若草市は比較的温暖な気候であるために、冬でもそれほど気温が下がることはない。ところが今年は例外のようで、早朝から積もるほどの雪が降っていた。雪は住宅街に立ち並ぶ屋根や木々の葉に冷たく舞い落ちて、町中を白く染めていった。町の象徴であるはずの緑は、すっかり隠れてしまった。
そんな光景を窓越しに目の当たりにした海風薫は、これから自分がこの雪景色の中一人学校に向かうのかと思うとげんなりして、白い息を何度も漏らした。
朝がどれだけ寒くても、部活動に励む中学生たちは朝練というものに精を出す。吹奏楽部も、これまでほぼ毎日のように行ってきた。しかし冬の朝練は、すべての吹奏楽部員にとって、はともかく、少なくとも薫にとっては大変憂鬱である。音楽室が寒いことはもちろん、部員たちが口につける楽器もまた、氷のように冷たいのだ。金管楽器は文字通り金属なので、尚更である。そのため冬の練習となると、音出しよりもまず、楽器に自分の息を吹き入れることで楽器を温めるという作業から始めなければいけなくなる。しかし朝練の時間は短く、少しでも気を抜いていると、楽器がすっかり温まった頃にはチャイムが鳴り、泣く泣く楽器を片づけて教室へ、などという事態に陥ってしまう。その分、冬は日の入りが早くなるため、午後の練習時間も普段より早まる。冬休みの部活動も、夏の詰め込まれたスケジュールに比べるとがら空きも同然で、ようやく一息つけることになった部員たちは心から安堵した。
ただし、沢城の練習に対する厳格な姿勢はちっとも変わらない。その日も下校時刻まで練習が続き、解散になると部員たちは大慌てで帰る支度をした。
今日の鍵当番は薫だった。音楽室と音楽準備室に鍵をかけ、その鍵を職員室に返しにいくだけの仕事だ。薫はさっさとすませようと思い、早足で職員室へ向かった。あまり入らないそこは、暖房がきいていてとても暖かい。おまけに窓一面から雪を見ることができて、とても居心地が良い。ただ教師たちはそんな風景を楽しむ余裕もなく、二学期の成績表やら保護者会の準備やらで、忙しく働いていた。薫も邪魔にならないよう、鍵を所定の位置に戻してすぐに部屋を出ようとした。
「あら、海風さん」
ふんわりとした声に呼び止められて、薫はためらうことなく振り返る。薫のクラスの担任、小西奈央だ。一年の時に引き続き薫の担任となった彼女は、薫の知る限りでは怒ったことがない。とても優しいという印象しかなく、薫は安心して小西の呼びかけに応じることができる。
「海風さんは、毎日部活頑張っているね」
「いえ、そんな」会う度にこう言われるので、薫は嬉しいながらも返答に困ってしまう。
「……沢城先生は、厳しい?」
「えっ」
「いや、あのね」小西が薫との会話で沢城について触れるのは初めてだった。「この前、他の子たちから沢城先生のことについていろいろ聞いたんだけど、あんまり、いい意見をもらえなくって」
「ああ」薫は合点した。小西はぼかしているが、きっと悪口の言い合いになっていたに違いない。改めて言うほどのことでもないが、沢城の指導法は生徒からの反感を非常に買いやすい。
「先生もね、たまには沢城先生みたいにガーッて、怒らないといけないな、とは思うんだけど。海風さんは真面目だから、怒られたりすることはないよね」
「いいえ、何度かありますよ」薫はなぜか得意になってしまう。
「そうなんだ。やっぱり生徒のみんなに対しても、ご自身に対しても厳しいんだね」
「はい。でも、いい先生だと思います。沢城先生も、小西先生も」お世辞などではなく、本心だということを前面に押し出して。
「ふふ、ありがとう。何か嫌なことがあったらいつでも言ってね」小西のそんな言葉には、嘘偽りが全く感じられない。それはきっと小西先生だからこそだ、と薫は思う。
「じゃ、帰ります」
薫がそう告げると、小西は窓の外に目をやる。雪が強くなっていて、校庭はすでに真っ白だ。
「気をつけてね。さようなら」
「さようなら」
薫は職員室を出た。
本当は、嫌なことがあった。
わかば文化会館で清水中の吹奏楽部員に受けた、悪意ある攻撃。でも薫はそれを打ち明けようとは思わなかった。まだちょっと心苦しくはあるけれど、あの程度のことで二度と立ち直れなくなるほど、薫はもう弱くなかった。
冬休み、薫は日がな一日炬燵に籠城しゆったりと過ごした。年末には家族揃ってテレビを見、年越し蕎麦を食べて一年を振り返った。少し前まではコンクールのことばかりで手一杯だったとは思えないほどに、安らかな時間だった。
でも、吹奏楽のことを考えないわけではない。
年明けて数日後の午前中、奇跡的に早く起きることのできた薫は、ふと、近くの神社に初詣に行こうと思い立ち、厚着して家を出た。かつて京悟と共に浴衣姿で出かけた夏祭り会場でもあった神社には、まだまだ大勢の人が集まっている。震えるほどに寒いし、そもそも初詣には家族で一度行っているのだが、薫はどうしても自分一人で来たかった。
小遣いで買った汁粉で温まり、さてそろそろ参拝しようと薫が歩き出すと、境内の真ん中で京悟に出会った。
「よう」
京悟は分厚いジャンパーを着込み、つばの長い野球帽で顔を隠していた。夏祭りの時に絡まれていた男の子たちの対策だろうか、と薫は新年早々邪推してみる。
「あけましておめでとうございます」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」京悟は帽子を脱いだ。どうやら特に警戒しているようではなさそうだった。
「あ。そういえば」
「なあに」
「年賀状書くから、住所教えてくれ」
「そう? でも家近いし、直接手渡しでいいよ」
「その方が面倒」
「そ、そう」薫は眉間にしわを寄せる。京悟は真面目であり、ものぐさでもあるらしい。
薫が今から参拝すると言うと、京悟も薫についていった。賽銭箱に小銭を投げ入れ、両手をあわせて目をつぶる。そのまま、しばらく祈った。ねえ、なんのお願いした? などと聞き合うことは全くせず、二人は神社を後にする。
薫は、こんなことを願っていた。
もっともっと、楽器が上手になれますように。
自分に関することだからこそ、家族と一緒の時でなく今、このお願いをしたのだった。
「今年で最後だな」京悟が切り出す。「コンクールに出られるのは」
「うん。でも高校でも吹奏楽部に入れば、また三年間チャンスができるよ」
「高校かー。なんにも考えてない」
「わたしも。むしろ高校生になりたくない。大人になりたくない」自然と出た言葉だった。
「奇遇だな、俺もだ」
「でも小学校と比べると、中学校って本当にあっという間だね。年数が半分だから当たり前だけど。あと三か月で三年生だよ。最後のコンクールが終わったら部活も引退して、進路決めて、卒業式に出て、みたいにさ、そういうこと考えちゃうようになってくる」
本当に、その瞬間は突然にやってくるものだ。中学校に入学して、いざ中学生活と張り切っていると、気がつけばあっけなく終わっている。自分の親が、年を取れば取るほど年月の過ぎる感覚が早くなっていく、と事あるごとに言っていたのを、だんだんと理解できるようになってくる。
薫はそのことに直面すると、ふと、ひどく悲しくなった。なったが、
「まだ早くないか」
そう京悟に言われて、薫もそうだと思い、頭を大きく左右に振った。
それから数分も歩けば、二人の目の前にまだ屋根に雪解けの残る海風家が現れた。
「じゃあね、また学校で」
「ん」
いつものやり取りをして別れる。
二人は互いに、コンクール組と居残り組で分かれたことをきっかけにしばらく話さないようになったことについて、一切触れることはなかった。まるで何事もなかったかのように、二人は元に戻っていた。そして、そのことを第三者に指摘されるまで全く気づいていなかった。
薫は思う。これじゃ月丘さんの言う通りじゃないか、と。