エルシー・グリーンは、窓から入りこむ陽射しで目を覚ました。
ゆったりとした動作でベッドから起きると、着替えて、寝癖のついた髪を整える。洗面所の蛇口から出る水の冷たさが、眠気をどこかへ消し飛ばした。部屋の窓を開け放した瞬間、身を切るような寒風が吹きこんできて、空気の入れ換えもそこそこに堅く閉め直す。木枯らしにさらされる街路樹を見ていると、自らの心身までもが枯らされそうな気さえして、暖色を帯びた厚手のカーテンを締め切り、視界だけでも暖かくしようと努める。「アップル・ヤード」の建物自体の気密性があまり高くないことも一因ではあるが、室内だというのに吐く息が白い。ここ中央部にも冬が訪れたのだと、身をもって知ることのできる朝だった。
エルシーは冬が好きではなかった。嫌い、というよりも、ある種の恐怖に近いものすら感じている。
冬の寒さは時に、人の弱りきった心をさらに弱らせる。
エルシーはそのことを、痛いほどに理解している。
今となってはもう姿を消した北壁の女神像の下でエルシーは、かつての恋人、グレアム・カートライトとの再会を果たした。中央駅での出会いから別れを経て、彼女は一度、心を閉ざした。セヴァリー雑貨店での業務にも支障をきたし、雑貨店を経営するデイジー・セヴァリーから休職するよう命じられるほどに、精神を衰弱させていた。レックス・ベイカーがアパートの隣に引っ越してこなければ、二〇二号室を訪ねてこなければ、きっと自分の部屋に閉じこもったまま今でも出られていなかっただろうと、エルシーは何度も自らの記憶をたどる。
たどった最後に待っているのは、レックスではない。
大空間で女神像が崩落する直前、カートライトはエルシーに直接、再度の別れを告げるのではなく、初対面であるはずのレックスをエルシーにとっての「大切な人」だとその場で見抜き、レックスに対してエルシーを託すかのような言葉をかけた。エルシーの目の前でレックスに差し向けられたその願いは、彼女にとっては救済などではなく、むしろ呪いだった。
月に一度の交際が終わってからも、グレアム・カートライトという人間はエルシーの中に、決して忘れることのできない存在として残り続けていた。現職の警察官であるレックスにカートライトの捜索を依頼したのは、彼との再会を取りつけて自身の気持ちに変化を生じさせるためだったが、心を閉ざす原因を作った人間の行方を知ろうと、その閉ざされた心をこじ開けてくれた別の人間に頼みこんで捜させている、あまりにも身勝手で、道理に合わない自分自身に、エルシーはどうしようもない嫌悪感を覚えていた。だから、レックスから週に一度の食事の提供を対価として求められた時、むしろ喜んでその要求を受け入れた。毎週、作った料理をレックスが顔をほころばせながら食べているところを眺めるたびに、蓄積された嫌悪感が少しずつ取り除かれていくような気持ちになり、また、他人に料理を振る舞うという行為に徹し、時間を割くことで、常につきまとう無力感からも目を背けることができた。
エルシーの心は開かれたが、そのままでは脆く、少しの衝撃で壊れてしまいかねないものだった。それを安定させる役目を担っていたのもまた、レックスだった。やがて職場にも復帰し、突然レックスの部屋に住み始めた謎の少年であるレイのことを隣人として気遣う余裕も生まれてきて、諦めかけていたコスタノア美術館への来訪を決意し、実行するに至るまで、エルシーはカートライトと出会う以前の穏やかな気持ちを取り戻していた。
取り戻したが、また、失ってしまった。
カートライトとの再会を果たしたが、壊れた関係を修復するどころか、完全なる決別を示された。なんとか形を保とうと懸命に繋ぎ合わせていた希望が、打ち砕かれた。
美術館占拠事件の当事者として北部警察からの取り調べを受けた後に中央部へ帰ったが、そのままアパートの二〇二号室に閉じこもり、事件が発生し、終息して以降、レックスやレイとまともに顔を合わせていなかった。もうすぐ、一週間が経過しようとしている。意識して食事会の場を設けるようになってからは、たとえレックスが仕事で多忙だったとしても、一週間以上会わないことはなかった。長く続けてきた習慣が途切れかけている現状に焦りを感じると同時に、エルシーは再び向き合わされることになった自らの無力さを強く恨む。再生への手助けをしてくれたレックスのために何かできることはないかと頭を巡らせるより前に、カートライトが残したものがあまりにも大きかったためか、他者に手を差し伸べられるような精神状態には到底なれなかった。逆に手を差し伸べてもらわなければ、このまま二度と部屋から出られなくなってしまうのではないかとすら思いこんでしまう。
のしかかる不安を少しでも紛らわそうと、エルシーはホットミルクの入ったマグを片手にラジオをつけて、流れてくる音声に耳を傾ける。中央駅の広場に、オズワルド・イーグルを初めとした、北部渓谷機関車転落事故の犠牲者を弔う慰霊塔が設立されることを知らせる情報番組だった。すでにほとんど完成しており、近日中に披露されるという。イーグルの名前が話題に上がる時、ラジオ番組の話し手の語調がしめやかになるのを、エルシーは確かに感じ取る。しかし別の話題に移り変わった途端、雰囲気が不自然に明るくなって、彼女の気分に合わなくなった。
エルシーは冬が好きではない。
でも今は、冬の冷たさ、寂しさに触れていたい、寄りかかっていたいと思った。
もう一度、窓の外に目をやると、硝子越しに小さな白い粒が空から舞い落ちてきているのが見える。
中央街での降雪が、今年は例年と比較して多くなるだろうとの予報がラジオから流れたのは、その後すぐだった。
アーノルド・エイムズは、北部コスタノアの病院の角部屋、担当医以外に人の出入りがない、狭い病室の中で目を覚ました。
コスタノア美術館の正門の前にて、アーノルドは北部警察機動隊の怒号を背に、美術館占拠犯の一員である男、キングスが襲いかかってきたところを銃弾で返り討ちにした。機動隊から見れば、美術館から飛び出してきたアーノルドが、有無を言わせず占拠犯のひとりを銃で撃ち殺した、ただそれだけの光景だったが、それに至るまでの過程には館内で長く繰り広げられたふたりの死闘があった。アーノルドも当初はキングスを殺すつもりはなかったが、攻撃の手を少しでも緩めればこちらが殺されてしまいかねない差し迫った状況を切り抜けるために、やむを得ずキングスの息の根を止めたのだった。その直後にアーノルドは気を失うが、北部警察により病院へ搬送されて治療を受け、そのまま命までもを失うことは回避した。
身体が回復し、意識を取り戻したアーノルドを待ち受けていたのは、北部警察による執拗な尋問だった。ベッドの上で半身だけ起こした状態で、顔も体もいかつい刑事たちに取り囲まれ、まるで犯罪者を責めるかのような視線と言葉を浴びせられながらも、アーノルドは萎縮せず、毅然とした態度で取り合った。あの日起きたすべての出来事のうち、何を言い、何を言わずにおくかを頭の中で選別し、中央部警察に所属する人間が同行していた事実を、嘘はつかないように注意しつつ隠し通す。休暇を利用して美術館を訪れていただけで、占拠事件の現場に居合わせたのは偶然でしかなく、占拠犯と戦闘行為に及んだのも結果的なものであり、犯人側から攻撃されたのでそれに対抗したまでであるということを、アーノルドは事務的に報告した。尋問する側の刑事たちも、アーノルドに対していくら高圧的になろうとも大した効果は得られないことを分かっているので、事情聴取の時間はそう長くは続かなかった。刑事たちの疑念と不信感が渦巻き、息の詰まるような重たい空気となって、彼らが病室を後にしてからもそれは残された。
しばらくして、看護師がアーノルドへの入電を知らせにやってきた。アーノルドは、はだけた病衣もろくに直さず病室を出て階下に降り、ロビーの奥に複数台設置されている共用の電話ボックスのうちのひとつに入る。受話器を手に取り耳を当て、彼の妻であるジェイミーのか弱い声が聞こえてくると、アーノルドは体から力を抜くかのようにゆっくりと息を吐いた。
「なんの用だ」
「良かった。生きてた」
「なんだ、その言い草は」
「だって、犯人と撃ち合ったって聞いたから。あなたのことだから、相討ちになっても構わないとか言い出しかねないもん」
「言い出さねえよ、そんなこと。今は、もう」
以前のアーノルドに対してであったなら、ジェイミーの指摘は正しかった。
北部少女親族連続殺害事件の捜査に加わるも、繰り返される犯行を目の前にして何もできずに足踏みするしかなかった時、アーノルドは自分が大した刑事ではないということを思い知らされた。自分が現場を回るだけで、関係者に話を聞くだけで被疑者に目星をつけられる、事件を解決できると自負していたが、それは過信だった。自分ひとりでは捜査能力に限界がある。別の刑事と情報を共有し、手を取り合わなければ捕まえられない犯罪者もいる。理屈では分かっていながらも、心でその事実を受け止めることができずにいた。銃弾で《夜鷹》にひと噛みできたのも、元はといえばレックスが注意を引きつけてくれていたからであり、結局のところ、その後は捕り逃がしてしまった。終わりなき闇の中を駆け抜けた末に対象を見失った時、行き場のない怒りに任せて地面を踏みしめながら、いつか必ず、たとえこの命を投げ打ってでも仕留めると心に決めた。
機会は、間もなくアーノルドの元を訪れた。
決意は揺るぎなく、堅実に果たされた。
しかしアーノルドは、死ななかった。いつしか、死ぬ気もなくしていた。信頼を置く友との関わりがもたらした、心境の変化を経て。
「ジェイミー。今、どこにいる」
「どこって、今日も仕事なんだから、本部だよ。今は休憩中なの」
「レックスはいるか」
「いるよ。代わろうか」
「待て。レックス以外の人間が、周りにいるか」
「え、うん。いるけど」
「一度、通話を切る。レックスに、この病院の番号へ折り返し電話をかけるように伝えてくれ。伝え方には気をつけろ。俺が電話したがっていると、本人以外には悟られないように」
用心に用心を重ねたような要求に、ジェイミーは素直に従った。また、話を聞いたレックスも瞬時に事情を察し、ジェイミーに小さく礼を告げてから、中央部警察署を出てしばらく歩き距離を取る。郊外の公衆電話ボックスに入ると、北部の病院へ繋がる番号を押した。
「よう。生きてたか」
「おい、お前までそれを言うのか」
「なんだよ」
「ジェイミーにも同じことを言われたんだ」
「当たり前だろ。誰よりも、何よりも真っ先に確認したいことだ」
「電話に出た時点で、生きているに決まっているだろうが。分かりきったことを聞きやがって」
「それでも、直接会って話しているわけじゃないんだし、聞きたかったんだよ。俺も、ジェイミーも、きっと」
疲れは感じられるものの、事件が起きて引き離される直前に聞いていたものと同じ声色が耳に届き、ふたりは互いに安堵する。だが、どちらもあまり長話をするつもりはなかった。誰に聞かれているわけでないにもかかわらず、なるべく簡潔に、できる限り直接的な言葉を避けて、北部コスタノア美術館におけるそれぞれの行動を伝達する。共にキングスという人間に翻弄されながらも、ただでは転ばなかったという似通った経緯を報告し合うこととなり、レックスは思わず苦笑した。対してアーノルドは、そんなレックスの反応にただでさえ多くはない言葉を詰まらせる。その言葉数の少なさに、普段と比べてあまり大きな違いはないと本人は思っていたが、レックスは受話器越しであっても違和感に気づき、アーノルドを促した。
「生かしておくべきだった」
いつにも増して低い声で、アーノルドは自らの行いを省みる。
「あの男、キングスが《夜鷹》の中で大した地位を得られていないのは、美術館での役回りを見るに明らかだった。だがお前が聞いたところによれば、あの男やその周りにいた仲間たちは、統率者の指示の下で行動を起こしている。殺さずに身柄を拘束し、持っている情報を洗いざらい吐かせることによって、統率者の居場所や正体へたどり着くなんらかの手がかりが得られたかもしれない。その好機を俺は、ふいにしてしまった」
警視総監どのが、撃てと命じた。自分は、命令に従ったまで。
意識を失う直前、己の意思で言い放ったはずの言葉に逆らい、小さく息を漏らすことで後悔の念を滲ませる。
レックスはそれを静かに、だが明確に否定する。
「殺さなければお前が殺されていた。今こうして、電話することさえできなくなっていたかもしれないんだ。好機がどうとか言う前に、自分の命を守ることは人間として当然の行動だし、誰にも責められる筋合いはない。それに、もし俺がお前と同じ状況に置かれていたとしたら、反撃するどころか、あっけなく殴り殺されていたと思う。俺は運が良かった。アーノルドは強かった。だから死ななかった。まずはお互い、ちゃんと生き残ったことを喜ぼう」
一息にそう言い切ってから、レックスはアーノルドが聞いているのもお構いなしに、大きな声を上げてくしゃみをした。
「おい、まさか風邪でも引いたんじゃないだろうな」
「違うよ。近頃は北に負けないぐらいに中央も寒くなってきたからさ」
「中央が北と同等の寒さ、だと。笑わせるな」
「どうせ笑わないくせに」
「お前も一度、真冬のコスタノアで暮らしてみろ。慣れないうちは、降り積もる雪の上を踏み歩くだけで体力を根こそぎ奪われるぞ」
「勘弁してくれよ」
密閉された空間である電話ボックスの中は、氷の内側のように冷えている。レックスが言葉を発するたびに、格子で四角に区切られた窓硝子の向こうに広がる電話機の奥の景色が、まるで霧が舞うかのように白く曇っていく。
「まあ、でもさ。雪や風を冷たいって感じられるのも、やっぱり、生きてるからこそなんだなって思うよ」
洟をすすりながらレックスは、アーノルドに、あるいは自分自身に言い聞かせるかのように、しみじみと生を噛みしめる。
「とにかく、お前はよくやった。俺が保証する」
「どこかで聞いたような台詞だな」
「さあ、どこでだったでしょうか」
とぼけるレックスにアーノルドは、受話器越しでは到底分からないほど小さく、笑みをこぼしていた。
「しかし、運が良かった、ときたか。何か幸福を招きそうなものでも拝めたのか」
「どうかな。ただ、俺があの場所で何を見たのかについては、誰彼構わず言いふらすのはやめておいたほうが良さそうだ」
俺や俺の周りの人間のことを嗅ぎ回る輩も現れたことだし、と続けようとした言葉を、喉元で止めて飲み下す。
「わざわざ明言するまでもない。あの大空間には、警察関係者は誰ひとりとして居合わせていなかった。それが北部警察の公的な見解だ」
「もちろん、それもあるけどさ。そのことを差し置いても、簡単に人に言える話じゃないなって思うんだ。別に、口止めされてるってわけじゃないんだけど」
崩落した女神像の背後に広がっていた光景は、鮮烈な映像としてレックスの脳裏に焼きついたまま、いつまでも離れない。夜明けを告げる陽の光と空の下、果てを見通せぬほど一直線に延びている鉄路。エルシーの体を傷つかないようにかばいながらも、目をそらすことができないまま、静かに眺めていた。時間にしてみれば数十秒程度ではあったが、ふたりにとってはまさに鉄路のごとく果てしない時を費やしたように感じられた。コスタノア美術館が封鎖されている今、たとえもう一度同じものを見たいと願っても、その場所に近づくことすらできない。
あの鉄路がどこへ繋がっているのかを知りたい。
道の先へ行ってみたい。
レックスの胸のずっと奥で、そんな感情が生まれては消えていく。
アーノルドが相手であっても、打ち明けるつもりはなかった。
アーノルドもまた、彼の意思を察したかのように、大空間での出来事について深く追及することはなかった。
「レックス。お前はこれからどうする」
「どうするって、俺はずっと中央にいたんだから、北で何が起きようとこれまで通りの生活を続けるだけだよ」
レックスがあまりにも平然と言ってのけるので、アーノルドは乾いた笑い声をレックスに聞こえるように響かせる。
「そうか。そうだったな」
「アーノルドは、これから忙しくなるんだろ」
「俺はまだ入院中の身だが、北部警察はすでに多忙を極めている。美術館を占拠したやつら全員を捕まえられたわけじゃない。北壁の女神像を破壊したとされる《夜鷹》の実行犯は、像の崩落に巻きこまれたのか、巻きこまれる前にどこかへ逃げ失せたのか、はたまた、そもそもあの場には姿を現しておらず、別の場所から指示を出していたのか。今はどこで何をしているのか、何者なのか。何ひとつとして分かっていない。目下、捜査課は事件の首謀者を暴き出そうと躍起になっている」
「大変そうだな。それにひきかえ、お前は怪我人なんだから、療養に専念できるな。この際しっかり休んでおけよ」
「できればそうしたいところだが、実は今日、同じ課のやつらが様子を見に来やがった。俺の体が動くことが分かったもんだから、多少の傷が残っていても、無理矢理にでも退院させられて、捜査に加わるよう命じられるかもしれん」
「考えすぎだよ。仕事の合間を縫って、見舞いに来てくれたってことじゃないか。言葉にするには照れくさいからしないってだけで、心配してるんだよ」
「俺が勝手に容疑者を撃ち殺したのを寄ってたかって責め立てて、溜飲を下げたかっただけだ」
「ひねくれ者め」
コスタノア美術館の一件で離ればなれになってから、ひと月どころか一週間も経っていないのに、レックスとアーノルドはまるで、数年ぶりに言葉を交わす機会を得たかのように、弾ませるつもりのなかった話を弾ませる。ふたりはふたりの想像していた以上に、互いが生きながらえている事実を重んじていた。
しかし、だからこそ、いつかはこの時間を終えなければいけないことも分かっていた。
「少し、派手に暴れすぎてしまった。しばらくは鳴りを潜めておくことにする」
「そうしてくれ。ジェイミーもそのほうが喜ぶと思う」
「レックス。お前も、気をつけろよ」
「何に」
「己が警察官であることを、見失うな」
即座に言い返そうとして開きかかった口が固まる。
すぐには、答えられない。
空気を吸い、吐くだけの、わずかな音でさえ、受話器の向こうにいる男にとっては、相手の真意を探る手がかりになるのだろうと、レックスは諦念を隠そうともしない。あからさまな間を置いてから、ようやく言葉は放たれる。
「ああ。分かってる」
「それと。なるべく、あいつを気にかけてやれ」
「またレイの心配かよ」
「良く分かっているようだな。もし寂しがるようなら言え。また、顔を出しに行ってやる」
「へいへい。待ってるよ」
最後に再会を約束し、通話を終了する。
電話ボックスを出たレックスの体に、鋭い冷気が降りる。風が吹くと同時に全身を駆け抜けていく寒さに耐えられず、大きく息を吐き出した。淡く白む呼気が目の前に現れて、消えていく。
鼻先に雪の粒が落ち、小さな冷たさを感じて、レックスは空を見上げる。
雪雲で一面が白で覆われて、あの日に見た鉄路のように終わりがなかった。
翌日になっても雪は降り止まず、むしろ量を増していた。
積雪により、空だけでなく地面や街並みまでもが白一色に染められると同時に、中央部の気温は急激に低下する。その変化に体が適応しきれなかったのか、レックスはアーノルドの懸念も虚しく、ものの見事に体調を崩し、アパート「アップル・ヤード」の自室で毛布にくるまりながら貴重な休日を潰す羽目になった。
風邪をうつしてしまうといけないからとレックスは断ろうとしたが、隣人であるエルシーは何かと理由をつけては二〇一号室に出入りし、着替えや食事を用意したり、会話の相手になったりなどして、レイと共にレックスを看病した。昼下がり、いつまでも続くかと思われた雪が小降りになり、レックスも寝静まった頃、レイとエルシーは積もった雪を見に行くためにふたりでアパートを出た。エルシーは、このまま部屋の中で過ごしていたいと本心では思っていたが、窓の外を眺めてはどこかそわそわしているレイを見て、気分転換になるからと外出に誘ったのだった。
地面に足跡を残しながら、冬の並木道を歩く。見渡す限り白銀で埋め尽くされた光景は、レックスやエルシーのような中央部に住む人間にはもちろん、温暖な気候が年中続く南部で育ったレイにとっても、ひどく新鮮に感じられるものだった。歩道の端に植えられた木の枝に積もる雪を振り落とし、行く先にある薄氷をひとつずつ踏み割り、雪人形を作り、寒さを忘れて遊んだ。もしこの場にレックスがいたら、犬のようにはしゃぎ回り、一番に雪遊びを楽しんでいただろうと、ふたりは全く同じようにひとりの警察官を思い浮かべては、くすくすと笑った。
中央駅へ続く道を通りかかると、人だかりができているのを見つけた。降雪の影響により列車の運行に大幅な遅れが生じているようで、乗車したくてもできない利用客が集まり、駅舎の外まで続く行列を作っていた。人混みを抜けてさらに駅へ近づき、鉄路に沿って建てられた鉄道柵の向こう側に目をやると、雪が塗された機関車の姿があった。車体の上には厚みのある積雪が確認でき、しばらくの間、停車を余儀なくされているようだった。
「ずっと前から気になってたんだけどさ。北みたいに雪の多い地域って、頻繁に止まったりしないのかな、機関車」
エルシーがふとつぶやいた疑問に対して、レイはすらすらと答える。
「北部内で循環、または北部を出入りする機関車は、雪への対策が施されている型式を採用しているので、そうそう問題は起きません。先頭車両の下部に、排雪板と呼ばれる、雪かきの役目を果たす刃のようなものが突き出していて、走行方向の積雪は、ある程度であればかき分けながら走ることができるんです。中央部で運用されている型は、今日のような大規模な降雪を想定していないものが多いと思いますから、一時的な運転停止もやむを得ないのかな、と」
「雪をかき分けながら走る、か。そんなすごい機関車があるんだね」
「同じく先頭車両に回転翼を取りつけて、前方の積雪を風で吹き飛ばして進路を確保する、という方式も開発されていたらしいのですが、現時点で実用化には至っていません。技術的な問題か、または費用的な問題か、もしくは別の事情があったのかは僕には分かりかねますが、先の排雪板によるかき分け型と組み合わせての運用も考えられていたそうです」
「そうなんだ。さすが、物知りだね」
「全部、先生に教えてもらったことを記憶しているだけです」
「先生っていうと、通ってる学校の先生かな。名前は確か、ハンナ先生」
「違います。南部にいた頃に、お世話になった人です」
「そっか。きっとその人も嬉しいだろうな。教えたことをこんなにもしっかり憶えていてくれる子がいるんだから」
「さあ、どうでしょうか。今となってはそれを確かめるすべがないので、なんとも言えません」
「ううん。きっと、喜んでくれるはずだよ。私はそう思う」
列車の運転再開予定時刻を告げる案内放送が駅の構内から漏れ聞こえてきて、断たれた会話を埋め合わせる。
首元に巻いた毛糸の襟巻きを掴み、かじかむ手を温めながら、エルシーはレイの表情をそっとうかがう。耳当てのついた防寒用の帽子を深く被るレイは、柵を隔てた先に佇む白銀の筺を、ただ静かに見つめている。
エルシーは、レイが中央部に居留するに至った詳しい経緯を知らない。
知らなくても、全く見当をつけられないわけはない。
機関車を一心に捉えて離さないその眼差しを前にすれば、彼がどれだけのものを背負い、どれだけの強い意志を固めて、故郷を去り、この中央部へやって来たのかを、容易に想像することができる。
それに比べて自分はどうかと、エルシーは内省する。
かつての恋人に見限られた絶望から立ち直ったのも、その恋人への未練を捨てられずに陥った苦しみから這い上がろうと決意したのも、その恋人との再会を果たす契機を得たのも、何もかも、彼女ひとりの力では実現することのない成果だった。
「レイ君。お願いがあります」
体を屈めて、視線の高さを合わせる。
震える声で、少年の心の入り口へ踏みこんでいく。
「私に、機関車のことを教えてください」
予想していなかったことを言われたからか、レイはエルシーとろくに目も合わせないどころか、顔をエルシーのほうへ傾けることもままならず、鉄道柵の奥を向いたまま、辛うじて小さな声で聞き返す。
「いきなり、どうしたんですか」
「うん、いきなりだよね。ごめんなさい」
「いえ、その、嫌とかじゃなくて。僕なんかでよければ、知っていることは教えられると思いますけど」
「僕なんか、はやめてね。私、レイ君のこと、誰よりも頼りにしてるんだから」
エルシーはレイを緊張させないように、自らの心も落ち着かせるために、彼と同じ方向を見て視線を平行にする。
「私、あまりに何も知らなさすぎるの。何も知ろうとしなさすぎたって言ったほうが正しいのかな。コスタノア美術館での事件に巻きこまれて、自分の身に危険が及んで、ようやく、本当にようやくなんだけど、いつまでも見て見ぬふりをしているのは良くないって思えるようになったの。イーグルの機関車のことも、北の渓谷で起きた事故のことも、それからこの国で、これから起きようとしていることも。知ろうとしなければいけないって」
少しずつ増えていく言葉数の裏には、いくつもの理由が隠れている。
北壁の女神像の崩落とともに姿を消した、ひとりの男の行方を追うために。
もたらされた呪いを断ち切るために。
自分に手を差し伸べてくれたすべての人の力になるために。
「今更、遅すぎるって分かってる。でも、遅くてもいいから知るの。もう、柵の外側から眺めているだけなのは嫌だから」
互いの意思を確かめたくて、ふたりは自然と向き合っていた。
分厚い雪雲の隙間から落ちてきた陽の光に目をしかめながらも、レイはエルシーの顔を見据えて、はっきりと答えを口にする。
「分かりました。僕で、よければ」
そろそろレックスが寂しがっている頃だろうと、ふたりはアパートへの帰り道を足早に下っていった。いつしか雪もぱったりと止んでいて、一時はすべてが白で包みこまれていたバノックの街も、数日が経つとすっかり元の景色を取り戻していた。