戦場、再び

 二度目のコンクールを迎えた。
 居残り組が学校行事の演奏に奮闘する中、コンクール組は来るべき夏に向けて最終調整に取りかかっていた。沢城の厳しく激しい指導は相変わらずだったが、部員たちもまた、沢城に応え続けていった。そうしてその日はあっという間にやってきた。
「本番は、最高の音で勝負してください」
 コンクール前日、沢城の挨拶はそれだけの簡潔なもので、薫はなんとなく、沢城先生らしくないなと感じた。もしかして先生も緊張しているのだろうか。今年こそは、という思いがあるから。去年の雪辱を晴らすためにも。
 コンクールは去年と同じく若草市市民会館から始まる。A編成の部は、代表に選ばれ続けることで、県大会、地方大会、そして全国大会へとその規模を広めていく。目標とするのはもちろん、全国大会。
 本年度の深水中学校の演奏順は、不幸なことに一番手、コンクールが始まってすぐだ。つまり細部を確認する時間どころか、ロングトーンをする暇もない。朝早く起きて、学校に向かい点呼を取ると、全速力で会場へ向かう。
 あの独特のそわそわとした雰囲気は、今年も朝から健在だ。すでに二番手以降の中学校が集まっていた。薫たちは到着し次第すぐに楽屋に入り、搬入された楽器を運んで各自音出しに入る。もはや一刻の猶予もない。無駄話をする部員など一人もいなかった。チューニングを終えて舞台裏に向かうと、スタッフから一連の流れの説明を受けた。時間との勝負なのは彼らも同じで、どこか早口だった。しかし去年の感覚は今でも鮮明に覚えているから、薫は動揺することはなかった。
 居残り組は、楽器の搬入を手伝っただけで、後は観客席で待機しているらしい。見守ってくれることは単純にありがたいし、より堂々と演奏できる気がする。それに加えて今年は、薫の母親、海風栞が鑑賞にやって来るという。去年はどうしても行くことができなかったらしいが、今年こそは絶対に、と都合をつけたようだった。
「別に無理しなくてもいいよ」
 薫は強がったが、本当はとても嬉しい。できることなら家族だけでなく、クラス全員に自分たちの演奏を聞かせたいくらいだ。普段は目立つことなど大嫌いだというのに、薫はこんな時だけそんなことを思う。今年も緊張するだろうな、と覚悟していたのに、いざこうして真っ暗な舞台裏に来てみると、不思議と体は軽いままだ。雰囲気に慣れたということか、それとも、早く演奏したくてたまらないからか。薫は一人で、静かに心の火をめらめらと燃やしていた。やる気満々だ。
 アナウンスが流れた。沢城が手で入場を促す。薫たちは光り輝く舞台上へ出た。何もかも去年と変わらない。舞台の上の華やかさも、観客席の壮大さも。
 楽器を構える。薫はふと横を見た。一年の秋郷信男が体を震わせながら沢城を一点に見据えている。
 そうか。今年は、日立くんはここにはいないのか。
 薫はそこで気づいた。大事な時はいつも、日立京悟の顔をつい見てしまいたくなる。それは、自分が安心したいからだ。京悟の顔を見ると、安心する。
 薫は観客席に、無意識に京悟の姿を探した。見つからないうちに、演奏が始まった。まずは、課題曲から。

     *

 一人の男が、塔を登っている。
 塔は見上げても天辺が肉眼で見えないほどに高く、登り続けてもいつ終わるのかは分からなかった。その上、塔の中には常に風が吹き込み、白い砂を巻き上げるので、男は漆黒のマントを羽織って、木の杖を片手に、もう片方の手で目を適度に覆い隠しながら、風に吹き飛ばされないようにと一歩一歩を力強く踏みしめていく。
 男は孤独だった。一人でひたすら塔を登り続けた。なぜ登るのかは誰も知らないし、男自身も知らない。変化なき巨塔を登っていく中では、吹き抜ける風が唯一の変化だから、それを受けると少しだけ嬉しくもある。
 時折道が塔の外観部分に繋がると、男は外の景色を見ようと必死に目をこらすが、砂煙が邪魔をして何も見ることができない。塔の材質も白い物質、砂も柔らかな白。すべてが白の世界で、男は風を受けて進んでいく。
 突如、風が強くなった。男は足下を見る。なんと、男が今まで歩いてきた道が崩れていくではないか。このままでは落ちる。男は駆けだした。消え去っていく足場から逃げるように、天空を目指して駆けた。砂が目に入る。目の前に溜まる砂の山にも風が吹き、模様を描いてはさらに砂を巻き上げる。もはや先に進むのは困難を極めたが、それでも男は進むことをやめない。いつ足場が崩れ落ちるかも分からない中で、男は頂上にたどり着くという、ただそれだけのために己を動かす。男は何度も落ちそうになった。吹き上がる砂に参って、もういっそ落ちて死んでしまおうかとも思った。
 そんな時、砂が風に乗って道を示した。男は最後の力を振り絞り、階段を駆け上がる。明らかに風でない、今までに感じたことのない何かを体が感じた。男は塔の天辺にたどり着いた。
 男が見たのは、真っ赤に燃える夕日だった。
 目がどうにかなってしまったかと思うほどに、その陽は男に赤い光を注ぐ。風と砂は依然男のぼろぼろの体に付きまとったが、男は構うことなくそこへ腰を下ろす。
 男はそこで一人、夕日を見続けた。山の奥底へ沈むまで、ずっと……。

     *

「一番、若草市立深水中学校」
 見知った部員たちの叫び声に、薫は驚いて席を立った。今、自分の学校が呼ばれた。でも、一体どうして。
「……番、若草市立清水中学校。以上の学校が、県大会への出場権を獲得いたしましたことを、ここにお知らせいたします」
 倉下鈴花が号泣している。いつも凛としている古高葉子が誰かと抱き合っている。有賀つばさは満面の笑みと拍手をやめない。雨内泉希はいつも通りの不敵な笑み。他のみんなは、だらしなく涙を流しながら、ただひたすら喜びに興奮するばかり。
 深水中が初の県大会出場が決定した瞬間、薫は口をぽっかりと開けたまま、その場に立ちすくんでしまっていた。

 深水中吹奏楽部県大会進出のニュースは、野球部の二年連続全国大会進出に並び、夏の大吉報として学校中を賑わせた。
 吹奏楽部には資金がかかる。楽器一式の調達から各練習器具、楽譜に至るまで、活動に必要なものがとても多い。そのため顧問の沢城だけでは当然手が回らないため、深水中吹奏楽部の創設には学校の力が大きく加わっている。学校側は当初、部の創設に猛反対したが、二年目でこれだけの結果を出したということで、反対派の者たちもおとなしくなり、ともすれば訪れていたかもしれない吹奏楽部存続の危機はとりあえず免れた。これにはさすがの沢城もほっと胸をなで下ろしたという。
 そして、吹奏楽に対し賛成の意を初めから表し続けていた林麗校長も、このニュースには飛び上がって喜んだ。林は白髪交じりの女校長だが、集会ではいつも話が短いという、ちょっぴり悲しい理由で生徒たちから好評だ。
「沢城先生、やりましたね」
 まるで自分のことのように校長室をはしゃぎ回る林に対し、沢城は深々と頭を下げる。
「これもすべて校長先生のおかげです。本当にありがとうございます」
「なーに言ってるの。私なんか何もしていません。あなたと生徒の頑張りが実を結んだのよ」
「そうでしょうか」
「そうでしょうかってあんた、もう」林は沢城の肩を叩く。沢城はその姿勢を一切崩さない。
「私は、これで終わったとは思っておりませんので」
「えっ?」
「県大会出場など、当たり前だと言っているんです。本番はむしろこれからです」
「あらそう。そうよね、目標を高く持つっていうのは大事よね」林は教師沢城の気質を思い出したようで、はしゃぐのをやめた。
「でも」
「でも?」
「そうおっしゃって頂けて嬉しいです。では、明日からの部活の準備がありますので、これで」
「うん。頑張ってね」
 林は沢城の退出を見届けた後、こっそり呟く。
「嘘が下手ね」

 県大会の日はすぐにやって来た。
 会場は県外のため、楽器だけ別に輸送し、薫たち部員は電車に乗って向かう。たくさんの同級生と一緒に電車に乗るのは修学旅行以来だ。薫は今から戦場に赴くことを忘れて、移動する列車の中で一時を過ごした。隣に座る雨内泉希は寝ていた。地区大会の時といい、彼女は物怖じというものをまるで知らない。薫は雨内の性格が心から羨ましい。
 わかば文化会館に来るのは、もちろん初めてだった。若草市民会館より遙かに大きい。名を表す若葉色の塗装が建物一面に淡く広がっている。両開きの扉から中に入ると、やはりロビーも見渡すほどに広い。深緑色の絨毯が、どことなく上品で歩くのも心地良い。だがゆっくりと踏みしめている暇もなく、薫たちは演奏準備に取りかかる。
 順番はだいぶ後だったが、ここは県大会だ。地区大会よりも一層レベルの高い演奏を耳にすることができる。また、会場の雰囲気に早く慣れるためにも、深水中吹奏楽部はいち早く観客席の一部を陣取った。
 間もなくコンクールが始まった。照らされた舞台に、一番手の学校の生徒たちが現れる。どことなく大人っぽいと薫は感じた。男子の数が多い。女子も、背が高く綺麗な人ばかりに見える。都会の中学生は、生活そのものが違うから育ち方も早く、大人っぽく感じられるのだろうか、と薫は憶測してみる。演奏だってそうだ。誰も体を動かしていない。肩の位置や顔の表情にほとんど変化がない。演奏している姿だけを見れば、まるで軍隊のようだ。そして音は躍動的でありながら落ち着いてもいて、やっぱり大人びている。薫には、頑張って音を鳴らそうとするとつい体が動いてしまう癖があって、常々直そうとは思っていてもなかなか直らないのが最近の悩みだったが、そんな次元で悩んでいた自分が馬鹿らしくなるほどに、この、冷静かつ完璧な演奏には衝撃を受けるどころか辟易してしまう。しかもそんな演奏が立て続けに披露されるので、薫は拍手をする気力すらわき起こらなくなった。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」
 小休憩中、隣の部員にそう言いおいて薫は席を立ち、出入り口へ歩いた。とにかく一度、この会場から外へ出たかった。誰とも目を合わせないようにして進んでいると、
「ねえ」
 と声をかけられた。その方へ顔を向けると、見知らぬ中学生が二人いた。一人は女子で、もう一人は男子。どちらもどこかのモデルかと見まがうほどに背が高く、容姿も整っている。
「あなたってさ、深い方の深水中学校の子でしょ。トランペットの」
「……そうですけど」どうして自分の正体を知られているのか。薫は一抹の不安を覚える。
「あたし、矢落あいっていうの。清い方の清水中でペットやってるんだ。よろしく」熟練者はトランペットのことをペットと略す。
「は、はあ。どうも」
「そっちも名前教えてよ」
「海風薫といいます」
「つーか、なんで敬語? 同級生だよね」突然甲高い声で笑い出し、隣の男子生徒に何やら小声で話しかけている。それに対して薫が訝しげな視線を投げていると、
「あ、この人もトランペットなの。中上川大雅くん。かっこいいでしょ」とご丁寧に紹介してくれた。
「ども」中上川は軽く頭を下げる。動作のひとつひとつが、もはや大人より大人らしい。
 それにしても、清い方の清水中といえば、全国大会常連の学校だ。そんな学校の吹奏楽部員が、自分に一体何の用なのか。深い方の深水中がコンクールに出場するのは今回が二度目で、まだまだ知名度はないはずだ。薫は一刻も早くその場から離れたくなった。どうにも雲行きが怪しい。
「中上川くんはね、あたしのカレなの」
「カレ?」素っ頓狂な声を出してしまった。
「そ。二人で同じ楽器。いいでしょ。海風さんの他にさ、いるよね。二年生でトランペットの男の子」
「は、はい」
「あたしたちって、似てないかな」
「へっ?」緊張のあまり、さっきからまともな受け答えができない。
「ねえ、海風さん」
 矢落は不意に薫の耳元に口を近づけて、こう言った。
「男の子と、キスしたことある?」
 少し間を置いて、
「あたしはあるよ。カレと」
 薫は凍結したかのように動けなくなった。目じりのあたりを、感触の悪い汗が伝っていく。目線をどこへ向けていいのかも、分からなくなる。そんな様子の薫を、矢落と中上川は苦笑しながら見つめていたが、やがてその笑みを消す。
「海風さん、あのね。キスすると、もっと上手く吹けるようになるよ。楽器」
 言葉が出ない。一体何を言っているのだろうか、この人は。なんのつもりでこんなことを。頭の中を渦巻くのは、そんな疑問ばかりだった。
 矢落は薫の返答を待たなかった。
「ふふ、じゃあね。せいぜい頑張れば」
 二人は颯爽とその場を去った。時間にして三分も経っていなかったので、まだまだ休憩時間は終わらない。
 薫は自分の足が震えていることに気づくと、逃げるように会場を出た。トイレの個室の中で、必死に自分の気持ちを整理しようとした。しかし、胸の中に蔓延るごちゃごちゃとした気持ちの悪い感情は、いつまでたっても消えることはない。
 やられた。
 からかわれた。
 あんな、わたしにもでまかせだと分かるような嘘までつかれて。
 あんなのずるい。よりによってわたしにあんなことを言うなんて。しかも、あの二人はきっと軽い気持ちで言ったに決まっている。気に入らない新参者を排除するためか。そうだとすれば、彼女たちにとって深水中は脅威に値する存在なのか。それはそれで、喜ぶべきことなのかもしれないが、どちらにしても馬鹿にされたことに変わりはない。
 休憩終了のアナウンスが流れるまで、薫はトイレから出ることができずに一人でいた。
 その後、深水中は演奏を披露したが、結果は銀賞。一方清水中は金賞を獲得し、地方大会の代表に満場一致で選ばれた。
 ただ、今年の部員たちはそれほど落胆していなかった。自分たちの実力を分かってきているからだ。去年は荒れに荒れていた倉下も、「ま、こんなもんよね」といつもの調子で終わらせるほどに平静を保っていた。

 薫は、帰宅するなり部屋に閉じこもって泣いた。
 父の「おかえり」という言葉も、弟の「コンクールどうだった?」という無邪気な問いかけも、先に会場から帰っていた母の慰めも、すべて無視した。
 涙の具体的な理由は薫にも分からない。しかし、自分の演奏を思い出すと、とてつもなく嫌な感情が波のように押し寄せてきて、ベッドの上で何度も転がった。
 どうにもできなかった。