週明け、新聞各紙の発表により、本年のユロック大学文化祭が昨年と比べて倍以上の入場者数を記録したことが明らかになった。その事実もさることながら、討論大会の顛末に関する記述には異例の大きさの面積が割かれ、記者による論評まで書かれているものまでが売り出されていた。ラジオの報道番組においても各局が討論大会を取り上げ、中でも学生会長ハーバート・アイザックスと、彼に対抗するアルフレッド・デイトンの活躍が目覚ましかったことを国民に知らしめた。
彼らが打ち出した結論は、同世代の若者たちにだけでなく、年配者、さらにはこれから社会の入り口に立とうとしている年少者にまでも、大なり小なり確かな影響を与えていた。レックス・ベイカーによって持ち帰られた犬釘は正式に証拠品として扱われ、中央部警察にて保管されることになった。捜査状況に明確な進展こそすぐには見られなかったが、現状打破の兆しになり得るかもしれない犬釘の存在は、警察組織全体に波紋を広げた。北部少女親族連続殺害事件においても警察を翻弄した《夜鷹》が北部渓谷機関車転落事故をも引き起こしたとなれば、《夜鷹》を根絶することこそが今の警察にとって何よりも重視しなければならない使命となる。もはやどの刑事にも、ただの学生たちのお遊びなどと嘲笑する余裕はなかった。
事故を過去の出来事にしない、忘れさせないというアルフレッドの願いは、実現しつつあった。
レイが通う学校でも討論大会が話題に上がっていたが、実際に討論を観覧した者はおらず、そのすべてが報道に基づく憶測と想像で語られていた。間違った情報、過不足のある情報を耳にすると、レイは誤りを訂正したい気持ちに駆られるが、討論に観衆のひとりとして参加していたことはなんとなく言い出せず、会話の輪からは距離を取り、自分の席に座って静かに教科書を読むのだった。
教科書の内容をほとんど憶えてしまうほどに読み進めてしまった時に、ネルが教室に入ってきた。レイの隣の席につく。
「おはよう、ネル。あのさ」
「あんた、今日ちょっと付き合いなさいよ」
レイはネルに、討論大会に対する感想を聞こうとしたが、切り出す前に遮られた。
「どこに」
「違う。あの女を尾行する」
「あの女って」
「カレン・メルヴィルに決まってるでしょ。いちいち聞き返すのをやめて。あんたって本当に何もかもが遅いわね」
てっきり討論大会に関連していると思いこんでいたレイは、きょとんとしてしまう。
聞けばネルは先週、カレンが年上の壮年の男性と並んで歩いているところを偶然目撃したのだという。その日カレンは朝から出勤し、昼が過ぎてからは私用で学校を休んでいた。ちなみにネルは無断で学校を一日休んでいた。
「自分は自分で学校をさぼっていたから、大っぴらに見ましたとは言い出せないわけだ」
レイの冷静な指摘はいつもの通り無視される。
「信じらんない。あたしはてっきり本業の合間を縫ってあの人を捜してくれてるんだとばかり思ってたのに、蓋を開けてみればただのデートだったってわけ。あの女を先生と呼んでしまった過去の自分を殴りたい気分だわ」
「いや、でも。まだデートだと決まったわけじゃないし、私用っていっても、教育関係者との会合か何かだったりして。仮に先生に本当に恋人がいて、こっそり会っているのだとしても、それは別におかしくないし、いけないことでもない。教師が学校側に対して自分の恋人の存在を公表する義務はないし。職務放棄ではないかという観点から見ればあまりよろしくないのかもしれないけど、仕事よりも優先したいほどに一緒にいたいっていうのも、分からないでもない」
レイの最後の一言から数秒の間を挟んだのち、ネルが結んだ髪を振り乱して声を荒げる。
「だ、だからっ。これから尾行して、決定的な証拠を押さえるって言ってんの」
「そもそもそれって、僕が行動を共にして確かめる必要があるのかな」
「協力要請とかなんだとか言い出したのはどこの誰だったっけ。断言しておくけど、あの女がいけ好かないから弱みを握りたいだとか、そんなくだらない理由じゃない。ちゃんと意義のある行為よ。あんた、言ってたでしょう。あんたの秘密を知り得る、そうとしか考えられないひとつの可能性があるって」
カレンはレイが北部渓谷の事故について調べていること、全員が命を落としたはずの事故にただひとりの生き残りがいるかもしれないと噂されていることを知っていた。レイは夏期休校中、アルフレッドに彼女のことを報告しているが、秋になりユロック大学文化祭が終了した今でも有益な情報は共有されていない。
一方で「鉄屑処刑場」での事件からしばらく経ち、カレンのレイとネルに対する警戒も若干ではあるが薄れてきている。
「あたしは初めから、あの女に後ろ暗いところがあるって睨んでた。他人を寄せつけようとしない閉鎖的な態度に、邪魔になりそうな人間にあらかじめ忠告する手抜かりのなさ。どこで嗅ぎつけたんだか知らないけど、あたしたちが絶対に口には出さないようなことも、どういうわけか把握している。敵か味方かはさておき、カレン・メルヴィルという女は一体何者なのか、何をたくらんでいるのか。あんたも、いえ、あんたこそが追求すべき謎なんじゃないの」
「それは、そうなんだけどさ。前に少し話したと思うけど、メルヴィル先生のことは、ユロック大学のアルフレッドさんっていう大学生の人が調べてくれてるんだ。僕が不用意に接触すると、引き出せる情報も引き出せなくなるからって」
「そのアルフレッドとかいう男も大して当てにならないでしょ。この間、筆記帳を返すついでに大学へ行ってきたんだっけ。結局、有力な手がかりは何も持ち帰ってこなかったじゃない、あんた。あんたがその男にまだ完全に信用されていないだけかもしれないけど」
レイは、教科書を握る手に力をこめる。
何も成果を得ていないわけでも、アルフレッドから信用を得られていないわけでもない。
別に本当に死んでなくていいから、実はどこかで生きてるんだったらそれでもいいから、完全に存在を断ち切ってよ。死ぬなら潔く死んでよ。
レイの耳には、未だその声がこびりついている。ロブ・トウニー・ジョンの母親が言い放った、訣別の言葉。彼女はもう、彼の生死に執着していない。
その事実をネルに伝えるにはあまりに酷だと思い、ずっと黙っていたのだった。
「どのみちあんたはあたしの下僕なんだから、拒否権なんてないわよ」
「特に予定はないし、拒否するつもりもないけど、どうして今日なの」
「あの女の犯行現場を目撃したのが木曜日だったの」
「犯行現場って」
「あの女が半休を取るのも、決まって木曜日。毎週欠かさずではなく、隔週の頻度に留めているみたいだけど。そんな小細工で周りの人間に悟られないとでも思っているのかしらね」
「よく憶えてるね、メルヴィル先生が木曜日に休むって」
「何が言いたいのよ。あたしは今でも好きじゃないからね、あの女のこと。どこまでも疑ってやるんだから」
嫌い、ではなく、好きじゃない、とネルは言った。
レイとネルは「鉄屑処刑場」での事件以来、カレンに負い目ができていた。ネルの気持ちに変化が生じているように、レイもまたカレン・メルヴィルという人間をどう捉えるべきなのか、自分の中で決めかねていた。敵か味方かというよりも、自分の目的を達する上で必要な存在なのか、それとも不要な存在なのか、はたまた障害となるのか。彼女の調査を任せているアルフレッドは、討論大会が終了してからも報道機関への対応に追われており、身動きが取れない状況であることはレイにも容易に想像できた。
だから、自分でも何か情報を掴むために、ネルの誘いに乗ってみようと考えた。
とはいえ、学校を後にする教師を学校に通う者が尾行するには、その間の授業を欠席しなければいけない。主担任のハンナ・コベットに事情を話したところで許してもらえるはずはなく、体調不良か何かを偽る必要があるが、偽るにしてもレイとネルがふたりそろって欠席となればカレンが訝しまないわけがなく、彼女に悟られないように早退しなければならなかった。
カレンが退勤してからすぐに、ネルは平然とした様子で手を挙げた。
「先生。レイ君の具合が悪いみたいです。私が医務室に連れていきます」
ネルはなんの段取り確認もなくレイを教室から抜け出す口実に利用した。しかしレイには自分が利用されるということを予想できていたので、すぐに腹が痛い演技を始める。心配するハンナが声をかけるよりも早く、ふたりは席を立った。
医務室に向かうように見せかけて、逃げるように学校を出る。
レイは罪悪感を覚えるよりも先に、カレンの行方に意識を集中させる。最初から罪悪感など微塵も持たないネルに、少なからず感化されてきているのかもしれないと、見た目だけは幼い彼女の後ろ姿を追いながら自嘲した。
学校の出入口の門扉付近で注意深く辺りを見回すと、遠くの街路樹の横をカレンが歩いているのを発見した。ふたりは体が小さいことを活かして樹木や建築物の陰に隠れて距離を取ったり、逆に一気に距離を詰めたりなどしてつかず離れずの間隔を保ち、慣れないながらも順調に尾行を続けることができた。尾行が滞りなく捗るほどに、レイが胸の奥に押しこめていた罪悪感が大きく育っていくが、ネルの手前、ここまで来て自分だけ逃げ帰るわけにもいかなかった。むしろカレンに早く気づいてほしいなどとさえ思い始め、結局自分は悪行に手を染めるにはどこまでも向いていないのだと実感するのだった。
「止まって」
尾行を開始して十五分から二十分ほど経とうという時、一歩前を歩いていたネルがレイを片腕で制する。
カレンは相変わらずふたりの存在に気づいている様子がなく、幅の広い道沿いの喫茶店に入っていった。レイとネルは道を挟んで喫茶店の反対側に立ちすくむ。
カレンは窓際のふたり掛けの席へ通されていた。テーブルの上には予約席を示す硝子板がある。数分後には、注文した飲み物を傍らに本を読む彼女の姿を窓越しに確認することができた。
「ひとりで入ったのにふたり用の席に座ったってことは、誰かを待ってるのかな。ほら、ネルが見た、メルヴィル先生の隣を歩いていたっていう男の人を」
「さあね。あんたに倣って消極的に考えるなら、とっくにあたしたちの尾行に気づいていて、諦めさせるためにここで時間を潰してるって線も考えられるわ」
「わざわざあの席を予約までしてるんだよ。僕らがついてくることは、さすがにメルヴィル先生でも想定はしていないと思う。場所と時間を指定しなければいけない理由が、あるんじゃないかな」
しかし、十分経っても、二十分経っても、店員以外でカレンに接近する人物は現れなかった。カレンは時折飲み物の入ったグラスに手を伸ばすものの、開かれた本に目を落としたまま視線をほとんど動かさない。かと思いきや、急に窓の外に目をやるなどして、ふたりをひやりとさせる。
「やっぱりあの女、あたしたちがいるのを知ってて、あたしたちの反応を見て心の内で笑ってんのよ」
「それなら、お望み通り退散しよう。気づかれてはいないにしたって、このままここで突っ立ってるだけじゃ、確実に見つかる。今日のところは、ここで打ち切るべきだ」
「そうね。一応、店の名前と場所は憶えたし」
自分の提案にネルが素直に賛同したので、レイは面食らってしまった。だが、すぐにそれが見当違いであることを知る。
「じゃ、後はよろしく。もし成果が得られたら速やかに報告しなさい。見つかったりしたら許さないからね」
「えっ」
「えっ、じゃないでしょうが。今後、毎回あたしたちふたりがあの女の退勤に合わせて学校を抜け出すわけにはいかないんだから。もし今日、何も収穫がなくても次の週、あんただけがなるべく自然な流れで途中退席ができるように手助けぐらいはしてあげる。協力ってやつよ、このあたしが。ありがたく思いなさい」
ネルは、何故か上機嫌になっていた。唖然とするレイを置き去り、来た道を引き返していく。ありがたいとは到底思わなかったし、理不尽だと感じていないわけでもなかったが、レイの中に怒りや反発心などの感情は生まれない。むしろ、いつものネルだと安心する。彼女に利用される、利用されていることを、受け入れていた。
レイは、その日のうちに彼女が望む成果を得る。
どこからか現れ、店に入り、カレン・メルヴィルの向かい側の椅子に座る男がいた。男の顔をレイは、よく見知っている。
モーゼズ・ガフだった。
翌日の金曜日には、カレンも朝から学校に顔を出した。
カレンから尾行の事実を指摘されることはなかった。レイはモーゼズの姿を確認した後すぐにその場を去ったため、カレンがあの喫茶店でモーゼズと何を話していたのかまでは明らかにできていない。自身も入店し陰に潜んでふたりの会話を盗み聞くような行動はさすがに危険だと判断したというのもあるが、わざわざそこまでする必要がないと思っていたからでもあった。アルフレッドと共に予測していた通りの結末が、硝子窓の奥で繰り広げられていた。それを実際に目で見て確かめられただけでも、レイにとっては収穫といえた。
「メルヴィル先生と一緒にいたのはユロック大学の教授だったよ。ほら、イザドラさんが通ってるところ。年齢も離れてるし、デートではなかったと思うな」
レイの味気ない報告にネルは、特に何も言わなかった。「あっそ」の一言で済ませ、レイを非難もしなかった。もうどうでも良くなったのかともレイは思ったが、そうではなく、ネルがレイに対して無闇に不遜な態度を取ったり、罵ったりなどする頻度が低くなっていることを示していた。
嬉しいような、そうでないような、よく分からない気持ちになっていたレイは、ある日ネルから一緒にセヴァリー雑貨店に行こうと誘われて、ますますよく分からない気持ちになる。
「雑貨店のデイジーおばあちゃん、憶えてるわよね」
「うん。僕は正直、ちょっと苦手だったけど。坊ちゃん呼ばわりされるのが恥ずかしかった」
「あの人、ああ見えてやり手なのよ。今度、北部の美術館で催し事をやるらしくて、主催者からその手伝いに来てくれって言われてるんだってさ。館長とは昔からの仲だとかで」
「美術館って、もしかして」
「そう。コスタノア美術館」
レイがその場所の名を耳にするのは、これが初めてではない。
ネルの話によれば、ロブ・トウニー・ジョンが、飾られている絵を鑑賞するために訪れようとしていた。彼の願いは、叶わなかったが。
「でも、それがネルとなんの関係があるの」
「関係ないけど、無理にでも関わっていくのよ。おばあちゃんに、あたしたちも北へ連れてってもらえるように頼むの。この機会を逃せば、次はいつ行けるかどうかも分からないんだから」
「えっと、あたしたちってことはつまり」
「当然、あんたも強制参加よ。あの人が見たかった絵を見に行くのが目的ではあるけど、ちゃんとおばあちゃんの手伝いの手伝いだってしなくちゃいけない」
「そのお手伝いをするのが僕ってわけか」
「あら、物分かりが良くなってきたじゃない。あんたがあたしの下僕であることを自覚させるためにも、あたしの行くところにはできる限り同行させなきゃと思っていたの」
「だからこの前の尾行にも僕を連れてったのか」
「物分かりが良すぎるのもそれはそれでなんだか腹が立つわね。ほどほどに馬鹿でいなさい」
「理不尽だなあ」
不満を漏らしながらも、レイはその日の授業後、ネルの後に続いてセヴァリー雑貨店へと足を運んでいた。学校が夏期休校の間には避暑を目的として入り浸っていたため、ネルだけでなくレイにとっても行きつけの店になりつつあった。ネルを伴わず、レイひとりで訪れたことも何度かある。イザドラからはネルとの仲をからかわれるが、棚に綺麗に並べられている売り物をのんびり眺めたり、気に入ったものはレックスからもらっている小遣いで購入したり、休憩中のエルシーやデイジーと気楽な会話に興じたりなどして、主にレックスが仕事でアパートの部屋を空けている間、ひとりになる時間を埋めていた。以前のレイからは、考えらないことだった。これまで自らひとりでいることを選択してきたレイが、レックスと長く過ごしてきたために、ひとりでいることを寂しいと感じるようになっていた。
それは良いことなのか、そうではないことなのか、レイには分からない。
「お願いします。あたしとこいつを、コスタノア美術館に連れていってください」
ネルはデイジーと対面するなり、彼女の顔を見据えて、しかし語気は弱く言い放った。そのネルらしさが著しく欠如した低姿勢ぶりにデイジーは目を見開き、エルシーは手に持っていた陳列中の売り物を取り落としそうになり、イザドラは取り落して商品をひとつ壊してしまった。
「そりゃまた、どうしてだい」
「美術館に飾ってある絵が見たいんです」
「なんの絵を見たいんだい」
「分かりません。友達が見たいと言っていた絵です。その絵がどの絵なのかも知らないけど、探します。この目で見ればきっと、そうだって分かるから」
「自信があるようだね。その友達ってのは、誰なのさ。当てっこなんかしなくったって、その子に直接聞けばいいじゃないか」
「ロブ・トウニー・ジョンです」
その名が出た瞬間、雑貨店の空気が変わる。エルシーとイザドラは、どこかから流れてきた噂によってぼんやりとではあるが記憶に残していた。北部渓谷機関車転落事故に巻きこまれたが、唯一生還したとされる少年という認識で。デイジーはネルからロブのことを聞かされており、彼女がロブをどう思っているのかを、ロブに対してどんな感情を向けているのかを知っている。
だが、だからといってふたつ返事とはならないのがデイジー・セヴァリーだった。
「でもね。見て、どうするのさ」
「気になるんです。なんで、見たかったのかなって。北なんて中央の人間にしてみれば気軽に行ける場所じゃないのに、しかも、美術館だなんて。自分に教養があることをひけらかしたい自意識の過剰な人間たちが、無意味に足を運んではちっぽけな自尊心を満足させるだけのくだらない施設でしょ、って、あたしは思ってた」
「今の言葉で安心したよ。いつものネルだ」
「でも、ひとりで機関車に乗って長い時間をかけてまで行って、見たい絵があるんだって、言ってた」
「その絵を自分でも見てみれば、ロブ君がどうしてそんなにも見たがっていたのかが分かるかもしれない、ってことだね」
「まあ、簡単に言えばそうです」
「簡単にって。難しく言うとどうなるんだい」
「そんなの知りません。とにかく、連れてってよ、おばあちゃん」
ネルが懇願する。レイが相手では絶えることのない高慢な発言も、デイジーを前にすると途端に勢いを失う。彼女にはそれが通用しないことをネルも分かっているから、自身の思いを素直に打ち明けて、伝えるしかなかった。
「連れていくのは構わないけど」
デイジーは老眼鏡を浅くかけ、両手の台帳に視線を落としながら答える。
「旅行気分でついてくるんだったら、お断りだからね。同行するからには手伝いとして、荷物運びや身の回りの雑用をきっちりしてもらうよ」
「あ、それはこいつが全部引き受けるそうです」
「僕は引き受けるなんて一言も言ってないよ」
引き受けないとも言ってないけど、と声には出さずに言い添えた。
エルシーが手に持っていた商品を再び床に落としかける。
「えっ、ちょっと待って。レイ君も一緒に行くの」
「あ、はい。行くことになりそうです」
「なりそうじゃなくて、行くのは確定してるから。曖昧なことを言わないでくれる」
傍目にそうと分かるほどに驚いているエルシーを安心させようと、レイは先手を打つ。
「もちろん、刑事さんに黙って家を空けるつもりはありません。数日は帰らないことになるので、事前に伝えておかないと心配をかけますから。ただ、許可を取るのではなく、報告するだけです。僕は刑事さんに止められようが、行くつもりでいます」
「あ、ううん。そうじゃなくてね。私も行くからさ」
「ええっ」
今度はレイが驚かされることになった。ネルは不服なのか、口を尖らせてそっぽを向いてしまう。
「ふたりと同じ、セヴァリーさんのお手伝いでね。本当はイザドラさんにも来てほしかったんだけど」
苦笑を伴ってエルシーから顔を向けられたイザドラは、同じく苦笑いを浮かべて、指で頬をかく。
「私だって、ご一緒したかったんですよ。でも文化祭が終わって、そろそろ試験も近くなってきていて。講義にはできるだけ多く出席しておきたいんですよね。自慢じゃないですがこう見えて、赤点に限りなく近い学生のひとりでして」
「普段からきちんと勉強しておかないから、いざという時に苦労するのよ」
「うるさいな。あんたに大学生の苦労なんて分からないでしょうが、狼少女」
「その呼び方はやめろって言ってるでしょっ」
「こらっ。営業中だ。あまり騒ぐと、美術館には連れていかないよ」
デイジーが声を荒げたので、話はそこで打ち切られた。気まずさを残しながらも、ネルとレイはデイジーに、コスタノア美術館の催事に参入する約束を取りつけたのだった。
その日の晩、エルシーは二〇一号室に招き入れられた。
夕食に彼女を交えて、レイはレックスにデイジー・セヴァリーの催事活動支援の件を報告した。返ってきたのは、レイとエルシーが想像した通りの反応だった。
「俺も行く」
「言うと思った」
「僕もです」
「だって。お前らだけで北部へ行って、美術館でのんびり芸術鑑賞して、そんでもってついでに北部のおいしい食い物でも食ってくるんだろ。それなのに俺ひとりだけが留守番だなんて、そりゃ、あんまりだろうが。なんとしてでも、絶対についていくんだからな」
「あのね、レックス。遊びに行くんじゃないから。あくまで催事のお手伝いをするためにデイジーさんの付き添いとして行くんだよ」
「分かってるっての。でも、美術館を回る暇がないわけじゃないし、飯を食う暇もないわけじゃないだろ。コスタノアは前に仕事で出向いたことがあるんだが、とにかく飯がうまいんだ。寒いけど」
「そう、寒いんだよね。しっかり厚着していかなくちゃ。レイ君の服もちゃんと用意しておきなさいよ」
「大丈夫です。自分の荷物は自分で準備します。普段からそうしているので」
「だってよ」
「それなら安心。むしろ、レックスが心配」
「何を。これまで何十回、出張に行かされてきたと思ってんだ。滞在ならお手のもんさ」
「大体、数日間も警察の仕事を休めるの」
「有給休暇を取るよ。今年の分がまだ余ってる、はず。足りなかったら来年分を前借りする」
「また上司に怒られますよ、刑事さん、そんなことしたら」
「お前に心配される筋合いはないってば。そういやあ、レイと旅行なんて初めてだな。楽しみだ」
「だから旅行じゃないって」
あくまで仕事だとたしなめるエルシーの声も、どこか弾んでいる。レックスも、レイも、気持ちが高ぶるのを隠せなかった。そこに、決して嘘や偽りなどは含まれていなかった。
三人での夕食が終わると、レイは眠気を覚え、ひとりで床に就いた。
幼い寝顔を、レックスとエルシーがふたりでそっと覗きこむ。ひとしきり眺めて、ふたりで笑い合ってから、起こさないように、音を立てないように、レイから離れた。
ふたりは無音の部屋で、何をするでもなく着席する。やや縦長のテーブル越しに互いの顔を見る。高揚する気分の裏に隠れていた不安が、おもむろに姿を現しつつあった。
「エルシーはさ」
静寂を破ったのはレックスだった。
「やっぱり、好きな男と一緒に行きたかったよな。美術館」
すぐに返答はなく、レイが毛布の下で寝返りを一度、打ち終わるほどの間があった。
「どうだろ。なんだかもう、どうでも良くなっちゃったかも」
「おい。約束はどうなるんだ」
「ごめん、ごめん。冗談。でも今の私にとっては、レックスやレイ君と過ごす時間のほうが、ずっと大切だから」
「そっか。そりゃあ、良かった。良かった、のか」
「うん。良かったよ」
ふたりは、ふたりきりの時、あまり口が立つほうではない。会話は途切れることもある。沈黙が続けば、気まずいと感じる。
エルシーはまだ、自分の部屋、二〇二号室に帰ろうとしない。席を立たなかった。
「そいつのどこがいいの」
「え、何が」
「だから。カートライトだよ。どうして、好きになったんだよ。そんな、自分勝手な理由でどっかに行っちまうような男を」
「確かに。不思議だよね。自分でもそう思うよ。なんで好きになっちゃったんだろ」
「今でも好きなのかよ」
レックスが静かに踏み入った。
エルシーは怒らない。機嫌も損ねない。ただ、じっと考えてから、答える。
「まあね」
「なんで」
「生まれて初めてだった。あんなに優しくされたのが。そんなにたくさん、いろいろなところへ出かけたってわけじゃないけど、だからこそ、一回の時間をすごく大切に使ってくれた。本当はね、私だって嫌いになりたいよ。別れを切り出されてからしばらくは、このまま嫌いになるんだろうって思ってたもの。でも、忘れられなかった。忘れられない。今も。私はもう、あの人とは無関係なんだって、分かってるのに」
「少しでも相手のことを憶えているなら、それは無関係じゃない」
忘れられない、という言葉を、憶えていると言い換える。
「私がいつまでも引きずってるってだけだよ」
エルシーはそれを、さらに別の言葉にしてしまう。
「友達や恋人になったり、結婚して、家族になったりしないと、ただの赤の他人でしかないもの」
「じゃあ、俺たちはどうなるんだ。俺とエルシーは。俺とレイは。レイとエルシーは」
レックスの語気はそれほど強かったわけではなかったが、エルシーは衝撃を受け、のちに後悔したような表情を作った。
「そもそも、昔つきあってたんなら、その時点でもう、無関係ではないだろ」
過去は変えられない。
普遍的で、口にするには陳腐な事実だったとしても、レックスは言わずにはいられなかった。
「そう、だね。ごめん。ありがとう」
「感謝されるようなことは何も言ってねえよ」
「何度言ってもいいの。言いたくても、言えなくなった時のために。ありがとう、レックス」
「だ、だからやめろよ。というか、いつまで居座る気だよ。とっとと自分の部屋に帰って寝ろ」
冗談で返して、冷やかすのをすっかり忘れてしまうぐらいに照れくさくてたまらなくなり、レックスはエルシーの背中を押して、彼女を二〇一号室から追い出した。
ひとりになったレックスは、なおも残る顔の赤らみを水道の水で収めてから、レイの隣にごろんと寝転がる。
「俺だって、言いたかったよ」
それは誰にも、すぐ横で寝息を立てるレイにさえ、聞こえないようにつぶやかれた。
その真意を知る者は、今のところ、この国のどこにもいない。