燃えろ、魂

 夏季部活動激励会、なるものがある。
 若草市立深水中学校において、新学期で最初に取り組むことになる学校行事だ。目的はその名の通り、夏季に大会等に出場する部活動の活躍を願うこと。一、二年生にとっては知り合って間もない先輩を応援するだけの会、三年生にとっては最後の戦いを前にして気合いを入れるためのある種の儀式と言われている。この深水中では、毎年蒸し暑い体育館の中で熱気にまみれながら全力で行うことが伝統になっており、生徒会や教師たちも準備に余念がなくなる。今後の行事活動に勢いをつけるという意味でも、盛大にしなければならない、という雰囲気の中で事は動く。
 そして本年度より新設された吹奏楽部が、激励の演奏を行うことが決定されていたのだ。
「とびきり熱くお願いしますよ、沢城先生」
 野球部顧問の坂口昴は、今年の大会に全精力を傾けている。三年生の実力が、ここ数年で特に良いからだ。加えて力のある新一年生たちが多数入ってきて、部の気概はかなり高いところまで来ていた。これまで全国大会にはとどくものの、あと一歩のところで優勝を逃したりベストエイトから外れたりを繰り返していたため、今回こそは優勝旗を勝ち取りたい、そのためならどんなことでもしておきたい、それが坂口の気持ちだった。
 そういうわけで、坂口は激励会だけでなく、野球大会の会場にも演奏に来てほしいと沢城に依頼していたのだった。
「やっぱり、オーソドックスに校歌がいいですね。僕、歌詞を見ないで全部歌えるくらい大好きです。それ以外の曲は先生にお任せします」
「分かりました」
 沢城は淡々と依頼に応じた。この時すでに一部の教師たちは、沢城がどういう人間なのかということに薄々勘づいていたものだから、坂口の言動には内心冷や冷やしていた。坂口は典型的な熱血教師で、沢城とはまさに正反対の性格だったからだ。
「お忙しいところ、ありがとうございます! コンクールにも参加されると聞いたので、悪いかなとは思ったんですが」
「いいんですよ。新設早々、生徒も私も普門館にいけるなんて思っていませんから」
「ふもんかん?」
「吹奏楽コンクールの全国大会が開かれる場所です。吹奏楽の甲子園と呼ばれています」
「へえ、そうなんですか! スゴいなあ。お互い頑張りましょうね!」
「はい。では授業があるので、失礼します」
 沢城の対応はどこまでも機械的だったので、職員室内の空気は、もう六月だというのにすっかり冷え切っていた。

 翌日、音楽室では、吹奏楽部員たちに激励会及び野球大会で応援演奏を行うことが沢城から告げられた。また、新しく楽譜も配られた。それまで部員たちは簡単な練習曲程度しか経験がなく、部室は奇妙な高揚感に包まれた。
「記念すべきみんなの初仕事といってもいいでしょう。みんなも知っていると思いますが、我が校の野球部は全国大会の常連です。大会で勝利を掴み取るために、みんなの力が必要だということです」
 沢城はやる気のなさそうな声で話している。本当はどうでもいいだろうな、と部員の大半は思っていた。
 しかし、部員たちにとってはどうでもよくはない。まずは六月下旬の激励会、次に七月初めの野球大会応援、そして同月末にはコンクールが控えている。改めて日程を確認してみるとかなりのハードスケジュールだ。沢城は焦っているような様子はなくむしろ落ち着いているが、それが部員たちの気持ちを大きく揺らがせた。その中でもとりわけ大きな不安に駆られていたのは、トランペットを担当する海風薫だった。先日の若草市吹奏楽団による演奏会で、トランペットはどの曲においても音がよく通り、主となる旋律を受け持つことが多いと分かったことで、薫は自分が大役を担っているという事実に、そこで改めて気づかされたのだ。これまで堅実に練習はしてきたけれど、人前で演奏などできるのか。ソロがたくさんあったらどうしよう。失敗したらどうしよう。何も知らないクラスメイトには指をさされて笑われて、部員たちには冷めた目で見られて、先生には怒られて……と、ひたすら暗い想像しか浮かんでこなかった。
「応援が主たる目的ではありますが、日頃の練習の成果を発揮する最初の機会でもあります。大丈夫、失敗してもいいです。少しくらい音程が外れていたって構いません。コンクールじゃないんですから。では、今日の練習です」
 ネガティブな想像を少しでも打ち消してくれるのは、自分の練習量だけ。練習量は目に見えないが、練習を積み重ねてきたという事実は確かに心強い武器となる。薫は手汗を拭い、管に溜まった唾を抜くと、トランペットをより強く握った。

 月日は流れ、激励会の全体予行練習が行われたその日の放課後、体育館には生徒会役員と各部部長、そして楽器を手にした吹奏楽部員が残っていた。音楽室から体育館まではかなり離れており、楽器の運搬には部員が行列を作った。特に打楽器系は数が多く、男子部員が手伝いに入った。ドラム一式に鉄琴と木琴は重量もあり、その上途中階段を何度も下るため、体育館に一通りの楽器が揃う頃には、皆へとへとになっていた。それでも沢城が到着すると急いで席に着き、音出しからチューニングを始める。沢城はその場にいるだけで部員たちに圧力がかかるのだ。
 生徒会役員たちからの視線を受けながら、薫もトランペットにチューナーをつなげた。薫はチューニングという作業が苦手だ。ピッチ、つまり音の微妙な高さを調整するのだが、薫にはピッチの合っている音とずれている音の違いが全くわからない。そこでチューナーという専用の機器を使う。目盛り上の指針の動きを見ながら、管を抜き差しすることで指針を中央に合わせる。合わせるピッチはその日の気温によって変わってくるため、必然的に毎日こまめに確認しなければならない。そして、管の露出が一センチ異なるだけでもピッチは変化する。いい加減な調整の仕方だと指針に嫌われてしまう。
「はい、ではまず頭から全部」
 薫は自分のことを几帳面だと思っているが、チューニングだけは満足にできないまま全体練習に参加することが多かった。ちゃんとやっても上手くできないからでもあるが、いくらなんでも耳で聞いたくらいでは先生も分からないだろうという気持ちがあったからでもある。
「トランペット、ピッチ」
 開始一分で演奏が止まる。単語の連鎖による、簡潔で鋭い指摘。薫はそれに対して、小さく、はい、と答えることしかできない。自分の考えがいかに浅はかであったかを思い知る。沢城先生は部を新設して早々、全国大会を本気で狙うような人だ。よほど音楽のことを勉強しているに違いないし、まだまだ素人の薫の音を聞き分けられないわけがなかった。
「音をだらしなく繋げない。舌の動きをよく意識して」
「音楽記号を無視しない。ひとつひとつにちゃんと意味があるから」
「リズムを刻む人は、自分が土台を支えているということを考えて、規則正しく」
 よく、教師の注意に対して不平不満を述べる生徒がいるが、それは単に叱られたのが気にくわないだけでなく、その注意が的確で、何も反論できないからという場合が多い。沢城の指摘もまさにそれで、気にはしていたけど、わざわざ直す必要もないだろう、そんな部員たちの気の緩みを、沢城はひとつひとつ確実に拾い上げていく。そこに感情はなかった。どこまでも機械的に練習は続けられた。
「今練習している曲には歌詞があります。吹奏楽曲として作られたわけでなく、一般に歌と呼ばれるものを、吹奏楽で演奏できるようにアレンジしてあるんです。みんなはもちろん詞の内容はすべて把握していると思いますが、楽器で演奏するなら関係ないやと思っている人もいるかもしれません。大いに関係あります。メロディーラインを受け持つ人も、そうでない人も、自分の声で歌うように演奏してください。その演奏を聞いた人が、たとえその人が歌詞を知らなくても、こういう詞なのかな、と想像ができるように」
 そうして今まで沢城の指導を受けてきた薫は、あるひとつの法則を見出した。
 沢城が理不尽なことを言う時は、大抵丁寧語で語りかけるように話すのだ。

 激励会当日の午前中、薫は普通に授業を受けた。給食を急いで食べ終わり、歯磨きをすませると、走って体育館に向かう。すでに部員たちがちらほらと集まっていた。生徒会の面々も最終確認に取りかかっており、緊張感が漂っている。薫はケースから楽器を取り出す時に、一度深呼吸をした。自分のパートは暗記するほどにやりこんだ。繰り返しの合図がいつされるかも頭に入っている。注意事項も楽譜に大きく書き留めてある。
 そして練習も重ねた。募る不安を打ち消すためと、ひたすらに繰り返した。それが今の薫にできる、立ち向かい方だ。
 数十分後、全校生徒が体育館に集まった。重く響く喧噪。その一部は、体育館横に鎮座する吹奏楽部のことを話していた。
「すごい、結構本格的じゃん」
「下手だったりして」
「顧問沢城だろ。地獄だな。俺なら逃げる」
「でもあいつら、毎日律儀に練習してたよ」
「宗教みたい。沢城教」
 真と同じことを言っている。薫は改めてその言葉を思い返し、真の言おうとしていたことの意味を、今になって悟った。そうか、宗教っていうのは、こういうことか。
「静かにしてください」
 明朗かつ凛とした女子生徒の声がマイクによって響き渡ると、体育館は本当に静かになった。
「ただいまより、夏期部活動激励会を始めます。本日の司会は、一年生徒会役員、月丘めぐみが務めさせていただきます。初めての司会なので、至らないところもあるかと思いますが、最後まで、よろしくお願いします」
 一年生とは思えない、堂々とした態度だった。拍手が自然と巻き起こる。
 その後は各部活動の代表者が前に出て、決意表明を行った後、全部員で円陣を組み、張り上げるような大声で叫ぶといったことが繰り返された。おそらく気合いを入れているのだろうが、薫には何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。また、決意表明の中で「燃えろ、魂」というフレーズが何度か出てきていた。薫は、それが本年度の激励会のキャッチフレーズであることを思い出す。
 そうだ、みんなも燃えているのだから、こっちだって燃えるように。
 と、柄にもなくそんなことを考えた。
「ありがとうございました。続いて、本年度より新設された吹奏楽部による激励の演奏です。果たして、どんなパフォーマンスを披露してくれるのでしょうか。ご覧ください」
 突如訪れた緊張の波に、薫の全身が震える。体育館中のすべての人が、こちらを見ている。体育座りをする生徒たち、冬服と鉢巻きに身を包んだ応援団、ジャージ姿の教師たち。薫は、トランペットを滑り落としそうになる。すると、
「海風、落ち着け」
 横で小さく、そんな声がした。
 声の主は、同じトランペットの日立京悟だ。パート練習で何度か一緒に音を交えたが、事務的なこと以外、会話をしていなかった。若草市吹奏楽団定期演奏会の時も、終わったと思ったらいつの間にか先に帰ってしまっていて、曲を聞いた感想も言い合えないままだった。それなのに今、京悟は確かに言ったのだ。落ち着け、と。
 聞き返す間もなく、指揮棒が振られた。
 体が温かかった。いつもより音をよく鳴らせているような気がした。いつもより余裕を持って演奏できているような気がした。そして、演奏が後半にさしかかると、音全体に熱を帯びたような感覚が現れた。薫は、もうどうにでもなれという気持ちで、終盤までハイペースを保った。ひとつひとつの音が大きい。テンポも急かすかのようにどんどん早くなる。
 薫を含め、部員のほとんどが沢城の指揮をまともに見ていなかった。
 薫がそのことに気づきかけた時には、演奏は終わっていた。
「吹奏楽部の皆さん、素晴らしい演奏をありがとうございました!」
 大きな拍手。先ほど勝手なことを言っていた生徒たちも、素直に手を叩いている。浴びるほどの拍手を、薫は生まれて初めて受けた。
 興奮冷めやらぬ中、沢城は微笑を顔に張り付けて全体に一礼。楽譜を閉じて、その場を去った。
「大成功……だよね」
 部員の誰かが言った。その時、それに答える者はいなかった。