ネルやデイジー・セヴァリーと共に外れのトリンゼットという村の診療所に留まっていたレイは、占拠犯に拉致されてしまったエルシー・グリーンを救うべく、単身でコスタノア美術館へ向かったレックス・ベイカーの帰りを待っていた。長い夜が終わり、朝陽が窓から差しこみ始める頃、レックスは包帯だらけの体で診療所に舞い戻り、安心しきって気の抜けたレイを力いっぱいに抱きしめた。
エルシーを救い出すという目的を達成するにはしたレックスだったが、北部警察に自分が現場にいたと知られるのを避けるために、彼女を一緒に連れ帰るまではしなかった。コスタノア美術館の最奥部、大空間にある北壁の女神像が崩落した後、北部警察機動隊が駆けつける直前、瓦礫の影に身を潜めながら大空間を出て、人目につかない裏口からひとり美術館を離れた。トリンゼットへ戻る際には、診療所の経営者であるウェンディ・デイトンが所有する往診用の車を使った。そのまま診療所にいるレイ、ネル、デイジーを拾ってコスタノア駅まで車を走らせ、事件に関わったことを最後まで隠し通したまま、列車で中央部に帰還するに至った。取り残されたエルシーもまた、北部警察によって身柄を保護され、負傷の手当てと事情聴取を受けたのちに、一日遅れではあったが同じく無事に北部を発つことができた。
エルシーの救出後、北部警察による美術館内の捜査が行われ、被害の状況が明らかにされた。占拠犯は数十から百に近い程度の人数で編制され、一部の人間は銃器を所持していた。館内での発砲行為も認められたが、弾丸は天井や壁に穴を開けているばかりで、それらのほとんどは人間には当たっていない。ただ一発、北部警察のアーノルド・エイムズ巡査が機動隊の目の前で撃ち放った銃弾は、占拠犯のひとりであるキングスの肉体を貫いた。キングスはコスタノアの病院に運ばれたが、間もなくして死亡が確認された。他の占拠犯たちも半数に近い人数がアーノルドによって一時的に気絶させられるほどの制裁を受け、北部警察署へと連行されている。残りのもう半数は、忽然と姿を消していた。
占拠犯とアーノルドとの闘争が繰り広げられていたにもかかわらず、美術館内の展示物には一切の損傷がなかった。一方で、展示されていた絵画のうち一点だけが、事件後に展示室から何者かによって持ち去られていることが判明した。北部警察は占拠犯が事件の混乱に乗じて盗み出したものとして行方を追う方針を固めた。
しかし盗まれた一枚の絵画の存在は、国の陸標であった北壁の女神像が崩落した事実にかき消される。北部警察の調べでは、女神像の残骸からは爆薬の成分が検出されており、また、積み重なった石材の中には起爆装置とみられる筐体が埋もれていた。これらの事実と女神像が崩れる瞬間を目の当たりにしていたエルシーの証言を受けて、北部警察は、占拠犯が爆薬及び爆薬を爆発させるための装置を持ちこみ、女神像を爆破したと結論づけた。
エルシーは、爆発が起きる前にひとりの男が起爆装置らしきものに手をかけていたこと、その男は自らをグレアム・カートライトと名乗っていたことを証言した。レックスとエルシーは爆風の衝撃により目を開けていられなかったために、男がどうなったのか、あるいはどこへ行ったのかを確認できていない。
多くの謎を生んだコスタノア美術館占拠事件は終息を迎えるが、女神像がさらに崩れるなどして起こり得る二次被害を防止するべきだという北部警察の判断により、コスタノア美術館は当面の間封鎖され、民間人は立ち入りを禁じられることになった。
その後も警察の捜索は続けられたが、美術館内からキングス以外の死体は発見されていない。
レイとネルが普段通りユロックの町の学校に通うようになったのは、ふたりが事件に巻きこまれてから、わずか数日後のことだった。教室の賑わいはユロック大学で討論大会が開催された後のそれを遙かに凌駕していたが、ふたりはいつもと同じように自分たちの席に着き、授業を受けて、下校する。話題を振られても無難な反応を返し、必要以上の会話を交わさないようにした。あの国中を震撼させる大事件の現場に僕とあたしは居合わせていた、などと得意気に自慢しようとは思わなかった。そもそもコスタノア美術館へ行っていたことを級友たちには話していないので、口を滑らせない限りはふたりが事件の当事者であると知られる機会も理由もない。主担任のハンナ・コベットに心配をかけないためにも、何より副担任のカレン・メルヴィルに疑いを持たれないためにも、あえて休まず学校に通おうと提案したのはレイだった。ふたりきりになっても言葉なく帰路を歩き、国の出来事に大して関心のない、ただの少年と少女を演じようと努める。
その演技を、見透かす者が現れる。
「おい、そこの坊ちゃんと嬢ちゃん」
学校の門を出てすぐのところでレイとネルは、目が隠れた男に後方から声をかけられた。目が隠れたというのは、ハンチング帽を深く被っているからであり、身長差があるために近づいて下から覗きこまなければ男の顔をまともに見られそうになかった。格好は黒一色の外套、髭がまばらに生えた口元は不気味に歪んでいて、人一倍に他人を怪しみ疑うふたりでなくとも、不審な人物だと即断するであろう風体の男だった。
レイは思わず振り返りハンチング帽の男を観察してしまったが、すぐに前方へ向き直る。ネルは立ち止まりもせずに歩き続けている。レイはネルを見習い、声のしたほうへ視線を向けてしまったのをなかったことにするかのように、歩を早めて男から距離を取ろうとする。
「教えてくれよ。コスタノア美術館で何があったのか」
聞き捨てるわけにはいかなかった。
美術館占拠事件が国で報じられた際に公表された関係者の中に、レイやネルの名前は含まれていなかった。また、中央部に戻ってきてからふたりは北部での出来事を他人に口外していない。
何故、背後にいる男が自分たちのことを知っているのか。レイは素早く思考を巡らせる。自分たちの他に事件の渦中にいたレックス、エルシー、デイジーのうち誰かが情報を外部に漏らした可能性をまず検討しかけるが、間もなくあり得ないと首を横に振る。自分自身がそうだと信じたいから、という客観性に乏しい理由が真っ先に頭の中に浮かんだが、レイとネルが事件の現場にいたことを第三者に明かす利点が当人らには何もなく、事件から数日しか経過しておらずまだ第三者に明かす機会がない、などといった背景もあり、考慮の対象からはすぐに外された。
では、どんな可能性が考えられるか。その答えを出そうとしている合間にも、男はふたりに声をかけることを絶やさない。
「嬢ちゃんはともかくとして、坊ちゃんには特に、詳しく話を聞かせてもらいたいね。坊ちゃんの親父さんに会わせてもらいたいってのもあるが」
レイの悪い予感は的中する。ハンチングの男は、レイやネルだけでなくレックス・ベイカーが事件に関わっているのを把握していると暗に知らしめた。それだけでなく、親父さん、と口で言う時にわざと含みを持たせ、レイとレックスが本当はどのような関係なのかということも分かっていると、語調で示唆する。
レイはやむを得ず歩みを止めて、男のほうへ振り向いていた。それを見たネルも仕方がないといった様子で同じ行動を取る。男はふたりの見上げる先にすでに音もなく近づいていて、帽子で隠れていた顔の上半分を晒す。
男の目を見て、レイは思い出した。北部渓谷機関車転落事故の唯一の生き残りとして噂されている少年、ロブ・トウニー・ジョンの調査のために、以前レイはユロック大学に通うアルフレッド・デイトンとともに彼の母親に会うべく家を訪ねた。レイとアルフレッドが入り口の扉を叩こうとしたその時、扉の奥から男が現れた。男の、何もかもをくまなく舐めるように見ていそうな目つきは、ただすれ違っただけのはずのレイに強い印象を植えつけていた。その男の両目が今、この少年を絶対に逃がさないと言わんばかりに、レイをじっと見下ろしている。
「ちょうど良かったじゃない。案内してあげれば、あんたのぼろアパートにまで」
レイと同じ立場のはずのネルは、男の目論見を後押しするかのようなことを言う。レイはネルを一方的に協力者として信じているが、ネルはレイを自分の目的を達するために都合良く利用できる道具のひとつとしてしか見ていない。しかしレイは、それでも構わない、むしろそれでこそネルだと思っている。ネルが自分を優しく気遣ったり、他人に配慮したりするようなことがあると、レイは困惑と、失望にも似た消極的な感情を覚えてしまう。
「ほう、アパート住まいなのか。ガールフレンドはこう言っているが、坊ちゃん。俺としても、連れていってくれるのはありがたいんだがね」
「何を勘違いしているのか知らないけど、親切心とかじゃなく、こいつの保護者が警察の人間だから言ってんのよ。あんたみたいな不審者を出会い頭で捕まえてもらえば、多少はこの町の治安も良くなると思って。あと、ガールフレンドとかいう表現、虫唾が走るから二度と口にしないで」
「おお、怖い怖い」
見るからに敵対心を剥き出しにするネルに、男はなおもおどけている。それが自分をさらに激昂させようとして作られている態度だとネルは理解していたので、声は荒げない代わりに、より一層の攻撃性を口調に持たせていた。
「そもそもあんたはどこの誰。いきなり話しかけてきておいて、怪しまずに相手しろってほうが無理な話でしょ」
「おっと、そりゃそうだ。俺としたことが、これは失礼」
男は慣れた手つきで名刺を取り出すと、ふたりに手渡した。ユロック・タイムズ記者、ビル・ベインズと印字されている。ユロック・タイムズとは、その名が示す通りユロックの町に本社を構える新聞社から発行される新聞の名称を指す。毎朝と毎夕方、日に二回刊行される全国紙であり、北部渓谷機関車転落事故の情報を得るために、レイが常日頃から目を通している読み物のひとつだった。
「ふうん、新聞記者だったんだ。だから格好も顔面も性格も何もかもが薄汚いのね」
「そうなんだよ。日夜、社会の暗部に身を投じているもんだからさ。どんなに気を遣っていても、いつの間にか、どす黒くなっちまうんだ」
新聞記者ビルは、ネルの悪態にも平然としている。ハンチング帽の影からレイを見下げたまま、にやりと笑う。
「さて、俺もあまり学校の近くで君らと話しこむつもりはないし、回りくどい言い方はなしにしよう。コスタノア美術館の事件について、取材をさせてもらいたい」
「断ったら、あなたはどうしますか」
ビルの前でレイは、初めて声を発する。相手の目を見てものを話すことは苦手なレイだったが、動揺を悟られたくなくて、視線を逸らすことができない。その不安定な警戒心さえも、ビルは看破していた。
ビルが突然しゃがみこみ、レイと視線の高さを合わせる。
ハンチングの鍔が、ビルの灰色の瞳に影を落とす。
「お前に断るなんて悠長な選択はできないはずだ。自分でも分かってんだろ、なあ。ペンドリオール孤児院出身の、レイ」
名前や出自も調べられていると知り、レイはどうにか隠し覆っていた動揺を露わにしてしまう。同時に、この男を敵に回してはいけないと直感で判断する。これ以上抵抗しても、こちら側が不利になるだけだと認めざるを得なかった。ネルにも目配せし、取材に応じる意思を示した。
ネルと別れたレイは、アパート「アップル・ヤード」の二〇一号室にビルを連れて帰り、休暇を取って部屋にいたレックスと引き合わせた。ビルがレイやネルにそうしたように名刺を取り出して自らの名前と職業を明かすと、レックスはレイを部屋の奥に追いやり、ビルにアパートから立ち去るように強い口調で言った。しかし、それでビルが引き下がるわけがないことは、レイにも、レックスにも分かっていた。
「用件もろくに聞かずに追い返すとは、客人に対する礼儀ってものがなってないなあ」
「悪いが新聞記者の知り合いはいないし、今日は客を家に招き入れる予定もないんだよ」
「でもこの子は、俺をここまで連れてきてくれた。俺をあんたに会わせるために。その事実を無視しないであげてくれよ」
飲み物のひとつも置かれていないテーブルを挟んで、ビルはレックスに挑戦的な笑みを投げかける。わずかに開かれた扉越しに見つめてくるレイの気配を感じながら、レックスはどのように対応すべきかを考える。レイがレックスを信じているように、レックスもまた、レイを信じている。アパートの自分たちの部屋へ、素性もろくに知らないような新聞記者を理由もなしに連れてくることはしないだろう、と。逆に言えば、ともすれば互いの信頼を崩しかねないのに、ここへ来させる選択を取った相応の理由があるのだと、推測する。
「とりあえず、用件だけは聞いてやる。答えるかどうかは内容次第だ」
「そりゃどうも。まず確認したいんですが、あんたとそこの子、先日のコスタノア美術館で事件が起きた時、現場にいたのは間違いないですかい」
「よし、聞いた。話すことは何もない、帰ってくれ」
「本当に聞くだけ、か。そりゃないぜ、中央部警察鉄道保安課所属、レックス・ベイカー巡査さんよ」
立ち上がりかけたレックスの動きが止まる。
レイがこの男に従わざるを得なかったその理由を、少しずつ理解し始める。
「まだ名乗ってもいないのに、どうして俺の名前と職業を知っている、って顔だな。あの子の名誉のために言っておくが、無理に聞き出したとかじゃない。記者ってのはな、取材対象を事前に、徹底的に調べ上げるものだ。こうして当人に直撃して聞き出すのは、ほとんどが事前調査で手に入れたネタが本物かどうか裏を取るための単純作業、言わば答え合わせでしかないんだよ」
ビルは足を組んで長椅子に座り、態度で余裕を表す。その向かいにいるレックスは、静かに小さく息をつき、対面に位置する場所にひとり用の椅子を持ってきて、そこに深く腰を下ろした。
「話をしてくれるんですね。どうもありがとう。ところで一本、吸っても構いませんか」
「やめてくれ。嫌いな煙だ」
「ほう、ではあなたは吸わないんですね。意外だ。大抵の警察官は愛煙家だと思っていましたので。だって、その辺の道を歩いているだけでよく見かけますよ。顔のいかつい男たちが、建物の陰に隠れて葉巻やらパイプやらで一服されていらっしゃるのをね」
「だからって警察官の全員が全員、吹かしてるわけじゃない。俺みたいに吸わない人間だっている」
「そいつは失敬」
ビルは上着のポケットに煙草の箱をねじこむと、代わりに取材記録用の手帳を取り出した。紙の一枚一枚が湾曲し、分厚く盛り上がっている。長年使いこまれているものだと一目で分かる。
「で、さっきの質問、第一問。コスタノア美術館に、あの時いたんですよね」
レックスは答えない。警察官としての自分を守るために、是が非でも明確に肯定を示すわけにはいかないので、声は上げなければ首も縦には振らない。また、嘘をつくと場合によってはかえって不利になることを案じ、首を横にも振らない。しかしながら、この状況での無言はビルにとって、肯定と同義だった。
「なるほど、黙秘されると。まあ、あの場にいたと認めてしまったら、北部警察から何を言われるか分かったもんじゃありませんものね。賢明なご判断だと思いますよ」
心の内をことごとく見破られ、レックスは口を堅く閉じながらも歯噛みする。すでにこの時点で、レックスの立場はかなり弱いものになっていた。取材に応じなければ、レックス・ベイカー巡査がコスタノア美術館占拠事件の当事者である事実を、警察関係者に密告すると脅されているようなものだった。
「ではここからは、単なる世間話として聞いてもらえれば。第二問、ロブ・トウニー・ジョンという少年のことはご存じですか」
レイが扉に手をかける力が強くなる。
「噂程度には」
「噂程度、ねえ。巡査とはいえ警察官なのに。ちなみに、どのような噂でしょうか」
「北部渓谷で起きた機関車転落事故の、唯一の生き残り、だとか。一体誰が言いふらし始めたのやら」
「少年の出生や家族構成については」
「知らない。知っていたとしても教えられない。行方不明者として捜索願が出されているのだとしても、担当は俺の所属する課じゃない」
「まあ、そうでしょうね。警察としては、確証もないのにあの事故に生存者がいただなんて、もうすぐ二年も経とうというこの時期に公表でもしたら、大騒ぎになる。ただこれってあくまで、世間話ですから。警察がどうとか関係なく、ひとりの国民として聞きたい。この噂は、本当だと思いますか」
ビルはあれこれと話術を駆使して、レックスから根こそぎ情報を引き出そうとする。レックスはこのまま黙秘を続けることもできたが、弱みを握られている現状では自らの首を絞めるだけだと考え、悩んだ末、おもむろに口を開いた。
「真面目に答えると、本当だとも、嘘だとも言い切れない。あくまで噂でしかないから、頭ごなしに信じるわけにもいかないが、煙は火のあるところにしか立たないというのもまた、的を得ていると思う」
「答えになっていませんよ。どうやらあんたは上司から話のはぐらかし方ばかり、しっかり教わってきたらしい。どうせ、今までも似たようなことを言って逃げてきたんでしょう。下手に断言してしまったら、のちに自分自身に責任がのしかかってくる。その重さにあんたは耐えられないんだ」
「無礼な発言でこちらを苛立たせようとしているのなら諦めたほうがいい。もっと建設的な話の進め方というものがあるはずだ」
「ただ、本心をありのままに申し上げただけなんですがね」
「だとしたら、なおさらだ。こんな気分の悪くなるだけの会話を、これ以上続けたくない。別にやめても構わないだろう、だって、ただの世間話なんだから」
「あ、あの」
扉を開き、レイがレックスとビルの対話に割って入る。ビルは、足を組み替えると同時にかすかに口角を上げた。レイが我慢できずに介入してくるのを、初めから予見していたかのように。
「レイ、下がっていろ」
レックスの制止も聞き入れず、レイはビルに語りかける。
「あなたは、すでに知っているはずですよね。ロブ・トウニー・ジョンが、警察の捜査では事故で死亡したとされているって。彼の母親に会っていたんでしょう。僕たちよりも前に」
レックスが目の色を変える。レイは、アルフレッドに連れられてロブの母親に会いに行った日の出来事を、レックスに報告していなかった。この際だからと、レイはあの日入手した情報を回顧する意味も兼ねて、レックスとビルのふたりに説明を始める。
「母親の証言によれば、ロブ・トウニー・ジョンは事故が発生した当日、コスタノア美術館を訪れるために、北部コスタノア行きの列車、つまり北部渓谷へ転落したとされる列車に乗りこんでいます。これは客観的事実により証明されていて、彼が購入した乗車券の領収書を母親が持っていたのですが、その領収書には乗車券ごとに発行される固有の番号、運行管理番号というものが印字されていたそうです。誰が列車に乗って誰が列車に乗らなかったのかは、運行管理番号と鉄道管理局に残っている運行記録を照らし合わせればすぐに分かるというわけです。しかも母親は、本人の顔が判別できる写真を捜索の手がかりとして警察に提供したと言っていました。公的になのか秘密裏になのかは分かりませんが、警察は確かに、彼の生死を明らかにしようと動いているんです」
いつどこでそんな情報を聞きつけた、とレックスに問いただされるのを遮るように、レイはさらに言葉を繋げる。
「僕とアルフレッドさんは、あなたと入れ違いで彼の母親が住む家を訪ねた。あなたも母親からこの情報を聞き出していたのではないですか。だとしたら、すでに知っていることをわざわざ別の人間に聞き直す意味が分からないのですが」
「意味なら、あるさ」
含み笑いを交えて、ビルは言う。
「あのベラとかいう女、精神を病んでいるようだったし、話の内容が何もかも正確だって保証はどこにもないからな。警察が捜査しているっていうんなら、その警察に属している人間に直撃すれば、裏が取れると思ったんだ」
「残念だが、少なくとも俺のいる課は捜査には関わっていない。別の課の捜査情報なんて入ってくるわけがないし、取材する相手を間違えたな」
「残念だなんて、とんでもない。むしろ重要なのはここからだ」
ビルが長椅子の背に預けていた体を前方に起こし、レックスを真正面から直視する。追及からなんとか逃れようとするレックスを眼差しだけで捕らえて、離さない。
「少年はあの日、確かに列車に乗っていて、列車はあの日、確かに谷底へ落ちた。だが少年はなんらかの方法により死を回避し、生還した。眉唾物と言ってしまえばそれまでだが、俺が気になるのは、少年がコスタノア美術館を訪れようとしていたってことだ」
「何か、観たい美術品でもあったんだろう。別におかしくもない」
「そう。ある一枚の絵を見たいと言っていたそうだ。ではここで、先日の美術館占拠事件で何が起きたのかを思い出してみましょうや。怪しい集団がどこからともなくわらわらと現れて、か弱き女性一名を人質に取って美術館に立てこもり、北壁の女神像に大量の爆薬を仕掛けて爆破したってのが、事件の大要。でも、それだけじゃない。美術館内に展示されていた美術品のうち、ある一枚の絵が、事件後に何者かによって持ち去られた」
「何が言いたいんだ」
「何がって、分かってるくせに。少年が見たいと願った絵と、美術館から持ち去られた絵。これらがもし同じものだったとしたら、どうでしょう」
ビルはレックスに視線を向けながらも、話を聞かされてレイが見せる反応にも常に目を配っていた。
事件が起きる直前、レイがネルやエルシーとともに眺めていた鷲と夕景の絵画は、レイの記憶の断片でオズワルド・イーグルによって描かれていた。また、エルシーが拉致されて占拠犯が美術館内に籠城する夜、セヴァリー雑貨店から同じ作者の絵が盗まれていたことが、アルフレッドとイザドラの調べで明らかになっている。事件後にコスタノア美術館から持ち去られたという絵画がなんだったのかを、自分の目で実際に見たそれであったのかを、レイは確かめられていない。だが、セヴァリー雑貨店での一件との奇妙な符合は、事実確認をせずとも確信を得るにあたり、判断材料として不足はなかった。
「これまで占拠犯なんていう言い方でぼかしてきたが、あの日コスタノア美術館に立てこもっていたのは、いわゆる《夜鷹》と呼ばれている連中だろう」
頑なに沈黙を守るレックスを、ビルがさらに攻め立てる。
「北壁の女神像を破壊するという表立った目的を遂行するその裏で、数ある美術品の中、たった一枚の絵をどこかへ持ち去った。おそらくは、潜伏先に。そう、潜伏だよ。ユロック大学の討論会に出ていた大学生も似たようなことを言っていたが、あれだけの大人数が足並み揃えて計画を立てて、実行に移すにはそれ相応の準備が必要だ。作戦を練るために集まり、身を寄せ合う拠点ってもんが、この国のどこかにあるんだろうよ。もしかすると案外、このアパートからそう遠くない場所にもあったりするんじゃないか」
「もう一度言わせてもらう。あんたが一体何を言いたいのか、もしくは俺に何を言わせたいのかが、さっぱり分からない」
「やれやれ、強情張りだねえ」
乾いた笑いがビルの口から漏れ出るが、目は笑っていない。
「あんたに、本当に聞きたかったのはひとつだ。コスタノア美術館にいた《夜鷹》たちの中に、そうだなあ、そこにいるレイ君よりも二、三歳ぐらい上の男の子がいなかったかってことさ」
記憶の底から、苦く深く暗い闇がせり上がってくる。
押しとどめようとしても、立ちのぼり、広がっていくのを止められない。
夜の、切り取られた空間の中で対峙した、《夜鷹》を統率している、とされる者。彼もまた、レイよりも少し上の年齢と思わしき少年だった。
事実としてレックスは、コスタノア美術館ではビルの言うような少年の姿を見ていない。しかし、ビルが何を意図してこのような質問をしてきたのかを理解する。このビルという男は、レックスやレイの想像を遙かに絶するほどに、あらゆる種類の手札を数多く持っている。
沈黙には、沈黙が返される。ここまで来たら、レックスが口を割るまで黙り続けてやろうという思惑の下、ビルは膨らんだ手帳を掌の上で弄んでいる。対するレックスも警察官として折れるわけにはいかず、ふたりはしばらく膠着状態に陥る。
が、結局折れたのはビルのほうだった。
「ちょっと揺さぶってやれば、すぐに引き出せると踏んでたんだがなあ。計算外だ」
ビルは、どっかりと腰かけていたソファーから立ち上がる。レックスは最後まで黙秘を貫きはしたが、表情や動作のわずかな変化を見せてしまっていた。それだけでもビルには収穫となり得たようで、発言とは裏腹に彼の足取りはどこか満足げだった。
「今日は、このへんにしておきますよ。どうやら俺は、答え合わせを急ぎすぎたようなので。次はもっと、あなたの言う建設的な話とやらができるのを願って、出直すとしましょう」
「何度来ても同じだ」
「そう敵対視しないでくださいよ。立場は違えど、俺らは同じ方向を向き、同じものを追い求めていると思ってますので。そちらは警察官として、こちらは事件記者として、ね」
二〇一号室を出る前ビルは、ああそうだ、と何かを思い出したかのように声を上げた。
「ついでと言うのも、おかしな話ではあるんですが。弊社ユロック・タイムズの定期購読にご関心は」
「商魂たくましいな、あんた。喜べよ、もう契約済みだ。仕事柄、新聞には目を通すことが毎日の習慣になっている」
「なんと、それはそれは。常日頃のご愛読、どうもありがとうございます」
わざとらしい営業者の笑顔を振りまくビルに、もはやレックスも苦笑するしかない。
その苦笑をもかき消す言葉を置き土産に、ビルは「アップル・ヤード」を去った。
呆然とその場に立ち尽くすレックスと、その後ろ姿をただ見つめることしかできなくなったレイを残して。
「そうだ、最後にひとつだけ。お隣、二〇二号室にお住まいの、えっと、確かお名前は、エルシー・グリーンさん、でしたかね。近いうちに伺うつもりでいるので、一言、伝えてもらえると助かります。アパートの隣同士であれば、話をする機会もあるでしょう。彼女にもまた、聞きたいことがあるのでね」