眩しい光に導かれ

 海風薫は、柔らかく温かな世界の中で目覚めた。
 手を伸ばし、時計を見る。ぼやけ気味の視界が徐々に晴れていくと、今が朝の七時であることが判った。そう認識した瞬間、薫は身体がずどんと重くなったような気がした。抜け出してみれば、それまで柔らかく温かだった世界――ベッドは、ただのもぬけの殻でしかない。
 とうとう、来てしまった。
 窓の外を見る。薫の心情とは対照的に、いい天気だ。開け放してみれば春の空気が押し寄せる。薫は大きく伸びをした。目をこすり、改めて町を眺める。この部屋は二階だから、薫の住む若草市の一角がある程度見渡せる。市の名前にもある通り、緑が豊かなところである。薫は今までに一度たりとも、ああ、ここは緑が豊かだなあ、と心から思ったことはないけれど。それに薫は、鮮やかな緑色よりも、淡い青の方が好きなのだ。
 薫は、今年から中学生になる。今日は入学式だ。ついこの間まで最上級生だった者たちが、再びぴかぴかの一年生に逆戻りする。制服は新しくなり、ほんの少しだけ大人っぽくなる。そして何より、もうランドセルを背負うことはなくなる。薫は別段ランドセルを嫌っていたわけではないが、普通の鞄を持ち運ぶという目に見える成長はやはり嬉しい。
 だがそれとこれとは話が別で、薫の表情は暗いまま変わらない。
 着替えて、居間に降りた。母の栞、弟の真が揃ってテーブルについている。父の明はすでに出勤済みだ。
「ほら、薫。早くしなさい。今日から学校でしょう」
「うん」
 新学期初日の朝定番の台詞を聞き流しながら、薫は席に着き、やや焦げたトーストを手に取る。パンの粕が指にこびりつく。
「姉ちゃんって、もう中学生?」真が栞に聞いた。
「そうだよ。真もあと四年したら、お姉ちゃんと一緒の中学に行くんだからね」栞が返す。
「それって深い方の深水中でしょ。おれ、清い方の清水中がいい」
 若草市には二つの「しみず中学校」がある。それぞれを呼び分けるために、市民は専ら清い方の清水中、深い方の深水中という言い方をする。薫がこれから通う深水中は公立だが、清水中は私立だ。学費がかさむ分、清水中は比較的評判がよく、信頼もある。
「そんなこと言い出す前に勉強の方をどうにかしなさい」
 真の要求を、栞は別の話題にすり替えてかわす。真は不機嫌そうに牛乳の残りを口に流し込んで、何も言わずに行ってしまった。コップは綺麗に空いていた。
「ほら、あんたも行きなさい。入学式、お母さんも後から行くからね」
 急かされた薫は、飲み物を半分以上残したまま席を立つ。玄関へ歩くと、真が慌ただしく靴を履いているのが見えた。
「いってきまーす」
 栞が大声で返事する頃には、真は家の前の坂道を駆け上がっていた。もうちょっとゆっくりすればいいのに、と薫が日頃思うほど、真は行動が常に素早い。まるで何かに追われているかのようにせかせかしている。
「じゃ、行くから」
 一方薫はのんびり屋だ。二人はきょうだいなのに、似ているところがまるでない。

 海風薫は、幼い時からとても大人しい少女だった。
 まだ自我も形成されていない時期は薫本人もよく憶えていない。しかし物心ついた時には、薫は家族以外の人間から一歩距離を取ってきた。栞と明は、単なる人見知りだろう、そのうち親友の一人や二人すぐにできるさ、と軽く考えていたが、薫が歳を重ねて思春期を迎えても、その傾向は変わらなかった。
 他人に興味がないわけではない。整った顔立ちをした男の俳優をテレビドラマで見た時、素直にかっこいいと漏らすし、スタイルのいい女性を町で見かけたら羨ましそうに目で追っている。小学校のクラスメイトに、頭が良くて、運動神経も抜群で、明るく元気な女子生徒がいたが、薫は彼女と友達になりたいと思った。いろんなことを聞きたかったし、知りたかった。だが、薫は小学校を卒業するまで彼女と友達になることはなかった。そもそも、友達と呼べるような友達は一人もいなかった。
 薫には、いじめに遭っていたとか、親友と思っていた相手に裏切られたとか、そういった過去はない。友達を作るという行為をためらうようになるような出来事には一切遭遇していない。薫自身も、友達が欲しいと願っている。誰かと一緒におしゃべりをしたり、勉強を教え合ったりすることに憧れている。
 なんで、わたしには友達ができないのだろう。そんなことを数えきれないくらいに考えた。しかし、考えがまとまったことはない。自分から行動を起こさないからだ、暗くて、家でテレビばかり見ているナマケモノだからだ。そんな風に、具体的な理由は二、三浮かび上がるのだけど、いつも途中で深い靄に包まれてしまう。
 そして考えるのを放棄する。
 ため息と一緒に、友達が欲しいという願いまで吐き出してしまう。
 面倒くさいとは少し違う、怖いというわけでもない、何か得体の知れない感情が薫を邪魔していた。ずっと的確な言葉を探してきたけれど、しっくりくるものがない。たった一言で表してしまえば、自分が悩み苦しんでいた問題が、一気にちっぽけなものに思えてくるのかもしれない、でも、できそうでできない。
 中学にあがったら、誰かが話しかけてくれる。自分と同じ独りにはなりたくない誰かが、同じ独りの自分に声をかけてくれる。今の薫には、そんな受け身の考え方にすがりつくことしかできないのだった。

 深水中への道順は、さして小学校と変わらない。少し複雑になって、距離が増えただけだった。薫は一人で登校した。すでに友達同士で歩いている子もいれば、母親と一緒に並んで歩いている子もいる。薫は黙々と歩いた。途中何度か桜の木の下を通ったので、頭の上に花びらがくっついていないか気になって、さりげなく手ではたいたりした。
 深水中は丘の上に建っているので、通学路は自然と坂道が多くなる。校門近くになると、坂の勾配はますます急になってくる。今日は入学式だけで帰るからそんなに苦ではないけれど、教科書やノートをいっぱいに詰め込んだ鞄を背負って登るとしたら、きっと軽く息が上がってしまうだろう。薫は体力がない。また自身もそれを自覚している。
 広々とした校舎の玄関に入る。生徒が大勢だ。薫と同じ新入生だけでなく、背の高い上級生も数人いて、忙しく動き回っている。きっと手続きか何かを手伝うのだろう。薫も大人びた顔立ちの女子生徒に、胸に花の飾りを付けてもらった。
 掲示されたプリントを見て、自分のクラスを確かめる。海風薫、一組。予想通り、名簿番号は一番だ。そのまま自分のクラスメイト達の名前をなんとなく眺めてみるが、親しい人はいない。半数以上は同じ小学校の同級生だけど、互いに名前と顔だけ見知っている程度だ。だから薫の本性を知っている。もう半数は薫のことを最初、普通の女子として見るだろうが、じきに思い知るだろう、薫がどういう人間なのかということを。
 教室に入り、隅にある自分の席に座る。さすがに初日から机に突っ伏すわけにもいかず、ただじっと静かに待った。すぐ傍に教室の入り口があり、新入生がつぎつぎと、なんとなくそわそわしながら入ってくる。たまに薫のことを視認するが、すぐに通り過ぎていく。薫はそれに対し、何も思わない。
 しばらくして、中年の男の先生が体育館に入るように呼びかけた。薫は当然、先頭を歩くことになる。それなりに緊張したものの、言われた通りに歩いていたらいつの間にかパイプ椅子に座っていて、入学式が始まっていた。
 中学校の入学式とは、何も新入生たちだけが参加するわけではない。在校生の始業式も兼ねている。そのため、クラス担任の発表になると、途端に体育館内にどよめきが起こる。担任が誰であるか、中学生にとってそれは重要なことらしい。
「それではまず、一年生から発表します。一年一組、小西奈央先生」
 体育館のステージ上にずらりと並んだ教師たちの中から一人、長髪の女性が一歩前に出た。見るからに優しそうな先生だ。薫はほっとした。男の先生は苦手だし、厳しい先生はいろいろと面倒だからだ。
「……一年三組、坂口昴先生。そして、一年四組、沢城香澄先生です」
 続いて二年、三年生の担任も発表されたが、薫はまともに聞き取れなかった。教師の名前が教頭の口から発せられるごとに、歓声とも、ブーイングともつかないような一騒ぎが起こるのだ。来年は自分たちが騒ぐ番になるが、誰が“歓声”で、誰が“ブーイング”なのだろうか。薫にはまだ、知る由もない。
 以降、何事もなく式は終わる。教室で小西奈央から簡単な挨拶を聞かされ、生徒手帳やら書類やらをもらって、即解散となった。薫は栞と共にさっさと帰路に着いていた。道に沿って等間隔に植えられた桜が薫たちを見送る。
「ね、ね、薫。小西先生、いい先生みたいだね。でもお母さんは坂口先生もいいなあ。若くて、カッコいいじゃない」
「そうなの? あんまりよく見てなかった」
 学生の母親とは、教師の話をよくする。薫が中学に上がった途端、それが顕著に表れるようになり、薫自身は親しくもない同級生の母親と何やらいろいろ話し込んできていた。薫はそれに対して鬱陶しそうにあしらうことはせず、ただ適当に相槌を打つ。
「さ、これから忙しくなるよ。勉強も大事だけど、中学校は部活動も活発だからね。ここは何だっけ、野球部? が全国大会に行ったこともあるんだって」
「へえ、すごいね。じゃあ、その野球部のマネージャーにでもなろうかな」
 冗談でそんなことを言ったら、栞が吹き出した。しかし、薫は腹を立てない。むしろちょっとだけ得意になる。わたしだって、これくらい気の利いたことが言えるんだ。
「まあ、あんたが心から熱中できるところに入りなさい」
「んー」
 薫の返事は、うやむやのまま春の風に乗って消えた。
 今日は本当にからりと晴れていて、太陽の光が眩しい。
 眩しすぎる。

 海風薫が深水中に入学して一週間が過ぎた。
 授業らしい授業はあまりしていない。ある教師は中学校と小学校との違いを説き、またある教師は生徒全員に一人ずつ自己紹介をさせ、またある教師は自らの身の上話でまだ硬い生徒たちの表情を崩した。いわゆるオリエンテーションというものだ。薫は、そんなことしなくてもいい、さっさと授業に入ってほしい、そう思っていた。結局、この一週間で教科書を開くことはなかった。そして、薫が笑顔でクラスメイトと話すことも。
 ついこの間までは真新しくて歩くことが少し楽しかった通学路も、すぐに慣れてしまい、ただただ苦痛な道でしかなくなった。気がついた頃には、桜の花は残らず散り、早くも緑の葉が顔を出し始めている。毎年これを見て、薫はがっかりする。もう春が終わったかのように感じられるからだ。同時に、これから学校生活が本格化することを示唆しているとも思えて、余計に木の下を通り過ぎるのが辛い。
 週明けの朝、薫のクラスの担任教師小西奈央が、生徒全員にプリントを配った。
「皆さんには、中学生になったからには、勉強だけでなく部活動も頑張ってほしいと思っています。というわけでこれは、仮入部届です。今週いっぱいの放課後は、各部の活動を自由に見学してもいいことになっています。自分が三年間しっかり取り組める部活を探してくださいね」
 プリントには、深水中に存在する部活動の一覧が載っている。野球部、テニス部、卓球部、水泳、剣道、美術に吹奏楽……。初めて見るような、珍しい部活は特にない。
「先生、帰宅部に入りたいんですけど」
 誰かがふざけたような口調で声を上げた。小西はさも当然だとでも言うように、
「だーめ。深水中には帰宅部なんてありませんし、無所属も基本的には認められていません。必ずどれかの部に入ってもらいますよ」
 そう言って、小西は朝のホームルームを終えた。教室がいつにも増して騒がしくなる。その喧騒の中、薫は今すぐにでもプリントをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込みたい気分だった。
 薫は小学校時代、読書部に所属していた。といっても、まともに参加したことはない。いわゆる幽霊部員で、毎日授業が終わるとすぐに家に帰った。理由は単純で、学校という場所に、必要以上長くいたくなかったからだ。だから、一番サボりやすそうな部活を選んで、籍だけ置いていた。家族に聞かれた時は、適当に本の名前を出してごまかしていた。
 読書部という部活自体、“幽霊部活”のようなもので、薫がろくに参加しなくても、誰かから咎められたりすることはなかった。そもそも顧問が誰で、所属部員が誰で、何人くらいいるのかということすら、薫はよく知らない。もしかしたら、顧問なんていなかったのかもしれない。そして薫が何も知らないということは、相手側もきっと、薫のことを何も知らないだろう。
 薫はそうやって部活動から逃げてきた。その報いは、薫の人見知り具合に拍車がかかったことだった。目の前の問題からも、自分からも、目を背けて生きてきた。
 でも。
 ここで変わることができるなら、変わりたい。薫は素直にそう思った。今のところクラスには馴染めていない。でもどこか部活に入ることで、また新しい出会いがある。それがきっかけとなり、部活に、そしてこのクラスにも溶け込めるかもしれない。誰かが、わたしを変えてくれるかもしれない。
 その日の夜、薫は部活のことをまず家族に相談した。母の栞は、
「あんたは運動がからっきし駄目だからねえ。もちろん薫が決めることだからいいんだけど、お母さんは文化系もいいと思うな」
「運動が駄目だからこそ、運動部に入るべきだろう」
 そう言ったのは父の明だった。栞は水を差されて少し腹を立てる。
「それは、そうかもしれないけど。この子の場合、ちょっと辛かったらすぐ辞めちゃいそう。自分のペースでできるものじゃなきゃ、やっぱり」
「だったら、美術部とかか。ますます運動不足になりそうだな」
「そうだね……」
 そう答えたものの、薫自身は美術部に入ろうと考えていた。理由は、楽そうだから。でもそんなことを言ったら失望されるから、黙っている。あとでもっともらしい入部動機なんて、いくらでもでっち上げられる。
 三人で悩んでいると、二階から弟の真がどたどたと降りてきた。手にはリコーダーが握られている。まだ入学したてのこの時期に、いきなりリコーダーのテストがあるのだろうか。薫は疑問に思って訊ねてみた。
「それ、どうしたの」
 真は質問には答えず、いきなりリコーダーを鳴らし始めた。メロディにもなっておらず、大きく外れた音の連続でしかないが、本人は楽しそうだ。少し吹いて満足したのか、一分も経たないうちにやめてしまった。
「おれ、リコーダー極める!」
「はあ?」栞と明の声が重なる。一方薫は、もう真の行動に合点がついていた。
「今日、音楽の授業があった?」
「うん」
「来たんでしょ、あの人が」
「あの人って、誰」栞が訊いた。
「名前は忘れた。でも、リコーダーのプロの人がね、毎年四年生の子たちに演奏を聞かせに来てくれるの。わたしも聞いたから、よく覚えてる」
「あ、そう。で、すっかり影響されちゃったと」
 真の好奇心旺盛さは海風家では有名だ。自分がやりたいと思ったことには、とりあえず取り組んでみる。面白かったらさらに続けて、つまらなくなったらすぐに投げ出す。要するに、熱しやすく冷めやすい性格だ。今日もプロの超絶技巧を目の当たりにして、自分もやってみたくなったのだろう。分かってみれば、簡単なことだ。
「そうだ。薫、楽器を始めてみるのはどう」
 甲高い声で栞が提案した。楽器ということは、すなわち吹奏楽部のことだ。薫は心の中で舌打ちした。せっかく、美術部でいいやという流れになっていたのに。
「お母さんね、中学の頃は吹奏楽に憧れてたんだ。でも別の部に入っちゃったから、それがね、ちょっと心残りだったの。薫が入ってくれたら嬉しいかも」
 自分でなく、娘である薫が自分の憧れだった吹奏楽部に入ってくれることが嬉しい。栞はそう言った。薫は母の気持ちが今ひとつ理解できない。
「でも、楽譜の読み方とか分かるのか」またしても明が口をはさむ。
「そんなの先生が一から教えてくれるでしょ。薫、音楽の先生って、名前、なんて言うんだっけ」
「確か、沢城先生」
 眼鏡をかけていて、すらっとした人だった。挨拶を淡々と済ませ、初対面であるにもかかわらず生徒たちを一瞬で静かにさせるほどの威圧感の持ち主だ。薫は今まで生きてきて教師に叱られたり怒られたりしたことはないが、それでも雰囲気が怖い教師にはあまり関わりたくない。
「何の話?」それまで黙っていた真が、栞に訊いた。
「お姉ちゃんの部活、どれにした方がいいかなって。お母さんは吹奏楽がいいと思うんだけど」
「おれの友達の兄ちゃんもそれだ」
「へえ、そうなの。何か言ってた?」
「うん。宗教だって」
 今度は薫も、真の言葉の意味が分からなかった。

 結局、薫は吹奏楽部に入部届を出すことにした。
 別段、栞の勧めにより関心が湧いたというわけではない。しかし、家族の総意をふいにするほどの決断力を、薫は持ち合わせていなかった。薫は幼い頃から、親の言うことを聞いていれば大抵のことはうまくいくと信じていた。
 その日の授業後、薫は一度くらい見学しておこうと思い、慣れない足で音楽室を訪れた。まだ楽器の音は聞こえてこない。おそらくまだ始まっていないのだろう。入り口の扉に耳を近づけてみるが、そもそも人の気配がしない。ノックをして、おそるおそる戸を引いた。
 誰もいない。薫は驚いた。まだ部員が集まってもいないのだ。もしかしたら深水中の吹奏楽部は薫の小学校の読書部と同じく、やる気のない人たちが入る部活なのかもしれない。
 少し待ってみたが、どうしても早く帰りたいという気持ちが勝る。こうなったらまた明日来よう。薫は一人で頷き、踵を返した。
 目の前に、沢城香澄が立っていた。
「あなた、何組?」そして、薫に対し唐突に話しかけてくる。一年生だということはすでに見抜かれているようだ。雰囲気で判るものなのだろうか。そんなことを考えながらも、薫は緊張で一瞬声の出し方が分からなくなった。相手がこちらのことを見た目で判断したように、薫も沢城のことを直感で判断する。この先生は、敵に回さない方がいい。
「一組の、海風です。吹奏楽部の見学に来たのですが」
「吹奏楽部なら、今年から新設されるのでまだ活動はしていません」
 薫は「え」と声に出してしまう。新設などという話は初めて聞く。深水中ホームページにもそれらしいことは書いていなかったし(そもそも最近更新されているかも怪しかった)、小西もプリントを配った際、各部の近況については一切触れていなかった。
 入学早々恥をかいてしまった。薫は俯きがちに「さようなら」と挨拶して、沢城の横を通り過ぎようとした。すると、沢城は薫を呼び止める。
「海風さん」
「はい」努めて冷静を装い、薫は応じる。
「見学しに来たってことは、入部希望者?」
「そう、です」
「やめないでね」
 予想通りの言葉に、薫の心はますます重くなる。新入部員が集まらなければ部を創設した意味がない。そのためには、使い物になるならないに関係なくこうして一人でも多くの部員を確保しておく必要がある。教師と生徒という二人きりのこの状況では断り辛い。卑怯とは言わないが、正攻法とも言えないやり方だ。
「今年は無理だけど」沢城が音楽準備室の鍵を開けながら続ける。
「今年の一年と来年の一年を合わせれば、コンクールの大編成に足りる数になる。連れていってあげるから、全国大会まで」
「全国大会?」薫は軽い気持ちで聞き返す。
「そう。この学校の吹奏楽を、日本一にする」
 沢城はその言葉を最後に、準備室に閉じこもる。
 薫は、沢城が冗談を言っているのかと思った。新設二年で日本一。吹奏楽のことをまるで知らない薫にも、それが無謀な夢だと判る。