「薫、あんた夏休みないじゃない」
一学期終業式を終えたその日の夜、海風家。母の海風栞は甲高い声で、娘の薫に夏季部活動予定表と書かれたプリントの内容について問いつめていた。
予定表の吹奏楽部の欄は、ほとんどが終日のマークで埋まっている。空白の箇所といえば、盆の一週間ぐらいだ。
「これじゃおばあちゃん家行けないよ」
海風家では父の明の仕事の都合上、夏休みの盆前に帰省し、盆はどこにも行かず家でゆっくりすることが慣習になっている。ところが今年は、他でもない薫が盆以外部活動に出ずっぱりなのだ。
「大体おかしいじゃない。コンクールって七月に終わるでしょう。その次の日からも八月三十一日までびっしりあるし」
「まだ地区大会で終わると決まったわけじゃないもん」薫は少しだけむっとしている。
「学校に電話して、休みにしてもらえ」明もこのスケジュールの詰め込み方には疑問を持ったらしい。
「駄目だってばそんなの」
「なんで」
「一日練習さぼったら、三日遅れる」
この界隈では有名な格言だが、栞と明は聞き入れようとしない。話を嗅ぎつけた真も大声を上げて駄々をこね出す。
「ばあちゃん家行きたい! 西瓜食べる!」
「じゃあ、今年はお盆にすれば」
「それだとあんたの休まる時がないじゃない」
「わたしは別に大丈夫だけど」
海風家の母と父は夏を目前に、ようやく薫がどのような部活に所属しているのかを理解した。栞はただ予定表を睨みつけながら頭を抱えるばかりだった。明は、しばらく考え込んでいたが、やがて一息つくと、薫の方に向き直る。
「薫は、どうしても部活の方を取りたいのか」
「取りたいっていうか、取らなきゃいけないの」
「……そう、か。なら、今年は帰るの、やめとくか。母さん、電話いれとけ」
「ええっ。でも」
「薫が自分で部活をやりたいと言っとるんだ。母さんも、それに真も、今年は我慢しろ」
「姉ちゃんの馬鹿」
真はいわゆるおばあちゃん子であるためか、急に機嫌を損ねて寝室に引っ込んでしまった。
「小学生でも、来年は高学年なんだから、そろそろ大人になってほしいんだけどね」
「母さんもな」
「私が未だに親離れできてないっていうの?」
「違うよ。母さんが離れられていないのは……いや、なんでもない」
薫は、自分が家族に迷惑をかけてしまうことが嫌だったから、その場に居辛くなって、おやすみ、と両親に告げたきり、真と同じように二階の自室に籠もった。机の上には、コンクールで演奏する曲の楽譜が散らばっている。横の棚には、プロのトランペット奏者の演奏が納められたCD、コンクール曲を録音したMD、練習曲の譜面集と、月刊の吹奏楽専門雑誌。ここ数か月のうちに、薫の生活は完全に吹奏楽に染まっていた。今まで全く使い道がなかったので貯めていた小遣いやお年玉はピストンオイルやクリーナーにつぎこみ、普段の生活面でも、毎日朝が早いため夜更かしをやめて、早寝早起きを習慣づけられるように努力した。今まで母の呼び声なしでは起きられなかった薫が、今では目覚まし時計で勝手に起床する。
真曰く、
「きもちわりい」
ほどの変わりようだ。
ここまで来たらそう簡単に元に戻るわけにはいかない。ふと、どうしようもなく逃げ出したくなる瞬間が何度もあるけれど、それでも、安易に引き返せない。やるしかない。薫は強くあろうとした。今までの怠惰な自分を思い返したくないからだった。
沢城の指導は、コンクールが近づくにつれてその厳しさを増していった。もっとも、厳しくなることなど部員たちは容易に予測することができたのだが、その度合いが実際とは大幅に異なっていたのだった。
「クラ、もっと楽しそうに」
「その後、ペット、トロンボーンは今までを吹き飛ばすくらいに激しく」
「テナーの主旋律は、この曲で一番大事に、穏やかに。オーボエよりもオーボエらしく」
「ホルンが全然駄目。みんなを叩き起こす気で盛大に、かつ明確に。他の人たちも細かいパッセージはできるようになるまで練習して。ごまかそうとしない」
「低音、重厚さが足りない。マリンバもほとんど聞こえない。自分がどういう役割なのかを意識して」
室内で幾度となく連呼される形容動詞の数々。主旋律を受け持つ者よりも対旋律奏者や打楽器勢といった、基盤を作る者が同じ箇所を何度も繰り返し練習させられた。風通しの悪い音楽室では、それはもはや苦行の領域に達していた。全体練習は毎日数時間に及び、休憩時間はわずか。やっとの思いで練習を終えても、自転車や電車で通学する部員だと帰宅できるのは夜遅く。ほとんどは親に迎えを頼んでいた。それでいて翌日は朝早くから登校し、自主練習に取り組まなければならない。
部員たちにとっては、コンクールそのものよりも、沢城を前にして行う全体練習の方がよっぽど緊張する。薫もその一人だった。夏の音楽室は誇張表現でもなんでもなく、戦場である。二十数人の兵士たちは、たった一人の強大な敵に対し手も足も出ないまま、日々苦戦を強いられ続けているのだ。
しかし、部活を何の理由もなく休む部員は一人も現れなかった。
それを受けて薫は考え込む。
薫は、今日はサボってしまおうとか、そういうことを考えることはあっても、実際に行動には移さない。それは、薫が自分で自分のことを「今時の子供」だと一応自覚しているからでもあった。
薫の考える「今時の子供」の特徴は二つある。
誰かにやりなさいと言われないとできることもできない。
誰かの前では何も言わないけれど、その誰かがいなくなるとこぞって集まり、好き勝手なことを言い合う。
薫は、後者はしようと思わないし絶対にしないと自分で決めているが、前者には当てはまる。誰かから優しい声がかかるのを待っている。もうやめていい、頑張らなくていいよ。部活なんてサボっちゃえ。そんなことを囁かれたら、今すぐにでもこのトランペットを放り出して家のベッドに引っ込んだまま、部屋から出なくなるかもしれない。
だが、かもしれない、で終わる。
きっとみんなもそうなのだろう、と薫は思う。
それも含めて、やっぱりわたしは、みんなは、「今時の子供」なのだろう、と。
「この時に俺が息吸って、海風はこことここ」
海風薫と日立京悟は同じトランペットであることから、コンクール日の接近に伴いよく話すことが増えた。二人とも自分から会話を始めるような性格ではなかったが、何だかんだといっても吹奏楽部にとってコンクールは他のどんな行事よりも重要だから、必然的にパート内では綿密な打ち合わせをしなければならなくなる。そしてコンクール前日の帰り道ででも、二人は楽譜片手に最終確認に余念がなかった。
「いよいよ明日だね」薫も、とりあえず普段の日常会話程度はしどろもどろにならずにできるようになっていた。「県大会行けるかな」
「さあ。他が強かったら駄目だろうし、そうでなければ望みはあるし。微妙な立ち位置だな。同じしみずでも、清い方の清水中は確定だろうけど」
「強いの? そこ」吹奏楽を強い弱いで言い表していることに薫は若干の違和感を覚えた。
「全国大会常連だって。ホームページで見た」
「へえ。深い方の深水中は野球部が強くて、清い方の清水中は吹奏楽部が強いのかー。いっそのこと、逆だったらよかったのにね」
京悟の返答はなかった。薫は怒らせてしまったかと一瞬思うが、自分の言葉のどこに京悟を怒らせる要素があったのか、分からなかった。
「じゃあ、俺こっちだから」
原因が分からないまま、いつもの分かれ道だ。坂の交わる十字路を、薫は坂の下へ、京悟は真っ直ぐ進む。
「うん。明日ね。……あれ?」
「なんだ」
「そういえば日立くんって、家どこ」
「もうすぐそこ」
「えっ。わたしもそうだよ」
「そうなのか」
「うん。実は近かったんだね」
「だったら今度、宿題教えてもらいに行こうかな。夏休みの課題、一ページも手をつけてない」
「それは、ちょっとやばいんじゃ」
「海風は、どれくらいやった?」
「私はもう全部」
「すげーな」めったに取り乱すことのない京悟が、目を剥いて驚いている。薫は少しだけ、得意になる。
「嫌なことは、一番に片づけたいの。そうすれば後は、好きなことを好きなだけできるから」
「……吹奏楽は、嫌なことなのか」
「ううん。すごく楽しい」
こうして誰かと、拙いながらも会話をしていることも。
中学吹奏楽コンクール県内地区予選当日。
出場する中学校は、人数によってA編成とB編成に分かれる。それぞれAは大人数、Bは少人数の部となる。当然A編成の学校はより豊かな演奏を披露することができるが、各校で決めた自由曲の他、コンクール側が提示する課題曲も演奏しなければならない。自由曲のみのB編成に比べて、単純に舞台に出る時間が倍になる。つまり、人員が多い代わりに、本番にかかるプレッシャーもまた多大なのだ。そして、全国大会に出場することができるのは、A編成の学校のみ。沢城率いる深水中は、人数と技量の関係でB編成の部にエントリーしていた。まずは県大会出場にこぎ着けることができるか、それが最初の砦だ。
「当たり前ですが、本番では誰かが間違えても演奏を止めることはできません。チャンスは一度きりです。最良の音を出してください。そして一番大切なことは、舞台に立った時の感覚を、全身に刻み込んでおくことです。みんなにはあと二回のチャンスが残されていますし、来年は可能な範囲でゲネプロの機会も設けます。そう、来年です。年が明けて春になれば、A編成に入れる人数を確保できると思いますので、それを楽しみにして、今年は頑張ってください」
会場である若草市市民会館ロビーにて、いつもと変わらない調子でそう語る沢城に、部員たちは元気よく返事をする。そして沢城が一旦その場を離れると、倉下鈴花を中心に全体がざわざわとし出す。もう来年の話かよ、そんな声が聞こえてきそうだった。
薫はロビーを見渡した。見たことのない制服を着た他校の生徒たちがたくさんいる。すごいなと思ったのは、どの学校もかさばる楽器ケースをなるべくその場を占める面積が小さくなるように整頓して置いていることだった。以前、倉下が音楽準備室で珍しく真剣な口調でこんなことを言っていたことがある。
「準備室が汚い学校の演奏は汚いんだから。みんなもっときちんと使って。他の場所で楽屋とか使わせてもらう時も、使う前より綺麗にしないといけないんだからね」
綺麗好きな倉下によって生まれたその格言は、根拠こそないが部全体にじわじわと広まっていった。思えば、終日練習の日、弁当を食べた後には必ず歯磨きをしてから楽器に口を付けて、と口うるさく言っていたのも倉下だ。弁当の臭いが楽器につくから、音楽室での飲食を禁止しようと古高に提案したのも彼女。言わば、部の衛生面の管理を一手に引き受けていた。
話が飛躍したが、薫は「演奏以外のところにも気を遣おう」という倉下の信念には半信半疑なところがあったので、他校のそんな光景を見て、倉下はやはり正しかったのだと知った。なぜ疑う気持ちがあったかというと、
「そんなことをする必要はありません」
と、沢城が倉下に対して冷酷に言い放っているところを目撃していたからだった。今まで沢城の言うことはすべて正しいと勝手に思いこんでいた薫だったが、沢城も間違ったことを言う時だってある、と思い直すことにした。
「深水中、次お願いします」
コンクールスタッフに呼ばれ、部員たちは楽器と楽譜を持ってロビーを離れた。打楽器はすでに別のルートから搬入されているので、打楽器部員が楽譜以外に持ち運ぶのはスネアの撥ぐらいだ。
廊下を進み、真っ暗闇へ進入。これ以上ないくらいに、会場が寒く感じる。薫のトランペットを持つ手が震えた。
舞台袖では、前の順番の学校の演奏が嫌でも聞こえてくる。薫には、どんな演奏も自分より上手に思えた。自分たちの演奏は、果たしてこれより上なのか、下なのか。はたまた同程度なのか。緊張でそんなことしか考えられない。掌に人という字を三回書いて飲み込んでみるが、緊張が解けるはずがなく、何を馬鹿なことをしているのだろうと逆に心が乱れる。なんとか落ち着こうとして楽譜を眺めようとしたが、暗くて何も見えない。先ほど楽屋内で行ったのはロングトーンだけだったから、不安ばかりが募る。もしあのフレーズをど忘れしたらどうしよう、苦手なあの箇所、そういえば昨日の午後に確認したきりだけど間違ったらどうしよう。
と、激励会直前と似たような状態に陥っていた薫だったが、そのことに気づくと、むしろ可笑しくなって、一人心の中で笑った。こんなことじゃまた、京悟に迷惑をかけてしまう。
……いや、京悟だけじゃない。
トランペットの音は、全体を先導する。
みんなを、引っ張っていく。
「……校の演奏でした」
ひとつ前の学校が退場。舞台が暗転し、薫たちは古高部長を先頭に暗黒へ繰り出していく。椅子と譜面台を並べ替えるのだ。スタッフの人たちにも助けられ、舞台のセッティングは無事に終わった。一旦はけて、入場順に列を作る。並び終わった頃、ようやく沢城が戻ってきた。普段着がフォーマルに近いので違いはあまりないが、整然とした正装をしているのが暗がりでも分かった。
「遅いですよ、先生!」こんな時でも有賀つばさは明るい。しかし、その明るさは部員たちにとって非常に心強かった。
「ごめんなさい、ちょっとね。さあ皆さん、準備はいいですか」
返事の声はまばらだった。沢城は中後航の持つチューバを指揮棒で軽く叩く。音楽室ではおなじみの、「注目」の合図だ。
「大丈夫。私を信じて。みんなはきっと最高のパフォーマンスができる。約束します」
深水中の紹介アナウンスが流れた。沢城が舞台側を向く。舞台に柔らかな光が注がれたかと思うと、列が動いた。
薫はゆっくりと歩いた。席に着くと、観客席が正面に見える。無数の人で埋まっている。この光景自体は、前にも見たから珍しいとは思わない。しかし、こうして舞台上から見ると、感覚が全然違う。ホールの広さが、人々の目線が、多大なる圧力となって薫たちに襲いかかる。薫はごくりと息を呑んだ。指揮棒がゆらりと振られる。一同、楽器を構える。最初の主旋律は、トランペットとユーフォニアム。
気がつくと、薫は他の部員たちと共に会場の観客席にいた。自分たちの番はとっくに終わり、以後は他校の演奏を聴いて過ごす。そして全プログラムが終了すれば、結果発表となる。
「うち絶対ダメだ」
「あたしも、後半間違えた。終わったー」
泣いている女子生徒がいる。間違えるのは仕方のないことだが、諦めるのはまだ早いんじゃないか、と薫は密かに異議を唱えていた。すべては審査員がどのような結果を出すか、これにかかっている。
「すげえ! 次の学校、アニメのメドレーやるらしいぞ」
「いいなあ、やりやすそうで。いろいろと」
「でもそういうのって、大半は顧問の先生の趣味だったりしますよね」
「マジかよ」
一方、有賀や雨内泉希などのように、コンクールが始まろうと終わろうと、まるで何事もなかったかのように純粋にイベントとして楽しんでいる者もいた。結果が気になるあまり、無理にはしゃいで気持ちを紛らわせようとしているのか、もしくは本当に心から楽しもうとしているのかどうかは分からないが、彼らは間違いを悔やみ、傷を舐め合おうとする者たちとは少し離れた席に集まっていた。
そして、薫と京悟は二つのグループに挟まれる位置に、ぽつんと座っていた。京悟は腕を組んだまま目を閉じている。寝ているのか、起きているのかは分からない。薫は部員たちがああでもないこうでもないと言い合っているのを聞き流しながら、ただコンクールが終わるのを待ち続けた。最後の学校の演奏が終わると、会場のどよめきが一気に大きくなった。
「ただいまより、結果を発表します」
その一言で、観客席に集まるすべての中学生が口を閉じた。その静けさは、誰かのくしゃみの音がやたらと響くほどだった。
コンクールの評価には金賞、銀賞、銅賞の三種類がある。このうち、次の大会へ進出することができるのは、金賞を与えられた学校の中で決められた数のみ。まず全学校の評価が順に発表され、その後で代表校が金賞獲得校の中から発表されるという流れになっている。
「金賞」
吹奏楽部員にとって、審査員から告げられるこの言葉ほど嬉しいものはない。ほとんど悲鳴に近い声と、絶え間なき嗚咽で会場内が満たされる。
「銀賞」
薫は、「若草市立しみず中学校」と読まれた後に告げられたその評価を聞いて、固まった。しばしの間、その場で身動きがとれなくなった。聞き間違いかと思った。そう思いたかった。そうだ、今の評価は清い方の清水中学校だ。読みが同じだし、そうであるに違いない。
しかしそのまま発表は終わった。
県大会出場校には、清水中の名はあっても、深水中の名はどこにもなかった。コンクール終了を知らせるアナウンスを最後に、マイク越しの音声は一切聞こえなくなった。
部員たちはとぼとぼと楽屋に戻り、楽器を片づけると学校に戻った。音楽室にたどり着くと、床にどっかりと楽器ケースを置いて、その横にへたり込む。皆、一言も発することはなかった。かつて戦場だったそこは、戦に大敗した兵士たちが集う焼け野原と化していた。
その焼け野原へ、普段の服装に着替えた沢城がやってきた。
「皆さん、結果は残念でしたが、私にとっては期待通りの演奏でした。魂燃え尽きたり、と言いたいところかもしれませんが、これからが深水中吹奏楽部の本当の始まりです。明日から基礎練習を再開しますので、遅れないように来てください。では、今日はお疲れさまでした」
それだけだった。沢城は悠々と音楽室を後にする。窓が閉め切られているせいなのか、薫はあまりの空気の重さに吐きそうになる。
「死ねっ、クソババア」
誰が言ったのか、もはや明白だった。窓の外の夕暮れは、気味が悪いほどに濃い紫色だ。京悟はそれを見ていたが、何かを思い返してしまったかのように、深く重たいため息をつく。薫は部屋の空気に耐えられなくなり、思わず窓を開け放した。窓の前でどれだけ待っても、生暖かい風すら吹き込んでこなかった。
深水中吹奏楽部、創設一年目の夏が終わった。