長い冬が終わり、三年目の春がやって来た。
海風薫をはじめとする深水中吹奏楽部初代部員たちにとって、最後の一年である。しかし、薫たちは薫たちで春休みの間ずっと練習に明け暮れていたこともあり、卒業式の予行演習の日、教師たちに今日から三年生ですおめでとう、などと言われても、中学生活が残りわずかであるという実感はあまりなかった。薫は感傷に浸る暇もなく、目の前の現実のあまりに劇的な展開に戸惑い、どうすればいいのかを考えるのに手一杯だった。
「海ちゃん! 今年も同じクラスだよ!」
教室に入るなり、薫は月丘めぐみにその名を呼ばれた。薫もそうだね、と素直に返す。心強い味方がこうして一人でもいてくれるとありがたい。しかし、今年はそれだけではなかった。
「ねえ、もしかしてあの人?」
「誰が?」
「ほら、あの、短髪の。日立くんでしょ」
見慣れた制服姿の日立京悟が、後ろの方の席にひょっこりと座っている。薫は驚いた。自分と同じ教室に、紛れもなく同じ教室に、日立くんがいる。ということはつまり。
薫を差し置いて、めぐみが京悟に話しかけに行ってしまうので、薫もそれに続く。京悟は軽く片手を挙げて二人に挨拶した。
「同じクラスになるのは初めてだね」薫は嬉しさと謎の緊張でいつものように話せない。
「そうだっけ」
「そうだよ」
「クラスの連中のことは、あんまし覚えがない」
「薄情だなあ」でも、京悟がいつも通りであることにほっとすると、自然と声が出るようになる。何か続けようとしたそこへ、めぐみが割り込む。
「はじめましてー。私はこの度生徒会副会長に立候補することになりました、月丘めぐみです。そして、海ちゃんのお友達でーす」
「あっそ。俺は日立京悟だ」無関心である。
「知ってまーす」
「なんで」
「海ちゃんに聞いたもーん。海ちゃんと日立くんって、とっても仲良いでしょ。ということはあれだよね。やっぱ、つきあってるとか」
双方、無言。
いつまでたっても無言なので、常に明るく元気なめぐみもこの時ばかりはうろたえる。
「あのさ、二人とも黙らないでよ。せめて否定しよう。軽い冗談だから」
「知り合って間もない相手に冗談を言うな」京悟は落ち着いているかのように見せているが、目線は面白いほどに右往左往していた。
「だよね、ごめん。まーとにかく、以後お見知りおきを……。って、そうだ! 二人とも、大ニュースがあるの!」
「大ニュース?」
「全国大会常連、我が深水中学校野球部の新エースピッチャーこと、あの荒川翔くんもこのクラスだって!」
がたっ、と音を立てて京悟が起立する。さっきまでの平静さはどこへやら、まるでその荒川翔という生徒に対し恐怖を抱いているかのようだ。薫とめぐみが顔を見合わせていると、
「おっ、翔! 同じクラスだぞ」
誰かの大声を耳にし、薫たちはそちらへ目をやった。そして薫は目を見張った。
その荒川翔と呼ばれている男子生徒は、一年の時夏祭りで、京悟一人相手に他の男子を連れて突っかかっていた、あの悪そうな男の子だったのだ。まさか同じ深水中の生徒だとは思っていなかったので、薫は自分の行動範囲の狭さを恥じた。二年もの間、荒川翔のことも知らずに部活動にばかり熱中していたことになってしまう。さっきめぐみが高揚して話していたのを見るに、きっとこの学校でも有名な人なのだろう。
それはともかくとして、これで京悟の様子が突然おかしくなったのも納得がいく。薫は詳しい事情は知らないが、きっと京悟は荒川翔のことをあまりよく思っていないのだろう。そしてその逆もしかり。だとすれば、自分のような女子が必要以上に付きまとっていれば、いつかは京悟に迷惑をかけることになる。薫は、翔と京悟を見守ることしかできないのだ。普段、他人の面倒ごとには関わることそのものを嫌っている薫が、そんなことを考えるのは初めてだった。関わり合いになりたくない、ではなく、関わり合いになってはいけない。本当は、少しでも力になれることがあるなら、なってあげたいけれど。
翔は教室を見回す。不自然なまでに顔を真横に向けて、翔に気づかれまいとしている京悟のことを目でとらえると、案の定、舌打ちと共に冷たい視線を送った。関係は未修復のままのようだった。もしかして、このまま翔が京悟に迫るのか、と薫がはらはらしていると、またもや教室の入口付近で生徒の声がした。今度は歓声ではなかった。
教室に、沢城が入ってきた。
薫は室内の空気が、放課後の音楽室と全く同じものになりつつあることに気づく。この息が詰まるような静けさは、極めて悪質な吹奏楽部のそれそのものだ。
沢城は生徒一人一人に冷徹な表情を向け、
「まだ始業式には時間がありますが、それまでおとなしく着席していなさい。時間になったら名簿番号順に廊下に整列しますので、各自確認しておくこと」
と告げる。薫たちはそれに従う。沢城がなぜわざわざこのようなことを言うのか。その理由は簡単だった。
「沢城先生!」めぐみが挙手する。「もしかして先生がこのクラスの担任ですか」
沢城はお得意の不敵な笑みをこぼし、
「はい」と一言。「始業式でも発表があるでしょうね」
クラスの生徒全員がそれぞれ誰かと顔を見合わせる。めぐみも薫のいる方向へ、助けを求めるかのように手を大きく上下に振っている。ただし顔には笑みが浮かんでいるが。
これはまさしく、劇的な。言わば、波乱の幕開けというやつだろうか。
薫は無意識のうちに、制服のスカートをぎゅっと握りしめていた。