夏祭り

「海風薫さんの家に電話すればいいの?」
「お願いします。非常時の連絡網を見ていただければ、電話番号は分かりますから」
「それはいいけど。あなたが電話した方が早いんじゃないかな。あなたと海風さん、仲悪くないみたいだし」
「悪くはないのですが、良くもないです。まだ私に心を開いてもらえなくて。ま、それはこの際置いておきます。部長である古高さんが海風さんにアクションをかける。この方法が一番成功する確率が高いのです」
「あの、あなた。一体何を企んでいるの?」
「企むだなんてとんでもない。私はただ、二人に元気を出してもらいたいだけですよ」
「そ、そう」

 それは、盆休み最終日のことだった。

 海風薫は、コンクールを終えた次の日からも、形だけは練習に参加していた。ただし、その練習姿勢に心はなかった。普段なら見落とさないような音楽記号をいくつも見落とし、コンクール前にせっかく万全にしたピッチも、以前のいい加減なものに戻ってしまった。当然沢城に指摘されて直すのだが、反省しよう、次からは気をつけようという気持ちがどうにもわき起こらない。そしてそれは他の部員も同じだった。銀賞と告げられたその日は、もう吹奏楽部なんてやめてしまおうかと多くの部員が思ったが、一晩寝ると、結局は暑さの中、坂を登って学校に向かっている。皆それぞれがそれぞれに対しもう来なくなるだろうなと思っていたものの、欠席者はいなかった。沢城は部員が揃っていることに対し、一言も言及せず、普通に来て普通に練習を始める。誰も何も言い出さず、夏は過ぎていった。そうして盆休みに入り、ようやく深水中から楽器の音が消えた。部員たちは疲れた体と心を十分に休めた。
 薫は、ただひたすら家の中でごろごろするばかりだった。毎日のように学校のプールに出かける真を送り、居間で一人テレビを見たり本を読んだりするだけの日々。それでも頭の中は、吹奏楽のことでいっぱいだった。吹奏楽コンクールの公式ホームページを覗いては一喜一憂し、もしあそこで代表に選ばれていたらどうなっただろう、と空しい妄想に明け暮れていた。
 真曰く、
「いつもの姉ちゃんに戻った」
 らしい。
 ちなみに真は、祖母の家に行けなくなった件などもうとっくの昔に忘れている。そんな二人を交互に眺めて、栞と明は複雑な気持ちにならざるを得なかった。
 そんなことがあった休みも最終日。
「薫、今日は縁日があるよ」
「ふうん」
 その日の海風家の夕食はいつもより早い。真が友達と若草市夏祭りを見て回るのだという。慌ただしく白飯をかき込んだ真は、そのまますぐ風呂に入り、腹を空かせるんだ、と言いながら廊下を行ったり来たりしていた。
「薫も一緒に行けばいいのに。いいじゃない、恥ずかしがらなくても」
「別に恥ずかしいってわけじゃないよ」
 本音を言えば嘘になるのだが、何がどう恥ずかしいのかを説明するのはもっと恥ずかしいから、適当に答えた。毎年同じやり取りだ。
「吹奏楽部の子たちとは、行かないの? 誰かいないの、仲のいい子」
「うーん、まあ」はぐらかしてソファーに寝る。
「こら、食べてすぐ寝ると牛になるぞ」明がありきたりな言葉をかける。「風呂にでも入ってこい」
「食べてすぐお風呂に入る方がよっぽど健康に悪いんだってば」
「何を屁理屈こいてやがる。ほら、そこは俺の席だ、どけ」
「もう……」
 薫は渋々立ち上がる。明はビールのグラスを握ったままテレビに夢中だ。今の時期は甲子園が熱いとのことで、ここ最近は明がテレビを独占していることが多い。薫と栞は面白さがよく分からないので、ほとほと困っていた。
「おい真。深水中に入ったら、野球部入れよ」などと言い出す始末である。真は祭りが楽しみのようで聞いていないが、明は構わず続ける。
「全国大会に行けるし、何よりお姉ちゃんにラッパで応援してもらえるぞ」
「ラッパじゃなくて、トランペットだから」薫は苛立ちを隠さず反論する。
「ああ、そっか! いいじゃないそれ。お母さんたちもまとめて応援に行けて楽だわ」
「何それ」
 薫は、これが反抗期というものか、と自分で苦笑してしまいたくなるほどに腹が立ち、何か暴言を吐いてしまわないうちに部屋へ向かおうとした。すると、廊下で電話が鳴る。真が出る。薫は、どうせ真の友達だろう、と思って構わず階段を登っていく。
「姉ちゃんですか? はい、いますけど」
 薫は耳を疑った。自分目当てで電話をかけてくるような人間が、この世にいたとは。ともかく真から受話器を受け取る。「もしもし」
「もしもし、海風さん? 私、部長の古高葉子です。今時間ある?」
 まさか、まさか。その三文字の言葉ばかりが頭の中で飛び交う。薫はおずおずと返事をした。時間などあり余っている。
「あのね、誰かが言い出したんだけど、吹奏楽部の集まれる人で集まって、今日の縁日を回ろうっていう話があって。海風さんはどうかって」
「えっと」薫は、特に断る理由がないのに無意識のうちに断る理由を探そうとしてしまう。古高ははっきりしない言動をあまりよしとは思わない性格のために、しばらくは海風を待ったものの、やがて痺れを切らし、
「来る? 来ない? どっち?」と急かした。そして海風も、
「あ、は、はい。行こうかなと」と答える。
「そう。海風さんは来る、と。じゃあ、ええっとね。申し訳ないのだけど、それに付随してひとつお願いがあるの」
「は、はあ」
「今ね、非常用の連絡網見て電話をかけてるんだけど、手違いで日立京悟くんの番号だけ抜けちゃってるの。で、聞くところによれば、海風さんと日立くんの家って近いらしいのよね。そこで海風さんの方で、日立くんに夏祭りに来るかどうかを聞いて、来られるようなら一緒に連れてきてくれると助かる」
「ちょ、ちょっと待って」
「ん?」
「私の家が日立くんの家と近いって、誰から聞いたの」
「誰って、雨内さんだよ。あなたとよく一緒にいる」
 雨内泉希とは若草市吹奏楽団の演奏会がきっかけで知り合い、金管のセクション練習の際に何度か話したことはあるし、仲も悪くはないと薫も思っているが、そんなことを打ち明けた覚えはなかった。京悟から聞いたのかもしれないが、だからといって自分にそんな大役が回ってくるとは思わず、薫は閉口してしまう。古高は薫がすっかり用件を聞き入れてくれたものと勝手に思いこみ、
「じゃあ、よろしくお願いね」と告げて電話を切った。薫も放心状態のまま受話器を置く。とりあえず居間に戻ると、家族全員に物珍しそうな眼差しを向けられた。
「誰からだったの」と質問まで全員同じだ。
「吹奏楽部で集まって、お祭り回るって」
 数秒の沈黙の後、栞が自分のことのようにはしゃぎ出す。
「えっ、そうなの。行ってきなさいよ。ついでに真も連れてって。危なっかしいから」
「あ、いや、それは」
「薫、あんた浴衣とか着てみたら? この前箪笥からいいのが出てきたからさ、たぶん薫にも着られるよ」
 栞はいそいそと洋間に向かう。薫は、何かとんでもないことになりそうな予感があったが、母のなすままにされ、人生で初めて親抜きの夏祭りに出かけることになったのだった。

 日立京悟は二階の自室でベッドの上に寝ころんでいた。京悟もまた、コンクールの敗戦を機に無気力になってしまった一人だった。父が見ていただろう世界、あるいは見たかっただろう世界に近づく一回目のチャンスを与えられたが、逃した。自分の実力、新設吹奏楽部の実力を知ることができたという収穫こそあったものの、やはり有限である好機をふいにしてしまったことは京悟の中で大きかった。コンクール後の練習にも思うように身が入らず、盆を迎えた。
 先日日立家は、亡き父、日立夏也の墓参りに出かけた。祖父母に続き、まさか父の墓に供え物をしたり水をかけたりするとは、少し前までは思いもしなかっただろうと、京悟は考える。母はまだ、墓参りの際涙を隠せない。姉の桐子と京悟で、慰めながら帰路につく。京悟はそれが辛かった。早く泣きやんでほしいけど、もし母が泣かなくなったら父の死はそれで終わりなのか。そんな、京悟自身にもよく分からないような気持ちを抱えていた。そうして迎えた、盆休み最終日。前までは、翔から電話がかかってきて、夏祭りに出かける日だった。だが今年は、何もない。ただ、明日からまた部活が始まるから、早く寝ておこうと思うだけの日。
「京悟、西瓜切ったよ」
 下の階から桐子の声。窓の外の景色を眺めていた京悟は、素直に居間に降りた。無言でテーブルにつき、西瓜をかじる。
「あんたさあ、いつまでも落ち込みすぎ」
 いきなりの姉のお小言を、京悟は無視する。
「お父さんの真似するのはいいけどさ、ちょっと上手くいかなかったからって、すぐ塞ぎ込んじゃうんだもん。もしお父さんが生きてたら、男のくせに、って言われちゃうぞ」
 京悟は無視を決め込む。西瓜をシャリシャリと音を立てて噛み砕く。なんだか、甘くない。
「何よ。なんとか言いなさいよ」
「塩取って」
「……ほれ」桐子は不承不承、塩の入った小瓶を京悟に手渡した。
「ありがと」
 簡単に立ち直れるなら誰だって苦労しない。
そう言おうとした。が、母が台所にいるので言うに言えないのだった。京悟なりの気遣いだ。
「荒川くんとは、どうなったの」桐子は話を変えたが、これまた京悟にとって苦い話題だ。
「どうもなってない」
「毎年夏祭り行ってたじゃん」
「そうだけど……」
 来るはずがないのに、京悟は心のどこかで翔が来てくれることを期待していた。そして、そんな期待をしている自分がどうしようもなく情けなく思えた。もう、野球はやめた。それなのに、いつまでたっても離れられていない気がする。野球からも、翔からも。
 チャイムが鳴ったのは、その時だった。
「ほーら、翔くん来た。噂をすれば影が差す、ってね」
 桐子が玄関へ向かう。京悟は目の前の西瓜の皮を見つめ続けたまま動かなかった。少し経ってから、桐子が戻る。何やら、様子が変だ。
「ちょっとあんた」
「何」
「あんな子と仲良かったの? どうして教えてくれなかったのよ!」
「え」
 どうやら、来客者は翔ではないらしい。ほっとすると同時に、では一体誰だろうという疑問が浮かぶ。頭を掻きながら、京悟も玄関へ向かった。
 海風薫が立っていた。
 薄い橙と水色が混じった浴衣姿で、いつもは縛っている髪も今日はおろしており、肩までかかっている。
 京悟は少しの間見とれてしまった。海風って、こんなに長い髪だったっけ。
「こんばんは」
「あ、ああ」
「今日、吹奏楽部のみんなで夏祭りに集まるって。古高さん――部長がね、日立くんの連絡先だけ知らなかったみたいで、わたしが誘うっていうことになったの」
「そ、そうか。わざわざすまん」
「ううん。それで、あの、日立くん、どうする?」
「あー。えっと」
「行きます!」
 いつの間にやら、桐子が京悟の背後に立っていた。
「京悟。まさかこのお誘いを断ろうってんじゃないでしょうね」
「そういうわけじゃ」
「私、こいつの姉の日立桐子です。いつもこの馬鹿がお世話になっております」
「おい」さすがに京悟は腹を立て始めた。
「あっ、初めまして。日立くんと同じ吹奏楽部の海風薫です。こちらこそ、あの、いきなり来てしまってすみません」
「そんなことは気にしなくていいの! もうこいつってば家じゃ学校のことなんにも話さないからさあ、ホントごめんね」
 何が「ホントごめんね」なのか、京悟も分からないし、薫も分からない。
「じゃ薫ちゃん、ちょっと待ってて。急いでこいつに支度させるから」
 桐子は京悟を無理に引っ張っていく。京悟は全力で抵抗したかったが、薫が見ている手前そんなことはできず、ただおとなしく従うしかなかった。
 数分後、薫の前に現れたのは、着慣れないものの同じく浴衣に身を包んだ京悟だった。無地の藍色という簡素なものだ。
 薫と京悟は目が合ったが、反射的にすぐそらしてしまった。
「暗くなる前には帰ってくること。それじゃあ、後は若い者同士ということで」
 二人は桐子によって家から閉め出されるかのように外に出された。京悟は扉に向かって「馬鹿姉貴」とこぼす。おそらく着たくもないものを無理矢理に着させられて怒っているのだろう。そう思って薫は、
「似合ってるよ、それ」と褒めたら、京悟は、
「うるせー」と珍しく突っぱねた。それでも間が持てなくなると、観念して歩き始めた。迎えにきたはずの薫が、京悟より少し後ろに続いた。お互い一言も話さないうちに、夏祭りの会場である神社にたどり着いた。
 神社は、例年通りの賑わいを見せていた。普通は見ないような珍しい食べ物を売る屋台が数多く出ることで有名なこの縁日は、年に一度、若草市民の憩いの場となる。近隣の学生のほとんどが一度は訪れているという。
「お、トランペット二人が来たぞ」
 声を上げたのは、ちっともその元気さを失わない有賀つばさだ。全員ではないが入り口の鳥居の傍に深水中吹奏楽部が集まっていた。シャツにジーンズという格好の者もいたし、薫や京悟と同じく浴衣を着ている者もいた。
「なんだよ京悟、お揃いじゃん」有賀自身にからかいの気持ちはなかったようだが、京悟は互いの袖に反対側の手を入れて不機嫌そうに、
「着させられた」と釈明。
「海風に?」
「違う、姉貴に」
「浴衣とか暑くね? 俺も着たことあるけどさ、耐えられなくて屋台のおっさんの目の前でパンツ一丁になったことあるわ。幼稚園の時だけど」
「なんだそりゃ」中後航が大笑いする。
「薫ちゃん超かわいー」
「これ、どこで買ったの?」
 京悟の横で、薫は普段挨拶も交わさないような部員たちからも声をかけられるほどに皆の注目を集めていた。薫は恥ずかしいのかもじもじしている。逃げ出そうにもすでに包囲されていて身動きすら取れなかった。
「これは予想以上ですね」
 雨内泉希もそんな言葉をかけたが、なぜか薫の浴衣にはあまり着目せず、薫と京悟を交互に見比べてそんなことを言っていた。
 皆、吹奏楽やコンクールについて触れることはなかった。薫と京悟はそれに気づいていたが、暗黙の了解というやつだろう、とあえて口には出さなかった。屋台を回ったり、盆踊りに参加したりと、普通の中学生として祭りを楽しんだ。
 そして京悟は今日、改めて部員たちの顔を見ると、不思議とまた明日からも頑張ろうという気になってくるのだった。
 ところが、皆がそろそろ帰ろうかという雰囲気になってきた頃、事件が起きた。
「何やってんの、お前。そんな格好で」
 背筋に電流が走ったような衝撃を、京悟は覚えた。振り返ると、荒川翔が友人数人を連れて立っていた。彼らは破れたジーンズのポケットに手を入れて、ベルトもだらしなく垂れ下がっている。
 翔の横にいる背の高い男が、一歩前に出た。翔はまだ中学生のはずなのに、連れの男たちは高校生にすら見える。
「女の子と仲良く縁日巡りですかー? あ、それとも、もしかして、キモがられてひとりぼっちになっちゃったとか?」
 たまたま有賀や中後とはぐれて一人だった京悟は、一人で本当に良かったと心から思った。吹奏楽部員たちには、自分が荒川翔と関係があるということを知られたくない。そんな気持ちがあったからだった。
 薫が木陰から見ていることにも気づいていなかった。
「よく来られるよな、お前。俺がここに来るって、どう考えても分かってただろ」
 京悟は黙ってその場から立ち去ろうとする。
「おい待て」
 翔が呼び止める。京悟はなけなしの勇気を振り絞ってとどまる。
「コンクールはどうだった。俺たち、今度全国大会行くことになったけど。お前らは?」
 浴衣の帯で締め上げられているかのような重圧に耐えながら、なんとか答えようとする。
「……めだった」
「は?」
「駄目だった」
 翔の目が見開き、今にも京悟に殴りかかりそうになる。京悟は翔に背を向けたまま、そこから動こうとしない。やがて翔は、振り上げた拳を下げる。
「なんなんだよっ」
 捨て台詞を残し、翔は取り巻きと共にその場から去った。京悟はしばらくの間、その場で地面を見ていた。心臓の鼓動のテンポが激しいまま収まらない。まるで身体の中に壊れたメトロノームが埋め込まれているようだった。なんとかメトロノームの機能を停止させようと京悟が胸を抑えていると、有賀と中後がそこへ通りかかった。京悟は瞬時に立ち、平静を装った。
「京悟、もう解散だってさ。俺たちもう腹いっぱいだし、帰るわ。京悟は?」
「……俺も」
「そっか。じゃ、明日学校で」
 京悟と有賀たちはそれぞれ反対方向へ歩き出した。

 一部始終を偶然目撃してしまった薫は、しばらくその場でおろおろしていたが、やがて意を決すると京悟の後についていく。歩を進めるにつれて、祭りの喧噪がどんどん遠のいていった。
「何か用」
「えっ」
 神社を出たあたりから、京悟は薫の存在に気づいていたようだった。薫はどう言い訳しようかと慌てふためくが、京悟は嫌な顔一つせず、薫に歩み寄る。
「送ってこうか。どうせ一人で帰っても姉貴にどやされるだけだし。薫ちゃんを送っていってあげなさい、とかなんとか」
「ええっ、いいよ。すぐそこだし」
「俺の家もすぐそこだけど」
「あ。そうだった」すっかり忘れていた。
 二人は街灯の並ぶ帰り道を共に歩く。盆踊りの歌はもう聞こえない。履き心地の悪い下駄とサンダルの音だけが響いた。行きに続いて帰りも、二人は何も喋らなかった。薫は悪そうな男の子たちと一体何を話していたのかを京悟に聞きたかったし、京悟も、もしかして翔とのやり取りを聞いていなかったかと薫に訊ねたかったが、どちらも遠慮してしまい結果会話が生まれなかった。そうこうしているうちに二人は海風家の前に到着した。
「また明日ね」
「おう」
 最後は少し、もやもやとしたものを残した夏祭りだったけれど。
 翌日以降、二人はいつもの調子を取り戻して練習に臨めるようになったらしい。