あの先生の機嫌が良い日などあるのだろうか。
五月初頭、夏の息吹が感じられはじめる頃。コンクール出場組として選ばれた海風薫は、それまでとは一線を画する練習の厳しさに、いよいよ参ってしまっていた。
以前より、沢城が生徒に対して厳しい教師であることは薫もよく知っていた。が、それでもまだ許容できる厳しさだった。薫は、授業中にふと雑談を始めてしまうような教師よりは、必要なこと以外は話さず、機械的に授業を進めるような教師の方がやりやすかった。もっと言えば、生徒とは友達感覚で触れ合っています、といったようなことを公言するような教師は、苦手だった。教師にとっても生徒にとっても、相手とどう距離を取るかということは、学校生活を送る上で一番になりうるほどに難しい問題だ。薫が思うに、どれだけ議論を重ねたとしても、正解が出ることはない。けれどその辺り、沢城先生はある意味では本当に上手くやっているなあ、と薫は事あるごとに感心する。生徒から陰で批判的な意見を言われることは多いものの、必要以上に生徒に干渉しない彼女のやり方は、形式的であるが故に、お互いにとても楽だと思う。薫は友人があまりいないことに劣等感を抱くことがままあるが、一番嫌なのは、その事実を先生に指摘されることだ。
お前、友達作れよ。なんなら、先生が友達になってやろうか。
そんな言葉をかけられた日には、薫は思い悩んでしまうだろう。だから、生徒の私的な領域に決して入ってくることのない沢城を、薫はだんだんと信頼できるようになっていったのだ。厳しいとはいえ、沢城は何も滅茶苦茶なことを言い散らかしているわけではない。言われたことを言われた通りにこなせば、ちゃんと評価してくれる。そして余計なことには口出ししてこない。別に坂口昴のような熱血タイプを全否定するわけではない。それが先生のやり方なら、それでいいと思う。でも、やっぱり薫は、どちらがいいかと言われたら、沢城の方を選ぶだろう。
しかし今は話が違う。
コンクール組選抜が行われたあの日から、沢城は指導の際に怒鳴るようになったのだ。ちょっとでもピッチがずれると指揮棒を生徒に向け、昨日指摘されたところが改善できていないと、最悪の場合沢城は自分の譜面台を蹴り飛ばす。下の階にまで響きかねない音が鳴り響き、部員たちの心臓を大きく振動させる。そしてそのまま音楽室を出ていってしまう。残された部員たちは、泣く泣く譜面台を元に戻して、自分たちで全体練習を続ける。部活終了時刻になると、部長古高を先頭に、職員室まで全員で謝りに行く。恐ろしいのは、こんなことが一回きりでなく多発することだ。沢城の癇癪には、コンクール組の多くが悩まされた。去年の指揮が優しく思えてくるほどに。
薫は、沢城の豹変ぶりにもはや怯えていた。
雨が降っている。
台風が若草市近辺に接近しているらしい。だが生徒たちの悲痛な願いも空しく、その日暴風警報が発令されることはなかった。薫は鉛のように重い体を動かして、学校までの坂道を歩いた。いつもより長く、苦しい。そして寒い。だが、校舎に入る方がもっと嫌だ。授業が終われば、また音楽室に向かわなければならなくなる。逃げても解決にはならない。ますます学校に行きにくくなるだけ。まさに生き地獄だった。
「みんな、急いで!」
放課後の音楽室、古高葉子が呼びかけている。部員たちは途端にその行動を早める。古高による「急いで」とは、部員たちにとって警戒警報を意味する。沢城の機嫌が、いつになく悪いことを示唆しているのだ。各自、台風のように素早く椅子や譜面台、楽器を準備する。薫もトランペットにマウスピースを差し込み、音出しを始めようとした。譜面台に楽譜をセットする。
ファイルをめくった瞬間、凍りついた。
昨日出された宿題を、部室に置き忘れていたことに気づいたのだ。その宿題とは、コンクールの課題曲の譜読み。実際に演奏する前にあらかじめ最初から最後まで目を通して、分からない記号などを確認しておく大切な作業だ。今日、一回目の合わせ練習が行われる。楽譜はA四サイズで二枚分あり、とても今から一通り読み込める量ではない。自由曲に力を入れ過ぎたのが徒となった。薫は自分を責めた。なんでこんな馬鹿なことを。どうして、今日に限ってこんなことを。
こんな状態のまま練習に参加したら、確実に気づかれる。譜読みをしていないことに。
「先生来たよ」
誰かが密告した。皆、吸い込まれるようにそれぞれの席へ着く。間もなく、沢城が現れる。
「では昨日話したとおり、課題曲頭から」
薫は為す術もなく、泣きそうになりながら楽器を構える。薫には、自分の非を正直に申し出るほどの勇気がなかった。
同級生と下級生の目の前で怒鳴り散らされるという屈辱と、それは他でもない自分が引き起こしたのだという自己嫌悪とで、薫の心はぐちゃぐちゃになった。その日の沢城はいつになく音に対して神経質になっており、薫のままならない音の出し方に開始数分で大声を上げて、十数分もの間薫を責め続けた。
「練習が始まる前になんで言い出さなかったの」
「……から」
「はっきりしろっ」
「先生とみんなに悪いと、思ったからです」
「分からないまま参加する方が悪いだろうが」
「すみません」
「もういい」
指揮棒が勢いよく地面に叩きつけられる。
「もう知らん」
沢城は部屋を出ると、扉をぴしゃりと閉めた。室内の空気は、真冬のように冷えている。薫はずっと下を向いていた。前を見たくなかった。もし誰かがこちらをのぞき込んでいたとき、顔を見られるのが嫌だったからだ。
しかし、数分続いた沈黙が、誰かの楽器の音によって破られた。初めて聞く旋律だったので、おそらく課題曲の自主練習だろう。その後音は少しずつ増えていく。薫は悟った。ああ、わたしは助けてもらえないのか。そりゃそうだ、譜読みをしていなかった自分が悪いのだから。どうすればいいのだろう。一人で職員室に行けばいいのだろうか。行って、沢城に謝らなければいけないのだろうか。他の先生に物珍しそうな目線を向けられながら、たった一人で。
薫は声を出さずに泣いた。手に涙が落ちる。みっともないと思って、必死にこらえるのだけど、どうしても止まらない。そうやって涙と闘っているうちに、下校を促す放送がかかってしまった。
「ババアのヒステリーにも困ったもんよね」
倉下鈴花がおなじみの口調で言う。薫は、また独り言だろうと思って聞き流していたが、下がったままの目線の先に倉下の上履きが見えたので顔を上げると、目の前に倉下が立っている。
「あんたさあ、そうやって泣いてる暇あったら他にすることあるでしょ。明日までには譜読み完璧にしておくとかさ」
「うん、ごめん」なんとか絞り出したが、小さい上に涙声だ。
「日立がリストラされて、二年のトランペットあんただけなんだよ。もっとしっかりしてもらわないと困るんだけど。一年がどうしていいのか分かんなくなるじゃん」
薫は黙って何度も頷く。そうだ、自分は日立京悟の分まで頑張らなければいけない。そうでなければ、京悟に申し訳が立たない。
「ま、あんたならすぐに追いつけると思うけど。海風ってそこそこセンスあるし」
「そんなことないよ……。でも、ありがとう」
倉下の意外な発言には驚いたが、薫はとても嬉しかった。少し経ってから、薫は帰りの支度を始めた。今度は楽譜をしっかり鞄の中に入れた。
途中トイレに行ったので、薫が下駄箱に向かう頃には他の部員たちはすでにいなくなっていた。窓の外を見ながら廊下を歩く。雨と風、共に弱くなっている。折り畳み傘しか持っていないし、今のうちに走って帰ろう。そう思いながら角を曲がった。
ちょうど職員室から出てきた沢城と、鉢合わせになった。
「……あ……」
薫はあまりの恐怖に一歩退く。謝りに行くことをすっかり忘れていたのだ。いや、忘れていたというよりも、このまま帰って忘れたいと思っていた。こんなところで、薫の悪い部分が出てしまったのだ。
沢城は立ち止まったまま何も言わないし、その場から動こうともしない。薫は激しく脈打つ心臓部分を手で抑えながら、勇気を振り絞って、
「すみませんでした」
と言い放った。
「ちゃんとやります。明日の全体練習には、間に合わせます。だから、トランペットを、やらせてください」
乱れる呼吸をなんとか整えながらやっとの思いで言ったので、薫は自分で何を喋ったのかよく分かっていなかった。
沢城は腕を組んだまま薫を見下ろしていたが、やがてその腕をほどいた。
「海風さん」
「は、い」
「今から校舎を施錠に回りますから、早く下校しなさい。今日は私が当番なの」
「え、あ、はい」
薫は沢城と共に玄関まで歩いた。たった数十秒ばかりの時間であったにもかかわらず、薫には非常に長く感じられた。下駄箱前に着くと、薫は素早く靴を履き替えて、外に出た。雨はもう止んでいる。
「課題曲、覚えてくること。分かった?」
「はっ、はい!」餌に食いつく獣のように返事をする。
「じゃあ、気をつけて」
「さようなら」
「はい、さようなら」
扉は閉ざされた。薫はしばしの間ぼうっとしていた。怒られなかった。許してくれた。いや、これで明日できなかったら、今度こそこっぴどく叱られて、音楽室を閉め出されるだろう。無論、今日は睡眠時間を削ってでも楽譜を読み込むつもりだ。
薫はこの日、生まれて初めて教師に本気で怒られた。それで分かったことがある。
薫が今まで吹奏楽部で練習を頑張ってきたからこそ、沢城は今回の件を水に流したし、倉下鈴花も薫に慰めの言葉をかけた。
自分の中に蓄積された力は、それを外へ発揮する時以外でも使う場面がある。
頑張りは武器にもなるし、盾にもなる。そのことを薫は知った。でも薫は臆病だから、誰かの盾にはなれない。他人の心配なんて、おこがましくてできないと思っている。ではどうするか。
武器をさらに鍛え上げるまでだ。武器を盾として使うことができるようになるほどに。
それが薫の答えだった。