深水中吹奏楽部の練習は、日を増すごとに本格化していった。初めはちょっとだけ挑戦してみようなどと、まるで通信教育のお試し版を利用しているかのような気持ちで楽器を吹いていた者は、次第に沢城が何を考えているのか、嫌が応にも分かるようになっていった。しかし、深水中の部活動は、一学期が終わるまで退部及び転部は認められていない。休めばしっかり記録がつき、広い目で見ればその後の進路にも影響を及ぼしてくる。結果、部活には毎日ほぼ全員がきちんと集まっていたが、わいわいと楽しむ雰囲気ではなかった。
その中で、日立京悟は黙々と練習に取り組んでいた。トランペットを吹くことにも慣れ、劇的な環境の変化に対しても、それが当たり前であると受け止められるようになっていった。
「みんなは普段、音階を表す時はドレミファソラシドを使いますね。これはイタリア語なのですが、吹奏楽の世界ではこれではなくドイツ語を使います。ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、ハー、アー……などといった音名があります。シャープやフラットが付くと呼び方も変化しますし、すぐには覚えられないかもしれませんが、すぐに覚えてください」
理不尽なことを言われて、部員の大半は沢城が部室からいなくなる度に不平不満を漏らしていたが、京悟を始めとする数人は、誰かが一言文句を言う度に、音名を一個覚えていった。
覚えなければいけないことは、音階の他にも山ほどあった。楽譜の読み方、音のピッチを合わせるチューニング、呪文のような大量の音楽用語と音楽記号。その中でも京悟が苦労したのは、楽譜の読み方だった。
「楽器によって、出すことのできる音の範囲は違ってきます。どういうことかというと、楽譜も楽器ごとに書き表し方が異なるということです。よって、音の高さ自体は同じでも、木管楽器のある音と、金管楽器のある音とは、譜面上では全く別の位置に音符が配置されます。音楽の教科書で慣れ親しんできた一般的な楽譜は、ここでは一旦忘れてください」
京悟は小学校時代から、野球以外のことにはあまり興味がなかった。勉強も全くできないというわけではないけれど、得意でもなかった。とりわけ音楽は不得意で、特に人前で歌を歌うのがとても恥ずかしくて、知らず知らずのうちに苦手意識を持っていた。
しかし、今の京悟にはこの道を進む、進んでいくんだ、という強い決意がある。
「もちろんみんなには、吹奏楽の勉強だけではなく、学校の勉強もしっかりと頑張ってもらわなければなりません。音楽のテストでは満点を取れ、とは言いませんが、比重が吹奏楽の方へ傾きすぎてしまうと、一番大切な学校の成績を落とすことになり、まさしく本末転倒です。両立とは、とても難しいことです。でも、してください」
沢城にどんなに無茶苦茶なことを言われても、京悟はひたすら従順だった。本音を言えば、今まで目を背けてきた音楽と向き合うことは、最初は苦痛でしかなかったが、少しずつ、自分に音楽の知識やトランペットの技術が身についていくと、いつの間にか楽しいと思えるようになっていた。野球を始めた頃と同じような感覚と言っていい。まだ幼稚園にも通っていない頃、キャッチャーミットで初めてボールをキャッチした時と同じように、トランペットで初めて音階を一通り吹くことができた時は、自分の成長を直に感じることができて、達成感に満たされる。なんでもやり始めは楽しいものだ、と京悟は一応己を律するが、京悟は吹奏楽の世界へ、すでに両足を踏み入れていた。毎日、主に吹奏楽のことを考えて過ごした。
「まあ、慎重なあんたのことだから、十分に考えての決断なんでしょ。私は弟のやることなすことにいちいち口出しはしないから」
姉の日立桐子は大学一年生で、残り少ない学生生活を謳歌しながらも、喫茶店でアルバイトに励み家計を助けている。京悟のことは年の離れたまだまだコドモな弟、として接しているが、京悟の選択にはあっけらかんとした態度を貫いた。
「京悟が本当にやりたいと思うんだったらやりなさい。自分のしたいことを、思いきり」
一方で、ともすれば突き放したように聞こえる言葉を投げかけたのは、母の日立留美だった。彼女も家事の傍らでパートに出ており、忙しくもなんとか安定した家庭を築いている。男の子だからという理由で、留美は京悟に必要以上に干渉しようとしない。勉強することを強要したりもしないし、京悟の交友関係などについて聞くこともあまりない。その代わり、京悟が自分でできる範囲の物事は、極力京悟自身にさせるようにしている。言うことを聞かなくてもいい、ちょっとくらい馬鹿でもいい、ただ父親のように、日立家をしっかりと支えてくれる人になってほしい、そう思っていた。そのためにも、京悟が大人になるまでは、自分がこの家を守っていかなければいけない、とも。
現在の日立家に、父親はいない。
名を日立夏也というその男は、警察官で、一年前、京悟が小学六年生にあがる直前、殉職という形で家族に別れを告げた。大きな体と大きな声を持ち、いつでも笑顔を絶やさなかった彼の死は、京悟たちだけでなく、夏也の同僚にも衝撃と深い悲しみを与えた。
彼には、日頃口にしていた信条があった。
「音楽で、誰か一人でも笑顔にしたい。俺の演奏でひとつでも犯罪が減るかもしれないなら、全力でやってやる」
警察音楽隊にトランペット奏者として所属していた夏也は、初め、あらゆる人から口ぐちに似合わない、似合っていないと小馬鹿にされたが、夏也の奏者としての実力は決して低くなかった。知識は劣るが、音楽に対する情熱は、誰よりも強かった。警察としての職務を全うしつつ、音楽隊としても精力的な活動を続けていた。彼が命を落としたのは、まさにそんな頃だ。
音楽隊の演奏会の最中、突如会場に刃物を持った男が乱入し、楽隊たちに襲いかかった。夏也はそれに必死で対抗し、男をどうにか押さえつけたが、その時すでに夏也の胸にはナイフが深く突き刺さっていた。病院に運ばれたが、数時間後、息を引き取った。男は逮捕されたが、現在に至るまで犯行動機を語ることはなく、留置場にいる。裁判も行われていない。
京悟は、父の死を病院の廊下で聞かされた時、なぜか涙が出なかった。留美や桐子は泣いているのに、どうして泣かないのだろうと、自分でも不思議でならなかった。一年が経った今でも、父を想い泣くことはない。しかし、ただでさえ大人しかった京悟は、夏也が死んだことで更に寡黙な少年になった。事情を知る周囲の人間は京悟を腫れ物に触れるような扱いをし始め、京悟もまた、自然と一人になろうとした。何もかもが煩わしくなりかけていた。
そんな京悟にそれまでと変わらず接したのが、京悟が小学四年生の頃から所属する少年野球チームのエース投手、荒川翔だった。
「京悟、いつもみたいにクールに決めてくれよ」
夏也の葬儀が終わった数週間後、京悟がチーム練習に復帰して早々、そんな冗談を言うものだから、京悟はかえって戸惑ってしまうほどだった。男は野球でもやっとけ、そんなことを夏也に言われて、なんとなく入団した野球チームは、いつしか京悟にとって生活の一部となっていた。捕手だったので、特に投手の翔とは仲が良く、二人は名コンビだな、と監督に笑われるくらいだった。翔は照れながらも喜び、京悟も、翔との仲について何かを言われるのは嫌ではなかった。
「でもお前は裏切った」
今ではそんな声が、聞こえてくるような気さえするけれど。
小学六年生の夏、最後の大会。そこで京悟は見たのだ。汗を流し、懸命に演奏を続ける吹奏楽団の姿を。あの日から、京悟の葛藤は始まった。どうしようもないほどに悩み、苦しんだ末、野球を止めるという決断に至る。
父親の遺志を継ごうなどという大層な考えを持ったわけではない。京悟はただ、知りたかったのだ。父が夢中で取り組んでいた音楽の楽しさ、素晴らしさを。
だから、自分が選んだこの道は、間違っているかもしれない、翔を裏切ったことになるかもしれない。けれど、それでも。
この、心の奥にいつまでも残る気持ちは、後悔じゃない。
京悟はそう信じている。