悟につきあっている人なんていないと思うけど、もしかすると薫の知らないところで会ったりする人がいないとも言い切れない。
「ごめん、わたしにはちょっと。本人に、直接聞いてみたらいいと思うよ。和歌崎さん、日立くんと仲良いみたいだから」
 やっとの思いで吐き出した回答の中に、何か攻撃的なものが知らず知らずのうちに含まれていたことに、薫は気づいてしまった。
「先輩って、卑怯ですよね」
「ええっ」批判に慣れない薫は、和歌崎の明確な非難の言葉に、心臓が一瞬、締めつけられるかのような感覚に襲われる。
「あたし知ってます。海風先輩と日立先輩って、絶対お互いのこと好きですよね。海風先輩は全体練習の前にいつも日立先輩のことを見てるし、日立先輩だってあたしと練習してる時、海風先輩のことばっかり引き合いに出してくるし。先輩たちはそのことをお互いに隠してる。そうじゃない、そうじゃないって、無理に抑えつけてる。まあ日立先輩はともかくとして、海風先輩はそのへん、特に露骨です」
「ちょ、ちょっと待って」薫は耐えられなくなり和歌崎を制止するが、和歌崎はその口を動かすのをやめない。
「そうやってごまかし続けていくのって、見ていて腹が立ちます。ムカつくんです。すいません、先輩に失礼なこと言って。でもあたし、日立先輩に告白しようと思ってます」
 告白。薫はますます動揺する。ドラマや映画でしか聞かない言葉だと思っていたが、まさか本当にこんなことがあるなんて。しかも薫はその当事者になりかかっている。和歌崎智絵が、日立京悟に対して好意を抱いていることを知った。それも、本人から知らされたのだ。
 薫はトイレの手洗い場の鏡を覗きこむ。薄汚れた反転世界の中で、苦しそうに顔を歪める自分の姿が映っている。わたしは、和歌崎さんに何を言われてこんなに変な表情になっているのだろうか。卑怯と罵られたから。いや、違う。
「はあーっ」
 和歌崎がため息をつく。腰に手を当てて、片足をぱたぱたと鳴らしている。
「ねえ先輩。日立先輩から聞きましたよ。コンクールメンバーの選抜があるって」
「うん、ある、ね」
「あたしがそれに通ったら、日立先輩に思いを打ち明けることにします。もし駄目だったら、日立先輩のことは諦めます。それでいいですか」
 いいですか、と許可を求められたことに薫は驚き、また安心もしていた。
「今日は呼び止めて、こんなところに連れ込んじゃってすいませんでした」
 和歌崎は先に女子トイレから出ていった。薫は少し待って、和歌崎の姿がどこにも見えなくなったことを入念に確認した上でトイレから脱出し、一人帰路についた。
 気持ちをごまかしている。そう和歌崎に指摘されたが、薫にその自覚は全くない。でも、和歌崎がでたらめを言っているとも考えにくい。知り合ったばかりの一年生にそういうことを言われてしまうということは、おそらく当たっている。海風薫は日立京悟に、ただの同級生とか、家が近い友達とか、そんなものではない何か別の感情を抱いている。もしかすると、月丘めぐみの言うように「下に心がつく」例のあれなのか。めぐみは何事においても察しがいいから、言うことなすことすべて正しいとは言わないが、きっとそのどれもがあながち間違っていない。
 考えれば考えるほど、胸がちくちくした。
 後日、本年度のコンクール組の発表がされたが、結局のところ和歌崎智絵はメンバーに選抜されなかった。薫が出場する最後のコンクールのトランペット奏者には、三年生二名と二年生三名が名を置いた。去年は居残り組として歯がゆい思いをしていた京悟も、ようやく本領を発揮することができるためか、その顔にもほんのりと喜びの気持ちが出ていた。秋郷に「おめでとうございます」と祝福されているのを横目に見ていた薫も、一緒におめでとう、と言ってあげたくなったりもした。
 一方で、和歌崎智絵は居残り組に押しとどめられたと知っても、特に取り乱すことはなく、淡々とその事実を受け入れていた。まるで、最初から自分が選抜されないことが分かっていたかのように。
 その日の練習後、音楽準備室にて、薫は和歌崎に再び声をかけられた。
「先輩、コンクール頑張ってください。あたしも今度の激励会、頑張りますから」
「ありがとう。……あの、和歌崎さん」
「はい?」
「昨日、考えたんだけどね。日立くんのこと、わたしはやっぱりまだ、同じトランペットの男子部員としか見られない。これは本当。卑怯とか言われても、だっていくら考えてもそこで止まるから、結局、そうだなって思う」
 和歌崎は、音楽準備室の小さな窓の傍に歩み寄っていった。薫に横顔を見せたまま外を眺めている。夕日に照らされた和歌崎の顔は、どんな表情をしているのか、薫からはよく見えない。
「でも『まだ』なんですよね?」
 和歌崎の高く透き通った声は、微かだが震えている。
「これから、その思いが変わるかもしれないんですよね。だったらもう、その時点で確定じゃないですか」
 和歌崎が勢いよくカーテンを閉めた。
 口元だけ笑っている。おそらく、落ち込んではいない。
「そういうのってなんか、羨ましいなあって思います」
 「卑怯」が「羨ましい」に変化していた。
 その意味を薫が推し量ろうとする中で、和歌崎は「じゃ」と一言置いて準備室を出た。薄暗い部屋の中、薫はただ立ちすくんでいた。
 それ以来、和歌崎智絵は薫にも京悟にも等しく接するようになった。練習にはきちんと参加したし、楽器の出し入れなどで接する機会はあった。話をすることもたまにはあった。
 でも、それはいつだって少し離れた場所からだった。