新年度

 初のコンクール終了後、吹奏楽部員たちは次回に向けて基礎的な練習を続けた。途中体育大会や文化祭での演奏披露もあり、当初は無気力症に悩まされていた部員も、年を越すころにはかつての気力をすっかり取り戻していた。気づけば次のコンクールの概要もホームページ上に掲載され、「あと何か月」という誰かの呟きが部室で漏れることもあった。
 卒業式を終えた次の日から、入学式の歓迎演奏の練習も始まり、部員たちの頑張りにも拍車がかかる。この演奏で新入部員、つまり後輩がどれだけ入部してくれるかが決まってくるも同然だからだ。顧問の沢城も、普段の学校行事には特に意欲関心がなくても、人員確保に関わる式典の演奏ならば話は別で、練習では指揮棒をより強く振るのだった。
 結果、演奏は成功を収め、入学生たちは興奮を隠すことなく大きな拍手を送った。これでやるだけのことはした。コンクールのA編成に届く人数が入部してくれるかどうか、後は部室で祈るしかない。
 こうして、深水中学校吹奏楽初代部員たちは、二年生になった。

 海風薫は、人の群がるクラス編成の一覧表を眺めては、今年もまた名簿番号一番か、とため息をついた。新任の先生に対して、真っ先に自己紹介を披露するのはいつも薫だった。せめて新任の先生が変な人でないことを願うばかりだ。薫は新年度から祈ったり願ったりと何かにつけて神様頼りの気がした。
「海風さん!」
 教室に入り、いざ椅子に座ろうとしたその時、何者かが薫の名を呼んだ。吹奏楽部員にこんなに元気な声を出す人がいたかなと思いつつ振り返ると、なんと全く知らない人だった。運動部なのか体格のいい女子生徒で、ショートカットと大きな目から明るく元気な印象を受ける。その上この大きな声。言うまでもなく、薫の苦手なタイプだ。
「私のこと、知ってる?」
「えっと、ごめん、ちょっと」薫は白状した。
「月丘めぐみだよ。生徒会の。激励会で初めて演奏聴いたとき、本当にびっくりした。新設でこんなにすごい演奏ができるんだー、って。特にトランペットがとーっても素敵。控えめかつ大胆な感じで……って、わけわかんないよね、ごめん。私、海風さんのファンなの。一緒のクラスになれたらいいなって思ってたんだ。これからよろしくね」
 と、一気にまくし立てられて、薫はすっかり圧倒されてしまった。そういえば、と過去の記憶を掘り起こす。激励会を初めとした、各学校行事の司会進行を務めていた女子生徒だ。かわいくてスタイルが良く、男子だけでなく女子生徒からの人気もあると聞いたことがあった。そんな、薫にとって雲の上のような存在の月丘めぐみが一体何の用かと思えば、いきなりファンなの、と恥ずかしげもなく表明してきて、これからよろしく、と。
 薫はとりあえずこちらこそ、と曖昧に返しておいて、始業の時を待った。薫のクラスには、薫以外にも吹奏楽部員は数名いたが、薫はその全員ととりわけ仲が良い方ではない。何も言わなくても友達になってくれそうなのは、どうやらめぐみだけのようだ。薫は初め、どうしたものかと頭を抱えたが、誰も話しかけてくれなかった去年よりは遙かにマシだ、むしろ好況だと自分に言い聞かせた。
 ところが、その後の始業式においても、薫の心を大きく揺り動かす出来事があった。それは、新任教師紹介の時のことだ。今年は例年より人が少ないようで、早く終わりそうだったのだが、一人だけ大いに注目を集める者がいた。
「今年から配属になりましたー、栗垣創平です。まあ、頑張りますんで、よろしく」
 一応スーツ姿だが、よく見るとネクタイが曲がっていたり、シャツが少し出ていたりと、まるで直前に急いで整えたかのような身だしなみだ。そしてこの適当な挨拶に、生徒たちは大きくざわめいた。薫は最初、この先生が担任のクラスは面倒そうだな、と他人事だったが、
「なお栗垣先生には、美術部顧問と、吹奏楽部の副顧問を兼任していただきます」
 と教頭がぼそぼそと説明したのを聞いた時は、思わず栗垣を二度見してしまった。確かに、副顧問と呼ばれた。あの沢城の下で吹奏楽部を受け持つとは、なんとも気の毒だ。栗垣のことを考えると、嫌悪感より、同情の気持ちの方が増した薫だった。
 それでも吹奏楽部にとって一大事に変わりはない。その日の音楽室は、来るべき新入部員への期待に加えて、新しい顧問の到来による不安で溢れていた。
「海風さん、どういうことだと思いますか」雨内泉希も興味津々のようだ。
「どういうことって、単に人数が増えるから、その分沢城先生だけじゃ手が回らないっていうことじゃないの」
「それはないと思います。沢城先生は最初から大人数でのコンクールを想定してこの部を創設したみたいですし。となると」
「あの、考えてもしょうがないと思うよ。わたしたちは練習でもしておこう」
「……そうですね。先ほども側近に注意されてしまいましたし。真面目にやれと」
「そ、側近?」
「久良谷蛍さんのことですよ。ほら、オーボエを吹いていて、女王にいつもくっついて同調ばかりしている」
 そういえば、「さすが、鈴花」という言葉を耳にしたことはある。
「……で、女王っていうのは」大体の予想はついていたが一応聞く。
「倉下鈴花さんです。二人合わせて女王と側近」
「それは、二人の公認なの?」
「まさか。こんなこと面と向かって言ったら殺されますよ。私が勝手に呼称しているんです」
「…………」
 薫は近頃、雨内泉希のことがよく分からない。少なくとも知り合った当初の印象と今の印象とでは、だいぶ違うことは確かだ。
「あの、雨内さん。練習しようか」
「はい」
 雨内が席についたのを見届けると、薫はいつものようにトランペットを取った。最近手入れをしたばかりなので、かつての輝きをある程度取り戻している。そろそろ、新一年生の部活動見学の始まる時期だ。自分たち二年生が些細なことで浮き足立っている場合ではない。でも新年度早々過剰に張り切るというのも薫の性分からは外れる。あくまで普段通りに。そんな意味の音楽記号に従うつもりで。
 数分後、沢城がやって来たが、その後いくら経っても栗垣は現れなかった。そのことに沢城も触れることなく、練習は終わった。次の日も、また次の日も、栗垣は部室に来なかった。部員を代表して有賀つばさが沢城に訊ねたが、
「その時になったら、また話します」
 の一点張りだった。
 沢城は一体何を考えているのか、もしくは何を企んでいるのか。それを知る者は誰もいない。