自分の音

 週明けの月曜日の放課後、沢城により部員たちの適性テストを行うと告げられた。楽器無しでの音出しを、一人ずつ別室にて沢城と一対一でするという。海風薫はトランペットのマウスピースを手にしたその瞬間、言いようのない恐怖に襲われた。あの怖い先生相手に面と向かって何かを発表するなんて、想像するだけでも気絶してしまいそうだ。それはどうやら、薫以外の女子部員たちも同じのようで、先日の土曜日の自主練習に真面目に取り組まなかったことを後悔する声ばかりが飛び交っていた。皆お喋りに夢中で、肝心の練習にはそれほど熱が入っていなかったようだった。ちなみに薫はあの日、旧体育教官室の階段の上で同じトランペットの男子生徒と別れた後、一人でそれなりに練習を重ねたため、一応できるようにはなっていた。しかし、自分の順番が近づくごとに、不安はただ増していく。テストを終えた女子部員の中には、泣き出す者もいる。きっと激しく怒られたに違いない、誰もがそう思い、音楽室はどんどん静かになっていく。
「音出せばいいんでしょ。楽勝」
 薫は今日になって、やっとこの口の悪い女子生徒の名前をはっきりと脳内に呼び起こすことができた。彼女の名は、倉下鈴花。やや悪い目つきが特徴の彼女は、幼い頃からクラリネットを吹いていて、小学校の吹奏楽部でもかなりの功績を収めているらしい。薫はそれまで小学校に吹奏楽部があることなど想像もしていなかったので、そのことを知った時はとても驚いた。ただし、どれも彼女とその友人との会話を遠くから盗み聞き、断片的な情報を繋ぎ合わせて得たものに過ぎない。薫はまだ、倉下鈴花と会話を交わしたことがない。それどころか、部員のほとんどとまだ自己紹介すらしていない。辛うじて知り合っている人間といえば、名前は知らないトランペットの男子生徒と、先日めでたく部長に任命されたらしい、フルートの古高葉子ぐらいだ。古高はもうテストを終えたようで、済ました顔で壁に貼られた音楽家の絵を眺めている。自ら部長を買って出るくらいなのだから、このくらいのテストなどなんとも思っていないだろう。薫は古高葉子を素直に尊敬していた。あんな風になりたいと思った。
「次、海風さん」
 知らない女子生徒からお呼びがかかる。心臓が大きく脈打った。小さく返事をし、部屋を出る。テストを行う場所は音楽室の真下にある小会議室だ。誰もいない廊下を、薫はわざと遅く歩く。それでもあっという間についてしまうと、意を決し扉をノックする。
「どうぞ」
 素早く入室。中央奥、沢城がパイプ椅子に腰掛けている。手元には紙とペン。何をメモするつもりだ、と薫は訴えたくなる。
「トランペット希望、海風薫です」
「はい。じゃあ、やってみて」
 息つく暇も与えてくれない。薫はマウスピースをゆっくりと自分の口元に持っていく。唇に当てると、鉄臭さが鼻を突く。大きく息を吸い、一気に吹き込んでいく。
 一秒、二秒、三秒。
 五秒、十秒、十五秒。
 音は、薫自身も驚くほどに長く続いた。何秒続いたのかは分からなかったが、少なくとも目標の二十秒は超えたはずだ。ほっとして、すぐに空気を吸う。だが緊張はまだ解けない。
「あなた、どれくらい練習した?」
 沢城が不意に問う。薫は自信を持って答える。
「二時間ほどです」
「ふーん」
 そうなの、すごいわね、他のみんなとは大違い、といった褒め言葉を期待していたので、薫は沢城のそっけない反応に少し気落ちした。そんな薫などお構いなしに、沢城はペンで何やら書いている。薫は文章の内容が気になって仕方がなかったが、覗こうとするものなら即座に気づかれると思い、下を向いていた。しばらくして、ペンが紙上を走る音が止む。
「海風さん、トランペットっていうのはね」
「は、はい」
「吹奏楽ではもちろん、オーケストラの世界においても、他の楽器を先導する、いわば主役といってもいいほどの役割を持つの。分かる?」
「ええっと」分かる? と言われても。
 薫はとりあえず、自分の意見を発表する。
「そう、ですね。わたしも吹奏楽といえば、最初に思い浮かべるのは、フルートとか、トランペットとかなので、そういうイメージがあります」
「トランペットとして、みんなを引っ張っていく覚悟はある?」
 一番、苦手な質問だった。
 薫は教室の端っこで、大人しく本を読んでいるタイプの生徒だ。皆の前に立ち、リーダーとして動くことなど一切ない。ちょっとした憧れと、わずかな希望を抱いて入部してきたはいいが、とうとうここでボロがでてしまう。薫は心の中で嘆いたが、しょうがないな、とも思った。わたしなんかがトランペット。みんなを差し置き主役の座。まったくもって、おかしな話じゃないか。
 だけど……。
 どうせボロがでるなら、また前みたいに逃げ出す前に、もう一歩だけ踏み出してしまおう。それで駄目になるなら、完全に諦めがつく。
「正直、あまりありません」
「そうなの?」このタイミングで、沢城がなぜか笑う。
「でも、一生懸命練習して、上手くなって、部の中で一番になれば、それでみんなを引っ張っていけると思うから」
「うん」
「頑張ります」
「そ。分かった」
 どこまでもあっさりとした受け答えだ。しかし薫の大いなる一歩は、それほど悪くはないようだった。薫の中で引っかかっている大きなものが、また、数センチだけ動いた。
「海風さんは金管楽器だから、木管の子たちよりも一層、呼吸の仕方が大事になってきます。明日から楽器を使った練習に入るけど、早めに腹式呼吸を自分でマスターしておいてください。ちょっと訓練すれば、できるようになるからね」
 腹式呼吸。薫はその言葉を知らなかった。家に帰ったら調べておこうと思った。
「じゃあ、以上で終わります。次の人を呼んできて」
「あの、先生」
「何?」
「次の人は、誰ですか」
「ああ。えっと」
 沢城は紙に目を落とし、
「日立くん――日立京悟くん。あなたと同じ、トランペット希望者ね」

 不思議な心地で、薫は音楽室への短い道のりを歩いた。怒鳴られることを覚悟して臨んだが、反応は概ね良好。海風薫は深水中の吹奏楽部員として籍を置くことを正式に認められたといってもいい。偉大な一歩だ、と薫は自信をつけた。自分はスタートラインに立つことができた。立ってしまえばこっちのもの、自分のペースで走り出そう。
 音楽室に着いた。そっと扉を開ける。なんとはなしに数人の視線が集まる中、薫は次にテストを受ける部員を目で探す。
 日立京悟。旧体育教官室の階段の上で鉢合わせした、あの男子生徒の名前。クラスも違うため、今日はまだ姿を見ていない。早く声をかけなければと、薫は一人できょろきょろと室内を見回した。皆の視線が痛い。逃げるように音楽準備室へ移動した。すると、ようやく見つけることができた。楽器のケースと楽譜、何に使うのかもよく分からない機器に埋もれた狭い部屋で、日立京悟は何をするでもなく、ただ立っている。
 京悟は薫に気づくと、視線を向けてきた。この間と変わらない独特の目つきに、薫は少したじろぐ。
「あ、日立くん。次、テストだって」
「ん」
 うん、ですらない、一文字の返答を残し、京悟は薫の横を通り過ぎていった。
 その後全員のテストが終わり、一部の人を除いてそれぞれの希望通りの楽器に内定が決まったとの知らせが、部長古高からあった。日立京悟も無事沢城に認められたらしい。薫はそれを聞いて、自分のことのように一人で安心していた。
 次の日。
 古高の指示により、薫をはじめ、吹奏楽部員たちは各自位置について座り、楽器も手にしていた。担当する楽器ごとに所定の位置が振り分けられ、薫たち金管楽器組は部屋の後方、古高、倉下など木管楽器組は前方、打楽器組は木管勢の横辺りに集まっている。
 薫はふと顔を右に向けてみた。
 日立京悟の姿がある。
 薫と京悟は二人並んで座っている。これから三年間、トランペットを彼と共にやっていくのだと思うと、薫は不安でいっぱいだった。二人でこの部の先導役となるにあたり、彼がいるからといって、自分が怠けるわけにはいかない。とりあえず頑張らなければ。
 薫は心の中で気合いを入れた。気合いを入れるなんてことは、薫の短い人生の中で生まれて初めてのことだった。
 皆、楽器を持ててやはり嬉しいのか、わいわいとか、きゃあきゃあといった楽しそうな声が盛んに響く。薫もその例に漏れず、自分が今トランペットを握っているという事実に、この上ない高揚感を覚えていた。
 美しく輝く銀色と、無駄のないシンプルな造形は、実際に手で取ってみるとよく分かる。テレビや映画で見るばかりだったトランペット。それが今、自分の手元にある。そして学校からの借り物ではあるものの、自分の楽器でもある。薫は高鳴る胸を抑えつつ、マウスピースが差し込まれた部分を口に当てる。いざ、第一音。
 ところが、そのせっかくの記念すべき瞬間を、クラリネットの美しい音色が遮った。まるで主に懐く猫の鳴き声のように可憐で、それでいてどこか高圧的な感じがする。薫はその時、なんとなく感覚で、ではあるけれど、楽器の音にはその人の性格が出るということを知った。
「さすが、鈴花」
 クラリネットを吹いているのは倉下だった。彼女は経験者だから、当然といえば当然だが、薫もここまでのレベルとは思っておらず、ただただ聞き惚れてしまう。他の初心者たちも倉下の方を横目に遠目に見やり、倉下が美しい音色を奏でる度に、隣でクラリネットとよく似た木管楽器であるオーボエを持つ女子生徒が、上手いね、すごいねと褒めちぎる。前にも倉下と一緒にいた人だ。おそらく、中学以前からの付き合いなのだろう。二人が本当に親友であるかどうかはともかく。
 負けてられない、と言わんばかりに薫が次こそとトランペットを吹こうとしたところへ、今度は沢城がやってきた。指揮台の上に立ち、指揮棒で譜面台を叩く。室内は水を打ったように静かになる。
「随分と綺麗な音を出す人がいるのね」
 言うなり、沢城は倉下を見据える。職員室を出てから音楽室に来るまでの道のりで、倉下のクラリネットの音をしっかり聞いていたようだ。薫は、別に自分が注目されているわけでもないのに緊張し始めた。
「倉下鈴花さん。クラリネットは、小学校から?」
「そうです」案の定、倉下は攻撃的な視線を返している。
「へえ、そうなの」
 しかし、沢城は倉下の敵意などまるでお構いなしとでも言わんばかりの態度だ。むしろそれを楽しんでいるかのように微笑すら作る。
「この部には幸運なことに経験者もいるようで、初心者の人たちは気後れすることもあるかと思いますが、焦らずじっくり基礎を固めていきましょう。では、今日はロングトーンから」
 結局薫が恐れていたような事態にはならず、練習が行われた。薫の記念すべき第一音は、薫自身もよく聞いていなかった。

「腹式呼吸っていうのは、だな」
 ここ数日の海風家の夕食後の話題は専ら、薫の腹式呼吸の上達ぶりの確認を皮切りに、吹奏楽の話へと繋がっていく。
「とにかくこう、息を吸うときに腹を膨らませるように意識するんだ」
 薫の父、明はすでに膨らみ気味の腹に手を当てて呼吸をしてみせる。息を吸っていくのと同時に腹が張り、吐くと同時に引っ込む。薫もそれを見てやってみるが、思うように上手くできない。繰り返しやるうちに、力を入れすぎたのか、腹が痛くなってきた。横で弟の真も真似しているが、同じくできていない。この間リコーダーを極めると大言していたが、もうとっくの昔に放り出してしまったようだ。
「食べたばっかりなんだから、やりすぎないようにね」
 母の栞に注意され、薫は諦めてソファーに寝ころんだ。ややあって、栞が食器を洗いながら、何気なく薫に話しかける。
「薫、部活はどう?」
「どうって、どういうこと?」
「ちゃんとやっていけそうなの、ってこと」
 薫は、家族に沢城香澄の野望について話していない。明も栞も真も、まさか薫が吹奏楽の全国大会の舞台に立つことなど、夢にも見ていないだろう。しかし、薫が考えるに、沢城は本気だ。もし本当に全国大会なんてものに自分が関わることになったらと思うと、薫はかすかの期待感と、途方もない緊張感の両方を抱く。吹奏楽の日本一を決める場所に立てる可能性がある。それは確かに凄いことだけど、まだ、勘弁してほしいという気持ちの方が強い。自分を変えてくれるんじゃないか、などという淡い希望を胸に入部した自分に、そんな大役が務まるとは到底思えない。
「今のところは、大丈夫かな」
 薫は虚勢を張る。だが真っ赤な嘘であるというわけでもない。本当に、今のところは大丈夫。
「そう。それならいいけど。夏にコンクールに出るのよね。みんなに負けないように、人一倍練習しないと。薫は不器用なんだから」
「そんな、不器用なんて。男の人に使うような言葉はやめてよ」薫の勝手なイメージだ。
「別に先生だって、薫にプロ並みの技術を求めているわけじゃないさ」
 明は穏やかな口調で語る。
「大切なのはコンクールで一番になることじゃない。それぞれ自分の楽器と腹を割って、自分の、自分だけの音を見つけることだ。薫にしかできないような演奏をしてやれば、先生も参った! って言うんじゃないか」
「先生負かしてどうすんのよ」
 明のありがたい言葉は、栞によって軽く笑い飛ばされてしまった。それをなんとはなしに見ていた真が「何? なんか面白い話?」と無邪気に聞いている始末だったので、明は機嫌を損ね、隣の洋間に引っ込む。
 でも薫は、父の、それこそ不器用な励ましで、少しだけ気が楽になっていたのだった。