旧炭鉱の罠

 国の中央部に位置するバノックの街には、今では使われていない炭鉱がある。
 中央駅が開設されて、国で最も栄える街へと成長を遂げる前、蒸気機関車の燃料である石炭の採掘に励む小規模な集落が形成された。国内における鉄道業の需要、それに伴う化石燃料の需要が高まると、求められる人員の数も増え続け、やがて集落は村へ、村は街へと発展していった。
 人が増えれば、使われる道具や設備も増えていく。炭鉱から貯炭場へ石炭を輸送するために、石炭車と呼ばれる専用の貨物車両が製造された。石炭車を走らせるために、中継点となる駅に繋がる鉄路が敷設された。作業効率を向上させるために、初めはただの山でしかなかった炭鉱の入り口や内部が整備された。縦にも横にも広く、奥深くまで隧道を掘り、その隧道の中にまで鉄路を伸ばし、機関車両が炭鉱の深部を行き来できるように、山の開発が押し進められた。一日に何度も石炭車の往来が繰り返され、過酷な労働の対価として、潤沢な資源を得ることができた。いつしかバノックの街は、地理的な位置だけでなく、担う役割が肝要であるという意味においても、国の中心地として知られるようになっていった。
 年月の経過に反比例して、街近くの炭鉱で産出される石炭の量は減少する。さらなる開発によって街の郊外にも豊富な石炭が眠る鉱山が数多く存在することが分かると、産出元はそれら別の山へと流れるようになった。街の人口の爆発的な増加を受けて、中央部では専ら貨客混載車両が運用されるようになり、バノック炭鉱行きの専用石炭車は、目に見えて数を減らしていった。
 しかし炭鉱は、完全に閉山されているわけではない。
 燃料の一定量かつ恒常的な確保は、機関車の走行、ひいては鉄道事業の普及に必要不可欠な要素であり、鉄道事業者は国にそれを求め、国もまたそれに応じた。各地の鉱業権者に与えられる権利と課される義務は、国の公的機関である鉄道管理局が取り仕切り、採掘事業者が不自由なく採掘に従事できる環境を整えた。炭鉱で石炭が思うように採れなくなり、権利の所有意義が希薄になると、鉱業権者は鉄道管理局に閉山を届け出る。管理局がその届け出を受理すれば、閉山は正式に決定される、ということになっている。
 ところが、炭鉱近辺の土地所有権者が管理局の呼び出し命令に応じず、いつまでも公の場に姿を現さない。
 この国では、鉱業権と土地所有権は別個として取り扱われるため、炭鉱閉山の手続きのためには、鉱業権者だけでなく、土地所有権者の承諾も必要とされていた。権利者の氏名と連絡先は記録として残っていたが、なぜか、連絡を取ることもできなかった。管理局は身動きの取れない状況に陥り、中央部警察が介入する事態にまで発展するが、未だ問題の解決には至っていない。
 権利の所在を宙に浮かせたままではあるが、バノック炭鉱は、資源の産出という役目をすでに終えている。人も、機関車も、すでにもう、寄りつかなくなっていた。
 敷設された鉄路を、その広大な隧道の出入り口から吐き出して、来るはずのない新たな進入者を、静かに待っている。



 あまりに、静かだ。
 静かで、とても居心地が良い。
 一方で、どうしようもなく居心地が悪い、とも言える。
 一日かけても読み切れないであろう分厚い本を手に抱えて、レイは不条理な思考を巡らせる。
 レイが不定期に通っているユロックの町のフリー・スクールには、図書室がある。学校自体がそれほど大きくはないのに対して図書室は、司書の教師の背ほどの高さがある本棚が、十数台は収まる程度に広い。レイが以前ひとりで訪れた国立図書館に比べれば劣るものの、蔵書の種類も豊富であり、時間を潰すには困らなかった。すでにこの日の授業はすべて終わっていたが、レイはすぐにはアパートに帰る気になれず、教室を後にした足で図書室へと向かい、大して興味もない本を読むことで無為な時間を過ごしていた。中央部警察の巡査であり、保護者でもあるレックス・ベイカーから、仕事で今日のうちには帰れないと聞かされていたため、早く帰ろうと思う理由もないのだった。
 長い机の前に座るレイの隣には、ネルがいる。
 レイとネルは、放課後の時間を毎回同じ図書室で過ごしている、というわけではない。レイが図書室に向かう時、ネルがさっさと先に帰ってしまう日もあれば、その逆の日もある。また、図書室での時間潰しも、あらかじめ示し合わせているわけでもなく、ただふたりにとっての気を休められる場所が、同じ図書室であるというだけのことだった。
「帰りなよ」
 ふたりはもう、長い沈黙に堪えられない関係ではなくなっていたが、レイは何気なくネルを気遣ってみる。下手に迂闊な発言をすれば、すぐさま毒づかれるだけでしかないと知りながら。
「まさか、あたしのことを心配してるんじゃないでしょうね。あんたごときが」
「心配って、別に、誰がしていいとかしてはいけないとか、決まってはいないものだと思ってたんだけど」
「下僕が主人の身を案じるなんて、生意気以外の何物でもないわ」
 会話までもを無為にするつもりはなかったので、レイはネルに何を言われようとも、負けじと言い返し続ける。
「早く帰ったほうがいい。今日は」
「なんでよ」
「この間会った、探偵の女の人が言ってたよ。今日、何か動きがあるんじゃないかって」
 ユロック大学の学生イザドラ・ケンドリックが、同学生のアルフレッド・デイトンの不審な行動を訝しみ、どこで何をしているのかを確かめようと奔走した結果、レイたちはリディア・ハートと名乗る私立探偵と出会った。リディアは、新聞社ユロック・タイムズに勤める記者、ビル・ベインズから依頼を受けて、北部渓谷機関車転落事故の唯一の生存者として噂されている少年、ロブ・トウニー・ジョンの行方を追っていた。また、ロブを追跡する道中で、犯罪組織《夜鷹》の行動に注視し、それらに関連性があるのではないかという予測を立てていた。
 リディアは、大陸縦断鉄道竣工記念式典が開催されるこの日に、次の一手が来るはずだとして、探偵としての予測、というより憶測に近いものをレイたちに表明していた。
「何が、読み、よ。なんの根拠もないくせに、どうしてあそこまで自信に満ちた態度で妄言を吐けるんだか」
「根拠がないってことは、本人も認めてたよ。確かに、ただの杞憂で終わるかもしれない。でも、完全に否定もしきれない」
 反鉄道の理念を掲げている《夜鷹》が、大陸縦断鉄道の開通に好意的であるわけがない。鉄道工事の竣工を記念する祝典に襲撃がないと断言できる理由など、どこにもなかった。むしろ動機としては必要十分であり、警戒するに越したことはないと、レイは考えていた。
「そういうあんたこそ、帰りなさいよ。保護者のお巡りが待ってるんじゃないの」
「刑事さんなら、式典に出席するから遅くまで戻ってこないよ」
「だったら尚更でしょ。いつかの小汚い新聞記者みたいな怪しい輩が寄ってこないうちに、さっさと部屋に閉じこもって留守番でもしてなさいよ」
「アパートの部屋にひとりでいるよりかは、図書室でネルといたほうが退屈しのぎになるかと思って」
「隣の部屋の女は」
「別に、そこまで気にしてないんじゃないかな。刑事さんや僕の帰りが遅いのは、今に始まったことじゃないし」
「そんなの分かんないでしょ。あの女だって探偵の話を横で聞いてたんだし、今頃泣きじゃくりながらあんたを捜して街に繰り出してるかもよ」
「それは、良くないな。じゃあ、ネルが帰るなら、一緒に帰ろうかな」
「つきまとわないで。鬱陶しい」
 広い図書室に、利用者はレイとネルのふたりだけだった。司書を担当する教師は駐在しているが、コーヒーのマグを片手に本に読みふけっており、ふたりを気にも留めていないようだった。その寛大さに甘えて、レイたちが一切の遠慮なく図書室に長居しているというのもまた、事実だった。
 誰かからの連絡を受けて教師が席を外したのにも気がつかず、レイが辛抱強くネルの言葉を受け止め続けていると、ネルもとうとう折れたのか、この日に限っていつまでも居残っている理由をぽつりとつぶやいた。
「誕生日なのよ、今日は。あの人の」
 ネルが、あの人、という三人称で呼ぶ人物は、ひとりしかいない。
「それがどうして、帰らない理由になるのかが分からないんだけど」
「帰らないんじゃない。帰れないの。待っていなきゃいけないの」
 ネルが腰かける椅子に寄りかかる通学用の鞄のすぐ横に、鮮やかな色の包装で飾られた、誰かへの贈り物らしき紙袋が置かれているのを、レイは視界の端に捉える。ややあって、北での事故が起きる前、ロブの誕生日に贈り物を渡すと約束していたことが、ネルの口から語られた。待ち合わせの場所は、フリー・スクールの建物の裏にある枯れ始めた一本の樹木の前、日時は、誕生日当日、皆が寝静まった夜の遅い時刻をロブから指定され、その時が来るまで図書室で寒さをしのいでいるのだという。
「自分でも、くだらないって思ってる。ただ一年ずつ確実に死へ近づいていくだけの日に、あたしがこんなにも執着することになるなんて」
「僕も、結構びっくりしてる。だって、僕も同じ意見だから。結局、誕生日って、家族や友人から祝ってもらったり、贈り物をもらえたりするから、楽しくて、良い日なんだって錯覚するだけであって、実際はそんなことないからね」
「そう。誰にも祝ってもらえなければ、いつもと変わらない普通の一日でしかない。ただしそれは、生きていて、未来がある人間に限っての話だけど」
「うん」
 はっきりと確認したわけではないが、ネルは、ロブが本当は事故で命を落としておらず、なんらかの手段により生還していて、今もこの国のどこかに身を潜めていると信じている、そのようにレイは想像していた。信じているというよりも、信じたがっているとしたほうがより正しかった。ネルはきっと、頭ではそれが根も葉もない噂でしかないことなど分かりきっていて、一笑に付すべきものだとして考えようとしているのに、心の奥のどこかでどうしても、もしかしたら、という思いが消えてなくならず、苦しんでいるのだろう、と。だからこそ、谷底へ転落した機関車の乗客は全員死亡したと公的に取り扱われているのにもかかわらず、乗客のひとりだったはずのロブと交わした約束の通りの日時、場所で律儀に待っているのだろう、と。
 それこそ、リディアに劣らない憶測でしかなかったのだが、レイはネルの近くにいることで、彼女の苦しみを確かに感じ取っていた。顔色をうかがわなくても、言葉を交わさなくても、ネルが希望と諦念の狭間であがき、もがいていると確信していた。だからといって、今、レイがネルにしてあげられることは何もなかった。ただ、できる限り寄り添い続けて、ネルからあふれてこぼれ出る感情をどうにかして受け止めて、自分が代わりに持っていられないかと思うばかりだった。
 実際のところ、レイにその余裕はない。
 レイの心からも、あふれそうになっているものがある。ネルがいるから、レックスやエルシーがいるから、どうにかこぼさずに持ちこたえていられるだけの、とうに容量の上限を超えてしまっているものが。
「レイ君、ちょっといいかな」
 いつの間にか戻ってきていた司書の教師から声をかけられる。ついネルと話しこんでしまったから、図書室では静かにしなさい、とお決まりの注意をされるか、もしくは外が暗くなり始めているから早く家に帰りなさい、と忠告でもされるのだろうと予想をつけると、あしらうために適当な理由を用意しようと考え始める。しかし考えがまとまる前に、その予想は外れたと知った。
「さっき、下の階にいる先生が教えてくれたんだけど、お迎えが来ているよ。表に、車が停めてあるって」
 初めはレックスかと思ったが、今頃レックスは大陸縦断鉄道竣工記念式典に出席しているはずであり、車でレイをアパートまで送迎するどころか、今日はアパートにも戻れないかもしれないと聞かされていたので、すぐに違うと分かる。隣の部屋の住人であるエルシー・グリーンである可能性も頭をよぎるが、いくら頻繁に交流がある隣人であるとはいえ、わざわざレイの帰りが遅いことを案じ、学校まで迎えに来るほどの関係性かといわれればそこまでではなく、そもそも彼女は車を運転しない。普段、セヴァリー雑貨店へ通勤する際も、交通手段は列車を使っている。
「僕に、今日、迎えの人は来ないはずなんですけど」
「えっ、そうなの。でも、レイ君の名前も知っていたし、それに、言ってたそうよ。保護者のレックス・ベイカーさんの代理でうかがいましたって」
 心臓が跳ね上がる。自身の体内を流れる血液の循環速度が早まっていくのを感じる。
 レイの名だけでなく、レイの保護者に相当する人物の氏名も把握しているが、レックスやエルシーではない。その上、車を運転できるということは、それなりに年齢を重ねている。レイと面識があり、かつ、それらの条件に該当する者は、決して多くはない。
「気をつけなさい」
 ネルがひと言、緊迫した声色で警戒を促す。図書室の窓から校舎の入り口付近を見下ろしてみると、停められた車の姿を目で捉えることができた。やはり、レックスが所有しているものとは、車種や車体の色が異なっていた。
 少なくとも、レイの保護者ではないはずの人間が、自らを保護者だと偽ってまで、レイを迎えに来たのだという。
 誰にけしかけられるまでもなく、神経は張りつめていく。
「分かってる」



 小さな傷や汚れの目立つ葡萄酒色の中古車、その運転席に面する窓から上半身をのぞかせたのは、リディア・ハートだった。右手は車の進行方向を調節するためのハンドルに添えたまま、左腕を窓枠に載せながら、軽やかにその左手を振る。初対面の時と変わらない活気に満ちた笑顔で、レイを出迎えた。聞けば本当にレイをアパートまで送り届けるためにここまで車を走らせたという。
 なぜリディアが、このフリー・スクールにレイが通っていることを知っているのか。その答えとなる男、ビルが、運転席の奥に位置する助手席に座っていた。後方席には、アルフレッドの姿もある。
「あら、この間一緒だった女の子は」
「今日はまだ、学校に残るそうです。用事があるみたいで。きっと、どれだけ説得しても、梃子でも動かないかと」
「そう。それなら仕方ない。さあ、早く乗って。時間が迫っているから」
「な、なんですか。時間が迫っているって」
「詳しくは中で。警戒しなくても大丈夫、探偵が警察官の息子さんを誘拐する理由なんてないでしょう」
 彼女らの意図が掴めないレイは一度ためらうが、同席しているアルフレッドが窓越しに目配せしてくるのを見て、開かれた後方席の縁に足をかけた。レイが乗りこんだのを確認すると、リディアは制動機による制御を解除し、車を発進させる。操縦する車体こそ古びているものの、レックスとは違って、手慣れた丁寧な運転だった。
「僕も、大学の門の近くで拾われたんだ」
 何が何やら分からないレイに、アルフレッドが事態の説明を始める。
 まず、具体的な行動計画が言い渡される。リディアたちはレイを一旦アパートに帰し、エルシーを交えた話し合いを終えた後、またすぐにレイを引き連れて大陸縦断鉄道記念式典の会場へと向かうのだという。
「順を追って話すよ。以前に起きた、君も巻きこまれたという北部コスタノア美術館での占拠事件で、占拠犯のひとりであるとされる男が、現場に居合わせていた北部警察の刑事に銃で撃たれて死亡した。名前はキングス。報道によると、見上げるような体躯と極めて凶暴な性格を有し、《夜鷹》の一員ではないかとの疑いが持たれているらしい」
「それが、何か」
 過去の忌まわしい記憶を強引に呼び起こされたので、レイは露骨に声の音程を低くして、その話題はあまり深く掘り下げないでほしいと暗に訴える。アルフレッドは瞬時に彼の意図を察して言葉を切るが、彼の意図を察した上で、それでも追撃の手を止めようとはしないビルが、説明の続きを引き継いだ。
「そのキングスって男は、これまた坊ちゃんが人質として巻きこまれた、南部荒原機関車強奪事件において、実際に走行中の機関車を乗っ取ったっていうふたり組のうちのひとりだったな。あれからもう半年以上は経っているが、坊ちゃんのことだ、ちゃんと憶えているだろう。もし忘れていたとしても、顔を見ればたちまち思い出すはずだ」
「ですから、それらの事件が今回の行動計画にどう関わっているのかを教えてください。話の流れが見えてきません」
「トマスよ」
 車を運転中であるはずのリディアが、会話の主導権も握った。
「その機関車強奪事件の主犯ふたり組のうち、キングスではないほうの、もうひとりの男。巨漢のキングスとは対照的な細身で、同じく《夜鷹》を構成する人員のひとり。ビルの調べによると、ふたりは当時の列車に乗り合わせていた警察官によって身柄を引き渡され逮捕、のちに実刑が決まって刑務所へ送られたんだけど、北部美術館占拠事件が起きる少し前にキングスと揃ってなぜか刑期の満了が早まり、釈放されていた。キングスは美術館の一件で命を落としてしまったけど、トマスはまだ生きているはず。で、そのトマスが、今夜の記念式典に姿を現すつもりでいるみたい。それも、式典に参加する大陸縦断鉄道の工事関係者や機関車両技師、鉄道管理局の職員に中央部警察、要は、会場にいるすべての人間に直接的な危害を加える目的で」
「情報元は」
「我がユロック・タイムズ社に、信頼できる、ある筋からの提供があった」
「それを毎度のことながら、我がリディア・ハート探偵事務所にも共有してもらったの」
 最短経路をたどるためか、通行道路上の車を右へ左へ、また右へと目まぐるしく方向を転換させながら、リディアは一語もつかえることなく流れるように情報を開示する。着実にアパート「アップル・ヤード」へと近づきつつある中、レイはまたしても記憶を掘り起こしていく。巨漢の傍らで、蒸気機関車への憎悪を滲ませていた細身の男。ふたりの顔は、人質として捕らわれた時だけでなく、事件後の事情聴取の際にも写真で何度も目にしている。ビルの言う通り、いくら年月が経とうとも脳裏から完全に消え去ることはない。もしまた目の当たりにすれば、すぐさま確実に、鮮明に呼び起こされる。その予感を自覚したレイは、こうして自分がリディアの車に拾われた理由にも見当をつけられた。
「もう気づいていると思うが、坊ちゃんには、会場にいる式典の参列者の中にトマスが紛れこんでいないかを確かめてもらう」
 ビルの一方的な物言いに、リディアが補足する。
「いつ調べたのか知らないけど、あなたがユロックの町のフリー・スクールに通っているってビルが言うものだから、訪ねてみたの。私とビルのふたりで出迎えても警戒されてしまうだろうから、アルフレッド君にも同行してもらってね。保護者の代理を騙ったのは、教職員の皆様に怪しまれないようにするため。手荒なやり口であることは認めるわ。すべて、ビルの提案よ」
 レイは車の座席越しに、澄ました態度でアパートへの到着を待つビルの様子を見る。
 これまでの話を聞く限り、今回の計画はリディアでもアルフレッドでもなく、ビルが主動的に立てたものだと推測できた。アパートに帰るのを待たず、わざわざ学校にまで車で迎えに来ることで、どこにいようと必ず捜し出し、連れて行くつもりだと示しているように思えてならず、レイは諦めて車に乗りこんだのだった。
 だからといって、レイも黙って計画に巻きこまれるつもりはない。
「いろいろ言いたいことはありますが、まずはひとつ。そのトマスという元機関車強奪犯の男なら、当然、警察にも見知っている人はいます。式典の会場には中央部警察も警備のために複数人配置されているので、僕に捜させるまでもなく会場内の警察の人に尋ねれば済む話です。そもそもトマスが会場に侵入しようとしたところで、門前払いを食らうだけのように思えるのですが」
「坊ちゃんにしては幼稚な抵抗だな」
 相変わらずの挑発的な発言だが、レイには効力がなく、ビルもそれを分かっていた。分かっていてもやめないのは、単にそのような手法の対話や交渉を戦術の基本としているからだった。
「表向きには、ただの報道取材を目的に式典への出席を許可してもらおうって算段だ。そんな立場で警察のお偉いさんからトマスの情報を聞き出せるほどの社会的信用を、俺は得られていないんでね。探偵嬢や大学生なら尚更だ。対して、式典を主催する側の人間の中にトマスの仲間がいれば、会場への侵入などやつにとっては造作もないだろうし、一度侵入さえしてしまえば、面が割れる前にどこかに身を隠し、事を起こすまでの間、じっと息を潜めていればいい。むしろ門前払いを食らうのは、俺たちのほうかもしれないな」
「そんなことを言えば、僕だって」
「望みはあるさ。坊ちゃんの保護者であるレックス・ベイカーに話を通してもらえばいい。いるんだろう、会場に。それが嫌だってんなら、坊ちゃんを大層気に入っているモーゼズ・ガフ教授の力を借りるって手もある」
「本当に、狡猾ですね」
「お褒めの言葉、どうもありがとう。世紀の特種ってものを勝ち取るためには、多少の冒険も必要なんだよ」
 事前の下調べによって用意した数多くの情報の手札をちらつかせることにより、ビルはレイを巧みに追い詰めていく。これもまた、彼の記者としてのやり方のひとつにすぎない。レイは、観念するしかなかった。
「で、ほかに何か言いたいことは」
「あなたたちに対してではなく、アルフレッドさんに聞きたいのですが。このふたりの、僕を連れ出すために同行しろなどという身勝手な要求に従ったのは、なぜですか」
 声色に少しばかり責めるような調子を加え、レイはアルフレッドの不用意な行動を態度によってとがめる。またしても彼の意図を言外に汲み取ったアルフレッドは、すっかりしおらしくなっていた。
「初めは僕も、餌に釣られるつもりなんてなかったんだけど。でも、結果だけ見ればそうでしかないね。僕もまた、一介の学生でしかなかったのかもしれない。ただ、弁明はさせてくれ。僕は僕の意思を持って、式典の会場に向かっているんだ」
「もしかして、モーゼズ教授ですか」
「相変わらず察しがいいね」
 アルフレッドが通うユロック大学の教授を務めているモーゼズ・ガフは、レイが北部渓谷機関車転落事故について調べているという情報を、レイが通うフリー・スクールの教師であるカレン・メルヴィルに流し、彼女を通じて事故に深入りしないようにとレイに忠告させたというのが、レイとネルの見立てだった。同様に、コスタノア美術館の館長に接触し、中央部の雑貨店の経営者デイジー・セヴァリーと、その雑貨店の従業員エルシー・グリーンを北部へと連れ出し、結果的に彼女らを美術館占拠事件に巻きこんだ疑いも生じている。それらの推測が示すのは、モーゼズ・ガフが《夜鷹》に協力する立場であるか、あるいは《夜鷹》に属している人間であるのではないか、そのような、恐るべき可能性だった。それ以前にもモーゼズは、アルフレッドの前でレイが事故に関心を持つことを抑制しようとするかのような言動を見せており、アルフレッドもまた、彼に対して懐疑的なところがあった。
 そこへリディアとビルが新たな火種を持ちこみ、アルフレッドが同行を決意するきっかけを作った。
「さっきの話に戻るんだけど、南部荒原機関車強奪事件の主犯であるトマスとキングスが、刑期の満了を待たずに釈放されたって言ったよね。私は最初にそれを聞いた時、これは何かあるなって確信したの。だって、列車を乗っ取って乗客の命を危険にさらすような大罪を犯しておきながら、一年も経たないうちにあっさり自由の身になるなんて、そんなのおかしいじゃない。おそらく、彼らの釈放を早めるように指示した人間がいる。この国の司法制度すらも簡単に覆せてしまうような、何かしらの強大な権力が働いたと考えて間違いないでしょう。だから、ビルに頼んで調べてもらったんだけど」
「どうやらその釈放を指示した人間ってのが、モーゼズ・ガフかもしれないらしい」
 さすがのレイも、驚愕を禁じ得ない。もしそれが事実なら、レイの推測も確固たる事実その通りとなる。だからこそレイは、慎重に真偽を見極めようとする。
「それは、確かなんですか。どうやらとか、かもしれないとか、不確定要素のある言葉が多いですけど」
「腐っても高名な大学教授だ。事に及ぶにしたって、後に明らかな証拠を残したまま放置するほど馬鹿じゃねえよ。できる限り嗅ぎ回ってみたが、確証は得られなかった。俺が聞きつけたのは、トマスとキングスが収容されていたユロック刑務所にモーゼズが訪れた記録があるってことと、ある刑務官とモーゼズが何やら話しこんでいるのを目撃したやつがいるってことぐらいだった」
「それだけでは、少し疑わしい、ってだけですね」
「そうだな。詰められたところで、慰問のためだのなんだの、いくらでも言い訳のしようはある。仮に決定的な物証や目撃証言を持つ人間がいたとしても、そいつはとうの昔に消されているだろう。まあ、そもそも物証なんて存在しないだろうがな。俺が指示する側なら、書面だとか、そういった足がつくおそれがあるような方法は選ばない。となれば、真偽をうやむやにするためにも、指示は口頭で行われたと考えるのが妥当だ」
 言葉ひとつで、罪を犯した者の解放を許せてしまうほどの人間。それが意味するものにレイやアルフレッドはたどり着こうとして、しかし最後の一歩が踏み出せずにいる。決して無視できない、底なしの暗い恐怖が、足許から立ちのぼってくるのを感じたからだった。レイは、これまで独自に調査活動を続けてきたはずのアルフレッドが、リディアたちと行動を共にするようになったことにも、無理にでも納得するしかないと思った。自分たちが追い求めてきた真実は、もはや、自分たちだけでどうにかできる規模ではなくなってきている。
「それで、だ。檻から出た罪人と、そいつを檻から出した張本人である教授が今夜、同じ場所に集うとなれば、そいつらふたりが何を企み、仕掛けてくるか、この目で見て確かめるしかないってわけだ」
「ビルさんも、モーゼズさんのことを疑っているんですね」
「まあな。誤解のないように言っておくが、俺は坊ちゃんや、そこの大学生君の勘の鋭さに関しては、結構、信用しているんでね」
「ちょっと。私もその信用対象に加えなさいよ。私、ずっと前から言ってたでしょ。次に彼らが尻尾を出すとしたら、大陸縦断鉄道竣工の記念式典だって」
 ビルがリディアの要求に承服する前に、レイが恐怖に打ち勝つ前に、車は「アップル・ヤード」へと到着した。
 一同は二〇二号室を訪ね、困惑するエルシーに事情を話す。式典の開始予定時刻が迫ってきており、残された時間は少ない。話は簡潔にまとめられた。また、それは彼女の許可を得ることを目的としていなかった。エルシー自身も、止めたところでレイが考えを改めるつもりがないと分かっているので、行くなとは言わなかった。その代わりにエルシーは、自らの意志を押し通そうとする。
「私も行きます。ひとりで待っているくらいなら、せめてレイ君のそばに」
「いや、だめだ。あんたにはここに残ってもらう」
 間髪を入れずに、ビルがエルシーの同行を拒否する。ビルに対して、初対面の時からあまり良い印象を持っていないエルシーは、臆せずに反発する。
「私があなたたちに会場へ向かうのを止める権利がないように、私があなたに指図されて素直に従う理由も、どこにもありません。私はもう、待っているばかりなのは嫌なんです」
「あんたに何ができる。この坊ちゃんはあんたがいようといまいと目的を達せるだけの行動力がある。素直に従う理由がない、だと。ついてくる理由だってないだろうが。はっきり言うが、ただの足手まといだ」
「そこまで言うなら、なぜわざわざ私にこのことを話したんですか。急いでいるのなら、私なんて放っておいて、さっさと行けばいいじゃないですか」
 エルシーの反論に、ビルは少しの間、押し黙る。
 それは彼女の勢いにひるんでいるわけではなく、あえて沈黙を作り、彼女に考えさせる時間を与えるためだった。
 それでもエルシーは、分からない。分かろうともしていなかった。苦い表情を浮かべるビルを、怒りから一心に睨みつけている。
「あの、エルシーさん」
 レイは声を上げた。
 怖じ気づいている暇はない。
 目前の深い霧の奥に手を伸ばし、真実を掴み取るには、確かにレイひとりの力だけでは及ばない。だからといって、諦めて霧から離れ、逃げ出すつもりもない。ひとりで立ち向かうのが無謀だというのなら、ほかの誰かの力を借りればいい。それはきっと、アルフレッドも同じだろうとレイは信じていた。
 恐怖を感じたからといって、歩みを止めようとは思わない。
 どれだけ恐怖に足がすくんだとしても、その足を動かし続けることを、やめるわけにはいかない。
「僕、刑事さんを連れて、必ず帰ってきます。だから、部屋で待っていてもらえますか。エルシーさんが待ってくれていたら、僕も、きっと刑事さんも、早く帰らなきゃって思えるんです。僕らには、エルシーさんが必要なんです」
 言い切ってからレイは、あまりに直情的な自身の発言を反芻する。それがもたらす意味を考えて、急速に赤らむ顔をさっと背けてしまう。
 エルシーは、そんなレイに気を遣ったわけではなく、それ以上、何も言葉を発することができなくなった。
 長く下ろされた髪で表情を隠しながら、エルシーは逃げるように自分の部屋へと戻っていく。いたたまれなくなったレイは、真っ先にアパートの階段を駆け下りると、リディアの車へ飛びこんだ。リディアとアルフレッドも、互いに顔を見合わせつつ、その後に続く。
 最後のひとりになったビルは、ハンチング帽で隠しながら目線を動かし、アパートの廊下に自分以外の人間が出てきていないことを確認すると、分厚い外套の懐から誰の目にも留まらない手早さで、薄く小さな封書を取り出した。二〇二号室の郵便受けに、エルシーがすぐに気がつかないよう、音を立てずに静かにその封書を差し入れた。
「悪いが、これだけはうやむやにはできないんだよ」
 無人の廊下に、誰の耳にも届かない独り言が取り残される。



 車は、次の目的地である中央駅へと向かった。道は空いており、アパートからであれば徒歩でも難なく移動できる距離でもあったので、数分も経たないうちに到着した。駅に付随する公共駐車場に乗り入れると、一同は速やかに車を降りて駅舎への通路を走った。
 迫り来る式典開始の刻限がもたらす緊張感と、身を切るような夜風の冷たさとで、レイの火照った顔は冷まされる。同時に、冷静な思考力を取り戻す。切符を購入するために券売所にて手続きを進めている時に、最初の違和感に気がついた。時刻は十九時を過ぎており、普段であれば学校や職場から帰還する者たちで駅の構内は混雑する頃合いだが、気味が悪いと感じられるほどに人の数が少ない。たまたま今日が中央駅の利用客が少ない日だったと断じてしまえばそれまでだが、レイはかつて、レックスに連れられて機関車強奪犯の捕らわれ損ないと対峙しに来た時を思い出す。まるで、作為的に人通りが制限されているようだ、と。
「十九時十六分発、急行列車、北西方面、第一地区行き、切符四枚。確かに買ったわよ」
「急げよ。乗り遅れたら次の列車までかなり待たされる」
「この時間帯では、席が空いていれば良いほうですね」
 改札を通り抜けて、プラットホームへの階段を下る。すでに六両編成の車両が乗客を待ち受けていた。リディア、アルフレッド、ビル、レイの順に、手近な三号車へと乗りこむ。レイが乗り口に片足をかけようとした時、ビルは首を素早く後方へ振り向けて、片目だけでレイを見下げた。プラットホームと列車の間に落ちないようにと注意を払っていたために、レイはビルの鋭い視線に気づかなかった。レイが確かに乗車したのを見届けたビルは、すぐに前方へ向き直る。外套の襟元に、かすかな笑みを隠しながら。
 一同が乗車して間もなく列車は動き出し、中央駅を発った。火室にくべられた石炭が炎と煙を上げると、ボイラーに送られた水が熱され、蒸気を生み、機関車は動力を得る。これまで何千、何万にも及ぶ車両を、この国を、絶え間なく牽引し続けてきた往復動機関が作動する瞬間、車両全体に伝わっていく鈍い振動を、皆、座席の上で静かに感じ取る。
 プラットホームに設置されたガス灯の光から遠ざかってしまうと、列車の進路には深い夜の闇が立ちはだかっているが、先頭車両に取りつけられた前照灯が、その闇を取り払う役目を果たした。鉄路は山間を経由して、記念式典の会場が構えられる第一地区の駅へと伸びているため、車窓からの風景は、瞬く間に暗い草木や山肌の連なりばかりに覆われていく。前照灯の心許ない光量では、進行方向を見失わずに走行を続けるのがやっとであり、移りゆく景色を眺めようとする乗客は、やがて誰もいなくなる。次の違和感は、そうして車内の様子に目が行くようになると、間もなく顕現する。
「しかし、空いていますね」
「ええ、本当に。中央駅発の列車で、この時間帯に、ここまで空席が目立つ日もあるのね。それも、大陸縦断鉄道竣工記念式典の当日だっていうのに。それとも、この車両だけかな」
「いえ、この分だと、おそらくほかの車両もたかが知れているでしょう。駅の階段を登り切った場所のすぐ近くに乗降口が接する三号車で、この空き具合では」
 三号車にはレイたち四人を除くと、片手で数えられるほどしか乗客がいない。レイたちを合わせて、十人も超えない程度だった。珍しがりはするものの、空いていて快適だとしか思っていないリディアをよそに、アルフレッドとレイは一抹の不安を覚える。何かがおかしく、不自然だと感じられるのだが、その根拠を明確に言葉で表すことができない。恐れるような事態になど及ぶはずがないと思い直しては、周囲の異状が示唆するものの意味をつきとめようと、どうしても考えてしまう。寄せては返す波のように、疑心が断続する。
「暢気だと思われるかもしれないけど、なんだか不思議よね。同じ目的を持つとはいえ、こうして他人同士がひとつの車両に集まって、肩を並べて座っているだなんて」
「もともと列車ってのはそういうもんだ。年齢、性別、国籍、職業を問わず、あらゆる人間がひと繋ぎの箱に閉じこめられて、どこかへと運ばれる。箱の中にいる間だけ、乗客は時と運命を共にする。目的地に着いて、降りてしまえばそれまでだがな」
「ずいぶんと詩的な表現を使うのね。でも、案外、的確な比喩なのかも。この国だって見方を変えれば、北へ果てしなく延びている長大な列車みたいなものだし」
「言い得て妙、ですね。次の停車駅までの距離は、おそらく果てしないですが」
「本当に。一体、いつ着くんでしょうね。私たちは」
 リディアの言葉にこめられた真意を訊ねてみようかと、レイがおそるおそる口を開きかけた、その時だった。
 遠方にて、音が鳴った。
 音は、錆びついた金属が擦れ合うことで生じ、闇夜に鈍く短く響いたが、あまりに小さく、走り去る列車の中に身を委ねる者の、ほとんどが聞き逃した。乗客だけでなく、先頭車両にて待機する機関士や、火を絶やさぬよう石炭をくべ続ける火夫も、音の存在すら認識せず、自らに課せられた業務を遂行していた。全六両に乗車する人間のうちただひとり、レイだけが、辛うじてその音を聞き取っていた。しかしながら、その音を耳に入れたところで、レイたちが身を預けているこの六両の列車に降りかからんとしている災厄は、すでに回避する道を絶たれていたのだった。
 音を合図にするかのように、異変は姿を現す。
 レイたちのいる三号車の後方、四号車から六号車を利用していた乗客が、車両間の扉をこじ開けて三号車に入り、廊下を通って前方の二号車へと移動していく。後方車両が満席であり、座る席を確保するために別の車両に移った、そうであれば大して気に留めることのない行動だが、アルフレッドの推測では六両のすべてがほぼ空席であり、筋が通らない。
 移動する乗客は、ひとりやふたりではなかった。
 扉を開ける手つきにも、廊下を進む足取りにも、どこか焦りと苛立ちが見て取れる。
「おい、この列車、おかしいぞ」
 乗客のひとりが、周りに呼びかけるように声を上げる。明らかに何かが起ころうとしている、あるいはすでに起きていると直感したレイとアルフレッドは、互いに顔を見合わせる。同じく異状を察知したリディアが、声を上げた乗客にためらいもなく話しかける。
「何がおかしいんですか」
「俺は、毎晩この便に乗ってるから感覚で分かるんだ。いつもと進行方向が違う。どんどん東へ逸れてんだよ」
「東って、この列車は北西方面へ進んでいるはずじゃ」
 違和感が確信へと変化する時、レイの心身は大きく揺らいだ。精神的なものだけでなく、物理的にも揺らぎがもたらされた。列車の走行による振動が強まり、座席の背もたれや壁の手摺りに掴まっていなければ、立っている者は思わず屈んでしまいそうになるほどに、車両の姿勢が安定しない。
「分岐転換」
 普段なら走行音にかき消されていたであろうレイの小さな声は、迫り来る異変の正体への解答を求める者たちの耳に、良く届いた。
「さっき、かすかに、本当にごくかすかにではありますが、列車がある地点を通過する直前に、鉄と思わしきものが何かに当たったかのような、金属音が聞こえたんです」
「転轍機が作動したってのか。運転士は何やってんだ。ただの乗客である俺ですら気づいたんだぞ」
「機関士が彼と同じ音を聞いたかどうかは定かではないにしろ、先頭車両で運転業務を担っている以上、列車が本来とは異なる方向へ進んでいることに、気づかないわけがない。しかし、気づいたからといって鉄路を逆走して分岐点の前まで戻ることなどできませんから、そのまま分岐方向へと進むしかないのでしょう」
「だとしても、せめて車掌か誰かを客車に来させて、乗客に事情を説明するべきよ。どうして何も言ってこないの。どうして何もしないの。機関士だけじゃない、機関助士だってそう。停車させるどころか、なんだか速度を増していっているように思えてならないんだけど」
 リディアの感触が言葉によって表されると、それは間もなく、現実のものともなる。
 車体の底まで轟くかのような重低音が鳴り響くのと同時に、激しい衝撃と振動が車両全体を襲った。その場に立っていた者も、座席に腰を下ろしていた者も、そのほとんどが等しく廊下へ投げ出される。湧き上がる数多くの疑問を解消する前に、まずはこの危機的状況から脱さなければならないと、一同は理解させられる。後方車両より、不安と焦燥の波によって押し流されてきた乗客たちに続き、リディア、アルフレッド、レイも先頭車両へと向かおうとする。
「待て」
 ただひとり、窓側の座席で身じろぎひとつせずに事態を静観する男がいた。
 レイたち三人は立ち止まる。彼ら以外の乗客はすでに皆、三号車と二号車を接続する通路を駆け抜けていった。
「逃げるなら逆方向だ。死にたくなければな」
 轟音の中で、誰もがはっきりと聞き取れるように大きく発された声は、むしろ一同をますます混乱させる。
「ビル、あなた気は確かなの。何が起こっているのか知らないけど、とにかく運転席に行って機関車を止めさせないと」
「じきに止まるさ。お前たちがどうしようと、必ず」
「しかし、僕ら以外の乗客はもう先頭車両へ行ってしまいました。呼び戻さなくては」
「その必要はない」
「なぜそんなことを」
 レイがすかさず投げようとした質問は、再び訪れた車体の振動によって妨げられる。
 異変は、選択の猶予を与えなかった。ビルが殺気立った眼光で三人を睨むように促し、レイたちは他の乗客とは逆方向、後方の四号車へ踵を返した。もう誰もいなくなっている四号車、五号車を通過して、最後尾の六号車に飛びこんだ。ビルの言葉の通り、一同が六号車へたどり着いた直後から列車の走行速度は低下を始め、車体の揺れも軽減されていく。六号車の窓はいくつか開いていたが、ビルが素早い動きですべて閉じた。たとえ窓をすべて開け放っていたとしても、窓の外は一面が漆黒の闇に覆われている。そのため、目から入ってくる情報だけでは、列車がどの鉄路を走ってきて、どこに終着しようとしているのかを特定することはできない。
 しかしレイは、決定的な手がかりを視覚以外から入手する。
 ビルが窓を閉ざす前、むせ返るような土と鉄のにおいが、生暖かい風によって漂ってくるのを感じた。
 またしても、車体が大きく揺れ動く。
 今度は、これまでのような急速度に伴う左右への揺れではなく、何かとてつもない衝撃がもたらされたことによる、上下の方向への揺れだった。レイは生存本能に従い、自らの身を守ろうとその場にうずくまろうとする。だがそれよりも前にビルが、レイに危害が及ばないようにするためか、動きを封じるほどの力を使って彼の体に覆い被さった。リディアとアルフレッドも、ビルの迅速な行動に倣った。突然降りかかった脅威に耐えながら、事態の沈静化をひたすらに待ち続けた。
 いつしか、列車は完全に停止していた。
 外から、小石や砂が斜面を転がり落ちる音が聞こえてくる。そのような、微細な音を聴覚で拾えるほどの静けさが、周囲に満ちていた。脅威が一旦消え去ったと判断したのか、ビルはレイの拘束を解き、何事もなかったかのように立ち上がった。レイたちも身を起こすが、凄まじい轟音と振動が尾を引いており、軽い立ちくらみを覚える。倒れてしまわないために、互いの腕や体で支え合う。
 六号車の車内灯は、一度消えかかりはしたが、辛うじて光を保ち、照明としての役割を全うしている。その照明だけを頼りに、皆、示し合わせたかのごとく、六号車の前方、五号車へと続く扉に目を向けていた。
 その先に何があるのか、その先で何が起きたのかを想像しながら。
 死にたくなければ逆方向へ逃げろというビルの言葉に従っていなければ今頃どうなっていたのかを、頭の中に思い浮かべようとして、寒気立ちながら。
 扉を開けて前の車両に進み、想像した通りの結果になっているかを確かめに行こうとする者は、現れない。
「レイ君」
 口火を切ったのは、アルフレッドだった。名を呼ぶだけの短い発声であったにもかかわらず、緊張を伴っていることが、レイには明確に感じられた。
「僕の推測が正しければ、今、僕らがいるのはおそらく、街の東にある鉱山の奥。バノック旧炭鉱」
「ああ、そうだ」
 同じく、この災厄に巻きこまれた者でしかないはずのビルが、まるで答え合わせをするかのように、無慈悲に宣告する。
「お前たちは、嵌められたのさ。やつらの、《夜鷹》の罠に」