焦燥

 深水中吹奏楽部には、多くの見学者が訪れた。入学式の歓迎演奏が功を奏したこともあり、吹奏楽はステージに立ってみんなの前でパフォーマンスを披露する、とても華やかな部活動だというイメージを抱いた生徒たちがこぞって音楽室を訪れた。そうして一通りの見学を終え現実を思い知ると、無言でその場を去り、二度と来なくなった。一方で、毎日律儀に見学を続ける生徒もいた。部活終了後に部員と話す者もいて、吹奏楽部が新設されたと聞いて、やるなら今だ、自分の演奏でコンクールに出たい、といった強い意志を伝えられたのだという。その多くが女子生徒だったが、中には男子生徒の姿もあった。いつしか男子代表を名乗るようになった有賀つばさは、
「男なら肺活量があるし、ペットだよな」
 と日立京悟に提案していた。担当楽器を決めるのは沢城だが、京悟もその意見には賛成だった。トランペットが二人、というのは全体のバランスを考慮するとどうしても少ない。薫も京悟も頑張ってはいるのだが、個々の頑張りでは限界も出てくる。とにかく、来るなら来るだけ人がほしい。やる気の有無よりも、より音を出せるかどうか、京悟はそれを早く見たかった。知らず知らずのうちに、京悟は金管勢をまとめるパートリーダーに就任していたこともあり、木管をまとめる古高葉子とも話し合うことがあった。
「日立くんには副部長になってもらいたいくらいよ」
 滅多に人を褒めない古高にそんなことを言われると、さすがの京悟も得意になって日々のパート練習にもより気張って参加するのだった。
 明くる日。見学期間が終わり、入部希望者が音楽室に押し掛けた。皆が予想していたよりも数が多く、古高がざっと数えただけでも三十人は越えていた。部員たちは手放しで喜んだ。京悟も素直にその事実を好意的に受け止めたが、創設一年足らずでこの人気を集める吹奏楽部に自分が在籍していることが、なんだか夢のように思えてきた。
 入部希望者の群れをかき分けるようにして、沢城も栗垣を連れて部室にやって来た。
「今日から私は、新入部員の教育に回るため、少しの間だけ副顧問の栗垣先生にあなたたちを見てもらうことになります。でも栗垣先生は吹奏楽のことを知りません。単なる監督として、この場にいてもらうだけです。最低限のことは私が教えておきます。全体練習の指揮などは部長である古高さんに一任することにします」
 栗垣がゆるゆると頭を下げる。彼の黒髪には、よく見ると茶色の毛が混じっていた。私服もぎりぎり教師らしく見える程度で、一歩間違えればその辺の不良にしか思えない。京悟は、どうして沢城は栗垣を副顧問にしたのだろうと、そこで改めて疑問に思った。栗垣は美術部の顧問も兼ねているらしいし、別に栗垣でなくとも、他にいくらでも候補はいたはずだ。何か、栗垣でなければならない理由でもあるのだろうか。
 京悟は少しだけ、嫌な予感がした。

 新入部員は沢城により精神を鍛えられ、希望を抱いていた者たちは徐々にその目から光を失くしていった。弱音を吐く新参者たちを横目に、二年生たちは苦笑いを浮かべる。
「あたしたちにもあんな頃があったなあ」
「歴史は繰り返されるんだよ」
「初めが踏ん張り時だね」
 そんなすべてを達観したかのような台詞が一時部員たちの間で流行するほどだった。ちなみにそれに対する女王こと倉下鈴花の見解は、
「バッカみたい」
 である。
 彼女の攻撃的な発言はともすれば敵を作りやすいが、芯は通っており、クラリネットの腕も確かなため、反発心を持った部員がいたとしても言い返すに言い返せないようだった。パート内でも的確な改善点を示すため、今では古高の信頼も厚いらしい。
 だが、沢城に対する敵意は未だに持っているようで、この日も指揮台に立つ沢城を即座に睨みつけていた。
「先日、新入部員の楽器の適性テストを行いました。結果をもとにそれぞれのパートに振り分けたので、今から発表します。みんなは先輩に当たるわけですから、早く後輩の名前を覚えてあげて、あとは各自教育に励んでください」
 新一年生の配属先が決まったことで、今日から沢城が全体練習に復帰するという。部員たちは後輩ができる喜びと、また沢城の容赦ない指導が再開するという絶望とで板挟みにされた。栗垣といえば、なんと音楽室にはほとんど顔を出すことはなかった。京悟は、美術部が忙しいのだろうかと勘ぐって、クラスの美術部員に聞いてみたのだが、「全然来ない」との解答を得ていた。つまりどちらの部にも出てきていないわけだ。京悟は一層不安にかられた。そうやって心配しているうちに、トランペット希望者の名が呼ばれた。計四名で、そのうち一名が男子生徒だった。名を秋郷信男といい、本年度新入部員で唯一の男子だ。中肉中背で眼鏡をかけており、噂では小学校時代、成績万年トップクラスの座に輝いていた秀才らしい。
「よろしくお願いします、日立先輩」
 生まれて初めて先輩と呼ばれ、頭まで下げられて、京悟は終始恐縮するばかりだった。
 その日から早速、先輩たちによる後輩指導が始まった。もう一人のトランペット二年生、海風薫と協力して、まずは吹奏楽の基礎を教えていく。それらはすべて、去年の今頃二人が必死になって勉強していた事柄ばかりだった。それでも二人は新人教育など当然未経験だったため、自分の伝えたいことを伝えるのにとても苦労した。些細な言葉の違いで伝達される意味合いが大きく異なっていく様は、まさしく楽器のチューニングによく似ている。
 そんなこんなで、二年生たちは一年生相手に奮闘し続け、皆ある程度の基礎的な知識と技術を身につけた頃。
 京悟の運命を大きく変える出来事が起きた。
「先日、コンクール関係者と打ち合わせをしてきました」
 四月下旬、沢城が全体練習に入る前、コンクールの話題を提示してきた。
「自由曲は昨年と同じもので勝負します。本年度はA編成で出場することになるわけですが、課題曲の練習に取りかかる前に、あることをしなければなりません。何か、分かりますか?」
 人口密度の高く賑やかだった部室内が一転し、不穏な雰囲気に包まれる。京悟も、それまですっかり忘れていた、理由なき嫌な予感が、胸の奥底にじわじわと復活するのを感じた。
「分かりません。教えてください」古高が聞く。彼女は部長として、教師沢城に答申する役割も担っていた。
「コンクールに出場する部員の選抜です」
 室内がどよめく。
 選抜。京悟もかつて耳にしたことのある言葉。野球チームは九人だから、必然的にメンバーをより抜かなければいけなくなるが、吹奏楽の世界でもこのようなことをするとは、京悟も、そして他の部員たちも全く知らなかった。
「せ、先生」古高がいつになく強気だ。「現在の総部員数はコンクールA編成の最大出場人数にも届いていません。サウンドの厚みを考えるなら、全員で出場するべきだし、別に選抜などする必要はないと思います」
「いいえ、私は人数を減らすべきだと考えます」
「なぜですか」
「そうですね、コンクールの人員を減らす、というよりも、コンクールだけに集中して取り組む人たちと、激励会や野球部応援といった、その他の演奏に取り組む人たちとで、全体を分けるべきだと言った方が分かりやすいかもしれません」
「じゃあまさか、副顧問って」有賀つばさが沢城の思惑に気づいた。
「はい。コンクール組の指導は私沢城が行い、居残り組の面倒を見るのは栗垣先生にお願いするつもりでいます」
 隣に突っ立っている栗垣が「どうも」と言って頭を掻く。京悟にはまるで沢城が、居残るような連中なんてこいつで十分だろう、と暗に言っているように思えた。
「深水中のみんなに失礼です」古高がとうとう反論に打って出た。「私たちの演奏を楽しみにしてくれている人だって、この学校にたくさんいます。でも先生のおっしゃっていることは、まるで学校内での演奏は居残り組で適当にやっておけばいいとでもいうような意味にしか」
「その通りです」沢城はしれっと答える。
「そんな……」
 古高はまだ何か言いたそうにしていたが、やがて沢城の鋭い眼差しに耐えられなくなったのか、ゆるゆると目線を下げた。沢城はそれを確認すると、正面に向き直る。
「というわけで、今から本年度のコンクールに出場する人の名前を全員読み上げます」
「ええっ」全員の声が重なる。
「ちなみに学年は関係ありません。これまでのみんなの頑張りを私が見聞きした上で、戦力になりうるだろうと判断した人を選んでいます。それではまず、木管から」
 運命の時は突如訪れるというが、それは部員たちにとってあまりに早すぎた。特に、京悟にとっては。
 淡々と読み上げられていったコンクール選抜メンバーの中に、日立京悟の名はなかったのだ。

「んじゃ、改めて。今日からお前らの面倒を見させてもらうことになった、栗垣です。まあ、沢城先生から聞いていると思うけど、俺、吹奏楽のこととかなんにも分かんないし、本当に文字通り面倒を見るだけになるから、あんまり期待しないでくれよ」
 埃臭い小会議室に通された京悟たち居残り組は、自分たちが今年コンクールに出ることができないという事実に怒ったり、残念がったりしていて、栗垣の自己紹介などほとんど聞いていなかった。居残り組は音楽準備室で楽器などを準備したら、コンクール組の邪魔にならないように、すぐにこの部屋に移動しなければならないという。部活動激励会や野球部の応援などといった行事演奏の練習が主な活動内容で、コンクール組と違って部活はいつから始めてもいいし、いつ終わってもいい。沢城も行事の本番では指揮をすると言っていた。ただし、不出来で恥をかくようなことになっても知らない、と言い添えて。
 全体練習の指揮は、まず京悟が行うことになるだろう。二年生は京悟の他にも数人いたが、どの部員も実力はあまりぱっとしない者ばかりで、皆自分が選抜されなかったことに対して、クラリネットの久良谷蛍以外はなんとも思っていなかった。久良谷は死んだようにうずくまるばかりで、その日は楽器を持とうともしなかった。京悟もできることならそうしたかった。自分が飛び抜けて上手だとは思わない。でも、居残るほどに下手ではないとは思っていた。沢城の判断によれば、それは愚かな過信だったというのだろうか。
 そして京悟を悩ませた一番の事実は、秋郷信男がコンクール組に選ばれたことだった。秋郷はトランペット未経験で、まだ始めて一か月も経っていない。これを素直に受け止めるなら、一年練習し続けた京悟は、初心者にも劣るということになってしまう。
 沢城は、本当にコンクールのことしか考えていない。そのことは京悟だって分かっていたし、理解もできる。二年生だから、という理由でコンクールメンバーを選抜するようなことも、沢城の性格からしてしないだろう。そうやってこの状況を客観的に見てば見ていくほどに、京悟は自分がこの場にいることが許せなくなってきた。
 こんなところで足踏みしていては、翔は――荒川翔は今度こそ京悟のことを見限るだろう。
 いや、すでにもう見限られているのかもしれないけれど。
 京悟は、コンクールに出たい。自分の席が、喉から手が出るほど欲しい。今からでも頑張りを見せれば拾い上げてくれるだろうか。どのみち、自分が選ばれなかった理由を見つけてそれを改善しない限り、コンクールに出場することは一生できないと思う。だったら、落ち込んでばかりもいられない。
 その瞬間から、京悟の焦燥が始まった。