忍耐の時

 日立京悟の練習態度は、居残り組に振り分けられてからより一段と良くなった。自分の実力を自分で分かっていないままでいたという驕りの心を蹴散らすかのように、小会議室には力強いトランペットの音が響いた。居残り組の大半である一年生たちは、そんな京悟を見て、自分たちも頑張らなければ、という気持ちになり、慣れない楽器を見様見真似で鳴らしていた。栗垣も顔を出すようになり、居残り組の活動は徐々にだが基盤を形作っていった。
「なんでよっ。なんであたしがこんなところにいるの」
 その中で、オーボエの久良谷蛍はいつまでも愚痴を垂れ流し続けた。京悟には、クラリネットを吹く倉下鈴花の傍にいて、ご機嫌取りばかりしていたという印象しかなかった。肝心の楽器の腕前は、こんなところにいるということは、少なくとも倉下には及ばないのだろう。
 そして京悟も、海風薫には負ける。
「あんたはなんとも思わないわけ」
 ある日、久良谷はとうとう京悟にまで突っかかってくるようになった。京悟は久良谷とはあまり話したことがなかったので、これには驚いた。
「沢城に馬鹿にされてさ。悔しくないの」
「別に馬鹿にされたわけじゃないだろ」
「じゃあ何? 二年生のほとんどがコンクールに出られて、どうしてあたしたちだけ仲間外れにされなきゃいけないの? あたしたちって、そんなに下手くそ? 一年生にだってコンクールメンバーに選ばれた子だっているのに。ていうかそもそも、選抜の仕方からしておかしいよ。普通はオーディションとかして決めるし。校内演奏だって、全員でやるべきなのに」
「そこは俺も、分かんないけど」
「でしょ。どう考えてもあいつがあたしたちのこと嫌いなだけだよ。個人的な感情で生徒の人生台無しにするとか、マジふざけてる」
「決めつけるなよ。あの先生のすることだし、何か理由があるんだ」
「どうだか。あんな先生、一生全国大会なんて行けないよ。いや、本当は行こうとも思ってないかもね」
 物言いがどんどん大げさになっている。京悟にも思うところはあるが、だからといって久良谷に同調する気はなかった。
「おっ、二年二人が反逆会議か」
 京悟が久良谷を諭そうとしているところへ、栗垣が割り込んできた。さっきまでは気配すらもなかったのに、いつの間にやって来たのか、突然の出現に京悟は無意識のうちに体を反らす。久良谷は露骨に嫌そうな顔をする。
「栗垣先生までそういうこと言うんですね」一応敬語だ。
「いやいや。俺はむしろ尊敬しているよ」
「尊敬?」京悟も警戒気味の受け答えをする。
「そう。だって誰も逃げようとしないじゃん。俺は沢城先生にその場にいるだけでいいからって言われてこの副顧問引き受けたけど、みんなして嫌みでなく本当にすごいと思うわ。そもそも逃避っていう選択肢がないのかね。俺ならこんな狭苦しいところに閉じこめられてないで、とっとと帰宅部に転入するけどね」
 栗垣はそう語りながら窓際に向かい、煙草を吹かす。京悟は彼に対して少しだけ疑いの気持ちがあった。もしかしてこの男は、沢城が自分たちに差し向けた人間なのではないか、と。要するに、沢城は自分たちになんらかの問題があると睨み、それを探るために居残り組として隔離し、そこへ栗垣を投入することで直接には聞き出せないようなことを間接的に聞き出そうとしている。それが沢城の企みなのではないかと思っていた。
 なぜなら、自分に心当たりがあるからだ。
 自分の心の迷いが、音に出ていたから? 自分の中に残っている思いを、日々の言動から見破られてしまったから?
「まー、俺が言えるのはひとつぐらいだな」
「なんですか」久良谷は腰に手を当てている。
「お前らに逃げる気がないっていうなら、の話だが。今は忍耐の時だ、ってこと。我慢じゃないぞ。我慢は何も生まないが、忍耐はそいつにとって必ずいい結果を生む。だから耐え忍べ。ド素人の俺が聞いても分かるよ。お前ら結構上手いと思う。焦らずじっくりやれば、いつかはコンクール組も見返せるようになるんじゃないか? 久良谷、お前だって倉下より上手くなりたいって本心では思ってんだろ」
「え……」久良谷は無造作に手を腰から離した。
「見え見えなんだよ。お前ら中坊の考えることなんてな」
「あたしは女子なんですけど」それでもやはり、言い返すことはやめない久良谷。
 けれども京悟には、栗垣の言葉に嘘が含まれているかどうか判断できない。そういえば、人を疑ったりすることはあまりなかった。
「日立。お前も男なんだからよ、女子に負けてる場合じゃないぜ。美術の世界でもそうだけど、歴史に名を残すような音楽家っていうのはほとんど男だろ。女ばかりだからって男は使えないわけじゃないんだよ」
「はい」
「それにお前、野球やってたんだろ」
 さらっととんでもないことを言う。京悟は手に持ったトランペットを落としそうになった。
「どうしてそれを」
「俺、少年野球観戦してたもん。お前あれだろ、今この学校にいる荒川翔とバッテリー組んでた捕手の日立京悟」
 過去を暴かれて、京悟は動揺してしまう。そんな京悟などお構いなしに、久良谷が意外そうな表情で問いかける。
「へえ、そうなんだ。言われてみれば、確かにそんな感じする。でもなんでやめちゃったの、野球。翔くんっていったら今、うちの学校の野球部で大活躍してる人じゃん」
 京悟は何も答えられない。そこへ、栗垣が鋭く切り込んだ。
「黙秘か。ま、深くは聞かないでおいてやろう。そこら辺にお前がコンクールからハブられた原因が潜んでそうだな。おい久良谷、このことは他言無用だぞ」
 渋々頷く久良谷。京悟もその日は何も語ることはなく、トランペットを吹いてもまともな音が出なかった。
 副顧問栗垣にはっきりと問題を示されたことで、京悟は栗垣が沢城の手先なのかということなどもはやどうでもよくなった。自分が居残り組に数えられてしまった理由は、やはり野球に、荒川翔にある。ならば解決する他ない。もし問題がいつまでも尾を引いたとして、沢城が万が一にもお情けでコンクールメンバーに京悟を招き入れてくれたとしても、京悟自身がこの問題にけりをつけなければ、コンクールに出場することが実現したとしてもそれでは意味がなくなる。どうしても避けられない。
 だが京悟には、どうすればいいのか皆目見当がつかない。