もうひとつの居場所

 海風薫は、吹奏楽部員である前に、深水中学校に通う女子中学生だ。普段、朝練を終えると教室へ入り、普通に授業を受けている。薫のクラスには薫の親しい吹奏楽部員はいないので、部内ではトランペット奏者として活躍はしていても、ひとたび音楽室を離れれば、ただの暗くおとなしい女子生徒の一人でしかなくなる。クラスメイトたちは部活動の話をよくしているが、薫は教室でまで吹奏楽のことを考えようとはとてもじゃないが思えない。野球部やバスケットボール部など、一般的になじみの深い運動部などに比べて、現在でこそ知名度を獲得してきてはいるが、吹奏楽というジャンルにはまだあまり知られていない部分も多く、それによってどういうことが起こるのかというと、教室で質問責めにされてしまうのである。
「薫ちゃんの楽器ってトランペットだよね」
「そ、そうだよ」
「あの妙に細長いやつはなんていうの? なんていうか、丸太っぽいのに金属がちょこちょこついてる」
「たぶん、ファゴットのことかな」
「バリトンっていうのはサックスのこと?」
「あ、それ単体だと、ユーフォニアムのことになるかも」
「それってチューバとはどう違うの?」
「えっと、大きさが」
「っていうか吹奏楽ってバイオリンとかないの? テレビだといっぱいいるじゃん」
「それはオーケストラだと思う……。あ、でも曲によってはコントラバスのパートがあったりとか、するよ、うん」
 こんなやり取りが幾度か繰り返される。普段話し慣れていない薫はなんとか自分の言葉で説明するが、いかんせん口下手はそう簡単には直せない。初めは物珍しそうに寄ってくる者たちも、いつしか別の部員に流れていく。薫は、話しかけてもらうことは嬉しかったが、振られる話題の内容はほとんど吹奏楽に関することだから、正直うんざりしてしまった。薫はそれをなんとなく表情に出してしまったりするものだから、結局話がそこからもう一段階進むことがなかったのだ。
「ねえ、昨日のテレビ見た?」
「え、見てない、かも」
「えー。面白かったのになあ。クイズ番組だったんだけどさ、特にあの芸人さんがねー」
 一方、薫に対して毎日何気ない話題を振っては一人で延々と喋り続ける女子生徒がいた。生徒会役員、月丘めぐみである。二年生になって薫と同じクラスになった途端、やたらと薫と行動を共にするようになったのだ。もちろん、薫がめぐみに頼んだわけではない。完全にめぐみの好意によるものだった。彼女は一年生の頃から深水中吹奏楽部の、特に薫のファンであるという。ところがめぐみの話には吹奏楽の話が出てこない。薫はそれが不思議だったので、それとなく理由を聞いてみた。
「私はさ、自慢じゃないけどそういうの、ちょっと理解ある」
「どうして?」
「ああいう、閉鎖的で何やってんのかもよく分かんないような環境に籍置いてると、うんざりするくらいよく聞かれるの。生徒会ってどういう感じ? とか、具体的にどんなことやってんの? 何か食べさせてもらえるの? とか、とか。もー、やんなっちゃう。だから私も他人にそういう込み入ったことは聞かないことにしてるんだ」
「なるほど」分かる気もするし、分からないような気もするが、そうとしか返せなかった。
「ま、好き勝手やってきたおかげで、今では誰からも一歩引かれるみたいな、そんな感じの立ち位置になっちゃってて。でもこの方が楽かも。私に合ってると思うし、生徒会としてもいろいろと立ち回りやすいから」
 さすが学校行事の中核を担う人だけあって、ものの考え方が普通とは少し違うのだな、と薫は感心したし、その独特の意見にもどちらかといえば賛成だった。教師と生徒の関係とはまた異なってくるけれど、ここでも大事になってくるのはやはり、相手との距離感なのだ。
「おはよ、海ちゃん」
「海ちゃん、数学の宿題やった? 問二の方程式の答えって絶対三だよね」
「ねー海ちゃん。今度家に遊びに来ない? もちろん、都合とかはそっちに合わせるし」
 しかし薫はめぐみと友達として上手に付き合えないでいた。より正確に表すなら、めぐみのあまりの快活さに圧倒されて、彼女と自分などが一緒にいてもいいのか分からずにいた。めぐみは薫のことを「海ちゃん」と呼ぶが、薫はめぐみのことを「月丘さん」としか呼べない。まだ遠慮してしまう。めぐみはそのことに対して何も言わない。それどころか何事にも黙って薫のペースに合わせてくれる。移動教室の時も、給食を食べる時も、体育でペアを組む時も。部活動以後を除き、薫が学校にいる時は、常にそばにめぐみがいた。成績優秀、運動神経抜群、そして容姿端麗の月丘めぐみが、どうしてよりによって友達に自分を選ぶのか。薫の疑念は、ひとつ消えてもまたすぐに新しく復活した。
 でも、これ以上ないほどに嬉しく、また心強いのは確かだった。これまでの中学校生活で、仲が良いと言える生徒と言えば、吹奏楽部でも雨内泉希と、日立京悟くらいだ。そのことをめぐみに告白すると、
「えっ、男子と話せるんだ」と驚かれる。
「同じトランペットだから、自然と話すようになって」
「へー。私はまだまだ苦しい。まだ思春期の途中だから。異性拒絶病、絶賛発症中」
「絶対嘘でしょ、それ」薫は頑張って笑おうとしたが、やはり苦笑いにしかならない。人前で自然に笑うのは、薫にとって非常に難しい。
 ところで京悟といえば、吹奏楽部がコンクール組と居残り組に分けられてからあまり会っていない。話す必要がなくなったからではあるけれど、薫はふと、京悟と会話をしていないことをはっきりと思い出すことがある。この間、二クラス合同で水泳の授業があった時、プールの中で泳いでいたら偶然、ばったり鉢合わせしたことがあったのだが、京悟は黒のゴーグルを強引に外して薫の顔を見るなり、何も言わずにその場から離れた。それ以来、薫は京悟のことを意識して探すようになった。ただし、あくまで理由はない。そこに明確な意思等は何もないのだ。と、薫は控えめながらも断固としてそう主張する。
「それはきっと、あれだね。下に心のつく」
 どうやら薫の主張は、めぐみには信じてもらえないらしい。
 薫はその時、否定はしなかったが、京悟に対してそういった感情を抱いたことがまだない。というか、今自分が抱いている感情がどのような範疇に分類されるのかよく分からない。そして、それを追求しようとも特に思わない。
 薫の知らない間に、二人はなんだかとっても小難しい間柄になっていた。その難しさといったら、薫自身が思うに、たぶんきっとめぐみが少し考えれば分かってしまう程度のものだ。
 なんか、ほっといても元に戻りそうだね、などと言われかねないだろう。
「私たちはただの友達でいいよね」
「うん。月丘さんがそれで構わないなら」
「あははっ、超謙虚。海ちゃんって、時々変なこと言うよね」
「えっ、今の、どこがおかしかったの」
 一方薫とめぐみの関係は、至って単純明快だ。互いに、もうひとつの居場所を求める者同士。
 そして二人は、その明快さが時折、それこそ苦しくなることもあるようだった。