日立京悟にとって、最も神経をすり減らす時季がやってきた。七月、蝉の鳴き声が若草市を支配する頃合い、中学生野球大会が市営野球場で盛大に開催される。それには、かつての友、荒川翔も参加するという。京悟は、本音を言えばその場に行きたくなかった。何度も訪れている場所だが、その日に限っては足を運びたくなかった。明確な理由は京悟自身にも上手く説明できないが、ただ言えるのは、必死に戦う翔の姿を見るのが、辛いのだ。若草市吹奏楽団定期演奏会が開かれる日の午前中、京悟は学校で行われるという練習試合をこっそり見物しにいった。翔の活躍ぶりが見てみたいという、純粋な好奇心からだ。しかし、翔が思っていた以上のプレーを繰り広げているのを目の当たりにしたら、京悟はなぜかその場から逃げるように駆けだしていた。それ以来、翔が出ている試合を想像したり、目の前にしたりすると、ひどく気が落ちるのだった。
しかし、京悟は深水中吹奏楽部員として、県内屈指の強豪と恐れられている深水中野球部の応援演奏に参加しなければならなかった。観客席の一部を陣取り、試合中曲を途切れさせることなく演奏し続けるのだという。演奏自体は頑張ればなんとかなる。しかし、し自分の存在に翔が気づいたら、翔はどんな反応を見せるだろう。応援演奏をするのだから、トランペットである京悟は目立つに決まっている。投手として目がいいことを武器にしている翔のことだ、十中八九、京悟のことを見つけるだろう。そして、笑顔で手を振ったりすることはしない。冷酷な視線を向けてくるだろう。裏切り者が今更なんだ、とでも言わんばかりに。自分はそんなことになっても、その場から逃げ出さずに自分の役割を全うできるのだろうか。京悟は何度も自身に問いかけたが、答えが出るはずもなく、気がつけば大会当日を迎えてしまっていた。
男子部員が中心となって、楽器をトラックに運び込む。ケースが倒れたりしないように、配置を考えて積み込まなければいけない。うだるような暑さの中、京悟は夏服を滴る汗で濡らした。沢城曰く、制服は吹奏楽部のユニフォームでもあるらしい。
「楽しみだなあ、野球部全国制覇のプロセスが拝めるのか」
京悟の気持ちなど露知らず、無邪気にこの状況を楽しんでいるのは、サックス担当の有賀つばさだ。木管担当の中で唯一の男子部員で、それまでは未経験だったにもかかわらず、あの沢城に筋が良いと褒められたことがあるほどの素養の持ち主だ。いわゆる天才肌で、普段の快活な言動の端ばしにも、それが表れているように京悟は思えた。もっとも、当の本人は自分を天才などとは微塵も思ってはいないだろうが。
「な、京悟。試合が終わるまで会場にいられるんだよな」
「うん、多分」応援演奏団が試合の続く中で途中退席したらそれはそれで問題である。
「よっしゃ! やる気出てきた」
「こんな小さな大会なんか、見てもつまんないだろ。つーか、観戦する余裕があるかどうか」
チューバ担当の中後航が、そう吐き捨てる。体が大きいという理由だけで沢城に吹奏楽一大きな楽器を任されることになった。それについて不満を持っているようで、何かにつけて有賀や京悟に愚痴をこぼしている。
「まあ、そう言うなよ。休憩時間だって作ってくれるだろうし、獅子は兎を狩る時も全力を尽くすんだ。つまりどんな試合を見ようと全力が見られるんだぜ」
「お前らはいいよな、楽器を片手で持ち運べて。俺なんか、両手でやっとだぞ。このクソ暑い中、クソ重いチューバ抱えてひたすら短音繰り返し。そりゃ文句も言いたくなるわ」
「チューバ、嫌なのか? おれはカッコいいと思うけどなあ。縁の下の力持ちって感じで。性格もどっしりしてるようなやつしか務まらないしね」
「俺がデブって言いたいわけ?」
「違う、違うよ。怒るなよ、航ちゃん。なあ、京悟もなんとか言ってくれよ」
「チューバが嫌なら嫌って、先生に言えば」
「言えるか、あんなのに」
「意外と『あらそう』とか言って聞いてくれるかもよ」
「それ、物真似のつもりか。全然似てない」
「ひでーなあ、せっかく悩み相談に応じてやってるのにさあ」
大半が女子という環境では、数少ない男子部員は自然と集まり、親交を深める。この国では多数派が実権を握ることがほとんどだ。
「男子、積み込み終わった?」
三人がトラックの荷台の中で振り返ると、古高葉子が立っていた。
「終わったぞー。もうすぐ業者さんも来るから、あとは運転してもらうだけ」有賀が答える。
「そう。じゃ、おのおの自転車で会場にね。場所はすでに取ってあるらしいから、到着次第音出し始めてもいいって」
「了解」
古高が去った後、ほどなくして、その場にツナギ姿の業者もやってきて、トラックに乗るとエンジンを唸らせて学校を出ていった。それを見送った京悟たちは、自転車で大会が行われる若草市市営野球場へと向かう。
「……いよいよか」
京悟のそんな呟きを、有賀と中後は聞いていなかった。
かつて京悟は選手としてこの野球場にはよく訪れていたが、今日は楽器ケースを片手に制服姿で観客席に入場した。なんだか、変な感じだ。
提供されていた場所は案の定日差しがよく当たり、部員たちはこまめにタオルで汗を拭い、さらに一部の部員は首や頭部に巻いていたりした。よく吹奏楽部とは下手な運動部よりも体力を要すると言われるが、京悟は今そのことを実感した。炎天下ではただその場に立ち続けるだけでも想像以上に辛い。唯一の救いとして、市営団体からクーラーボックス一箱分の飲み物が支給されているので、脱水症状を起こす危険は少ないが、それでもこのうだるような暑さとの戦いは避けられない。
「こっちも応援してもらいたいくらいだし」
倉下鈴花がいつものように喚くが、他の部員たちも同じようなことを思っていたようで、その場が露骨に静まり返ることはなかった。
それでも、沢城が到着し、選手たちがグラウンドに現れると、京悟の汗も一気に引いていった。沢城はTシャツにジーンズという、ラフな格好で部員たちの前に立った。
「この間の演奏は激励でしたが、今日あなたたちが行うのは応援です。では、この違いが分かりますか?」
一同、考える余裕もない。
「激励演奏は選手たちの士気を高めるのが目的ですから、必要以上に大きな音を出したりテンポが多少早くなったとしても私は何も言いません。激励なのだから、激しく、ですね。一方応援演奏とは、戦う選手たちを支えるためにするものです。あくまでも主役は選手たちですから、みんながでしゃばってはいけません。どういう風に演奏するかというと」
沢城はその白い手で真上を指さした。京悟は空を見上げる。どこまでも続くかのような夏空がそこにあった。京悟は、あの日のことを思い出す。翔と出た、最後の試合と同じ空だ。
「会場に向かってではなく、空へ。突き抜けるように、高らかに」
沢城らしからぬ物言いだと、京悟は思った。
しかし、ここをこうしろなどといった具体的な指摘でなく、こういった曖昧な表現をするということは、やはり応援演奏をそこまで真剣に考えていないのだろう、と思い直す。以前、同じトランペット担当の海風薫、ユーフォニアム担当の雨内泉希と電車に乗り合わせた時、こんな会話が繰り広げられた。
「日立くんは、沢城先生をどう思いますか?」
「どうって、別に」
「海風さんは?」
「あの先生、コンクールのことだけしか考えてない気がする」
「なぜ?」
「なんとなく」
「確かに、そんな気はする。部活の初日に変ちくりんなこと言ってたし」
「ああ、あれですね。『結局はすべて、コンクールの結果に収束される』……」
「部の設立早々それだからな」
「これが絶対的な真理だ、とでも言わんばかりの迫力を持った名言でしたね。私、あの先生結構好きです」
「えー……」
そんな雨内の発言はともかくとして、京悟は薫と同じことを考えていた。沢城は、部の活動を常にコンクール中心に進めているように思える。今年はさすがに行かないだろうが、来年には意地でも全国大会の場に立ってやる、という気概が、あの冷徹な言動からも少しずつ伝わってくる気が、京悟にはするのだ。
「あっ、選手宣誓だぞ」
「荒川翔くんだ!」
いつの間にか深く考え込んでしまっていた京悟は、翔の名を聞き、急に現実に引き戻される。京悟は歓声を上げている他の女子部員たちに紛れて、観客席の前の方に入った。グラウンドを見ると、宣誓台には確かに翔が立っている。ユニフォーム姿の翔は、見下ろす形であるのに、前に見た時よりもずっと大きく感じた。
「本日は、晴れ渡る空の下、気持ちよく試合ができることを、とても嬉しく思います」
宣誓というよりは、開式の言葉らしい。
「僕はまだ一年生で、野球部には入ったばかりですが、先輩たちにとっての最後の夏の大会に出させてもらうことになりました。正直、すごくプレッシャーを感じています。でも、試合に出させてもらうからには、全力で戦い抜き、先輩たちと勝ち上がっていきたいです。そのために」
一呼吸おき、会場全体へというよりは、むしろ上空に向かって、
「高らかに、校歌を歌いたいと思います!」
素早く一礼すると、翔は台を降りて、整列する野球部の中に加わる。すると、どこからともなく深水中学校校歌の伴奏が流れてきた。
続けて男子特有の野太い声による合唱が始まった。決して上手とは言えないが、この場でもう力を出し尽くしてしまうのではと一同が心配するほどの大合唱だ。そして歌が終わると、会場は拍手の渦に飲まれる。相手側の学校の生徒たちはどこかそわそわとしだし、明らかに影響を受けている。これも顧問の坂口昴による作戦か、と京悟は一人穿った見方をする。噂には聞いていたが、本当にできることはなんでもやるようだ。
その日の試合は、深水中の圧勝だった。敵チームもそれなりの強豪校だったが、主に三年生が攻守共に圧倒的な実力の差を見せつけ、そのまま一気に押し進み点を稼いでいった。翔もまた、一年生ながら確実なヒットを飛ばし、終盤では盗塁も成功させるほどに余裕があった。
そんな調子の野球部を、吹奏楽部は体に鞭打つ思いで応援した。どんどん強くなっていく日差しの中、同じく少しも乱れることのない沢城の指揮が続く限り、死に物狂いで音を鳴らし続ける。京悟も、終わり際は自分が何を吹いているのかも分からなくなっていた。それなのに、熱中症患者は一人も出ることなく終了し、沢城の判断力の正確さを思い知らされることになる。
京悟と翔が顔を合わす機会はなかった。
演奏に必死で試合をろくに見られなかったためか、前のような拒絶反応は出ずに済んだ。しかし京悟の胸の奥には、小さくはない何かがいつまでも引っかかったままだった。