そうぞう

「みんなって、曲のコウサツとかしてんの」
 深水中吹奏楽部、ある日のコンクール組。地区大会を間近に控え、顧問沢城はもちろんのこと部員たちもピリピリとし始める時期だ。各自苦手な部分の洗い出しに余念がない部員たちに新たな一石を投じたのは、一番不安定になりやすそうなのに、意外と平静を装っている倉下鈴花だ。コウサツ。漢字によっては不穏極まりない言葉になる。
「課題曲でも自由曲でもさ、その曲でここはどういう情景が描かれているのか、ここはどんなことが表現されているのか。それを考えて吹かないと、薄っぺらな演奏になっちゃうよ」
 海風薫は、それを聞いて考えてみる。言われてみれば、作曲者がどのような人物なのかすら、よく知らない。楽譜の題名の下に小さく書いてはあるけれど、偉い人なんだろう、などと暢気に思うだけで、深く考えたことはない。ただ紙一面に並べられた音符を順番通りに楽器で鳴らすことだけで頭がいっぱいだ。そこで薫は気づいた。今まで自分がしていたのは練習という名の作業にすぎない。こんな旋律がある、綺麗だな。なんて感動している暇があったら、その次のフレーズのおさらいに取りかかってしまっている。
 演奏会に出かけたりすると、自分はただ聞くだけになるから、演奏を素直に楽しむ。以前まではそうだった。ところがひとたび音楽を演奏する側に立つと、途端に楽しめなくなってくる。この前、薫はテレビで吹奏楽を鑑賞していたが、曲自体は二の次で、精悍な顔つきの男性トランペット奏者の音に終始惑わされていた。なんでこんなにタンギングが上手なんだろう。今のミュートの音、よく通っているな。一体、どれだけ練習すればこの人に近づけるんだろう。そんなことばかり気になって、放送が終わる頃には、テレビの中の演奏者と自分の技術とのあまりの落差に、すっかり落ち込んでしまっていた。
 薫は、演奏がどれだけ上手にできるかどうか、そのことだけに傾倒し、あまりに傾きすぎて倒れそうになっている。薫はそんな状態から一刻も早く脱却したいと思っていた。そんな時に倉下から聞いた、曲の考察という言葉。これは確実にヒントになる。薫は直感した。
 つまり考察とは、その曲の背景を知るということらしい。どういった経緯で作曲されたのかを理解しているのとそうでないのとでは、確かに演奏に違いが出てくるかもしれない。倉下の突然の提案に、他の部員たちが黙りこくってしまう中、薫は一人でこっそり興奮していた。これでまた一歩前に進めるかもしれない。

 早足で帰宅した薫は、宿題もそこそこにパソコンの電源を入れた。鞄から取り出したのは、課題曲と自由曲の音源が入ったCD。検索サイトを開き、まずは曲名で調べてみることにする。
「……うーん?」
 結果を目の当たりにすると、薫は首を傾げる。曲の解説が記述されたウェブサイトは、見つかることには見つかった。画面を直接見続けるのは目が悪くなりそうなので、とりあえず印刷する。海風家のプリンタは年賀状を作る時以外はめったに起動させないのでインクの調子がすこぶる悪く、サイト一ページ分を紙に起こすだけで何枚もの紙を浪費した。で、ようやく解説文を手に入れると、CDを聴きながら自室で解析に入る。
 数分後、解析は断念された。薫はベッドに寝転ぶ。
 さっぱり分からない。
 ウェブサイトは一番難しくなさそうなところを選んだのに、中学生向けに書いていないからなのか、一行目から何が書いてあるのか理解できないので、やる気も出ない。いきなりこの曲が発表された年にはあんなことやこんなことがあって、その時の人々は……。といった導入部が立ちはだかり、それを読み飛ばして本命の曲分析に目をやっても、知らない専門用語が羅列されていて、これまた気力が削がれる。ひとつひとつ丁寧に事典で調べればなんとかなるかもしれないが、そこまでする意味があるのかという悪魔の囁きが聞こえだして、結局そのまま布団にくるまり夕飯時まで眠ってしまった。イヤホンが左右の耳に入ったまま、音楽も鳴りっぱなしだった。
「薫、パソコン使ったらちゃんと電源消しておいてよ」
 母の栞に注意されながら食事をとる。薫は先の件でかなり機嫌を損ねていた。思い通りにならないと薫は怒る。怒ると黙る。親に向かって暴言を吐いたり、暴れたりするようなことはない。何も喋らなくなるだけなので、父母はとりわけ、扱いに困らない。放っておけば何事もなかったかのように機嫌を戻す。むしろ海風家は、弟の真のわがままに頭を悩ませることが圧倒的に多い。
「真もお姉ちゃんみたいにしっかりしなさい」
 なんて言葉が、海風家では日常茶飯事で飛び交っている。今日の食卓でも、その例に漏れないようだ。
「将来の夢とか、もう決めたの」栞が少々気の早いことを聞く。それには理由があり、今年小学四年生になる真には今度、二分の一成人式という学校行事が控えている。二分の一成人式とは、文字通り成人年齢の二分の一、すなわち十歳になったことを祝い、二十歳に向かって一歩ずつ進んでいこうという決意を固める式である。その中で将来の夢を発表するらしいので、そろそろ考え始めなければいけないのだが、当の真は大好物のハンバーグを頬張りながら、
「さあ」と気のない答え。栞はやれやれ、と呟いてそれで終わりかと思い洗い物に戻りかけたが、急に真が思い出したように声を上げて、
「そういえば、友達は小説家になりたいとか言ってたな」と報告。
「小説家ってお前、随分ませてるんだな」父の明が笑う。薫も、それはちょっと壮大すぎる夢なんじゃないか、と密かに思った。
「でもすごく稼げるって」
「そりゃ面白い小説を書ければね」
「二つのそうぞう力がいるとよく言うな。像を想う力と書いて想像力、つくるという字を二つ並べて創造力。まあその友達にはともかく、真には向かないだろうよ」
「なんでだよ」少々不満げだ。
「締め切り間近になるとね、ホテルの部屋に一人で籠もって仕事しなきゃいけなくなる時があるんだって。終わるまでずうっと」栞が子供の夢を壊すようなことを言う。
「うげえ。そうなんだ」真は早くも興味を喪失したらしい。「ごちそうさま」と言ってテレビの方へ行ってしまう。そんな自由奔放な弟を見て、薫は箸を持ったまましばらく思考停止していたが、やがてあることを思いついた。
 残りのご飯を無理のない程度の早さでかきこんでしまうと、足早に自室へと戻る。机の上に置かれたCDプレーヤーを再生する。聞き慣れたコンクール演奏曲が流れ出す。
 薫は自分の勘に賭けてみることにした。

 次の日の音楽室。
 全体練習をしにやって来た沢城に、倉下が曲の考察について意見を述べた。いつもなら部員を代表して部長の古高葉子が上申するところだが、
「自分で言いたい」
 という倉下本人の強い希望により、吹奏楽部創設以来、最大に部員たちの関心を引く対話が実現した。
「……ということを考えています。沢城先生は、そのことに関しては何も言っていませんが、やっぱりしたほうがいいですよね」
 指揮台の奥にある椅子に座る沢城は、倉下が話し終わるまで黙っていた。その視線は倉下ではないどこかへ向かってのびており、能面のように無表情を保っている。倉下は沢城の返答を辛抱強く待っていたが、いくら待っても何も返ってこないので、もう一度呼びかけようとした。そこでようやく、
「いいえ」
 沢城が言った。
「しなくてもいいです。そんなことは」
「なんでですか」倉下がすかさず聞く。薫は倉下の表情を盗み見たが、どうも今まで滲み出ていた敵対心が薄れているような気がした。
「あなたたちのような中学生に、この歴史ある吹奏楽曲の背景を説明したところで、理解できるとは思えません。断っておきますが、あなたたちを馬鹿にして言っているわけじゃない。でも、たとえ作曲者の気持ちを理解しなくても、コンクールで勝ち進んでいくことはできます。なぜならあなたたちは、中学生だから。もちろん、私が言う通りに吹けば、の話ですが」
「そもそも」倉下は食い下がるが、語調が強まる気配はない。「そもそも、吹奏楽を勝ち負けで考えるのって、どうかと思うんですけど。この学校は強いとか、弱いとか、そういう基準で演奏を聴くのって、よくよく考えればおかしいです」
「私が普段強いとか弱いとか言うのは、その学校の演奏の巧さに対してではありません」
「じゃあ」倉下はそう聞きかけたが、ふと、はっとしたような表情になり、
「……いえ。分かりました。すみません、もういいです」と引き下がった。
 激しい言い合いになることを心のどこかで期待していた一部の部員たちは、二人の対話が終わると、自分がそれにずっと注目していたことに気がついて、それぞれ譜面に向き直る。沢城も済ました顔をして全体練習の合図を出した。
 薫は確信していた。きっと倉下さんも、自分と同じことに気づいたのだろうと。
 吹奏楽曲の背景を完璧に理解して演奏する。それは中学生の薫には、はなから無理な話なのかもしれない。曲に込められた真意など、作曲者自身にでも直接聞かない限り、本当の意味では分かり得ない。では、そんな薫たち中学生は、どのようなことを考えて演奏に望めばいいのか。
 薫は曲を聴いて、部屋で一人想像した。
 この導入部では、たとえばある人が、こんなところを歩いていて。
 しばらく歩いていると、そうだ、こんなことが起こったのかもしれない。それを受けてこの人はどう思うんだろう。これからどうするんだろう。最後はどうなるんだろう……。
 そんな想像を膨らませて、世界を創造した。
 まさしく明の言う、二つのそうぞう力が試された。薫はなんだか、自分が小説家になった気分だった。
 作曲した人は、聞く人に対して、何もその曲に絶対的な正解を求めてはいない、と薫は思う。自分で勝手に物語を作ってしまえばいい。それがどんなものであれ、その曲に対して真摯に向き合っていることに変わりはない。と、思う。
 自分なりにそうぞうする。それで演奏の質が格段に良くなるかどうかは、薫にも分からない。誰にも相談せずに決めたことだから、正しいのかとても不安だ。これ以外にも、今まで自分でいろいろなことを判断してきたが、そのすべてが正しいとも限らないし、ひょっとしたら全部が全部間違っている可能性だってある。
 それでも、薫は人に聞こうとはしなかった。単に否定されるのが怖かったからでもある。しかし、本質は違う。
「では、頭からいきます」
「はい」
 自分の考え方がどこまで通用するのかを、試してみたいからだった。