今日ほどすぐにでも家に帰りたいと思う日はない。
四月中旬、月曜日午後。海風薫は授業を終え、絶望的な気持ちを抱え込みながらこの日中学校生活初めての部活動を控えていた。逃げてもよかったのだが、先日沢城に釘を刺されたこともあり、出向かざるを得なかった。
逃れられないのなら、せめて前向きに考える。初日にいきなり楽器を吹かされることはないだろう。単なる顔合わせから、せいぜい部長の決定までに留まるに違いない。薫は自身にそう思い込ませることでなんとか決心をつけた。変わりたいという願いは、とうの昔に立ち消えかけていた。
鉛のように重い足取りで、薫は音楽室へ向かう。ほどなくして、同じく新設吹奏楽部員であると思われる生徒たちに追いつく。背の高い人、低い人、眼鏡をかけた人、早くも楽譜を読みながら歩いている人、校則に引っかからないのが不思議なほどに長い髪を垂らした人など、多種多様だ。その大半は女子だが、中に混じってぽつりぽつりと男子生徒の姿もある。大人しいタイプの人だったらいいけれど、騒がしい人だったらどうしよう。一クラスに一人は必ず振り分けられる、事あるごとにうるさく声を張り上げているような人だったら。でも、そんな人はそもそも文化部なんかには来たりしないだろう。大丈夫、誰も彼も優しくていい人たちばかりだ。きっとそうだ。
そんな薫の憶測が終わらないうちに、薫を含めた新入部員が全員、音楽室に集まった。総勢、ざっと二十名。なんとか形になりそうな人数だった。
皆まだ打ち解けていないのか、会話はあまり生まれない。だがすでに二、三人のグループが形成され始めている。そのことが、薫の心を余計に曇らせた。さりげなく、室内を見回す。一人でじっと待っている人もちらほら、確認できた。他に一人でいる人がいる。馬鹿げているけれど、今の薫にとっては心強い事実だ。
途端、引き戸が動いた。沢城だ。
皆の視線が集中する中、沢城はすたすたと歩く。一面の窓を背にして指揮台の前に立ち、鋭い目つきで生徒たちの顔を見る。緊張した面持ちでやや下を向く者もいれば、冷めたような態度で睨み返す者もいた。それらを眺め終わった沢城は、なぜか満足そうに微笑む。
「皆さん、初めまして。音楽の授業があったクラスの人もいるかと思いますが、改めて自己紹介を。私が、この吹奏楽部を受け持ちます、沢城香澄です」
優雅な振る舞いで軽く一礼。数人の生徒が「よろしくお願いします」と声で返す。後の者は黙ったままだ。
「私がこの学校で教師として働くことも本年度が初めてですし、私が赴任した年度より新しい吹奏楽部を設立することも、もちろん初めてです」
一呼吸おいて、
「新設するにあたってまず必要なのは、当然ですが、部員です。今はとにかく人が欲しい。こうしてこの場にいてくれるみんなには入部してもらうのはもちろん、まだどの部にしようか悩んでいたり、別の部に一旦入ってみたはいいものの、全く続かず結局退部してしまったりした人が、もしお友達にいたら、いつでも、何人でも構いませんので、多少強引にでも連れてきてください。それから、下のきょうだいや、来年度以降深水中に通う予定である人にも、できるかぎり声をかけておいてください」
いきなり本気なのか冗談なのか分からない話をされて困惑しているのか、皆ほとんど沈黙を守っていた。沢城は構わず続ける。
「さて。それで、今からあなたたちは吹奏楽部として活動するわけですが、具体的に何をどうするか、そのあたりは知っていますか?」
ややあって、誰かが答える。「コンクール……」
「そう、コンクール。率直に言えば、中学校の吹奏楽部とはそれがすべて。だって所詮は中学の部活動だから。体育祭や文化祭などの中で校内発表のひとつやふたつはあるけど、みんなが聴く側だとして、素人集団の演奏に真剣に耳を傾けたりするでしょうか。せいぜい、下を向きながら隣のお友達とぺちゃくちゃお喋りの時間になるのが落ちです。そこにだけ全力を注いでも意味がありません。あなたたちの演奏を真剣に聴いてくれる人といったら、吹奏楽コンクールの審査員と、私たち教職員ぐらいです。部活動そのものが目的じゃない? 部活動を通して、何を学ぶかだ? それも結構でしょう。でもそんな頑張りも努力も、結局はコンクールの結果に収束されるのです」
音楽室は、無人のように静かだ。そして、重苦しい空気が流れている。薫は沢城の話を聞いていて、気分すら悪くなってくる。まさかとは思ったが、この先生は全国大会制覇を、本気で考えている。先生の言う通り、この素人集団で。
沢城は不意に笑みをこぼし、
「みんな、いきなりこんなことを言われてもどう返していいか分からない、といったような顔をしていますね。安心してください。吹奏楽とは、楽しいもの。吹いて、奏でて、楽しむものだから。大半は初心者だと思いますがしりごみせずに、楽しんで取り組みましょう」
楽しい、楽しむ、楽しんで。どれひとつとして、楽しそうに聞こえない言葉。薫にも、沢城が口先だけでものを言っているのだということが感じ取れる。
この日は沢城の話だけで終わるようだった。明日以降から一人一人のパート、つまり担当する楽器を決めていくことになるという。普段は音楽の授業で黒板代わりに使われているホワイトボードに、沢城の手によって楽器名がずらりと書き込まれる。トランペット、トロンボーン、フルートにクラリネット……。よく見知っているものから名前すら聞いたことがないものまで、種類はさまざまだ。のちに聞いた話では、オーケストラではさらに弦楽器が加わるため、より多くなるらしい。
この中から希望のものを選ぶことになるわけだ。薫は考えてみた。やっぱり、フルートが一番女の子らしくていいか。クラリネットは、ちょっと気取った感じがある。トランペットは、常に前を向いて吹かなければいけないので大変そうだが、上手にできればかっこいい。
「明日現物を見せてあげるし、希望者は試しに使わせてあげる。楽しみにしていて。じゃあ、今日はこれで解散」
沢城はそう言い残して音楽室を出ていった。
とり残された部員たちは、しばらくの間静かなままだった。その静寂を破ったのは、一人の女子部員だった。
「あんなババアに何ができるっての」
吐き捨てるような一言が、室内の空気を鋭く掠める。
「せっかく吹部が新設されるっていうから来たのに。あーあ、ウチら終わったね」
スイブ、というのは吹奏楽部の略であることを理解するのに、薫は少々時間を必要とした。この物言いから察するに、彼女は吹奏楽部に関わるのは初めてではないようだ。小学校で所属していたのか、もしくは習い事の一つとして習っていたのか。どちらにしても、ウチら終わった、という言葉は明らかに本心が滲み出ていた。彼女に何らかの経験があるなら、音楽の教師を見る目も少なからずあるだろう。あれだけ自信に満ち溢れていて、実は沢城は教えるのが下手なのか。それはまだ、誰にも分からない。
次の日薫が音楽室へ向かうと、なかなかに興味をそそられる光景が広がっていた。
まず目に飛び込んできたのは、金管楽器の金と銀のメッキが放つ輝き。間近で見てもその美しさは変わらず、丹念に磨かれたのだろうと思われる。名前は分からないが、管が複雑に入り組んだ巨大なものもある。両手で担ぐのだろうか。だとしたらかなり体力がつくかもしれない。
それらに相反する存在が木管楽器だ。木管とは名ばかりで、樹木っぽい色の楽器は薫の見る限りひとつほどしかない。まるで柱のように長く、それに纏わりつくかのようにして付属している銀の部品の数々。おそらくリコーダーと同じで、穴を塞いでいるのだろう。穴を開けたり閉じたりして音を吹き分けると予想できる。使いこなすには相当な根気が必要そうだ。こちらも名前は知らない。あまり有名ではないのだ。
そのほかは銀色のフルート、黒のクラリネット、さらに金色のサックス。どれもリコーダーと同じように穴が開いている。もしかしたらリコーダーも木管楽器の一つに含まれるのかもしれない。対して金管楽器のほとんどには、太い釘のように見えるものが三つ、多いものでは四つ並んでいる部分がある。試しに指で触れてみると滑らかに上下した。きっとこれを指で動かすことで空気の流れを操り、音を変えるのだろう。トロンボーンにはそれがないが、あの長く伸びた管をスライドさせるという違いだけで、理屈は同じはず……。
不思議と、次つぎそんなことを思っていた。
少し前までの薫は、逃げることばかり考えていた。どんな言い訳をすれば部活に顔を出さずにすむだろうか。どんな理由をでっち上げればサボれるだろうか。薫の頭の中にはそのことしかなかった。だが今は、少し違う。薫の中には確実に、期待が生まれ始めている。自分を変えてくれるかもしれないという希望的観測が、足元からじわじわと全身へ広がってきている。
音楽室には薫の他にも部員が来ていて、賑やかだった。見ると、昨日悪言を吐いていた女子生徒も整然と並べられた楽器を前にはしゃいでいる。百八十度異なる素振りだ。薫はなるべく、あの人とは同じ楽器を選ばないようにしようと思った。
「先生。好きな楽器を吹いてみていいですか」
またある部員が、待ちきれないと言わんばかりに声を上げる。沢城は昨日と同じ位置、指揮台の前で腕を組みながら立っていたが、
「駄目」
と、ただ一言。訊ねた本人は残念そうに一歩下がる。沢城は構いもせず、おもむろに台の上の指揮棒を取ると、台に三、四回打ちつけた。大きくはないが、若干の威圧感が込められた音が鳴り響く。沢城の意図を察した部員たちは、まるで沢城の魔術によって喋れなくなったかのように黙りこくる。
「結構。今後も私が指揮棒を叩いたら、口を閉じて私の話を聞くように」
無反応。
間もなく、再び指揮棒が叩かれる。
「返事をしなさい」
各部員、思い出したかのように「はい」と返す。薫も申し訳程度に声を出したが、きっと沢城の耳には届いていないだろう。返事をしようともしない者もちらほらいたが、沢城はそこまで咎めることはなかった。
「さて、みんな一通りそれぞれの楽器のイメージはつかめたと思うから、実際に使ってもらいましょう。でも、いきなり楽器本体を持つわけではありません」
沢城は近くにあったフルートと、トランペットを手に取ると、管の一部か何かを取り外してしまった。
「まずはこれだけで、音を出せるようになってもらいます。フルートの場合は頭部管、クラリネットはリード、サックスはネック、トランペット等の金管楽器の場合はマウスピース、と、いろいろあります。これらはすべて、楽器の一部にして、それだけで音を出すことができるものです。そして、唇の形や歯並びによって、人それぞれに合っている楽器、相性の良い楽器は違ってきます」
沢城はおもむろにトランペットのマウスピースを口に当てる。次の瞬間、音が響いた。
「ふ、ふふっ」
薫はその音を聞いて、まさに吹き出しそうになった。マウスピースから放たれた音は、普段耳にしているトランペットの美しい音色とはまるで比べ物にならない、汚くて、迫力もない、例えるなら破れた袋の穴から空気が漏れているような、ブー、という音。他の部員も同じことを思ったようで、こらえきれずに笑い出してしまう者もいた。だが当の沢城は表情一つ変えない。わざとやったわけではないようだ。
「間抜けな音でしょう? でも、断言します。今のあなたたちの大半は、こんな豚の鳴き声のような音すら、まともに出すことはできない。もちろん練習すればできるようになります。ただ、これひとつにもコツがあります。その気になれば、マウスピースだけでも音楽を奏でることだってできるけど、できない人には一生できない」
いわば、第一の分岐点というわけだ。薫はそう受け取った。薫はまだ、どんな楽器を吹いてみたいか決めかねていたが、強いていえば、高らかに吹き鳴らす楽器を担当してみたいと考えていた。肺活量も増えて、昔からコンプレックスだった小さな声も克服できるだろうと思ったからだ。
部員たちは早速、“豚の鳴き声”を鳴らすために練習を始めた。複数回繰り返してみて、上手くできそうならほぼ担当楽器が確定し、いつまでたってもできそうにない場合は、沢城から“異動”宣告が下される。吹奏楽器がどれも合わない者、歯の矯正を現行で進めている者は、ほぼ強制的に打楽器に回されてしまう。ある部員は自分がやりたかった楽器ができないと分かり泣き出し、またある部員は初めから打楽器希望で自らスネアの前に立つ。いろいろな人がいるものだ、と薫は部員たちを眺めながら思う。
薫は自分なりに一生懸命練習した。色々と試したが、薫が一番やりやすいな、と感じたのはトランペットのマウスピースだった。トロンボーンのものより一回り小さく、出る音もどこか高い気がした。沢城にも「あなたはトランペットで決まりね」と言い渡される。薫は吹奏楽部員として、とりあえずの一歩を踏み出した。
「トランペットですって、ねえ!」
その日の夜、薫は自分の担当楽器が決まったことを家族に話した。栞は、まるで薫が受験に合格したかのように喜び、事あるごとに「すごいねえ」を繰り返す。明や真にも伝え回っているのを見ると、薫は照れくさくてたまらなかった。
「トランペットといったら、あれだろ。マーチングで使う」
「お父さん、吹奏楽器のほとんどはマーチングに使われてるんだけど」
栞に指摘され、明は決まりが悪そうに苦笑する。
「分かっているさ。俺だってそこまで無知じゃない。頭の中に大体のイメージはある。それで、何ていうか、こう」
右腕の肘から上を前後に動かしながら、
「スライドさせるのが、なんだっけ、ホルンか」
「違う、トロンボーン」薫が得意気に訂正。
「そうだったか」
「ホルンはあれでしょ、巻き貝みたいな形のやつ」栞が定番の形容でフォローする。
「巻き貝っていうか、蝸牛の殻ね」
「他にはどんな楽器があるんだ?」明が訊く。
「うーんと、チューバとか、ユーフォニアムとか」
「ゆーほ、なんだって?」
「あんまり有名じゃないんだけど、すごく綺麗な音が出るらしいよ」
「へえ」
薫はその晩、自分でも驚くほどに多くを話した。顧問の先生がかなり厳しそうなこと、その先生をババア呼ばわりした女子生徒がいること、部員の中には少数ではあるが男子もいることなど、話題は尽きなかった。いつもは一言二言で会話が終わってしまっていたことを、薫はなんだかんだといっても気にしていたので、良い機会が作れたのでは、と少し嬉しくなった。
そして、明らかに今の自分には、いい風が吹き込んでいる。そう、感じていた。
翌日は土曜日だったが、薫は平日と同じ時間に起床し、学校へ行く仕度をした。今週から土曜日の午前中にも部活動が行われることになっており、吹奏楽部もその例に漏れない。薫は平日以外に学校へ行くのは久しぶりだった。憂鬱といえば憂鬱だったが、昼になれば帰れるのでそれほど苦ではなかった。休日は昼まで寝ていることが多かったこともあり、むしろ早起きする理由ができて得した気分だった。午前は部活を頑張って、午後からは自分の好きなことをする。考えてみればみるほど素晴らしいことだ。薫はそんな風に、以前より物事を前向きに捉えられるようになっていた。
まだ四月だが、初夏のように暑い日だった。時折聞こえる雀の鳴き声と、若葉の掠れ合うさわさわという音が、薫の心を弾ませる。暖かな日差しの中を歩き、やがて学校に辿り着く。
爽やかな風が吹き抜ける下駄箱近くで、一人上履きに履き替える。人はあまり見かけない。通学路ででも深水中の生徒とはすれ違わなかった。なぜだろうと不安になるが、校舎の二階の窓から外を見ると、グラウンドにてすでに野球部らしき男子生徒たちが散らばっていた。単に、他の部の始まりが早いだけのようだった。薫は、自らが鳴らす足音を妙に意識しながら、静かな校舎を進んだ。まだ、音楽室へ行くのは慣れない。
それでも辿り着いて室内に入ると、知らない女子生徒に話しかけられて薫は固まった。
「あ、部員ね。今日、沢城先生出張で来られないそうよ」
眼鏡をかけた女子生徒は、事務的な姿勢を崩さない。同学年とは思えないほどに大人っぽい人だ、と薫は思った。それにしても、四月のうちから出張なんて、いったいどういうつもりなのだろうか。先生無しで練習するとでもいうのか。
「それで私、先生から伝言を頼まれているの。『各自、楽器の一部のみで音出しの練習をすること。最低でも二十秒音を持続させられるようにしなさい。週明け、一人ずつテストを行う』。以上です」
「は、はあ」
薫は異議を唱えたくてたまらなかったが、返事をするのみだった。
「それからあなた、名前は?」すかさず訊かれる。
「え、あ、はい。海風です。海風薫」
「希望楽器は?」
「希望というか、先生に合っていると言われたのは、トランペットです」さっきから、なぜか敬語だ。
「私は古高葉子。希望楽器はフルート。ところで海風さんは、部長になりたいとか考えてる?」
「とんでもない」とんでもない、と、心の中でも一声。本音と建前が重なる数少ない瞬間だった。「でも、なぜそんなことを」
「私、立候補しようと思っているから。聞いてみただけ。受験で武器になるし」
まだ中学生になったばかりだというのに、高校のことを考えている。それだけで薫は、古高がひとつ上の世界にいるかのように思えた。
「それにほら、この吹奏楽部をまとめるのって、やりがいがありそうじゃない。最初の集まりの時に一目見ただけでも、本当にいろんな人がいた」
薫はろくに他部員の顔を見ていなかったので、印象に残っている人といえばババア発言をかました反抗的そうな女子生徒だけだった。ちなみに彼女は昨日、クラリネットのリードを綺麗に鳴らしていた。やはり経験者らしい。
「中にはとんがっている人もいるけど、本当に問題なのは怠惰な人よね。いくら攻撃的だろうと、吹奏楽部員として役割を果たしてくれれば、それでいいし」
古高は銀縁眼鏡を軽く持ち上げて、
「あなたは、大丈夫ね。見るからに真面目そう」
「それはどうも」
薫は声にならない声で、あなたには言われたくない、と付け加えておく。
その後部員は全員そろったが、皆思い思いの仲間と思い思いの場所で練習するのだろう、荷物だけ置いて音楽室を去ってしまった。気がつくと薫は一人、音楽室の中央で立ちつくしている。室内にも数人のグループがいて、談笑しながら楽しそうに練習していた。当然、薫のことなど眼中にない様子だ。そもそも誘われることも期待していなかったので、薫もマウスピースを片手に部屋を出た。
薫は一人で練習場所を探す。最初に思い浮かんだのは自分のクラスの教室だったが、案の定固く施錠されていた。続いてトイレの個室に入ってみる。ひどく落ち着くが、同時にひどく悲しくなり、五分も経たずに出る。どこか空いていて、かつ人がいない場所はないか、てくてく歩いて見回ったが、良さそうな場所はすべて鍵がかかっていて入ることができない。無論、屋上へと続く扉もそうだ。漫画やアニメの登場人物は使われていない部屋や屋上で弁当を食べたり昼寝をしたりしているのに、現実では立ち入ることすら許されない。本当にそういうことをしたいと思うなら、職員室で鍵を掠め取ってくればいい話だが、そこまでの度胸も行動力も、薫にはない。当てもなくとぼとぼと廊下を進み、ふと角を曲がれば、古高とその友達らしき部員がこちらに向かって歩いてくるのが遠目に見えたから、慌てて引き返す。そんなことをしている間にも、時刻は九時半近くだ。三十分もの間、薫はろくに練習もせずただ校舎の中をうろうろ歩き回っていただけだった。
薫はこの事実について特に何も思わない。まあいいか、と下駄箱で靴に履き替え、外に出る。屋内はいろいろと障害が多いので避難する。
校舎の裏に回り、運動場に出る。心なしか、小学校よりも広大だ。野球部員に見つからないように、等間隔に植えられた木の陰に隠れながら歩いていく。どこか、安心して一人になれる場所を探して周囲を見回すと、気になる建物があった。トタン造りの二階建てで、その二階部分から校内側に向かって露台が張り出している。枯れかけの植物がそのまま、根を鉢に収めて複数茂っており、建物の錆色にわずかながらの鮮やかさを付加している。さらに近づくと、錆が一層はっきりと確認できた。換気扇も埃を被り、とても動きそうにない。
薫はここへの侵入を試みることにした。まったくといっていいほど人の気配がしないので使われてはいないだろうが、おそらくここも施錠されているだろう。それでも、開いているかどうか確かめるだけでもしようと思った。ほんの、軽い気持ちだった。
露台の反対側にある階段を一段ずつ上がっていく。かん、かん、という足音を響かせて、登りきる。
背中があった。
薫はその時、完全に無防備だったから、思わずたじろいでしまう。薫は自身の性格上、自分は人の気配をそれなりに感知できるものだと思っていたが、こんなことは初めてだった。
反対側の階段の、一番上の段に腰を下ろしているのは、どうやら男子生徒のようだった。黒の制服を脱ぎ、半袖の白シャツを露わにしている。短髪で、太ってはおらずむしろ華奢だが、背中から男子特有の筋肉が見て取れた。もしかして、野球部だろうか。薫がそう思った時、男子生徒が振り返った。
男子生徒は――彼は、薫に横顔を見せながらも、はっきりと視線を向けてきた。睨むというほどではないが、少々鋭い目つきだった。そして、手にはトランペットを持っている。マウスピースのはめ込まれた、銀色に輝くトランペット。彼も部員のようだ。そういえば見たことのある顔だ、と薫は一人で納得する。
「何」
薫が黙っていると、彼の方から言葉を発し始めた。薫はうろたえる。
「あ、え、その」
「ん?」
「どうして、楽器を」
「先生に言われたから。お前はトランペットだ、って」
「そうじゃなくて」ゆるゆると首を横に振り、
「今日はマウスピースだけで練習するって聞いたけど」
「退屈になりそうだったから、準備室から引っ張り出してきた。音も出せるぞ」
プー、という音を響かせる。テレビなどで聞くような、トランペットの音そのものだ。それにしても大胆なことをするなあ、と薫が呆気にとられていると、彼は立ち上がり、完全に身体を薫側に向ける。背はさほど大きくなく、薫より少し高いくらいだ。
「もしかして、吹奏楽部員か」
「はい……いや、うん。わたしも、トランペット」マウスピースを掲げてみせる。
「そうか」彼は特に表立った反応を見せない。ずっと涼しい顔をしている。
「で」
「え」
「何か用? 招集がかかったとか?」制服の上着を手で持ち上げながら、彼は言う。
「いや……」
薫は困窮した。彼の視線から逃れたいという本能が働き、思わず顔を右に向ける。すると、
「うわ」
思わず、声が出た。
学校の外側、階段の上から見えたのは、海だった。といっても、一面広がっているわけではない。校内区画用の高い木々を額縁代わりに、軒を争う家々に囲い込まれ狭まり、ずっと遠くに少しだけ、だが確かに輝いている青い海のある風景。さながら絵画のようである。
「ここだけなんだ」
いつの間にか、彼も小さな海を見ている。
「この辺はマンションとか高い建物が多くて、校舎からは海が見えない。でもここだけ、偶然障害物が何も無かったり、偶然高いところに登れる場所があったりして、条件が揃ってるから、なんとか少しだけ見える」
「そうなんだ」
小声でただ一言だけ返す薫をよそに、彼は左耳を海の方へ向けた。
「さすがに波の音は聞こえないけど」
そりゃこれだけ離れていれば当然だ、と、薫は心の中で言う。すると次の瞬間、彼は突然薫に背を向けた。突発的にこんな行動をされると、心の声が聞こえたのか、などと考えてしまう。
「なんでこんなところに来たのかはもう聞かないから」
「あ、うん」
「俺が黙って楽器を持ち出したことは、先生には内緒で」
「えっ、ああ、うん」相変わらず狼狽せずには喋れない。
「それからここのことも。本当は一人占めしたかったけど、知られちゃしょうがないし」
「海が見える場所だから?」
「それもあるけど」
少し間を置いて、
「学校って、なかなか一人きりになれる場所がないだろ」
「そう、かも」肯定するほかない。
「今度から、ここに来るときはつけられないようにしろよ」
薫は再三、戸惑ってしまう。そんな、忍者じゃないんだから。
結局彼はそのまま階段を降りていった。とり残された薫は、彼を呼び止めることも、彼の名前を聞くこともできないまま、ただ海の向こうから届く風に吹かれていた。
後で分かったことだが、薫が訪れたあの場所は旧体育教官室であるらしい。建物が老朽化してきているため、なるべく立ち寄らないように、との注意を小西から受けた。薫は、あの小さな海をまた見てみたいなとは思ったが、結局小西の言う通り、近寄ることをやめた。