演奏会へ行こう

 五月に入った。
 薫は深水中学校新一年生として、まずは授業についていくのが精一杯だったが、もともと勉強だけは得意だったこともあり、日を重ねていくうちに、自然と理解できるようになっていった。小学校までの薫なら、それでよかった。何も考えず、ただ一心に勉強だけをしていればいいのだから。
 だが、今の薫には部活動がある。吹奏楽部という、一見華やかな響きのあるその場では、もはや主従の関係といっていいものが繰り広げられていた。顧問沢城香澄の下で、部員たちは命令された練習メニューを二度、三度と各自でこなし、その後沢城による長く厳しい全体指導が待っている。活動終了時刻は下手な運動部よりも遅く、
「必要な人は、お父さんやお母さんに送り迎えを頼んでおいてください。先生が言っていましたが、夏は今よりさらに練習時間を増やす予定だということらしいので」
 などといった提案が部長の古高葉子から伝えられる。事実、薫も父親の車を学校まで呼びつけたことが一度あった。父の明は文句も言わず車に乗せてくれたが、彼が想像していたよりもはるかに長引くものだから、母の栞と共に驚きを隠せないでいた。薫は父に悪いと思いつつ、自分が親に迷惑をかけなければならないほどに忙しいという事実を、密かに喜んでいたりした。小学校時代は勉強とテレビ鑑賞ぐらいしかすることがなくて、布団の中で死んだように眠るばかりだったから、それがなくなるのは、単純にいいことだと思った。楽器や楽譜の勉強は学校の授業より難しいが、教師が、生徒にできないことをやれと言うはずがない。頑張ればできるはずなのだ。薫は、とにかく自分のできる範囲で前向きに、積極的になろうと努めた。

 「若草市吹奏楽団定期演奏会」。
 流麗な文字で書かれたその言葉を掲げるポスターが、新たに音楽室のホワイトボードに貼られていた。薫はなんとなく気になっていたが、その日もいつものように自主練習に励んでいると、ほどなくして、沢城がやってきた。
「皆さん、ポスターは見ましたか?」
 数名が見ました、と答える。この日の沢城は機嫌がいいのか、珍しく笑顔だ。
「今週の土曜日、市民会館でこの演奏会が開かれます。みんなが吹奏楽を始めて約一か月経ちますが、今のみんなに必要なのは吹奏楽の世界に自分の目と耳で実際に触れてみることです。この楽団の人たちとは私も交流があり、何度か練習風景を見学させて頂いたことがあるのですが、どの方も本当に上手です。みんなが参考にするには勿体ないほどに」
 倉下鈴花が、露骨に音を立てて椅子の位置をずらした。
「パンフレットと、人数分の入場券を貰ってきたので、みんなに配ります。用事がない限り、必ず聞きに行ってください。そしてここで聞いた音と自分の音とを聞き比べて、どこか悪いのか、どうすればもっといい音が出せるのかを、よく考えてみてください」
 その日の部活は、沢城が会議に出席するということで、入場券が全員の手に行き渡ると同時に解散となった。部員たちは早速、当日の予定を話している。
「会場の若草市市民会館って、隣町だよね。どうやって行く?」
「電車でしょ、フツーに。時間調べとこ」
 薫は入場券を穴が開くほどに見た。裏面に判子で押されたと思われる整理番号がある。やろうと思えば、演奏会に来なかった者がいることを判明させることができるというわけだ。
「さっき先生とすれ違ったんだけど、なるべく集団で固まって行くようにしろって」
「ていうか、一人で行く人とかいんの」
「いないって、そんなの」
「さみしー」
 薫は、胸の中に気持ちの悪いものがじわじわと広がっていく感覚に襲われた。薫が一番恐れていた事態が起きたのだ。仲の良い人と一緒にどこかへ行く。人付き合いが苦手な薫にとって、それはもはや夢物語の領域だ。自分から誰かに声をかけるなんて絶対にできない。ならば誰かから声がかかるのを待つしかないが、そんなことが果たしてあるのだろうか。
「あの」
 あった。
 薫より小柄で、眼鏡をかけたその女子部員は、やや俯きがちで薫の前に立っていた。
「演奏会、一緒に行きませんか」
「えっ、あ、うん! 行く、行こう」
 思わず二つ返事をしてしまったが、薫は救われた気分だった。まだ名前も知らないこの人が、神様に思えた。
「私は、雨内泉希です。ユーフォニアムの」
「あ、えっと、わたしは、海風、薫。トランペットやってる」この上なくしどろもどろだ。
「海風さん、ですね。私、今年この町に引っ越してきたばかりなので、友達がいなくて困っていたんです。これからよろしくお願いします」
「あ、うん、よろしく」
 なんて礼儀正しい人なのだろう。薫はこの吹奏楽部にこんな人がいることに驚いた。所作がしっかりしているという点では古高に似ているが、意識高い古高と違って雨内はどこかゆったりとした感じがある。話し方も柔らかく、ゆっくりだ。かけている眼鏡のフレームも、古高のものは角張っているのに対し、雨内のものは少し丸みを帯びていて、まるで性格を表しているようだ。
「あの、海風さん」薫がそんなことを考えていると、雨内が声をかけてきた。
「彼は、誘わなくてもいいのですか」
「え。彼って」同級生の男子のことを口語で彼と呼んでいるあたり、雨内の言葉遣いは自分には真似できないな、と薫は思った。
「同じトランペットの。なんか一人みたいですし、一緒の方がいいのでは」
「そ、そう、かな」
「私、声をかけてきますね」
 薫が呼び止める暇もなく、雨内は窓の外をじっと眺めている日立京悟の方へ歩み寄り、演奏会への同行を提案する。京悟は黙って大人しく聞いていたが、やがてこくりと頷いた。その間に薫もなんとなく接近する。
「じゃ、当日は三人で行くということで」
「はい」と、薫。
「おう」と、京悟。
「で、集合場所と集合時間ですが」
「演奏会はいつ始まるんだ」
「今週の土曜日、午後一時半からです」
「だったら、十二時半に駅でいいだろ」
「そうですね。私はそれで構いません。海風さんは、都合とかいいですか?」
「う、うん」
「そ。じゃあ、決まり」
 京悟はそれだけ言ってさっさと帰る支度を始めてしまう。京悟の性格からして、異性を必要以上に煙たがるようなことはないだろうと薫は思っていたので、急ぐ京悟の姿は少し意外だった。演奏会に興味がないのだろうか、それとも……。薫はなんとなくそんな憶測を立てていた。

 演奏会当日。
 薫は真と共に早めの昼食を終え、真に留守番を命じていそいそと出かけていった。私服か制服かで迷ったが、別に学校に行くわけではないので、私服を着た。もし他の二人が制服だったらどうしよう、などと心配しながら駅に向かう。外のベンチに座っていた雨内と合流。雨内は私服に身を包んでいた。柔らかい若草色のブラウスと白のスカートで、どことなく育ちの良さが感じられる。
「休日とはいえ演奏会なので、あんまりラフだといけませんよね」
 部屋着のシャツに、安物の灰色のパーカーを羽織ってきただけの薫には、どこにも反論の余地がなかった。愛想笑いでそうだね、と返しておく。
 少し待っていると京悟もやって来た。京悟は制服だった。暑いのか上着を脱いで、腕に引っかけている。
「よう」
「あの、日立くん。学校に行くわけじゃないんだから」雨内がからかうように笑う。
「いや、だからさっき行ってきた。学校」
「今日の部活は終日休みのはずでは」
「別の用事」
「あ、そっか」これは薫の返事だ。
「用事とは」雨内は割としつこく用事の内容を問いただす。
「内緒」
「もしかして、追認考査?」
「まだ中学に入って試験なんか一度もないだろうが」中間考査は五月下旬だ。
「そうでしたね。まあ、冗談ですから。それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
 雨内は京悟が呆気にとられていることなどお構いなしに、切符売り場へ悠々と歩いていく。薫も同じく呆けていると、横で京悟が言った。
「あいつ、名前なんていうの」
「えっ、あ、雨内泉希さんだったかと」
「ふーん。なんていうか、あれだな」
「あれ……」
 沈黙。
「そ、そうだね」沈黙の末、「あれ」がどう「あれ」なのかよく推察もしないまま返事をする。
「そういえば、お前の名前も聞いてないぞ」
「わたしは、海風薫」
「ん、海風って、変わった名字だな」
「うん、よく、言われる」さっきから薫はどこか片言気味だ。
「でも覚えやすくていいよ」
 そんなことを言われたのは初めてだったから、薫はとうとう何も返せなくなった。京悟はその場を仕切り直すように、袖を通さず制服の上着を羽織って、さりげなく、
「俺は日立京悟っていうんだ」と自己紹介。
「よ、よろしくね」これが、薫の精一杯の歩み寄りだ。
「二人とも、快速が出ちゃいますよ」
 雨内にまとめて呼ばれて、薫と京悟はどことなく気まずそうに券売機へ走った。

 三人で電車に揺られること十数分、駅から歩くこと五分。一行は目的地の若草市市民会館へ到着した。駐車場には車がずらりと並び、入り口周辺では正装の大人たちが談笑している。本当に自分なんかがこんなところに入っていいのか、と薫が悩もうとすると、京悟と雨内はさっさと進んでしまうので、慌てて着いていく。
 だだっ広いロビーで受付員に入場券を渡し、演奏会概要等の載る小冊子を貰うと、いよいよホールへ向かう。薫は今まで演奏会なるものにちゃんと行ったことはなかったので、会場を目の当たりにした瞬間、思わず息を呑んだ。
 暗くて見にくいが、とてつもなく広大で、一面赤い。すべての通路と階段にカーペットが敷かれているせいだ。椅子も赤い。映画館と同じく、腰を下ろす部分を自分で下げるタイプのものだ。それが大量に並んでいる。薫が家族と時折行く映画館のそれとは、比べものにならない。
 そして、見渡す限りの人混み。今からここで演奏を披露するのは、日本のある県のある市の吹奏楽団だ。それでこの賑わいなら、テレビでよく見る外国の人たちによるオーケストラなら、一体どんなことになるのだろう。少なくとも、本当に上手だという、先生の言葉は嘘ではないらしい。薫は今まで以上に演奏が楽しみになってきた。
 三人分並んで空いている場所を探すのにしばらくかかり、ようやく座る。薫はさっそく冊子を開いた。楽団長の挨拶に始まり、曲目に、この演奏会の歴史から最近の沿革に至るまで、結構いろいろなことが書いてある。薫は曲目を眺めた。どうせ見ても分からないだろうと思ったら、薫でも知っているような大衆音楽の名もちらほら記されている。
「一般向けの会だからか、有名歌手のヒット曲なども演奏されるんですね」
「そうなんだ。わたし、てっきり交響曲のナントカばかりだと思ってたけど、これならついていけそう」
「俺はひとつも分からんぞ」京悟はなぜか威張るような口振りである。
「日立くんはテレビとか見ないんですか」
「ニュースぐらいだなあ。あと、野球中継とかをたまに」
「野球、好きなんですね。そういえば体もしっかりしてそうだし、野球部には入らなかったんですか? 深水中の野球部は全国大会の常連らしいですよ」
「うん、まあ……」
 京悟が黙ってしまったところで、ブザーのような大音が場内に響き渡り、薫は飛び上がりそうになるほど驚いた。アナウンスを聞くと、開始五分前に先立ち、携帯電話の電源を切るように呼びかけるものだった。携帯電話を取り出して操作していたのは雨内だけだ。
 ややあって、ブザーがもう一度、先ほどよりやや長めに鳴る。会場の照明がさらに落とされる。代わりに前方の舞台全体が眩しいほどに明るく照らされ、綺麗に並べられた椅子と譜面台、横には存在主張の激しい打楽器群が現れる。そこへ、正装の吹奏楽団員がぞろぞろとやってきて、所定の位置に座っていく。金管楽器はどれも光り輝いており、薫が学校で使っているものとは違うものに思えた。まさしく、隣の芝生は青く見える。
 司会者の簡素な前口上が終わると、いよいよ指揮者の登場だ。満面の笑顔を振りまいて歩く指揮者は若い男性だった。燕尾服をひらひらとさせながら颯爽と指揮台へ立ち、まず全員を見回す。何か示し合わせでもしているのだろうか、と薫が見入っていると、指揮棒が挙がった。一同、楽器を構える。棒が絵を描くように動く。
 演奏が始まった。
 金管勢によるけたたましい轟音。元気いっぱいに始まった一曲目は、遠足にでも行くのか、まるでみんなで歩を合わせながら山道を進んでいるかのような感じを受ける。どの人を見ても楽しそうに音を鳴らしている。綺麗な女の人ならいいのだけど、眉毛の太い、体の大きなお兄さんが肩を大いに動かして演奏しているのを見ると、ちょっと怖い。また、ルンルン気分なのは演奏者たちだけではない。むしろ一番乗りに乗っているのは、指揮者だ。時折横を向くので薫にもその顔が見えるのだが、常に笑顔だ。薫は不思議に思う。緊張はしないのだろうか。今まで何回も開いている会だから、もう慣れてしまったのか。仮にそうだとしても、あんなに楽しそうにしていて、余程吹奏楽が、音を奏でることが好きなのだろうか。初めてではないのに、どうしてあそこまで楽しめるのだろうか。
 やがて高まるだけ高まった気分は一旦落ち着いて、クラリネット率いる木管がまあまあ焦らず休みましょうよ、と言わんばかりに穏やかな旋律を繋げていく。指揮も動きが少し大人しくなる。そのまま眠るように終わっていくのかと思えば、合間にトロンボーンが割り込んでささやかな反撃を行う。それでも木管たちはひるむことはない。薫もそれまでの興奮が冷め、一歩下がったところから聞くことができるようになる。
 それでも、この演奏はすごいと思った。
 あんなに綺麗な音、大きな音、小さくてもちゃんと聞こえる音、歌うような音、はしゃぐような音は、一体どのような練習をどれだけすれば出せるようになるのか。そして、自分はあそこまで、吹奏楽を楽しむことができるようになるのだろうか。みんなと一緒に、心から。
 そんな薫のぐるぐると渦巻く気持ちを吹き飛ばすかのように、演奏は勢いを取り戻した。打楽器が作る土台の上で、金管、木管共に終盤まで一気に盛り上げていく。演奏者たちの動きは、最後の最後まで乱れることはなかった。何重もの音の連なりで、演奏は締めくくられた。
 音が途切れたと同時に、拍手がどっと沸き上がる。薫も自然と手を叩いていた。観客席側を向いた指揮者の顔は、相変わらずの溢れるような笑みだった。
 その後も演奏会は続いたが、薫は初めの演奏があまりにも衝撃的で、ずっと忘れられずにいたのと、突如胸の中に押し寄せてきた不安とであまり集中することができなかった。気の早い母が言っていた。七月にはもうコンクールが控えている、と。
 果たして自分はできるのか。こんなに大勢の人の前で堂々と。