政府官邸や裁判所、警視庁などといった、国の重要施設が集約されている第一地区を突き抜ける大通りに接して、公会堂として機能する高層建造物がそびえている。大陸縦断鉄道竣工記念式典の会場は、その建物の二階の全面積のうち半分以上を占めるほどの広さを有する大広間が、式典を主催する鉄道管理局の役員により選定された。想定される収容人数は百を優に超え、鉄道の開通を目指した取り組みに携わってきた人間が、立場や職種の隔てなく一堂に会することとなった。
国の鉄道史の一端に刻まれるであろう特別な催事であり、要人も多く出席するとなれば、政治的動機を持つ者が会場を襲撃するべく現れ出る可能性も考慮し、相応の対策を立てた上で式を挙行すべきである、というのが鉄道管理局の下した判断だった。実際に、ある報道機関には、式典参列者になんらかの危害がもたらされることを予告する情報が密かに届いていた。バノックの街を含む国の中枢を管轄する中央部警察は、管理局からの要請を受けて、式典の設営から開催に至るまでの期間、会場内とその周辺の警備、及び一部出席予定者の警護を引き受けた。式典の準備が進められる中、管理局が最もおそれていた、反鉄道を行動理念として掲げる《夜鷹》からの直接的な干渉は、中央部警察が把握する限りでは確認されていない。結果として何事も起こらないまま無事に式典当日を迎えられたが、当日こそ何が起こってもおかしくはないと、警備業務に関わる全警察官に、より一層の厳重な警戒体制を敷くことが求められた。
式典会場には、中央部警察に属する鉄道保安課の者たちも訪れていた。課長であるクラーク・ロウに引き連れられて、カイル・フロイド、ジェイミー・エイムズ、スカーレット・マイヤーの三名と、レックス・ベイカーに至っては、壇上にて鉄道保安課を代表して祝辞を述べるという役目を任されていた。
「何度でも言ってやるが、やはりあの男には荷が重すぎる。今からでも課長か、私に代わるべきだ。祝辞の原稿はすべて頭に入っている」
「まあ、いいじゃないですか、マイヤーさん。文章は俺たちからさんざん口出しして直させたんですし、当の本人も自分にとって人生の大舞台だってことはちゃんと分かっているはずです。口述の練習だって、何度もしていたみたいですから。俺たちはあいつのひきつった顔と動きを見届けて、式が終わったら思い切りからかってやりましょう」
「私たちだけが評価するのはともかく、参列者全員から笑い物にされなければ良いが」
「心配ですか。それはそうでしょうとも。手がかかるとはいえ、大事な後輩だ」
「我が鉄道保安課に汚名を着せるような醜態を晒したりなどしないかと、気が気でないというだけだ」
「まったく、手厳しいんだから、マイヤー君は」
「そうおっしゃるなら、あなたにこそ登壇していただきたかったのですが」
「こういうのは苦手なんだよ。それに、私のような老いぼれはさっさと身を引いて、活気ある若者に道を譲っていかないとさ」
上司のなだめ役を上司に任せ、会場に用意された豪華な食事を遠慮なく口に運び、軽薄な態度で式の進行を眺めているカイルとは対照的に、ジェイミーは自らに注目が集まっているわけではないにもかかわらず、ひどく緊張していた。クラークから持たされたグラスの中の飲み物は一滴も消費されることはなく、手の震えにより小さく波を作っている。
「ジェイミー君は、さっきから神経を尖らせすぎているね。せっかくの祝い事なんだから、もっとこの場を楽しんだらどうだい」
「そ、そうはおっしゃいますけど、いつ何かが起きるんじゃないかと、私は心配で」
「何かって、何さ」
クラークに穏やかに笑いかけられて、ジェイミーは張りつめていた気持ちの糸が弛緩するのを感じた。グラスを持っていないほうの手で眼鏡の位置を微調整し、何度か大きくまばたきをして、会場の様子を見渡す。
記念式典とは銘打たれているが、ジェイミーたちが想像していたほどに厳粛な場ではなかった。各来賓者からの式辞を後に控え、しばらくは自由な歓談の時間が設けられていた。室内に点在する円形のテーブルに、新鮮な肉や野菜がふんだんに使われた大皿の料理や、この日のために用意されたという高級な古酒が並び、参加者たちは立食形式で祝宴のひとときを楽しんでいる。男性は黒や紺色の礼服、女性は淡い色のドレスによって着飾り、賑やかではあるが品位ある雰囲気が保たれていた。中央部警察の判断により、報道機関に寄せられた襲撃者に関する密告の件は公表されていない。知る者は知っているが、知らない者は知らないまま、式典に臨んでいた。ジェイミーたちを含む警察関係者のほとんどは制服で会場に入っているが、公的な場であるという状況下では、さして悪目立ちすることはなかった。
「大丈夫。私がいる限り、ここでは何も起こさせないよ」
それは、いつも通り優しげであることに変わりはなかったが、これまでに彼女が聞いたものとは明らかに違う、奥底で静かな炎が燻っているかのような闘志に満ちた言葉だと、ジェイミーには感じられた。その言葉を発した時のクラークの表情を、ジェイミーは視界に入れてはいなかった。次に目を向ける頃には、普段と同じ柔和な顔つきでしかなかった。
「それにしても、まさかレックスに、こんな晴れ舞台に立てるほどの伝手があったとはな」
いつの間にか制服の上着を脱ぎ、シャツ姿になっていたカイルが、グラスに飲み物を注ぎながら言った。初めは酒瓶に手を伸ばそうとしていたが、ジェイミーがたしなめて、ただの水に代えさせていた。
「モーゼズ・ガフさんのご推薦、ですよね。ユロック大学の教授を務められている」
「そうそう。前にあった連続殺傷事件で、そのユロック大学の学生が被害に遭ったっていうんで、聞きこみに行った時にレックスと一緒に俺も顔を合わせたんだが、レックスのやつ、いつの間に俺を抜きにして教授と仲良くなりやがったんだ」
「あれ、カイル君、知らないんだっけか。ユロック大学の文化祭で開催された討論大会の最終討論を、彼が傍聴してたって話。討論の場で例の犬釘が提出されて、それに事件性があるってことが学生君たちの力によって見事に証明されたものだから、偶然そこに居合わせた彼が証拠品として受理して、本庁に持ち帰ったんだよ」
「ええ、大体の流れは本人から聞かされていますよ。でも、あのレックスが、有名大学の討論会とかいう、いかにも小難しそうな行事に興味を持つとは到底思えなくて」
「だから、それもモーゼズ君の紹介なんだってば。よほど来てほしかったんだろう。正確にはレックス君に、というよりかは、レイ君に、だったようだけど」
「あの孤児院上がりのませた小僧まで気に入られてんのかよっ。ますます分からん」
冷たい水を呷っているだけであるはずのカイルは、あたかもここは酒場の席だと言わんばかりに騒ぎ、笑い、近くにいた他の参加者たちの輪に割って入り、談笑まで始めた。それがカイルなりの内偵の手法であるとは露ほども知らないジェイミーは対応に困り、上司ふたりに視線を送って助けを求めるも、一方はにこにこと微笑を浮かべて見守っているだけ、もう一方はレックスの登壇を今か今かと待ちわびているばかりで、カイルの羽目を外したかのような言動をとがめることはしなかったし、するつもりもなかった。また、ジェイミーにはカイルのように知らない人間にも臆せず話しかけていけるような気概はなく、大広間の隅にあるテーブルについてからというもの、手洗い以外でそこを離れられずにいた。
大勢の中、独りになることで、ジェイミーの思考は鋭敏になっていく。
事の発端は、孤児院出身である少年レイをレックスが引き取るきっかけとなった、南部荒原機関車強奪事件ではなかったかと、ジェイミーは思い返す。主犯であるキングス、トマスの両名は、機関車の運転士及び機関助士を脅迫して列車運行の権限を掌握し、かつ自分たちの要求を通すために乗客のひとりであったレイを人質に取ったが、レックスとの戦闘に破れ、逮捕された。その後、刑事裁判によって速やかに実刑判決が下され、ユロックの町にある刑務所に拘禁されていたが、実際に科せられた刑罰を満足に受けきる前、不自然なまでに尚早な時期に出所を果たしていた。キングス、トマスというふたりの大罪人が、いつの間にか中央部警察の与り知らないところで本来受けるべき罰を逃れて自由の身になっていたという事実を知った時、強烈な違和感と不信感がジェイミーの中に芽生えた。彼らへの処罰を決めた司法関係者や刑務官、あるいはその両方に何者かからの圧力がかけられたことは明らかだったが、それを問題視する向きは中央部警察内には表れなかった。調べようと思えば調べられたものの、大陸縦断鉄道とそれに関連する事業の再興業に伴う業務負荷の増大を受けて、調べる時間をなかなか作れなかった。今となっては、大陸縦断鉄道の工事が異常な速度で完了へと突き進んでいったのも、彼らの釈放に疑いを持つ者の目をそちらへ向けさせない意図が含まれていたのではないかと、ジェイミーは推察する。実際のところジェイミーだけでなく、当時彼らの身柄の確保に一役買ったレックスでさえも、ひいては鉄道保安課に所属する者たち全員が、キングス、トマスの釈放の件を知らなかった。北部コスタノア美術館占拠事件におけるキングスの暴虐ぶりは、北部警察の捜査報告書を通じて見聞きすることにより、望まずとも知らされることになったのだった。
ジェイミーの夫であり、北部警察に所属するアーノルド・エイムズは、事件発生当時、コスタノア美術館に居合わせていた。《夜鷹》の構成員と思われる複数の占拠犯たちを気絶させ、彼らを率いるキングスと対峙し、死闘の果てに、銃殺によりキングスの生命を絶つ選択を取った。被疑者に罪を認めさせ、償わせる前に殺してしまったという結果から、アーノルドは追及の矢面に立たされ、北部警察内における彼の立場は危ういものとなった。ジェイミーは妻として、彼の精神面を心配などしていない。ただ、己の命と引き換えにしてでも何かしらの爪痕を残してこそ刑事だ、などといった彼の堅固な一面が垣間見えると、彼の取る行動のひとつひとつにとらわれずにはいられなくなる。ジェイミーはアーノルドの生き方に敬意を払っているが、同時に、どうしようもなく嫌ってもいた。なぜなら、彼に死んでほしくはないからだった。アーノルドをそのような考えに至らせる《夜鷹》の存在を、心の底から憎んだ。
その憎悪の行き着く先は、そんな《夜鷹》の壊滅に何ひとつとして貢献できていない、自分自身だった。
「ジェイミー君。式辞が始まるよ」
クラークに呼びかけられて、ジェイミーは思考の渦から脱した。気がつかないうちに、大広間の奥にある登壇台の周辺に、多くの人が集まっている。会場にいる全員が、というわけではないようだったが、ジェイミーの近くのテーブルには、すでに誰もついていなかった。クラークの背を追って、ジェイミーも人だかりの中へと加わる。
「皆様、本日はお忙しいところ、お越しいただき誠にありがとうございます。ただいまより、大陸縦断鉄道の竣工を祝して、ご来賓の皆様方をご紹介するとともに、おひとりずつ、ご祝辞を頂戴いたします」
司会を務める女性に促されて、体裁の整った礼装に身を包む来賓者が入れ替わり立ち替わり壇上に現れ、祝いと労いの言葉を述べていく。鉄道管理局役員を初め、鉄道敷設工事の主任者、新型鉄道車両の開発及び設計を担った機関車両技師、鉄道工学研究の権威者、次期政権への参入が見込まれる政治家に至るまで、各界を代表する人間たちが、それぞれの立場から、この国が向かう未来への希望を語った。祝いの場であることから、《夜鷹》を初めとした反対勢力による運動や暴動、財源及び資源の枯渇が等閑視されている、などといった、竣工に至るまでの過程に確かに存在した数多くの問題を取り上げる者はほとんどいなかった。
ただひとり、モーゼズ・ガフだけは違った。
「我が国における鉄道業とは、すべての国民が与えられた権利を行使し、健康で文化的な生活を送ることを揺るぎなき前提とした上で成り立ち、推進されるべきものだと考え、また、それが正統であると多くの人が信じられる時代であれと、強く願っているものであります。交通の利便性の向上や、人や物の流通による国内産業の活性化を目指して突き進むのもまた、我が国の在り方として支持したいところではありますが、私は、しがない大学教授の端くれである前に、現代を生きるひとりの人間です。鉄道工学的観点から、今回新たに製造、開発された鉄道や機関車両の魅力をたっぷりと論ずることはいかにも興趣に満ちていますが、あくまでもこの場では、それらがこの国に何をもたらすのか、それらを享受する私たちは、これからどのように生きていかなければならないのか、今一度ひとりひとりが熟思する契機となるよう祈るばかりである、と申し上げるだけに留めておきましょう」
語調は穏やかで、わずかに諧謔を交えながらも、盤石なる意思を前面に押し出して、モーゼズは式辞を終えた。礼服の尾をたなびかせ、軽やかに壇上を後にする。背には、しばらく鳴り止まない拍手を浴びせられる。
「モーゼズ君らしい言葉選びだったね。のんびりしているようで、実はすごく頑固で、したたかなんだ」
権威者の迫力にジェイミーが圧倒されているところへ、クラークがしみじみとした様子で感想を述べた。それは、明らかにモーゼズに対して向けられたものだと分かっていたが、ジェイミーには、クラーク自身のことをも指しているようにも聞こえた。
「レックスさん、大丈夫でしょうか。あんなに立派な演説の後で」
「関係ないよ。全員が全員、偉そうに講釈を垂れてもつまらないだけだもの。レックス君にはレックス君の了見とか、心の内に貯め置いてきた思いがあるだろうから、それを素直に、偉い人たちに怒られない程度の素直さで表明してきたらいいと、さっき言っておいた」
それにね、とクラークは静かに、しかしジェイミーの耳には確かに届くほどの声量で続ける。
「彼が、ジェイミー君や、ほかのみんなが思うほど頼りない男じゃないってことを、そろそろ分かってほしいんだ」
レックスが、演壇へと向かう。
壇上へ続く階段に足をかける直前、新型機関車の先頭車両をそのまま写し取って造られた、実物大の模型を片時、振り返って一瞥した。決意を固めるために。中央部警察鉄道保安課の代表として表舞台に立ち、発言することの意味を、階段を登り、この先へ進み行くことの意味を、見失わないために。
「だから、課長ご自身でなくレックスさんを、あの場所へ送ったと」
「うん。部下に誉れの機会を与えるのも上司の務め。そうでしょう」
クラークが目線によって導き、レックスの祝辞が今にも始まろうとしていることをジェイミーに知らせた。
これまでの登壇者と比べて、明らかにひと回り若い年齢の男が壇上に現れると、下段に集まる式典参加者たちは互いに顔を見合わせ、首を捻り、困惑とともに彼の発言を待った。中には、わざと聞こえるような失笑を漏らしたり、薄笑いを浮かべて、見くびるかのような態度を隠さない者もいる。それほどまでにレックスという人間は、この、目に見えて華やかで、目には見えない重圧に満ちている場に、馴染んでいなかった。
「中央部警察鉄道保安課所属の、レックス・ベイカーと申します。先ほどご登壇されましたモーゼズ・ガフ教授のご紹介にあずかり、本来であれば私になど不相応であるはずの大役を仰せつかることとなりました」
好奇の視線に晒されながらも、レックスは演説に努める。声は初め、震えていたが、話す内容は事前に考えられているため、発声に迷いはない。一対多の状況にも動じることはなく、言葉を連ねていく。
「まずは何より、大陸縦断鉄道が無事に竣工を迎えられたことを、心よりお祝い申し上げます。私が改めて言明するまでもなく、このたびの計画には数多くの人の貴重な労力と時間がかけられています。技術者、開発者の皆様のご尽力がなければ、一国の端と端を結ぶ鉄道など、到底実現し得なかったと存じます。公職者として、わずかながらではございますが計画の一端にお力添えできたこと、計画の発足から完了までの時の流れの最中を生きられたことは、私の人生において確かな価値を残すものであろうと、深く感じ入っております」
いきなり大仰な導入から始まり、ジェイミーはレックス本人を差し置いて不安を胸中いっぱいに広げる。本当にレックスは上手くやれるのか、そう問いかけるようにちらりと隣のクラークを見るが、変わらず穏やかにほほえんでいるばかりだった。
「一方で、鉄道の安全を守る仕事に就く身として、鉄道とともにこれまで歩みを続けてきた我が国の未来を考えた時に、絶対に避けては通れない出来事があります。北部渓谷列車転落事故です」
祝典から最も遠く離れた主題に、レックスは切りこんだ。
来場者の多くが言葉を失い、息をのむ。
「発生原因が明らかになっていない以上、いいえ、たとえ明らかになったとしても、どれだけの月日が経とうとも、私は事故を過去のものとして歴史の闇に葬るつもりはありません。私の人生が終わりを迎えるまで、常に追い続け、考え続け、記憶に留め続ける所存です。無論、誰に命じられたわけでもなく、誰に配慮した偽善的な思考というわけでもなく、私個人の意思によります。だから私は、大陸縦断鉄道の工事再開の一報を聞きつけた当初、否定的といいますか、今の状況で押し進めることがこの国にとって本当に良い結果をもたらすのだろうかと、あまり適切な表現ができず心苦しいのですが、なんとも言いがたい、複雑な感情を覚えました。これも私個人の正直な気持ちです。しかし、ある時、その気持ちには変化が生じました」
そこまで言ってから一度、沈黙を作り、呼吸を整える。それは緊張から来るものではなく、演説に聞き入る者たちを、何より自分自身を、後戻りのできないところまで追いこむための時間だった。
「今回の記念式典に携わる中で、私はひとりの青年と知り合いました。彼もまた、大陸縦断鉄道の計画に関わっていて、少しだけ、話をする機会がありました。その時にはまだ心境の整理ができておらず、どこか後ろ向きだった私とは対照的に、彼はもう、事故がもたらした深い暗闇から抜け出そうとする明確な意思を持ち、前を見て、歩き出しているのだと分かりました。なぜそんなことが分かったのかというと、彼が、亡きオズワルド・イーグル氏の想いを、氏の傍らで感じ取っていたことを知ったからです」
登壇者の誰もが口には出さずに避けてきたその名前を、レックスはためらわずに来場者へ聞かせた。
「私は幼少より中央で育ち、イーグル氏の機関車両技師としての功績は、新聞やラジオで見聞きするだけでした。ですが氏にも属する共同社会があり、そこには同じ志を持つ仲間も大勢いたはずです。そのうちのひとりである青年が言っていました。イーグル氏は、大陸縦断鉄道の実現を確かに望んでいた、と。たとえ氏が命を落とそうとも、その原因が不幸な列車事故であったとしても、氏の遺志を受け継ごうと邁進する人たちがいる。そんな当たり前のことを、決してないがしろになどできない、とても大切なことを、私はついこの間まで忘れてしまっていたのです」
式典会場にいるほとんどの人間が、レックスの演説に聞き入っていた。
ただひとり、モーゼズ・ガフだけは違った。
「事故を過去の出来事にはしない。その考えはこれからも変わることはありません。しかし、この国が未来へ突き進んでいくその歩みを、止めるつもりもありません。警察官として、国民として、オズワルド・イーグル氏が望んだ未来を生きる人間として、改めて、心からの敬意を」
あと二言、三言で終わるはずだった演説は、そこで、不意に中断された。
壇上を明るく照らしていた光が消えた。それどころか、会場全体に落ちていた複数の照明が、ひとつ残らず消灯された。テーブルの上に置かれていた数本の手燭の灯りがわずかに卓上を照らすばかりで、式典会場の大部分が、突然、暗闇に包まれた。
停電による認識せざるを得ない視覚情報の変化を受けて、来場者は皆、騒然となった。不安を漏らす男女の声、会場を脱しようと動き回る者の足音、誰かと誰かがぶつかり、転倒する音などが絶え間なく入り交じり、混乱を助長する。それをなんとか押し留めようと、警備を担当する警察官たちが声を張り上げ、状況が判然とするまでその場で待機することを全員に要請する。
警察官でありながら一番に動揺してしまっていたレックスも、なんとか降壇して鉄道保安課の集まりに加わった。
「ただの停電だ。上の階に配電室がある。さっき、警備の連中がそこへ向かっていった」
カイルが簡潔に現在の状況を共有した。それは周りの人間も含めて安心させるための言葉だったが、レックスたちは気を緩ませるわけにはいかなかった。
「本当に、ただの停電なんだろうな」
「おじいちゃんが言ってたぜ。私がいる限り、ここでは何も起こさせない、ってな」
「え、そんなこと言ったっけ」
「おい。ふざけんな」
「あの、私たちもその配電室に行ってみませんか。何があったか気になりますし」
「賛成だ。皆、私の後に続け。くれぐれも、警戒は怠るな」
「上の階って、階段で行くんでしょ。老いぼれはここに残るよ。マイヤー君たちだけで行ってきて」
「情けないおじいちゃんだな、まったく。会場内の見張りは任せましたよ」
レックスたちは会場に持ちこまれていた非常用の手提げランプを拝借し、灯りを確保すると、クラークをひとり残して暗がりに沈む階段を駆け上がっていった。
彼らの姿が見えなくなってから、クラークは夜目のきき始めてきた視界を、隅までじっくりと確かめていく。
「さてと。モーゼズ君はどこかな」
配電室は、建物の上層階に位置していた。
昇降口を出て廊下を道なりに進み、やがて奥まった場所にたどり着くと、関係者以外の立ち入りを禁ずる警告文が掲げられた部屋の入り口が、内壁の陰に潜んでいるのを見つけることができる。レックスたちが到着する頃には、複数の警察官が扉の前で待機しており、突入の機会をうかがっていた。出入りが可能なのはこの扉一か所のみであり、窓はなく、排気口などの進入経路も存在しないため、電気設備を操作した人間がいるとすれば、これから確実に鉢合わせすることが予測される状況となっていた。
扉の前に立つ前に、一同はランプの火をひとつ残らず消す。彼らの視界が完全なる闇に支配されるかと思われたが、光は潰えない。配電室の扉の隙間から、わずかに室内の灯りが漏れ出ているのが可視化される。決して強い光ではなかったが、人間が部屋の中で動き回り、目的の機器に触れようとするには、不足のない明るさだった。
「どけ。まどろっこしいのは好かん」
外に警察官が詰めていることなど、室内の人間にはとうに察知されているであろうと断じたのか、止めようとする者たちを押しのけて、スカーレット・マイヤーがまっすぐ扉へと向かっていく。その手にはすでに取り出していた、四十五口径が握られている。
片足を振り上げ、あからさまに大きな音を立てて扉を蹴破り、一切の躊躇もなく配電室へ足を踏み入れる。
整然と複数の列を成す配電盤が破損しているわけでもなく、その棚の上部からおびただしく伸びている剥き出しの配線から煙が上がっているわけでもない。一見して、何事もなく正常に稼働しているようであり、目視で判別できるような異常は確認できない。設備そのものを破壊するといった粗雑な手口ではなく、記念式典の会場に繋がる系統の電気のみを機器の操作によって的確に停止させた、計画的な行為であることを示していた。
ジェイミーにさらなる応援の要請を命じ、カイルとレックスも同じく配電室の無機質な床を踏む。停電を企てた進入者の気配を感じ取ろうと、レックスが一歩先へ踏み出そうとするところを、スカーレットが立ち塞がって背中で押しとどめた。気配を感じるまでもないと、言葉すら発さずに教えるためだった。
配電設備の列と列の間、遮るものなど何もない通路の奥に、男が現れ出た。
キングスのような巨漢と比べてしまえば、背は高いが体は華奢で、肉体的な脅威は感じられない。だが男の、眼鏡の奥から刺すようにこちらを睨む切れ長の目が、全身から立ちのぼるこの世のすべてへ向けられた憎悪が、彼がただの人間ではないと、相対する者に確信させる。
レックスは、体中の毛が逆立つような感覚に襲われる。
南部荒原を暴走する列車の上。レイを人質に取り下品に笑うキングスの横で、野犬のごとく敵意を露わにしていた、細身の男。名をトマスだと知らされてから、キングスとともにその後の消息を心の片隅で気にかけていただけに、一目で当人だと分かった。
「また、お前がいるのか。また」
理知的な声に、理知とはかけ離れた感情が滲む。
革手袋をはめ、拳銃を握る手を、おもむろに持ち上げる。
先にスカーレットから銃を突きつけられているにもかかわらず、少しの動揺も見せない。代わりに見せたのは、どれだけ罪を重ねようとも、自らに課せられた使命を最後まで遂行しようとする覚悟だった。
一目で相手を認識したのは、トマスも同じだった。その事実が、レックスに抗いようのない緊張感を与える。コスタノア美術館でキングスと命を賭した闘いに身を投じた記憶が、蘇ってくる。こちらも銃を取り出して応戦しなければならないと頭は訴えているのに、まるで金縛りにあったように手が動かない。キングスに蹴飛ばされた横っ腹の古傷が、危険信号を発しているかのように痛み出す。
そんなレックスの背中を、カイルが勢い良く叩いた。
一瞬のことだったが、体の硬直は、すっかり消えてなくなった。
キングスと美術館で対峙した時、レックスはひとりだった。ひとりで立ち向かい、ひとりで傷を負い、ひとりで窮地を脱した。もし次に似たような状況に置かれたとして、二度、三度と同じ行動を取れるかといわれれば、分からない。
だが、今回は違う。
お前はひとりで警察官をしているわけではない。
レックスは、そう、カイルに言われた気がした。
「お前、トマスだな。手配書やら捜査報告書やらなんやらでさんざんツラを見させられてきたから、ちゃんと憶えてるぞ。いつだったかの、南部荒原機関車強奪事件の被疑者のひとりだったっけか。不当な手段で出所しておいてやることが、こんな寂しいところでお偉いさんがたの目くらましとは、いやはや、泣けてくるぜ。なあ、そうだろ」
「目くらましか。警察にしては悪くない表現だ。言い得て妙だな」
「どういう意味だ」
「言葉の通りだ。この忌まわしき祝典での騒ぎは、貴様ら愚かな警察を惑わせるための目くらましに過ぎない」
「けっ」
カイルはわざとらしく失笑してみせ、応酬を打ち切る。こちらを油断させるために出任せを言っていると判断して相手にしないことに決めたようだったが、レックスにはトマスが嘘をついているようには思えなかった。
撃鉄を起こす音の直後に、スカーレットの声が鋭く響く。
「貴様の狙いなど、この際どうでもいい。停電の混乱に乗じて何かをしでかそうという算段なのだろうが、生憎、式典の会場内外では、大勢の警察官が警備に当たっている。事が起これば即時臨戦態勢に入り、会場および建物内を出入りする人間を厳重に制限する。要人の誘拐を企み、建物の外へ連れ出そうとでもしようものなら、そいつは今のお前の何倍もの数の銃口を突きつけられることになるだろう。そもそも、こうして出口のない一室に追いつめられている時点で、貴様の負けだ。貴様には、もう何もできはしない」
「それでもいい」
その時、レックスは気づいた。
トマスの抱える絶大な憎しみの片端に、諦めが芽生え始めていることに。
「それでもいい。構わない。あの人の助けになるのなら、この国の軌道を、再生への道へ修正することができるのなら、本望だ。たとえここで死のうとも、悔いはないだろう」
「あの人、とは誰だ」
トマスは答えない。軽蔑とも、挑戦とも取れる、邪悪な笑みを浮かべている。お前たちでたどり着いて見せろ、とでも言うように。
レックスは銃を抜かなかった。
今のトマスから、他者に危害を加えようとする意思は感じられない。凶器を取り上げ、身柄を拘束し、拘置施設へ連行したのちに、持っている情報を洗いざらい吐かせる。警察が組織犯罪に加担した者に対して取る措置とは常にそうであるべきであり、目の前にいるトマスも例外ではないと、レックスは考えていた。本来であればキングスも生かされていたはずだったが、アーノルド・エイムズというひとりの刑事の生命を脅かそうとしたために、やむなく殺される運命をたどったと、一度は信じて、疑いを向けはしなかった。
しかし、本当はそうではなかったと、思い知ってしまった。
確かめたくはなかったのに、確かめさせられてしまった。
「ならば、あとひとつだけ問う。貴様は《夜鷹》か」
答えるな。
答えてはいけない。
レックスは心の中で叫ぶ。トマスに呼びかける。
その絶叫に、トマスは迷いなく逆らう。
思い通りになど、なってやるものか、と。
「そうだ」
乾いた発砲音が一回、配電室に短く鳴り響いた。
スカーレット・マイヤーが所持する四十五口径から弾丸は発射され、トマスの頭部を一直線状に貫いた。瞬時に鮮血が噴き出し、周囲に飛沫を散らす。握力を喪失した手からは銃が落ち、床に当たって重たい音を立てる。後ろ向きに数歩よろめくと、背が壁にぶつかった。そのままもたれかかり、腰を落として、動かなくなった。虚空を見つめる両目の間に血が滴り、流れていく。
そうして、ひとりの人間が命を落としても、機械は変わらず稼働を続ける。その従順な働きぶりをレックスは、しばらくぼうっと眺めていることしかできなかった。そんな部下を放って、スカーレットは配電室を後にしようとするが、カイルが立ちはだかった。
立ちはだかったはいいものの、カイルもまた、なんと言えばいいのか決めかねていた。
「なぜ撃ったのか、そう聞きたいか。聞きたいだろうな。分かっているだろうに」
ダグラス警視総監の命令が、レックスの脳裏に反響する。
アーノルド・エイムズも、スカーレット・マイヤーも、自らに危機が及び、自らを守るために相手を殺したのではない。
《夜鷹》だから、殺した。
ただ、それだけだった。
本当は、殺していいわけがない。
にもかかわらずふたりは、どういった経緯であれ、引き金に手をかけた。確実に死に至る部位を狙い、弾を放った。
「やつの最期の言葉を、貴様らも聞いただろう。私もやっと、腑に落ちた。総監が、なぜあのような命令をわれわれに下したのか、その真意を理解することができた。やつは、もうだめだった。人であることをやめていた。文字通り、醜く、薄汚く、ぼろぼろの翼を広げて夜をうごめく、一羽の鳥に成り下がっていた。それがこの国に、無数に棲みついている。罰を与え、罪を償わせ、更生させられるような域からは、とうに外れてしまっている。そのような国を蝕む害悪どもは、我ら警察の手によって排除していくしか手立てはない。だから撃った。それだけのことだ」
「でも、マイヤーさん、前に言ってたじゃないですか。銃は人を殺すためじゃなく、人を守るために持つものだ、って」
絞り出すように上げた声は、怯えた少年かのように震えていた。いつものスカーレットであれば、苛立ちのこめられた怒号によってその態度を改めさせようとするところだが、この時ばかりは穏やかだった。
「少しは上司の話に耳を傾けようとする姿勢を見せろ、レックス。言っただろう、あれは人ではない、《夜鷹》だ。まあ、トマスはまだ辛うじて、人間らしい部分もないわけではなかったが。やつは覚悟を決めていた。私の『貴様は《夜鷹》か』という問いに、あれだけきっぱりと肯定を示した。やつはやつなりに、揺るぎなき信念を持っていたということだ。警察官として、あれには応えてやらねばならないと思った。貴様の言う、敬意とやらを表したまでだ」
「イカれてるよ、どいつもこいつも」
カイルが独り言を装って、そう吐き捨てた、次の瞬間の出来事だった。
金属質の物体が砕け散るような破裂音が、複数回、部屋中に鳴り渡った。同時に、配電盤の一部から火の手が上がり、一同が呆気にとられている間に配線へと燃え移ると、激しい火花が飛び散り始めた。濃い灰色の煙が空気を濁し、室内全体を覆い尽くさんとする勢いで急速に広がっていく。
「爆発だ」
「どこから」
「分からんが、この部屋にあらかじめ仕掛けられていたんだ。それが、今になって起動した」
「なぜだっ。やつは死んだ。誰の仕業だ、起動させたのはっ」
スカーレットが声を張り上げていると、火花の一片が彼女の体に降りかかった。レックスとカイルは抵抗する彼女の体を抱えて、部屋から脱出した。配電室は、みるみるうちに炎にのまれていった。軽い火傷を負っていたスカーレットは、駆けつけたジェイミーや他の警察官に連れられて、先に下の階へと降りていった。カイルとレックスも、すぐにその後を追う。
延焼を少しでも食い止めるべく、レックスが扉を閉め切ろうとした時に、隙間から、室内に残されたままのトマスの死体を見た。
無数の火花が、まるで彼の死を祝福しているかのように、いつまでも輝き、舞い散っていた。
配電室にて、原因不明の火災が発生した。消防隊が到着するまでの間、警備担当の警察官によって第一次消火活動が行われた。レックスたち鉄道保安課はその一員には加わらず、なおも停電状態が継続する式典会場へと戻っていた。会場内で待機しているはずのクラークの姿がどこにも見えなかったが、一同にそれを気にしている暇はない。不安から精神的に錯乱する者をなだめたり、無理に会場から出ようとする者たちを押し戻したりなどといった対応に追われた。
レックスはひとり、建物の一階に降りていた。
トマスの死に様を見届けてから、彼の目くらましという言葉にどこか引っかかるものを感じ、ある心配がレックスの中で育っていた。
静寂に包まれた無人のロビーを走り抜け、出入り口付近に設置されている公衆電話の前に立つ。ひったくるように受話器を掴み、交信を試みる。発信番号は、中央街のアパート、「アップル・ヤード」の二〇一号室に備えつけられている固定電話機だった。
交換手の案内の後、回線には接続されるが、しばらく待っても応答はなかった。
次に、二〇二号室の番号を押す。今度は、着信者がすぐに応じた。
「エルシー、無事か」
「レックス、レックスなの」
レックスからの連絡に、エルシー・グリーンはすがるように彼の名を何度も呼んだ。そんなエルシーをなだめてから、レックスは急ぎ、本題に入る。
「さっき、俺の部屋にかけたんだけど、レイはまだ帰っていないんだな」
「うん。というか、そっちにまだ着いてなかったんだ」
「どういうことだ」
レックスはエルシーから、レイがアルフレッドたち複数人で連れ合って大陸縦断鉄道竣工記念式典の会場を訪れるために、列車に乗るべく中央駅へと向かったと知らされた。アパートを出たのが十八時半を過ぎた頃、現在はそれから数時間以上が経っているが、レックスは会場でレイの姿を見かけていない。
心配が、胸騒ぎに移り変わる。
どうか、ただの杞憂であってくれと、いつからか、ずっと願っている。
「おい、ラジオだ。ラジオ、つけてくれ。何か、流れているかもしれない」
ラジオの音声はただでさえくぐもっており、電話機越しでは内容を聞き取ることはできない。受話器を持つ手の力を無意識のうちに強めながら、エルシーの報告を待った。
少し間を置いた末のエルシーの声には、不安と焦りが生じていた。
「十九時十六分に中央駅を発車した第一地区行きの列車が、鉄路の分岐点を間違えて、閉山手続き中の炭鉱跡地に誤進入したって。その炭鉱、隧道の中にまで専用の鉄道が敷かれてて、列車がその奥に入っていったって」
口早に言い切ってから、エルシーは、どうしても乱れてしまう息遣いをどうにか整えようと、深く空気を吸い、吐いた。迫り来る恐怖に震えながら、レックスに優しい言葉を求めた。きっとレイとは何も関係ない、レイも、ほかのみんなも、無事だ、大丈夫だ。そう言って笑いかけてくれるだろうと、期待した。
「また後で連絡する。待ってろ」
期待に応える声はなく、通話は断たれた。
それでもエルシーは、信じるしかない。彼らが、生きて帰ってくることを。