日立京悟は、キャッチャーマスクをつける前に、ふと空を見上げた。
円形状のドームがくり抜いた夏空は、どこまでも高く澄んでいる。まだ午前中だというのに、すでにユニフォームはじっとりと汗ばんでいる。今日も帰ったらすぐ風呂に入ろうと、京悟は少しの間、ぼんやり考えた。
目線をグラウンドへ戻し、マスクをつける。キャッチャーボックスにて腰を下ろし、静かにミットを構えた。土を蹴り、一番打者が京悟の前に立つ。小柄だが打ちそうだ。京悟はサインを出しながら思った。京悟の勘は、よく当たる。
後方の審判が、大きな声で試合開始の合図を放った。
選手たちを取り巻く空気が冷たく張りつめた。観客席のほうは依然として、その熱気を保ったままだ。選手の保護者たちはあっちに応援、こっちに応援と忙しい。観戦自体が好きなのか、後部席の辺りにぽつぽつと散らばっているのは、野球帽を深く被り半袖短パンの格好をした中年の男性たち。腕を組みじっと球場に目を落としている。前方では選手たちの通う学校の吹奏楽部が総出で演奏を披露している。まだ試合開始間もないというのに、彼らの大半は汗だくになっていた。
京悟は、マスク越しにただ一点、投手の手の動きだけを見ていた。
投手はゆっくりと左脚を振り上げた。
次いで左膝をすっと腹の辺りに寄せる。それを始めに、全ての力を中心へと持っていく。
そして滑らかに開放。
上げた左脚で力強く大地を踏みしめたかと思えば、彼の右手は大きく円を描いて前へ突き出された。集めた力を纏った球は投手の右手を離れ、京悟のミットに大きな音と共に収まった。いつにも増してパワーのあるストレートだ。京悟はすぐさま打者を見た。さっきかすかに開いていた口が、きゅっと結ばれていた。目も見開いている。
「ストラーイクッ」
審判の濁声は、球場を沸かせた。やや野太い声の重なりが響き渡る。一瞬静かになったので、京悟のもとにも吹奏楽の演奏が届いた。投手に球を返しながら、耳を傾ける。
曲の名前は、京悟には分からない。でも、懸命さが伝わってくる音楽だった。ときどき音を外す。とぎれかける。そしてまた、始まる。
京悟は再び腰を下ろした。
試合は滞りなく進む。京悟のチームが勝っていた。三回まで失点無し、攻撃は二番から五番まで打者が出て、結果一点が入った。その後は双方点が入らないまま、淡々とした運びとなった。
「お前、なんかヘンだぞ」
京悟に声がかかったのは、七回裏、京悟たちがダッグアウトにて控えている時だった。声をかけたのは投手の荒川翔だった。彼は今まで、応援の掛け声以外で言葉らしい言葉を発さないままだったが、ここにきて突然選手に呼びかけたので、他の選手や監督は驚いていた。京悟はタオルで汗を拭きながら応じる。
「何が」
「うまく言えないんだけど、投げてて、しっくりこないっていうか。こんな感覚、今まではなかった。俺がなんともないってことは、京悟の方かなって思ってさ。お前、集中してんのか」
「うん」
審判が打者三振の合図を発する。七回が終了した。監督が選手たちに出陣の指示を出す。まだ納得がいかない様子の翔は、黙々と捕手の装備を身に着ける京悟の肩を少し強めに叩いた。
「まあ、あと二回だ。六人ぐらい、すぐ取れる。頼んだぞ」
「わかった」
京悟の返事は、どこかおぼつかなかった。
八回、敵チームの打者がヒットを打ち、試合は動いた。それまで乱れることのなかった流れが突然揺らぎ、チームメイトたちは動揺を抑えられない。結局九回が終わるまでに二点を返され、京悟たちは試合に敗れた。準優勝だった。
「本当に、悪い」
試合終了の礼の後、翔はチームメイト全員にそう言った。しかし、誰も翔を責めることはない。翔のピッチングに非はなかった。それは明らかだったからだ。京悟も何も言わなかった。京悟は試合が始まる前と同じように、ただぼんやりと高い空を眺めていた。
全国少年野球大会は幕を閉じた。この夏を最後に、京悟たちが所属する野球チームは活動を縮小。少年たちは、中学への道を歩き出す。