九十七名。
北部渓谷機関車転落事故によって命を落としたとされる、乗客、運転士、機関士、車掌などのすべての人間を含めた犠牲者の数が、事故発生から約一か月後に北部警察より初めて公表された。以来、事故から三か月、半年、一年と節目の日を迎えるたびに、新聞の特集記事やラジオの報道番組は、この数字を繰り返し伝え、見聞きする者の頭に、耳に、胸に刻みこんでいった。
警察は、事故の発生原因を調査する傍ら、国の民営鉄道会社を取り仕切る鉄道管理局に向けて、鉄道事故の再発を防止するための対策を検討すること、その対策が適切に講じられるよう鉄道事業者へ促し、監督することを命じた。管理局は警察の措置命令を承諾し、国中の鉄路や鉄道橋を初めとする鉄道設備の検査、乗客の安全を確保するにあたり必要とされる技術的基準の整備、鉄道業に従事する者が置かれる労働体制の改善などといった、さまざまな活動に取り組んでいった。資金には国費の一部が充てられ、当初は国民からの反発も少なくはなかったが、管理局は一箇所ずつ地道に各地の鉄道施設を訪問し、実際に現場を見て、それぞれの状況に即する対応策を進めていった。国の鉄道を取り巻く環境は、鉄道事業者が、ひいては鉄道を利用する国民が理想に掲げる方向へ、確実な変化を遂げつつあった。
管理局は活動の一環として、重大な鉄道事故が二度と起こらぬよう戒めることを目的に、広大な敷地を有する中央駅の構内に慰霊塔を建立する計画を立てた。駅に出入りするすべての人間の目に留まるほどの高さを有し、事故を風化させず、次代へ語り継ぐ一助になればという思いから立案され、事故から一年余りが経過して設立が実現した。直近に北部コスタノア美術館占拠事件が発生した影響で日程はずれこんだが、簡素ながら除幕式も挙行されることが決まっていた。
中央部警察鉄道保安課に所属するレックス・ベイカーとカイル・フロイドは、除幕式の警備業務に駆り出されていた。通常、鉄道保安課が祭礼や要人の警備、警護に携わることはないが、警備警察の人員不足などといった理由により、状況によっては特例として応援要請が発出される場合がある。今回の警備は、まさにその特例が適用されたのだった。
「お偉いさんは、俺たちを雑用係か何かだと思ってんのか」
「そう怒るなよ、レックス。突っ立ってるだけで普段より金回りが良くなるんだ、うまい商売じゃねえか」
「突っ立ってるだけで済めばいいんだけどな」
警備隊に属する人間であることを証明する腕章の位置を正しながら、レックスは今日という日が何事もなく過ぎるよう、心の内で願う。
コスタノア美術館での事件にて負傷し、自力で立ち上がることすらままならない状態であったレックスだったが、美術館占拠犯の協力者として雇われていたという、ウェンディ・デイトンと名乗る医者の治療を受けて回復し、レイとエルシー・グリーンを守り抜くための力を振り絞ることができた。レイがウェンディから、彼女が経営するトリンゼット診療所の連絡先と治療費の振りこみ先である銀行口座の番号が書かれた紙を渡されており、レックスは北部から中央部に帰還した後、速やかに提示された金額を支払い、診療所に電話してウェンディに一報を入れていた。命を救ってくれたことに改めて感謝を伝えつつ、レックス・ベイカーが美術館占拠事件に関わっていたことは第三者に口外しないよう念を押し、今後も場合によってはまた世話になるかもしれないのでその時はよろしく頼みたい、などと抜け目なく言い添えた。彼女の応答は相変わらず淡白なものではあったが、レックスの要望に対して特に拒否は示さなかった。
ウェンディの適切な治療の甲斐もあり、スカーレット・マイヤーやジェイミー・エイムズといった中央部警察の人間から身体の不調を指摘されるようなことはなかった。しかし、冬の深雪が招く寒さに油断して風邪を引いてしまい、結局は数日に渡り仕事を休んだ。慰霊塔除幕式の警備は、そんな病み上がりのレックスに与えられた休暇明け最初の任務だった。
「しかし、でかいな。それはもう、不必要に」
「必要十分だろ。あまりに小さすぎても、それはそれで不満を持つ人間も出てくるだろうし」
「だからって、でかけりゃいいってもんじゃないんだよ、こういうのは」
警備隊といっても、レックスとカイルが立ち番を担当するのは除幕式の会場から遠く離れた位置、バノックの街方面に繋がる駅の出入り口付近だった。不審な人物を発見したら警察無線を使用して警備隊本部へ報告する手筈になっているが、ふたりの目の前を通過するのは除幕式の見物人や列車の乗降客ばかりで、しかも群衆となって大量に押し寄せてくるため、その中から特定の人物を怪しいか、そうでないかと都度見極めるのは不可能に等しい。
「大体、時期が早すぎるんだよ。どうにかして事故を遠い過去の出来事に押しこめちまおうっていう、お国の思惑が透けて見える。気に食わねえ」
「むしろ遅いほうじゃないのか。中央駅を利用する人が塔を目にして、少しでも事故を思い出す時間を作れるようになるのなら、全くの無意味だとも思わないし」
「確かに、パン屑程度の意味はあるかもしれないけどよ、警察の活力は間違いなく削がれるぞ。そうやって事故の真相は、さらに深い霧の奥へと消えていくってわけだ」
喧噪が目に見えない壁となるのをいいことに、カイルの口から飛び出す批判には、一切の遠慮がない。いつか関係者の耳に入ってしまわないかとレックスは気をもむが、レックスもまた、カイルの発言のすべてを否定できるかといわれれば、そうではなかった。
除幕式は予定通り開始され、つつがなく執り行われた。幕が取り払われ、結晶質の石材によって形作られた塔がその姿を現すと、中央駅は拍手の音と歓声で包まれた。人間の背よりも高いため、駅の外にいるふたりにも塔を目にすることができる。式の司会者が、塔が建立された経緯を説明してから、最後に黙祷の時間が設けられた。賑やかだった駅舎は、束の間、水を打ったように静まりかえった。腕を組んでそっぽを向いているカイルの隣で、レックスはひとり、目を閉じてこの先の平和を祈った。
除幕式が終わっても、レックスたちの仕事は終わらない。中央駅の広場では、慰霊塔によって集められた観光客を対象として、簡易な歴史資料の展示区画、小規模な産物店などが設営されており、人混みはなかなか解消されなかった。警備体制の解除が発令されるまで、定期的に別の警備隊と待機場所を入れ替えるために、ふたりは駅全体を歩き回った。
広場を横切ろうという時に、レックスは足を止めて慰霊塔を間近で眺めた。塔自体に文字は刻まれていないが、塔の根元には石碑が併設されており、そこには北部渓谷機関車転落事故の顛末と、事故の犠牲者へ捧げる哀悼の意が連ねられていた。文の最後には、塔設立の企画立案、実行者として、鉄道管理局の名が明示されている。
「見れば見るほど、いけ好かねえな」
「どうして。洗練されていて、良い塔だ」
「姿形のことじゃない。これを建てたやつらのことさ」
勤務時間が長引くのに比例して、カイルの機嫌も悪くなっていく。滑らかな光沢が照り返す慰霊塔の本体を上から下まで睨みつけるように見回しては、周りに通行人がいるのも構わずに悪態をつき続ける。レックスは苦笑しながら、それをただひたすらになだめる。
「政治家に司法関係者、警察組織の管理職といったお偉いさんがたが現役を退いた後に役員として名を置くんだとよ。下っ端こそ鉄道業に関わってきた人間の中から使い物になりそうなやつを引き抜いては寄せ集めているようだが、ろくに現場を知りもしないような連中が先導してたんじゃ、どうしたって心から信用なんてできるかよ」
「気持ちは分からんでもない。でも、現場で働くことで能力を最大限に発揮できる人間が、いざ上の役職に異動して、現場の人間を指揮する立場になっても同じように、あるいはそれまで以上に活躍できるかというと、必ずしもそうとは限らないんじゃないか。俺だって、もし明日からロウさんの代わりに課長の座に就いてくれって言われたとしても、任せろと胸を張れるほどの意志は持てないと思う」
「なんだよ、出世欲のないやつだな。それに、例が悪いぞ。あのおじいちゃんの代わりなんて、誰にだって務まるぜ」
「そんなこと言うなよ。俺、ロウさんには感謝してもしきれないんだから。お前にとってはただのおじいちゃんでしかないのかもしれんが、あれだけ懐の広い人は、そういない」
鉄道保安課の課長であるクラーク・ロウは、レックスとレイが共同生活を始めて以降、しばしばふたりの暮らしぶりを気にかけていた。詰め所で顔を合わせるたびに最近はどうだ、仲良くやっているか、などと聞かれるので、レックスは内心ではやや辟易しながらもレイとの日常の中で起きた出来事を話す。そうすると決まって嬉しそうに笑い、頑張ってるね、とレックスを褒めたたえる。どんなに些細なことであっても話せば話した分だけ課長が上機嫌になっていくのを見ると、レックスも最終的には悪くない気分になる。
それでも、レイの父親のことはやはり言えなかった。
課長にだけ、というわけではなく、カイルたち中央部警察鉄道保安課の人間をはじめとして、北部警察のアーノルド、南部で知り合ったジョッシュ・スターキー、レイの通うフリー・スクールの関係者、エルシー、彼女と親しい間柄の者たち、誰彼の区別なく、言えなかった。決して相手を信用できないから明かさないわけではなかったが、それ以上に、秘密を打ち明けてくれたレイの信頼を裏切りたくない、という気持ちのほうが強かったために、相談を検討することすらしなかった。たとえレイの許しを得られたとしても、国家が今まさに乗り越えようとしている問題を蒸し返すどころか、新たな事変すら作り出しかねない重大な機密事項であり、とても安易に共有できる情報ではなかった。極秘かつ綿密な調査の末に得た結果の真偽を精査したのちに、ようやくしかるべき機関へ上申できるかどうかを考える余地が生まれるものだが、調査に着手するための取っ掛かりを得られないまま月日だけが過ぎていき、友人や仲間に黙秘を続けているという事実が日を増すごとに重たくのしかかる。
秘密を抱えて生きることは、心にとって優しくない。レックスはそう、身をもって知るのだった。
「我らが課長のことはともかくとして、俺が気に食わないのはそれだけじゃない」
「まだ何かあるのか」
「まだ何かって、わざわざ口に出せってのか。大陸縦断鉄道計画とやらのことを」
言ってカイルは、広場の隅の一部を陣取る看板にちらりと目をやる。木製の立て看板には、今まさにカイルが口にした大陸縦断鉄道竣工の記念式典の開催を告げる文章が、全面積を使ってこれ見よがしに記されている。これまでにも何度か、レックスの視界に映りこんではいたが、レックスは、無意識のうちにそれを見ないようにしている自分に気づく。しかしカイルは、何を思っているのかをレックスに言わせようと、意図的な沈黙を作る。対するレックスは、別に意見を述べたくないというわけでもなかったので、あっさりと口火を切った。
「驚いた。あれって、ちゃんと進行してたんだな。てっきり、止まったままなのかと」
「当初はな。だが、管理局の働きかけにより、事故から数か月も経たないうちに工事が再開されていた。保守派からの猛抗議を受けるのは目に見えていたから、あまり大っぴらに喧伝してはいなかったがな。そのおかげというのも変な話だが、特に大きな暴動も起きることはなく、工事は着実に完了へと向かっていった。お偉いさんがたの得意技、根回しの賜物ってやつさ」
「何度聞いても、実感が湧かないよ。仕事の一環で事業計画書を読ませてもらったことがあるけど、素人からしてみれば、十年単位の途方もない大業だろうなって思うから、気長に待つつもりでいたのに」
「実際に事業に関わってない人間からしてみれば当然だろうよ。南のペンドリオールから北のコスタノアまでを突っ切る長距離鉄路の敷設、新型機関車の開発、設計に製造、機能検査に走行試験。すぐに思いつくだけでもこれだけの量の課題が出てくる。果たして一体、どれだけの利権と策略が絡んでいるのやら」
「嫌な言い方をするなよ」
「だったら、お子様にも分かりやすくなるように言い換えてやろう。果たして一体、どれだけの金と人間が動いているのやら」
「それこそ、途方もない」
「それでも、現に竣工を迎えた。冬が終われば、実際に客を乗せて走り始める。もはや夢物語ではなく、本当に、イーグルの機関車がこの大陸を縦断するんだ。空の上の当人は今、何を思うんだろうな」
慰霊塔よりも高い位置を見上げながら呟くカイルの言葉を耳にしながら、レックスは、ひとりの少年が自身の隣を通りすぎていくのを見て、心臓を手で掴まれたような感覚に襲われる。少年はレックスとカイルに物珍しそうな視線を送りつつも、そのまま改札の向こう側へと消えていった。目を凝らさなくても、名も知らない少年であることは分かっていた。分かっていたが、警備の仕事を一時忘れて、その行方を目で追わずにはいられなかった。もし彼がレックスのよく見知っている少年であったなら、カイルとの会話を聞かれてしまっていたらと、気が気でなくなるからだった。
「きっと、見下してるでしょうね。空の上から」
レックスとカイルが中央駅慰霊塔周辺の警備を務めている時、レイはどこで何をしていたかというと、学校に行く日でもなかったので、レックスを見習ってアパートの部屋の警備、つまるところ留守番を務めようとしていた矢先にネルが訪ねてきて、迎え入れて茶と菓子でもてなそうとする暇もなく強引に部屋を連れ出され、中央駅から列車に揺られ、気づけばまだまだ寒さの厳しい冬のユロックの町を歩かされていた。理由も目的もろくに説明せず迷いなく歩を進めるネルに、レイがとりあえず軽く世間話でも、といったような語り口で慰霊塔の話を持ち出すと、ネルから先のような、あまりにもレイに対して遠慮のない発言を返した。レイは、特に衝撃を受けるわけではなかったし、その発言自体を不快とは思わなかった。慰霊塔が設立されたことに対する彼女の考えを知るには、その一言で十分だった。しかし、突然始まりいつ終わるかも見通しの立っていない理不尽に、文句のひとつも言ってやりたくなったので、レイはあえてとげのある言い方で会話を続けようと試みる。
「ネルの好きな人は、どうなんだろう。案外、手放しで喜んでいたりして」
「そうかもね」
どんな口汚い悪態が飛び出してくるかとひやひやしていたが、ネルは振り返りもせず生返事で答える。そこには、一片の怒りも憎しみも含まれていなかった。軽口を叩けば、それを何倍にも凝縮した反撃が返ってくることをレイは予測していて、むしろ、それを期待すらしてネルとの対話に臨むまでになっていた。それはネルへの、ある種の信頼に近い感情を覚えた上での行動だったが、今はただ後ろめたさに襲われるばかりで、レイは少し気を落とす。前方から吹きつける風が身を切るように冷たく、次の言葉を継ごうと口を開きかけるだけで肺の中いっぱいに冷気が満ちていくように思えた。レイはネルの行き先に到着するまで、ただ黙ってついていこうと決めた。
行く道の風景には見覚えがあり、到着する前にレイは察していたが、ふたりは普段通っているフリー・スクールへ足を運んでいた。そのまま校舎の中へ入るかと思われたが、ネルはやはり迷いなく入り口の前で方向を転換し、校舎の裏側へ回りこんだ。敷地は塀で囲まれており、校舎裏には数人が体を動かして遊べる程度の空間はあるが、湿った地面にしなびた雑草がまばらに生えているだけの、あまり陽の当たらない場所だった。
建物の陰に、一本の木が立っている。
根元は今にも倒れてしまいそうなほどにひどく傷んだ柵で囲まれており、その中で彩度の低い朽葉色の幹が直立する。四方へ分かれて伸びる枝に、深い緑の葉が互生している。特に珍しいというわけでもない、どこにでもありそうな常緑樹だが、複数の方向に鋭く尖る葉身と、葉柄のあたりに連なる赤く小さな果実が特徴的で、レイの目を引いた。柵に足がかからない程度に近づいて観察すると、葉のほとんどは冬の寒さなどものともせずに鮮やかな色を帯びて生い茂っているが、ところどころ斑点状に変色しているものも見受けられた。その数は多くはないものの、一枚や二枚ではなかった。枝から落ちた枯れ葉は木の根元、柵の中を埋めるようにして何枚も重なっている。
「このままだと、全部枯れそうなの。あんた、なんとかして」
普段と比較して語気はあまり強くはなかったが、助けを求めるネルの声は、どこか切羽詰まっているように感じられた。レイは、ネルの抱える事情を推し量る前に、提示された目先の問題を解決するために取るべき行動は何か、考えることを優先した。これまで自らに降りかかってきた大抵の面倒事を難なくひとりで処理してきたであろうネルが、枯れかけの木にどのような対処をしてやるべきかなど、誰かに聞かずとも自力で解へたどり着けるのは明らかだった。なのにこうしてわざわざ他人を、しかもよりにもよってレイを頼ろうとしているのには、確実になんらかの理由をはらんでいる。はやる気持ちを抑えながら、レイは努めて冷静に検討を開始する。
「木ってさ」
「うん」
「定期的な水やりとかは、必要なんだっけ」
「馬鹿にしてんの、あんた」
「まさか。当たり前すぎて見逃される原因も、意外となくはないのかな、と思って」
レイは目の前の常緑樹の品種名を知らなかったが、たとえどんな種類であったとしても植物であることに変わりはなく、植物は通常、育つために水を要する。単に与えられる水の量が少ないのではないかと、まず考えた。
途端に風が吹き下ろす。今の季節を思い出させ、安易な推測を否定するかのように、ふたりの体を突き刺していく。
「この時期に、わざわざ水やりなんてしなくたって平気でしょ。むしろ過剰な水気は、それこそ枯れる要因にだってなり得るんじゃないの」
「全く要らないというわけでもないと思うけどね。でも、この状況に関してはネルの言う通りだ。枯れ始めたのが最近になってからなんだとしたら、少なくとも原因は別のところにあると考えたほうが自然だ」
レイは枯れゆく葉の一枚に手を伸ばし、感触を確かめる。すでに葉身の半分以上が、木の幹と同じ朽葉色に浸食されている。
「まあ、食害だろうね。この枯れ方は」
「どうすればいいの」
「とりあえず、色が変わりかけている葉っぱを取っちゃおう。まだそんなに数はないから、ふたりで手分けすればすぐに終わる。あとは、下にたまってる落ち葉も片づけておこうか。放っておくと、虫の住処になるから」
「なんだ、それだけか」
「あくまで、今の僕たちにできることがその程度ってだけだよ。後は、また害虫が寄りつかないようにするために薬品を散布するなり、小まめに手入れをするなりしてもらえるように、コベット先生か誰かに相談するぐらいかな」
「分かった。さっさと済ませて、図書室に避難する。寒くて凍死しそうだから」
「大丈夫だよ、死にはしない。この寒さでは」
白い息を吐き出しながら、ふたりは枯れ葉の撤去作業に当たった。怪我のおそれがあるからと、レイはネルに持参した手袋を渡そうとしたが、ネルは構わず素手で葉を摘み取っていく。レイが心配したように、鋭い葉先で指を切ってしまっても、ネルは手を止めなかった。目視で確認できる限りの枯れ葉を回収し、柵の中の落ち葉と共に廃棄場へ移動した。ふたりの想定していた以上に時間がかかってしまい、作業が終わる頃にはすっかり陽が暮れかけていて、外気温はますます下降の一途をたどっていた。かじかむ手と震える体を暖めるために、ふたりは学校の図書室へ入りこむ。ふたり以外の利用者はおろか、管理者である教職員の姿も見当たらなかった。図書室の一画には休憩を目的とした小空間が作られており、近くの壁沿いに小型のストーブが設置されていた。レイもネルもあまり長居をするつもりはなかったので、ひとつだけ薪をくべて火を起こし、図書室の暗がりに短い間、赤い光をもたらす。教職員用の給湯器を拝借して、ふたりでホットミルクを飲みながら、背もたれのない椅子に腰かけて、火室の中で静かに燃える炎を囲んだ。
「あの木はね、魔除けなの」
レイが尋ねるまでもなく、ネルが口を開く。ネルは、ストーブの炎で照らされる指の切り傷をじっと見つめている。彼女の顔も照らし出されていたが、レイは目を向けようとはしなかった。
「葉先が刃物みたいに尖ってるでしょ。不用意に触ると切り裂かれるの。こんな風にね。だから、災厄とか、そういったいろいろなものを遠ざけて、守ってくれる」
言外に何かを押しこめた言葉が耳に入り、レイはわずかに目を細める。不快、というわけではなかった。
「昔、隣の席だった意地の悪い男の子と口げんかになって、相手が思わず殴りかかってきたことがあったんだけど、その時に、本の間に栞代わりに隠して持っていた葉を取り出して、手を切りつけてやった。痛み自体は大したことなかったでしょうけど、相手は見事に怖じ気づいちゃって、二度とあたしにけんかをふっかけてくるようなことはなくなった。あたしのほうが立場が上なんだってことを理解させるには申し分なかったわ」
「危ないことするなあ」
「なんでよ。先に攻撃をしかけてきたのは向こうなんだから、文句を言われる筋合いはないでしょ。それに」
中身を飲み干した、温かさの残るマグの柄を握りしめて、ネルは言う。
「そうでもしなきゃ、一方的に迫害されるだけだったから」
まだ中身の入った、けれどすっかり冷めきってしまったマグを手で包みこみ、レイは相槌を打つ。
「そっか」
「教室にいる時だけ気を張っていればいいわけじゃない。学校を出た帰り道、先生の目が届かない場所で襲われるかもしれない。朝起きて、学校に行くまでの道の途中でも同じ。学校が休みの日に、遊びに出かけた先でだってそう。いつ、どんな状況で、誰に何をされるかも分からない」
「それは、まあ、そうだ」
「だから、そういう、もしもの時がいつ来ても困らないように、自分を守るための手段を用意しておかないといけないって」
「うん」
「あの人が言ったの」
ネルの声が、ストーブの炎よりも先に消え入りそうに、小さくなる。しかし、続く言葉はそれに反して長くなっていく。
「鉄屑処刑場に行った時に、あんたに言ったんだっけ。あたしがいじめられているところを助けてくれたって。でも、あの人はそれだけじゃないの。ただ助けるだけじゃなく、あたし自身で立ち向かって、なんとかしようとすることの意味を教えてくれたのも、校舎裏の一本木が魔除けの木だってことを教えてくれたのも、あの人。あたしは、あの人がいなかったらとっくに死を選んでいたと思う。自分がどうして生きているのかが分からなかった。なんのために生きているのかが分からなかった。まあ、正直、今も分かんないんだけどさ」
「それは僕も。というか、自分で自分の生きる意味が分かってる人なんて、この国にはいないと思ってる。もし、いやそんなことはない、俺は完璧に分かってる、って言い張る人がいたとしても、それは分かってるんじゃなくて、分かったつもりになってるだけ」
「あんたと気が合うとはね。気分が悪いわ」
自嘲が含まれてはいたが、ネルがかすかに笑ったので、レイはこの場にふさわしくない感情だと自覚はしつつ、少し嬉しくなった。
炎が薪を食い尽くし、消えかかっている。
冷たい静寂に覆われた図書室に、少年と少女の話し声だけが響く。
「コスタノア美術館に絵を見に行くんだってあたしに伝えてくれた時に、あの人から、校舎裏の木の下で待っていてくれたら、どんなに時間がかかっても、必ず会いに戻るって言われたの。別にわざわざ校舎裏じゃなくたって、普通に学校の教室で会えばいいのにって返したんだけど、ふたりきりじゃなきゃ会えないんだって言うの。当時のあたしには、あの人しか頼りにできる人がいなかったから、浮かれなかったかといわれれば嘘になる。今思えば、とんだ勘違い女ってとこね。きっと、心のどこかで案じてたのよ。もしかしたら自分はこの先、災厄に巻きこまれるかもしれないって。ユロックの町のフリー・スクールに通って毎日を生きているだけの、ただの人間ではなくなってしまうかもしれないって」
事実、彼女の語る「あの人」は、誰もの想像を絶する災厄に巻きこまれた。
しかし、必ずネルに会いに戻ってくる、という。
ネルもまた、その言葉を信じている。
「だから、あの木に枯れられて、万に一つ撤去でもされて、なくなられでもしたら困るの。馬鹿げてるけど、あの木がなくなってしまったら、本当に、二度と会えなくなってしまいそうな気がして」
「うん。馬鹿げてるよ」
「そう、そうよね」
ネルは言い返さない。レイの端的な指摘を、黙って受け止める。
「木は、魔除けになんかなりっこない。降りかかる災厄を、追い払ってくれたりもしない。何かを、教えてもくれない。ただ、そこにあるだけだ。無意味に、そこに、突っ立ってるだけだ」
レイはそう言い放ち、最後にある一言を付け足そうとしたが、やめておいた。
炎が完全に消えて、図書室が闇一色に染まる。
夜目のきいた視界を頼りに、ふたりは学校を後にする。