錆びた犬釘

 文化祭を翌日に控えた金曜日の夕方、ユロック大学。アルフレッド・デイトンとイザドラ・ケンドリックは、鉄道工学第三研究室にて明日の準備に取り組んでいた。準備といっても、大規模なことはしていない。文化祭の主要行事である討論大会の議題は、表向きには当日に決定し当日に発表されることになっているが、文化祭の実行委員会があらかじめ決めておくのが実際のところだった。大会の参加者に情報が漏れないように、議題は秘密裏な会議によって決定される。会議が大学のどこで開かれているのか、大会の参加者を含めた学生たちには知らされていない。アルフレッドを初めとした参加者たちに、前もって論説を用意するなどといったことは不可能であり、彼らに求められるのは、その場ですぐに議論を組み立てる能力と、日頃の学習と研鑽により培われる知識だった。
 しかし、今年に限っては事情が少し異なってくる。
 北部渓谷で発生した機関車転落事故から一年以上の月日が経ち、なおかつ今回の文化祭は事故の後、初の開催となる。議場に持ちこまれるのが北の大事故に関するものであろうことは、もはや明白だった。アルフレッドは明日、どのような命題に対しても立ち向かえるように、関連資料と原稿の作成に神経を集中させていた。イザドラは、あまり協力的ではないものの、他の企画には関わっておらず手も空いていたため、アルフレッドの作業を横で手伝っていた。彼が彼女に頼んだというわけではないが、ふたりが気がつくと、それぞれ役割を分担して作業を進めていた。
「アルフはさ、やっぱり、あれはただの事故じゃなかったって、考えてるの」
 夕陽が落ちかけて、空の色が濃い紫に移り変わろうという時に、イザドラが何気なく尋ねる。外界の変色は、頼りない照明の光ひとつの研究室に不気味な静寂を呼び寄せる。落ち着かないほどに怖いというわけではなかったが、何か話をしたいと思い、声をかけたのだった。アルフレッドは原稿の文章をひたすらに目で追いかけており、イザドラを見もしないが、話を聞いてはいたようで、
「今更何を言うんだ」
 と、やや苛立たしげな答えが返った。
 アルフレッドは今年、不思議な巡り合わせによりレイという少年と出会った。機関車転落事故への疑念が膨らみ、本格的に調査を始めようとした矢先の出来事で、彼にとっては驚きと喜びの連続だった。レイは彼自身と同等か、あるいはそれ以上の頭脳の持ち主であり、なおかつ行動目的も同じ「真実を明らかにすること」だったからだ。レイとこの先で明かされるであろう真実を共有したい、調査を進める中で出会った犠牲者遺族の終わらない苦しみを、消せはしないまでも何か変化を与えて進展させたいという意思もまた、アルフレッドには確かにある。少なくとも、このまま何もせず大学生活を平穏に過ごすことだけはしてはならないと決めていた。
「明日の討論大会、きっと報道局の取材も来るよ。そんな人たちの前で『あの事故はただの事故ではなかった』なんて言い出したら、大変なことになるんじゃないの」
「君にしてはまともな憂慮じゃないか」
「どういう意味よ」
 ユロック大学の文化祭は、ただの学校行事ではなくなっている。開催後、週明け月曜日の新聞には、各誌の扱いに大小の差はあれど、毎年必ずと言っていいほどに討論大会の記事が載る。一般市民はもちろん、国の鉄道業に携わる者の多くが関心を寄せており、学生たちにとっても、自分の知識や見聞を業界の重要人物に知らしめる絶好の機会となる。
 ただし、アルフレッドはそれが目的ではない。討論を通じて新たな知見を得ることと、自身の論理の力を試すことさえできればいいと考えている。注目を浴びたい、立場が上の人物と知りあうきっかけがほしい、などといった願望はなかった。
「新聞記事が討論大会を書き立てること自体は構わない。ただ、事が大きくなると、僕としても身動きが取りづらくなってしまうだろうな。だが今は、少しでも力強い、国全体への問題提起が必要だ。多少の冒険はするべきなのさ」
「大げさね。たかが一介の大学生ひとりの論説で、国を変えられるわけがないじゃない。私は討論大会がきっかけで、アルフが新聞記者にあることないこと書かれちゃって、変な噂が立っちゃうんじゃないかって心配してるの。ま、大学ではすでに噂は立ってるんだけどね。あなたが相当な変わり者だって」
「へえ。僕にしてみれば、この大学にいる人間なんて総じて変人だと思っていたが」
「それは、まあ、否定はしない。あなたはその中でも抜きんでているけどね」
 何が、とは言及されなかった。
「ところで」
 作業を大方終えたらしいアルフレッドが、机の上を整理しながら、少し言いにくそうに切り出した。
「イザドラ、君はそろそろ、僕と関わるのはやめるべきだ」
「どうして」
「君自身が今、はっきり言っただろう。何故、分からないんだ。僕は変人の集まりの中で抜きんでた変人であるらしいが、そんな僕と、こちらから頼んでもいないのに行動を共にしようとする君のような人間もまた、変人扱いされるだろうという考えには至らないのかい」
「なんだ、そんなことか。気にしてくれてたんだ。意外」
 イザドラは余裕たっぷりに笑ってみせる。
「アルフは私のことなんて気にしなくていいの。私はただの観察者だから。あなたという変人を眺めて面白がっているだけ。これからも構わず我が道を突き進んでよ。面白がってあげるから」
「ただの観察者なら、あれやこれやと口出ししないでもらいたいものだが」
「あまりに我が道を突き進みすぎて、道を踏み外してもらったら困るでしょ。そうならないための助言はさせてもらいます。アルフが心配なんじゃなくて、アルフを観察できなくなったら退屈で仕方ないじゃない」
「そうか、よし。分かった。君もまた、かなりの変人だよ。僕に負けていないと思うね。誰よりも僕自身が保証する」
 気まずさを押し隠そうと、アルフレッドはイザドラから離れる。研究室内の奥に存在する給湯場に立ち、ふたり分のコーヒーを入れて戻った。
「あら、私の分もある。珍しく気が利くじゃん。どういう風の吹き回し」
「くだらない会話に走るのは口寂しいからだろ。不毛なやり取りを終了させるには、一服入れるのが最良の選択というものさ」
「何、くだらない会話って。不毛なやり取りって。相手しておいてその言い草はどうかと思う」
「大抵こういう、あまり第三者に聞かれたくないような話をしている時に限って、モーゼズ教授が前触れもなく出現するんだよ」
「今の、聞かれたくなかったんだ。というか、なんの根拠もなく何を言うの」
「前にも言ったはずだ。僕はいつだって論理的なわけじゃない」
「聞き捨てならない発言だな」
 イザドラの軽口、ではない。モーゼズの優しい声色、にも合致しない。
 扉を開けて入ってきたのは、大学の腕章を付けた男子学生だった。耳に届くほどの短さに切り揃えられた金髪と、高い身長、深い藍色の大きな瞳が、何事にも物怖じすることのなさそうな、厳格な佇まいを形成している。
 イザドラは初対面だが、アルフレッドは違った。男子学生の真正面に立つと、好戦的な視線を彼にぶつける。
「これは、これは。ユロック大学の現学生会長、ハーバート・アイザックスじゃないか。このような油臭い研究室に、一体なんのご用かな」
「相変わらず態度と自尊心ばかり無意味に肥大化させているようだな、貴様は。まあ、むしろそうであってもらわなければならんのだが」
 ハーバート、と呼ばれる男子学生とアルフレッドが顔見知りだと知ったイザドラは、ふたりから距離を取ると、椅子の上で腕と足を組み、観察の態勢に入る。
「用件はひとつ、討論大会の最終確認だ。明日及び明後日、中庭に特設される大講堂にて十三時より開始する。所要時間は二時間を予定。しかし当然ながら、討論の展開次第により、終了時刻は前後するだろう」
 ハーバートの口から、大会概要が語られた。
 討論大会は二日間に渡って開催される。基本構造は事実上の勝ち抜き式で、一日目に個人同士で予選を行い、二日目、残った者たちの中でふたつの派閥を作り、集団戦による最終討論、という流れになっている。ユロック大学文化祭においては、毎年の恒例にして一大行事ではあるものの、その実、参加人数はさほど多くない。
 また大会には、ハーバート自身も参入するという。
「一日目の予選であっけなく敗退、などという無様な結果に終わらないことだ」
「もちろんさ」
「大丈夫ですよ。アルフ、口だけは達者だから」
「頼むから君は黙っていてくれ、イザドラ」
 小さく舌を出して応えるイザドラを尻目に、アルフレッドは咳払いで場の空気を正そうとする。
「その最終討論の議題だが、すでに決定されているのか」
「それなんだが。実は、まだだ」
「おいおい、大丈夫か。明後日だぞ」
「分かっている。まあ、聞け」
 ハーバートは研究室の扉を隙間なく閉めると、辺りを警戒しつつ声を潜めて話し始める。
「会議は先ほど終わった。正確には、ほぼ決定してはいるが、ある事情により確定しかねている」
「ある事情、だと」
「ああ。学生会本部に脅迫状が届いた。『討論大会を中止しろ』と」
 脅迫状は一通の封筒に入れられており、今朝、学生会室の机の上に置かれているのを役員のひとりが発見した。記名はなく、脅迫者の正体と目的は不明で、事を荒立てるべきではないというハーバート学生会長の意思により、脅迫状の存在は他学生にはもちろん、教職員にも伏せられている。
「えっと、ハーバートさん。差し出がましいかもしれないけどさ、さすがに先生には言っておいたほうがいいんじゃないかなって、私は思うよ。どっかの科の悪戯でした、で済めばいいし、どうせそうなるとは分かってるけど。でも、でもね、もしその脅迫状が本物だとしたら、かなりの大問題になるし」
「脅迫状が本物とは、つまりどういうことだ」
「本気で討論大会をやめさせようとしている人間が、学内もしくは学外に存在するということだろう。なるほど、事情は理解した。しかしな、ハーバート。大会は予定通りの日時に、予定通りの議題で開催するべきだ」
「貴様の彼女がたった今、大問題になるかもしれないと危惧したばかりだが」
「彼女じゃない、友人だ。大問題、ね。結構じゃないか。暴動だろうとなんだろうと起こさせておけよ」
「簡単に言ってくれるな。もし本当にそのような暴動のひとつでもあろうものなら、責任を問われるのは学生会なんだぞ。脅迫状の存在を知っていて隠していたという事実も、明かさざるを得なくなる」
「明かせばいいじゃないか。今すぐにでも、職員室に行って」
「そんな真似をしてみろ。教師たちは口を揃えて『討論大会は中止だ』と言うに決まっている。ただの悪戯と片付けるのは簡単だが、大学で問題が発生した時に責任を問われるのは教師たちも変わらない。学生と教職員のどちらかが、あるいは両方が、何かしらの損害を被ることは必至となる」
「ならば、このまま伏せていればいい」
「貴様、真面目に取り合わないつもりかっ」
「僕はいつだって大真面目さ。むしろ不真面目なのは君のほうだ。さっきから聞いていれば、君の言っていることはおかしい。君は討論大会の最終確認をするためにこの研究室へ来た。つまり、討論大会の開催は確定事項。それなのに、どこの誰が仕組んだのかも分からない脅迫状ひとつで大会開催の可否をこうして僕に問うている。繰り返しになるが、大会を開くつもりなら無視すればいい、気になるなら教職員に報告すればいい。ただそれだけだ。どうしてわざわざ僕に聞くのかが分からない。君ほどの人物なら、たとえひとりででも決断を下せるだろうに」
 アルフレッドがものを語ることにより、研究室は静かに熱気を帯びていく。
 ハーバートは、これまでよりもさらに険しい顔つきになり、慎重に言葉を選んで発言を続ける。
「貴様は、《夜鷹》の事件を知っているか」
 アルフレッドの余裕に満ちていた顔が強張る。
「突然何を言い出すんだ」
「質問に答えてもらおう」
「知っているさ。北部少女親族連続殺害事件、その犯行を反鉄道犯罪組織、通称《夜鷹》が手引きしていたと聞いている」
「その通りだ。では仮にその《夜鷹》が脅迫者の正体だったとしたら、どうなるか」
 イザドラが指を打ち鳴らした。
「討論大会の内容や、討論によって導き出された結論が、彼らにとって都合の悪いものになるとすれば」
「この脅迫行為の意図も浮かび上がってくるというわけだ」
「仮定に仮定を重ねるか。ならば僕も憶測を述べよう。はっきり聞くが、今年の討論大会、最終討論の議題はやはり、北部渓谷機関車転落事故に関連しているのか」
「答えるまでもない。ここで隠し通したところで無意味だからな」
「なるほどね。ユロック大学討論大会の顛末は新聞やラジオで拡散される。彼らとしては、たとえ学生が主体の学校行事から湧き出たものだったとしても、不都合な情報をばら撒かれるのは避けたいといったところか」
「不都合な情報って、何」
「そうだな。たとえば、あの事故は実は事故ではなく《夜鷹》によって仕組まれたものだった、とか」
「また始まった」
 半ば呆れ気味のイザドラを、アルフレッドは無視する。
「あえて前言させてもらうと、彼らと北の大事故には少なくともなんらかの繋がりがあると、明日の大会で主張するつもりだ」
「そう、俺は貴様がそういうつもりでいるのであれば忠告をしなくてはいけないと思ってここへ来たのだ。脅迫状の有無に関係なく、討論大会で問題を起こす可能性が最も高い、貴様にな」
「それはわざわざありがとう。だが僕は主張内容を曲げるつもりはないよ。言わずとも君なら分かっているだろうけど」
「学生会長としての注意喚起だ。貴様が討論をかき回してくれることを期待していないと言ったら嘘になるが、くれぐれも、脅迫者の存在を忘れるなよ」
 ハーバートは、文化祭も討論大会も予定通り開催されると念押ししてから、研究室を去った。窓の外はすっかり夜の黒一色となっていて、アルフレッドとイザドラも資料をまとめて帰途についた。
「忠告やら注意喚起やら、よくもまあ、あそこまで。まったく、教師よりも教師らしいじゃないか」
「確かにね。でも、そのためにわざわざ直接出向いてくれるあたり、アルフのことを嫌ってるってわけではないのかも」
「好かれていないのは確かだよ」
 アルフレッドとハーバートはユロック大学に籍を置くよりもずっと前からの仲で、試験の成績を初めとして、さまざまな分野、場面において競う仲なのだという。
「完璧主義者って感じの人だよね。いついかなる時においても慎重を期すというか。だからこそ学生会長にまで登りつめたんだろうけど」
「責任感も人一倍強いからな、あいつは。でも僕だって、今年の文化祭を何事もなく終えられるとは思っていないよ」
「何かが、起こるっていうの」
「さて。どうだろうね」
 学生ではない者が校舎の陰に身を潜めていることに気づかないまま、ふたりは門をくぐって学外へと出た。霧は深く、人間が姿をくらますには都合の良い夜だった。



「おおっ、さっき始まったばかりなのに、もう人がこんなにいるのか。レイ、はぐれるんじゃないぞ」
「刑事さんこそ、勝手にどこかへ行かないでくださいよ」
 翌日、ユロック大学文化祭の一日目は土曜日、快晴の下で開催された。開場と同時に男女問わず多くの入場者が押し寄せて、三十分も経たないうちに大学の敷地内は人で埋め尽くされた。レックスはレイを連れて朝から入場し、模擬店で売られている食べ物を食べたり、校舎内各部屋の展示物を見て回るなどして過ごした。レックスは出かける前エルシーも改めて誘っていたが、エルシーは「行けたら行く」と返して雑貨店の仕事に行ってしまい、結局ふたりだけで訪れていた。
 機関車の歴史と匂いに囲まれた、機関車と共にある学校の中を歩くふたりは、展示や何かを見て、すごい、面白いと単純な感想を述べたりはしたが、それ以上の話を進んでしようとはしなかった。話したくないというわけではなく、それよりも今はこの文化祭を楽しみたいと、ふたりは思っていた。どちらとも初めは、大学生たちひとりひとりが作り上げる文化祭の高揚感と全能感に辟易しかけたが、一度その輪の内に入ってしまうと、だんだんと自分たち自身も気持ちが高ぶってくるのを感じていた。
 出し物を楽しんだ後、ふたりは受付役の学生に教えてもらい、アルフレッドとイザドラがいる鉄道工学第三研究室へ足を運んだ。
「こんにちは。イザドラさんとアルフレッドさんは、いますか」
「レイ君。来てくれたんだ」
 ふたりの入室に気づいたのはイザドラだけだった。アルフレッドは椅子に腰かけ、手元の分厚い資料に目を落としたまま、まるで彫像のように静止している。
「ごめんね。今、本人曰く最後の追いこみとやらに取り組んでるみたい。あの様子じゃ話しかけても反応ないよ、きっと」
「最後の追いこみというのはやはり、討論大会のですか」
「うん。あの、ところでそちらは」
「僕の保護者です」
「ほ、保護者って。お父さんって言えばいいのに。やっぱりレイ君もアルフに負けじと面白いなあ」
 互いに初対面のレックスとイザドラは、自己紹介を済ませた。レックスは先日の食料品店でモーゼズに取った対応と同じく、父親であることを肯定も否定もしない手法で難を逃れた。
「レックスさんって、鉄道の安全を守る課に所属されているんですね。このユロック大学の卒業生にもたくさんいますよ」
「ああ、知ってます。国の警察官の三割ぐらいは、そうじゃなかったかな」
「中央だけじゃなくて、南北含めてもそんなに高いんですね、この学校の出身率」
「そうそう。それだけここがすごいところってことだね」
「もしかしてレックスさんも、私たちの先輩だったりして」
「え。あ、いや」
 レックスは困惑したように言いよどむが、今度は無理にごまかす必要もなかった。
 アルフレッドが突然、音を立てて椅子から勢いよく立ち上がったのだ。レックスたち三人の視線を一気に集めても、アルフレッドは集中力を切らしていなかった。彼の放つ気迫に、レックスたちはなおも声をかけられずにいる。
「ない」
 アルフレッドはただ一言、そう言った。
 数秒の沈黙の後、しびれを切らしたイザドラが聞く。
「何が」
「資料」
「あるじゃない。目の前に」
「違う」
 きっぱりと否定され、イザドラは不快そうにそっぽを向いてしまう。それでもアルフレッドは続けた。
「原稿の一部がなくなっている。確かだ」
「その一部とやらは、重要な一部なのか」
 受け答え役を引き継いだレックスの問いにより、ようやくアルフレッドはふたりの来客者の存在に気づいた。まずレイを見つけて笑顔になりかけて、視線を持ち上げていくとレックスもいると知り、笑顔は作りかけのまま引っこめられる。
「ど、どうも」
 先ほどの気迫はどこへやら、アルフレッドの挨拶はひどく小さい。
「また会ったな。そう怖い顔をしないでくれ、今日は非番だよ。レイの保護者として、純粋にこの文化祭を楽しみに来ただけだから。モーゼズさんに誘われてね。入場整理券までもらっちまったから、来ないわけにもいかないだろ」
 モーゼズという名を聞いて、アルフレッドはより平静になりつつあった。
「そう、ですか。お休みの日なのに、わざわざありがとうございます」
「なんだ、らしくないな。俺にいろいろ聞きたいことがあるんじゃないのか」
「ありますけど、聞いても答えてはいただけないでしょう」
「分かんないぞ。今の俺は楽しさで浮かれてるからな。もしかすると、ぽろっとこぼしちゃうかも」
 アルフレッドが警察の捜査状況に興味を持っているように、レックスもまた、アルフレッドから何か新たな情報を引き出せないかと思っていた。そのためにも、気まずい関係のままでいるよりかは、言葉を交わして打ち解けておいたほうが良いと考え、警戒されるのをある程度は覚悟した上で、積極的に話しかけた。
「ところで、さっきの続き。原稿っていうのは、なんのことだ」
「討論大会のために、昨日、用意していた文書です。僕も、出場しますので」
「おお。もしかしてとは思っていたが、やっぱり出るんだな。頑張れよと言ってやりたいところだけど」
「はい。僕も、頑張りますと言いたいところなのですが」
「アルフレッドさんがあんな大声を張り上げるってことは、原稿の中でも特に重要な部分がなくなっているみたいですね」
 レイが話に入り、それとなく存在を主張すると、アルフレッドはだんだんと調子を取り戻していく。
「君は常に理解が早くて助かるよ。紛失したところで、原稿の内容はすべて頭の中に入っているから、実害はないのだけど。今もただ再確認をしていただけだし」
「だったら大声出す必要もないじゃない」
「イザドラもレイ君に少しは学んだらどうなんだ。原稿が見られなくなったことが問題じゃない、原稿の一部が研究室からなくなったこと自体が問題なんだ」
「何よ。盗まれたとでも言い出すつもりなの」
「可能性は捨てきれない。昨日の脅迫状の一件もあるからな」
「単にあんたが失くしただけだったりして」
「再三確認した上で言っているに決まっているだろう。間違いなく原稿の一部は、この鉄道工学第三研究室から消失したんだ」
 隠す理由もないと言い添えて、アルフレッドはレックスとレイに脅迫者の存在を疑うに至る経緯を話した。また、討論大会の議題が北部渓谷機関車転落事故に関連していることと、紛失した原稿にもアルフレッドが事故を独自に調査した結果が記述されていることも明かした。
 レックスの態度が一変し、警察官の顔になる。
「脅迫状のことは、学校の先生には届け出たのか」
「いいえ。大会をやめさせたくないという学生会長の意向により、教職員には伏せられています。無論、警察にも。ですがもし何かが起こったとしても、責任を取るでしょう。あいつはそういう男です」
「そうか。それぐらい、討論大会はユロック大学にとって大切な行事なんだな」
「怒らないんですね」
「君に怒っても仕方がないよ。その脅迫状には、誰かに危害を加えるとかいった、事件性のある文章は書かれていなかったんだろ。俺が言うのもなんだけど、『討論大会を中止しろ』の一言だけじゃ、警察は動いてくれないと思うし。それよりも問題は、なくなったアルフレッド君の原稿の一部が、今どこにあるのか」
「仰る通りです。すでに誰かの手に渡っているでしょうが、一応、今から学内を探してみます」
「じゃあ、僕も一緒に」
 手伝うと名乗り出たレイを、アルフレッドは掌を広げて制する。
「レイ君はレックスさんと一緒に文化祭を楽しんでくれ。今しか見られない文献なんかも公開されているし、すべてを読むのにはいくら時間があっても足りないはずだよ」
「あたしには手伝えというわけ」
「イザドラもレックスさんたちと、もしくは友人と出店を回ってきなよ。大事な原稿を出しっぱなしにしておいた僕の自業自得なんだし、誰かに手伝わせるわけにはいかない」
「いや、手伝う。私も消えた原稿の行方が気になるし、言ったでしょ、私はあなたを観察するのが好きなの」
「や、やめてくれよその話は」
 アルフレッドの男子学生らしい反応を目の当たりにして、レックスは苦笑し、レイは聞こえていないふりをした。
 レックスたちと別れた後、アルフレッドはイザドラを連れて、学生と入場客への聞きこみや、時にはごみ箱を漁るなどして校内を探し回った。しかし大量の展示資料であふれ返るユロック大学でたった数枚の原稿を見つけ出すのは、干し草の中から針を探すようなもので、文化祭の一日目が終了する時間が近づいても、消えた原稿がアルフレッドの手元に戻ることはなかった。
「初めから、期待はしていなかったけど。ただの悪戯でないことを確かめることができたから満足だ」
「ハーバートさんにも報告しておこうか」
「そうだな。面倒事は予選が始まるまでに済ませるとしよう」
 学生会室を目指して、ふたりは校舎を歩いた。昼時を過ぎて、人の賑わいは落ち着いてきている。学外の人間とすれ違う回数も減り、イザドラは気後れすることなくアルフレッドに話しかける。
「原稿っていうのは、やっぱり明日の最終討論で使うつもりのものだったんだよね」
「それ以外の何がある」
「どんな内容なの。特に、消えたっていう箇所は」
「昨日、言わなかったかい。北の大事故と《夜鷹》の関係について。詳しくは明日に発表するが、僕なりの調査結果と考察を大衆の耳に届けるべく、披露するつもりだよ」
「そっか。本気、なんだね」
「ふざけてこんなことを論じるわけにはいかないからね。この僕もさすがに緊張するだろうな。いや、案外しないかもしれないが」
 イザドラは歩みを止めず、窓の外、眼下に広がる中庭を眺めながらつぶやいた。
「アルフなら大丈夫だよ。頑張って」
「ああ。ありがとう」
 いつになく寂しげな彼女の声色に、アルフレッドはたじろいだ。何も気の利いた言葉を返せないでいるうちに学生会室へ着いてしまい、彼女の真意を聞くには至らなかった。
 学生会室にはハーバート以外に文化祭の実行委員が何名かいたため、ハーバートだけを別の場所に呼び出して原稿消失の件を伝えた。ハーバートは眉ひとつ動かさず、
「そうか。分かった」
 と答えた。
「一緒に探してくれだなんて頼むつもりはないよ。ただ、僕も君へ忠告しておきたいと思ってね。何かが起きると断言はできないが、起こってもおかしくはないと」
「余裕だな。もうすぐ予選だぞ。俺に忠告などしている暇があったら、心積もりのひとつでもしておくことだ」
「今日に関しては、そんなものは不要さ。勝つからね」
 アルフレッドの言葉は、現実のものとなった。
 アルフレッドは討論大会個人戦において、巧みな話術と他者の到底敵わぬ着眼で相手を翻弄し、少しでも隙を見せれば徹底的な反証によって叩きのめした。結果、判定者たちの過半数から支持を集め、宣言通り最終討論への参加権を勝ち取った。
 一日目、すべての討論が終了した後、アルフレッドと同じく勝ち進み最終討論参加者のひとりとなったハーバートが、大講堂の特設演台の前に立った。
「諸君。本日は個人同士の闘いながら、まさに手に汗握る見事な激論であった。先輩方が作り上げてきた伝統への敬意と畏怖は、今後も諸君らから決して潰えることはないだろうと信じている」
 ものものしい導入もそこそこに、ハーバートは手早く本題に移る。
「ではここで、明日開かれる最終討論の議題を発表させていただく」
 大講堂に、厳粛な沈黙が降りる。
 観衆を見回すハーバートの姿は、若年の政治家のようと表現しても違和感がない。
「かつて、我が国を未曾有の悲劇が襲った。北部渓谷に転落したイーグルの機関車。皆の記憶にも未だ鮮明なまま、刻みこまれていることと思う。機関車と共に生きる国において、最も恐れるべきことが起きたのだ。ユロック大学に身を置く人間としても、この件を目前にいつまでも素知らぬ振りをしているわけにはいかない」
 ざわめきが波のように広がっていく。その中でモーゼズは、普段と変わらない穏やかな面持ちでハーバートの演説を見届けている。
「あの事故は、何がどうして起きたのか。皆、一度は考えたことがあるだろう。捜査当局が口を閉ざし続けているという不可解なこの状況では、尊い犠牲を払った国民たちが懐疑的思考に走るのも無理はないと言えよう。すでに各地で有志者による示威運動、一部では暴動に近い騒ぎも確認されている。この負の連鎖を、今こそ我らが手で断ち切ろうではないか」
 力強く言い放った直後、ハーバートは演台の上に置かれた封書から紙を一枚だけ取り出すと、そこに書かれている内容を読み上げた。
「【北部渓谷機関車転落事故の真相】。これが明日の討論大会、最終討論における議題である」
 ざわめきの中で、さらにどよめきが巻き起こる。
「どのような基準で二勢力を分かつかどうかは参加者諸賢の自由とする。舞台は本日と同じく本大講堂、十三時より開場となる。明くる日、我が国を覆う巨大な闇へ一条の光を投げ打つのだ」
 ハーバートは封書を手に演台から降りる。
 観衆はどよめきを超えて、騒然となった。



「勝負に出たな、ハーバート」
 夕刻、橙の光が降りる大講堂内。ユロック大学文化祭の一日目が終了したことを告げる校内放送が流れ、入場客の数が目に見えて減り、学生たちが片付けと明日の準備に励む中、アルフレッドは神妙な面持ちでそう呟いた。近くにはイザドラと、なかなか衝撃から立ち直れないでいるレックスとレイもいる。
 次に声を上げたのはイザドラだった。
「一体、何考えてるんだろ。ただでさえ水面下でいろいろ起こってるっていうのに、あれじゃ事件を誘発するようなものだよ」
「参ったな。もし何か起こったら、俺が動かないといけないわけか。課長に休日手当を申請しないとな」
 冗談めかしてレックスが言うが、誰も笑わない。いつも率先して明るく振る舞っていたイザドラも、この時は不安げにうつむいていた。そんな彼女を助けるように、アルフレッドがレックスに質問を投げる。
「解き明かせると思いますか。レックスさんは」
 何を、などと聞き返すまでもない。レックスは答える。
「はっきり言わせてもらうが、難しいだろうな。学生に暴けるのなら警察がとっくに暴いて、国民に公表しているさ」
「意図的に公表を控えているということは」
「隠してなんの意味があるんだよ。これ以上国民の信頼を失うわけにはいかないんだし、少しでも新しい情報が入ればすぐにでも発表するだろう。それをしていないということは、新しい情報が何もないということ、つまり君たちは、これまでに明かされている事実だけを使って討論しなくちゃいけないってことだ。いくらみんなの知識を総動員したところで、何がどうなるとも思えないというのが、俺の正直な意見だよ」
 ただでさえ笑顔とは遠いレイの表情から、明るさが瞬時に失われる。そのことにアルフレッドは気づかない。
「裏を返せば、新しい情報さえあれば何かが変わると」
「それは、まあ、そうかもしれないが」
「分かりました。研究室に戻りましょう。ご覧頂きたいものがあります」
 一同は、アルフレッドの後に続いて再び鉄道工学第三研究室へ向かった。
「討論大会に使用する原稿の一部がなくなってしまった件ですが、結局のところ校内中を探しても見つかりませんでした。原稿は」
「『原稿は』って、どういうことよ」
「そう慌てるな、イザドラ。実は、中庭の隅にある廃棄物置き場を調べている時に、大変興味深いものを見つけたんだ」
 アルフレッドは懐から、まるで刑事事件の証拠品のように透明な袋に入れた状態で、それを一同の前に取り出して見せた。
 それは、赤錆による腐敗が進行した棒状の金属だった。片方の先端に特徴的な突起があり、認識票のようなものが紐でくくりつけられている。認識票は鉄の棒と同じくひどく錆びており、機関車と鷲を象った国章と、年号、その下に数行の文章が印字されている。文章に関しては、なんと書かれているか、すぐに判読することはできそうにない。
「何よこの鉄屑は。こんなのが新しい情報って言われても」
 イザドラが消極的な反応を示す一方で、レックスとレイは目の色を変えていた。
「おい、これって」
「はい。おそらく間違いないかと」
「レイ君も知っているようだね。そう、これはただの鉄屑ではない。北部鉄道の開通に際して、実際に枕木に打ちこまれた犬釘だ。認識票の製造年号を見る限りでも明らかなようにね」
 名称を聞いて、イザドラも合点がいったようだった。
「確かその開通式って、北部渓谷で開かれたんだよね。そこの地面に打たれた釘が、どうしてユロック大学のごみ捨て場なんかにあったの」
「さあ。それは、まだ分からない」
「大体、それが捨ててあったからって何。確かにおかしいと言えばおかしいよ。でも私には、何がどうなるとも思えないんだけど」
「それに関しても、これから検討する」
「これから、って」
「これからだ。使い方によっては、明日の討論における切り札となる」
 自信に満ちた態度で、アルフレッドは断言する。
「ちょ、ちょっと待って。もしこれが本当に北の大事故に関係のあるものだったとしたら、アルフが持っているわけにはいかないでしょう。警察に、レックスさんに渡さなきゃ」
「もちろんそのつもりだよ。だがどんな証拠や証言も、その真偽を検証しなければ事実の証明には役立たない。警察への提出は、調査とその後の検討、明日の最終討論でこの犬釘が歴とした証拠品であることを立証してからとなる。それまでは君の言う通り、ただの鉄屑でしかない。ただの鉄屑でしかないものを警察にはいどうぞと渡すわけにはいかないよ。そうですよね、レックスさん」
「そ、そうだな、うん」
「切り札を用意しなければならないほど、不利なのですか。アルフレッドさんは」
 答えを返しあぐねるレックスを助けるかのようなレイの油断のない指摘は、むしろアルフレッドをますます調子づかせる。
「言わば僕は、国家すら暴くことのできていない真実に挑もうとしているわけだからね。もしかすると気づかないまま、すでに窮地に陥ってすらいるのかもしれない」
「私はとても窮地に陥ってる人間の態度と発言とは思えないんだけど」
「そうかな。こう見えて結構、緊張しているよ」
「本当に緊張している人は自分でよどみなく『緊張している』なんて言えないから」
「そうかもね。でも僕は逃げないよ。たとえ、どんな困難が待ち構えていようと」
 イザドラが言い返しのアルフレッドは犬釘を手に、「やることが山のようにある」と言って、レックスたちを残して研究室から飛び出していった。ユロック大学文化祭の一日目は幕を閉じ、陽はすでに傾きかけていた。



 アルフレッドが何かを掴めたのか、何をどこまで掴んだのか、誰も何ひとつとして知らないまま、文化祭は二日目を迎え、討論大会最終討論の開始時刻間際となった。
「レイはどう思う」
 昨日とは比較にならないほどの人数でごった返す大講堂の観衆席にて、レックスが問いかける。討論大会の本番ということもあり、講堂全体の緊張感が高まりつつあったため、喧騒はさほど大きくはならない。
「どう思う、とは」
「アルフレッドがごみ捨て場で見つけたっていう、犬釘だよ。率直に、あれをお前はどう考える」
「率直に言うなら、怪しいです」
「だよな」
 ふたりはそれとなく周辺を警戒しながら、密着しない程度に身を寄せ合って言葉を交わす。
「普通に考えて、歴史的記念物となりうるものが廃棄され、かつそれが放置されているなんてことはありえません。町の屑かごにならまだしも、ユロック大学のごみ捨て場であれば、なおさらです」
「だが、そのありえないことが実際にあったわけだ。アルフレッドが証拠を捏造するとは思えない。大会での勝利にそれほど執着しているようにも見えなかったしな。事実を調べる時間はなかっただろうが、それでも論理はきっちり組み立ててきているはずだ。あの犬釘は誰がどうしてどのように手に入れて、最終的に何を目的としてあんなところに捨て置いたのか」
「でも、アルフレッドさんは今回の討論大会で〈落日急行〉の真相を明らかにしようとしているんですよね。釘一本で、そんなことができるんでしょうか」
「さあ。それは彼の腕の見せ所ってやつじゃないか」
 ところで、とレックスは話題転換する。
「お前、今〈落日急行〉と言ったよな。どこでその言葉を知ったんだ」
 レイはしまった、という顔を作り、やがて白状する。
「アルフレッドさんから教えてもらいました。警察や報道の関係者同士で使われる、北の大事故を指す隠語だそうです」
「そうじゃないかと思ってたよ。アルフレッド自身は、どうやって知ったのかを聞いてるか」
「聞いていません。イザドラさんがすかさず問い詰めていましたが、答えるのを渋っていたと記憶しています」
「そうか。一体どこから仕入れたんだろう。おそらく協力者がいるんだろうが、誰だろうな。新聞記者か、探偵か、それとも警察か。俺の知ってる人間じゃないことを祈るよ」
「アルフレッドさんの行動力があれば、協力者がいなくても独力で調べられそうな気もしますが」
「それはさすがに見くびりすぎだぜ。関係者の間でしか通じないから隠語っていうんだぞ。まったく、入手先の明かせない情報を安易に言いふらすとは感心しないな。そういうところがなんというか、しっかりしているようで、実はそうでもないのかな」
「アルフレッドさんは、僕を信頼してくれているみたいなので。だから教えてもらったんだと思います。誰彼構わず言いふらしているわけではないです」
「当然だ。名称ひとつで大げさだと言われるかもしれんが、レイもなるべく今の言葉は使わないようにしろよ。悪いやつに目をつけられる原因になるし、それに」
「それに、なんですか」
 レックスはためらいがちに、苦笑しながら答える。
「俺、嫌いなんだ。その言葉、っていうか、呼び方」
「そう、ですか」
「それだけかよって言いたげな反応だな。ああそうさ、ただそれだけの理由だとも。だけどさ、レイなら俺の気持ち、分かってくれるかなって、思うんだ」
 レイはわずかの間、想像する。
 落日という言葉には、陽が沈むというそのままの意味だけでなく、物事の衰退も暗にこめられているとされる。衰退の対象は、この国そのものだ。あらゆる技術を注いで創り上げた機関車という近代文明の象徴が、人命というかけがえのないものを死の運命に引き入れ、その後も国に永く影を落とし続ける。
 それは、絶望以外の何物でもない。
 たとえ残された者たちが再起し、この影をくぐり抜けたとしても、先には深淵のごときさらなる巨影が待ち受けている。
 レイはその事実を知らない。
 だが知らなくても、「落日」という表現の行きすぎた美しさには、人並みに違和感を覚えることができる。
「分かりました。もう二度と使いません」
「大丈夫か。二度と、なんて言い切っちまって」
「言い切ります。刑事さんを、嫌な気持ちにさせたくないから」
「へへ。ありがとよ」
 レックスは照れくさそうに頬を掻いた。
「さて、そろそろ時間だな。ユロック大学文化祭の集大成、じっくりと見せてもらおうじゃないか」
 レックスの言葉に応えるように、討論大会の参加者たちが大講堂に現れた。観衆席はにわかに静まり、幕の上がる時を待ちわびる。
 大講堂の特設討論場は、昨日ハーバートが立っていた演台を一番奥にして、そのすぐ左右に配置される判定者席と、演台の手前側、中央を空けてふたつ設けられた参加者席とで構成される。その討論場の下方全体を囲むようにして、観衆席が存在する。レックスとレイは演台の真反対側、二派両者の横顔が見え、ひとりひとりの表情が読み取れる位置を確保していた。イザドラはできるだけアルフレッドの近く、より参加者席に近いところに座り、アルフレッドの背中を見守る。
 ハーバートを含めた参加者の一派と、真向かいにもう一派が登壇した。双方、真剣な面持ちで討論相手を見据える。机上には、分厚い資料の山ができている。
 少し後に、判定者たちも登壇する。
「モーゼズさんも判定役か。アルフレッドもますます身が引き締まるだろうな」
「そ、そうですね」
 モーゼズは穏やかだが隙のない笑みを浮かべて、お手並み拝見とでも言わんばかりにアルフレッドへ視線を送る。アルフレッドはモーゼズに気づくも、睨み返したりはせずに凛とした表情で胸を張り、動じてなどいないことを示した。
 アルフレッドを強く意識する者は、もうひとりいる。
「アルフレッドさんの反対側の派にいる、あの金髪の人。ハーバートさんですね」
「学生会長も討論に参加するんだな。見るからに頭の良さそうなやつだ」
「頭が良さそうではなく、実際に頭が良い人ですよ。アルフレッドさんが『相手にとって不足はない』と言っていた、と聞いています」
「ほう。アルフレッド側の反対ってことは、あの事故はただの事故でしかない、とでも主張するつもりなのか。そもそもこの二派が、どのような基準で分けられているのかもまだ知らないが」
「それについては、ハーバートさんから発表がなされるそうです。参加者と同時に討論大会の進行役も兼ねるらしいので」
 レイの説明通り、間もなくハーバートが中央演台前に立った。
「大変長らくお待たせした。これよりユロック大学文化祭二日目、本大会最終討論を執り行う。私は司会及び進行を務めるが、討論にも参加をさせて頂く。もちろん、これらを兼ねることによる討論そのものへの差し響きは皆無である。この演台に立つ時は、何があろうとも公正かつ中立の立場を堅守すると誓う」
 昨日と同じくやや格式ばった挨拶に、観衆は、野次のひとつも飛ばさずに聞き入っている。
「早速開始したいところだが、その前に最終討論の簡単な説明を。まず議題は、すでに発表した通り【北部渓谷機関車転落事故の真相】である。この討論が終了するまでに、我らは結論を導き出す。次に参加者について。先日行われた個人対個人の討論において、より建設的な議論を展開してくれた者たちに集結してもらっている。ではここで、この者たちはそれぞれどのような立場から論弁を振るうのか、明らかにしておきたい」
 ハーバートは演台に両手をつき、目線を下げる。
 その時、彼の眼前に垂れる前髪の奥に見え隠れする葛藤を、レイは遠くからでも見逃さなかった。
「転落事故は未だ謎が多く、何が分かっていて、何が分かっていないのか、それすらも曖昧である。誰が事故を起こしたのか、なんの因果で事故は起きたのか。この疑問から得られた意見を集めていくと、ふたつの勢力に大別できるようだ。事故はその名の通り、また広く報じられている通り、不幸な事故であったと主張する者たち。対するのは、機関車の転落は何者かによる陰謀である、つまり事故ではなく事件であったと主張する者たちだ」
 息遣いひとつ響かなかった大講堂に、困惑が生じる。
「何故このような主張をするに至ったか、経緯も含め、すべては参加者の口から語られるだろう。最後まで、傾聴を願いたい」
 ハーバートは討論参加者席のうち、レックスたちから見て右側へと戻っていった。そこはハーバート自身が「事故と主張する派」と示した立ち位置だった。
 アルフレッドはその反対側、すなわち「事件と主張する派」に、たったひとりで属する。
「事故か事件か、ねえ」
 レックスが複雑そうに顔をしかめる。レイはそこへ、すかさず切りこんだ。
「刑事さんは、どちらだと考えているんですか」
「どちらって。あれは、事故だよ。警察の公式見解の通りだ」
「僕がお伝えしたことは、憶えていますか」
「やめろよ。忘れるわけないだろ」
 レックスは、本当に、片時も忘れはしなかった。
 機関車強奪事件の捕らわれ損ないと闘った日に聞かされた、やっとの思いで打ち明けたであろう、レイの告白。胸の中にいつまでも残っているが、それが真実なのか、そうでないのか、見極めるまでには至っていない。
 その苦悩や葛藤を何もかも見透かすかのような、暗黒の瞳を持つ少年のことも。
 レックスは少年が何者なのかを知らない。モリー・アンダーソンが何かを知っているかもしれなかったが、彼女の取り調べにレックスは関与していなかった。計画に少年が加担していたこと、複数の事件現場に居合わせていたことは、モリーが認めているという。おそらくそれ以上の確かな情報は彼女からは得られていないだろうと、レックスは想像していた。
「調べなきゃいけないとは思ってるんだが、事が事だからな。なかなか手がつけられん」
「いえ、あの、すみません。調査を急かしたいのではなくて」
「俺が個人的にどう思っているかを聞きたいのか」
「はい」
「同じだよ、今のところは。確証を得るまでは、そうとしか言えない」
「そうですか。分かりました」
 レイは怒りも、悲しみもしなかった。そもそもレックスの答えを待つような素振りも見せなかった。自分で質問をしておきながら、その質問をなかったことにするかのように、討論に集中している。
「では、僕から発言させてもらおうかな」
 アルフレッドが挙手する。阻む者はいない。ハーバートが首肯で開始を促す。
「『事件と主張する派』のアルフレッドです。先ほど学生会長が言ってくれていますので、前置きは必要ありませんね。端的に申し上げます。あれは、事故などではない。何者かが故意に引き起こした、大量殺人事件です」
 大講堂は、にわかに騒がしくなる。
「端的にもほどがあるだろ、おい」
 レックスが呆れ気味にこぼした。
 ハーバートが「静粛に」と何度も呼びかけて、騒ぎはどうにか収まった。アルフレッドは討論を邪魔されて機嫌を損ねるどころか、口角を上げていた。
「突飛な発言で皆さんを混乱させてしまいましたね。どうかお許しを。ですが突飛ではあっても、なんの根拠もない出任せというわけではありません。僕がそのような考えに至ったいきさつを、これから説明します」
 手慣れた動きで、机上の紙の山から目的の資料を取り出す。
「きっかけは、ついこの間まで、いいえ、今もこの国を恐怖に陥れている《夜鷹》の存在です。直近では、北部出身の少女の親族ばかりが狙われ、そのほとんどが命を落としてしまうという連続襲撃事件が、皆さんの記憶にも新しいでしょう。事件の首謀者である主犯は逮捕されましたが、肝心の実行犯は未だ野放しのままです。彼らは主犯の依頼を受けて、殺人、傷害等、犯行を重ねていきました。表向きには」
「表向きには、とはどういう意味でしょうか」
 眼鏡をかけ、勝気な「事故と主張する派」の女子学生が質問した。しかし聞き返されることはアルフレッドの想定内だった。
「報道されている通り、被害者は全員、さる名家の血を引く者です。そのうち最初の犠牲となった少女の父親ですが、職業は画家、特に機関車のある風景画を数多く描く著名な人物でした。彼の著作品は没後なお、僕ら学生には到底手の届かない高額で取引されています。寡作ではありますが、少なくともそれを専業とできるほどの金銭が発生していたようです」
 アルフレッドが資料に目を落とすのはほんの一瞬で、後は対抗派の者たちにひとりひとり視線を向けていく。
「では、その金銭は主にどのような用途に使われていたか。そう、機関車です。もともとオズワルド・イーグル氏とその仲間が起業して開発を始めたというイーグルの機関車ですが、他を凌駕する圧倒的機動力と迫力ある造形に魅せられた複数の資産家たちが資金援助を買って出ました。やがて、現在の普及率までに成長していったといいます。彼はその支援者のひとりとしても名を馳せていたそうですね」
「興味深い話だが、本議題との関連性を明確にしてもらおうか。ここは自由研究の発表会ではないのだ」
 ハーバートが先を急かすが、アルフレッドは余裕を保っている。
「明確にするも何も、すでに明らかではありませんか。彼は機関車の開発に出資していた人物。イーグル氏の支援者、つまり機関車大国の繁栄に貢献した関係者のひとりです。反鉄道の理念を掲げる《夜鷹》が、最も忌み嫌う存在だ」
「しかし、その画家はあなたが先ほど言っていたように、事件の主犯が《夜鷹》に殺害を依頼したのではありませんでしたか」
「主犯は標的を自らの手を汚すことなく殺せる。《夜鷹》側にとっても、自分たちの理念に反する邪魔者を第三者からの殺人依頼という体で消すことができる。今となっては結果論ですが。双方の利害が一致したから依頼を受けたのだと、僕は考えています。対等な関係であったのかどうかは分かりませんが、ここで議論する話ではない。では、注視すべき点はどこでしょうか。主犯や、主犯の動機などではありません。《夜鷹》です」
「まさかお前、《夜鷹》があの事故も引き起こしたとでも言うつもりかっ」
「その通りです」
 観衆の動揺が声となって重なり、講堂内に轟いた。
 レイは、ごくりと唾を飲みこむ。
 アルフレッドの発言は、「事故と主張する派」全員の激しい反感を買う。観衆の一部からも野次が飛び、彼を見守り続けるイザドラの不安を高める。
「彼らがなんの目的であのような悲劇を生んだのか、僕の知ったことではありませんが、おそらく《夜鷹》は鉄道業を主とするこの国の在り方を変えようとしているのだと推察しています。あの日、機関車にはイーグル氏が乗っていた。我が国が鉄道大国として繁栄することを可能たらしめた者を、その繁栄の象徴たるものと共に、闇の底へと突き落とす。変革には申し分のない契機です」
「変革、だと」
「はい。その行為が倫理的に正しいか、正しくないかどうかはともかくとして、《夜鷹》は変革を求めているのだと思います」
「イーグル氏と共に機関車に乗っていた多数の民間人や、機関車への出資者と血縁関係にあるというだけで殺されたり、怪我を負わされた者たちは、あなたの言う変革の犠牲者に過ぎないという意味でしょうか」
「確かに彼らのやり方はあまりに粗暴、というよりも、ただ変革のためとするには不審の念を覚えざるを得ません。しかし、彼らが目的の為なら手段を選ばない組織ではないと、果たして断言ができるでしょうか。僕にはできません。どんな理由があるにせよ、彼らはただの人殺し集団です。同情の余地など、ない」
「そんな当然のことを偉そうに言われてもな」
 恰幅の良い「事故と主張する派」の男子学生がせせら笑うが、アルフレッドは相手にしない。
「当然、ですか。簡単に言いますが、その『当然』を本当は理解していない人間が、この国には少なからず存在しています。それこそが《夜鷹》なのです。そもそも依頼とはいえ殺人をいくつも犯すような者が、正常な思考を有しているはずがありません」
「そこまでだ」
 ハーバートが鋭く言い放ち、アルフレッドは絶え間なかった口の動きを止める。
 観衆は、ハーバートとアルフレッドがこの討論の場で主導権を握っていると察し始めており、ふたりの動向に注目が集まっていた。
「《夜鷹》の残忍さ、脅威に関しては、言われるまでもなく分かっている。ここで貴君に問いたいのは、彼らが機関車転落を計画し、実行したとする論理的証明だ。本当に突飛な発言でないのならば、我が派の者たちを納得させるような説明を求める」
「急かすね。分かりました、皆さんが望むのであれば」
 アルフレッドが証明に必要な資料を準備している最中、レックスは肘でレイを小突く。
「おい、大丈夫か」
「何がですか」
「何がって、つらくないのかって聞いてんだよ。お前にとって、聞いてて気分の良い話ではないだろ」
「そんなの、初めからでしたし、分かっていましたし、平気です」
「本当か。きつかったら退席しろよ。内容は後で俺が要約して教えてやるから」
「断固拒否します。誰の一言も聞き逃したくありません。それに」
「それに、なんだよ」
 レイはレックスから話しかけられている間も、討論の参加者たちから片時も目を離さない。
「やっと面白くなってきたところじゃないですか」



「初めに、こちらをご覧ください」
 準備を終えたアルフレッドは、透明な袋を取り出し、参加者や判定者、観衆にも見せるように少しの間、掲げた。
「なんだそれは」
「さて、なんでしょうか」
「ふざけているのか貴様は」
「とんでもない。この袋の中に入っているものが本日の討論に果たして意味をもたらしてくれるのか、僕にもまだ確かなことは言えないのですから」
「どういうことなんだよ」
「何か分からないものを、討論の材料として提示するのか」
「見たところ、古い鉄釘のようだけど。それが一体なんだというの」
「皆さん、お気持ちは分かりますが質問攻めはご遠慮ください」
 ひとつひとつの細かな動作や仕草までに注目されているにもかかわらず、アルフレッドは笑っている。引きつっているわけでもない、自身の考えを大勢の人間を相手に披露するというこの状況を、心から楽しんでいる笑顔だった。
「対抗派が見たまま仰ってくださいましたが、そう、これは釘です。正確には犬釘といいます。軌条と枕木を締結するために使われる、言わば鉄路の要とも呼べる存在ですね」
 アルフレッドはあえて一呼吸置くことで参加者を煽る。誰の反応もないが、満足したように小さく笑い声まで漏らした。
「この犬釘は、昨日、ユロック大学の中庭にある廃棄物置き場に捨てられているのを僕が発見しました。最初、僕はこれをただのごみだとしか思いませんでしたが、そう断定するには不可解な点が散見されました」
「待て。前提こそが不可解だ。そもそもどうして貴君は廃棄場にいたのか。あそこは本来許可なき立ち入りは禁じられている。何か探し物をしていたのか。あのごみ溜めの山の中を。物質の大きさや色味を見ても決して目立つとは言えまい、そんな一本の犬釘を発見できるほど綿密に、貴君は探し物をしていたということになるが。そこのところ、いかがだろうか」
 ハーバートはわざと話の途中に被せて遮り、アルフレッドを煽り返すが、アルフレッドは動じなかった。ハーバートも、これでアルフレッドの調子を崩せるとは思っていない。
「その質問は、例の件をここで公表しても問題ないと解釈してよろしいですか。あなたは知っているはずだ、僕が廃棄物置き場で何をしていたのかを」
「構わない。言え」
 ハーバートの許可が得られたので、アルフレッドは満を持して答える。
「今回の討論大会に向けて、関連資料と、話す内容を記述した原稿文を準備していました。今も僕の手元にこうしてかさばっている、これです。原稿は一昨日のうちに完成していました。ところが昨日の個人対個人の討論の前に、その原稿の一部がなくなっていることに気がつきました。単なる紛失とは考えていません。原稿は終始、工学第三研究室内で作成し、本日この大講堂に持ってくるまで、室外には一切持ち出していないので。なくなる日の前日も、すべて机上に置いたまま帰宅しています」
「帰る前、研究室は施錠していったのですか」
「はい、確かに。施錠したといっても、学内の人間であれば鍵を借りて出入りすることぐらい、誰でもできるので、誰にでも原稿を持ち出す機会はあったでしょうね。第三研究室に出入りすると考えられる人物は、教職員と僕、あとは僕の友人ぐらいですが、機会はあっても動機はありません」
「友人とは誰ですか」
「話の本筋から外れるので秘匿します。その友人が持ち出した可能性は限りなく零に近いでしょう。僕の個人的な文書なんて、友人にとって盗んだところでなんの意味もないのですから。ただ悪戯をして僕を困らせたかったからだとしても、わざわざ一部だけ取らずとも、あるもの全部を持っていくだろうし。検討するだけ時間を浪費するに等しい」
 アルフレッドが強引に押し切ったため、イザドラが討論の場に連れこまれるような事態は回避された。当の本人は「時間を浪費」の部分に過剰に反応し、腹立たしげに腕と足を両方組み替える。聞こえるように咳払いまで響かせるが、アルフレッドは気にも留めない。
「僕はなくなった原稿を探して、廃棄物置き場に入ったのです。別の場所も調べましたが、原稿はどこにもありませんでした。未だ、見つかっていません。僕は探すのをやめました。諦めたのではなく、おそらくこのまま探し続けても徒労にしかならないだろうという考えに至ったからです。誰かが持ち出した。ただの悪戯だと思わせないために、原稿は捨てられることなく今も犯人の手の中にあるのではないか、と。ではここで、発想を転換してみましょう。僕が作成した討論大会の原稿を奪う動機があると考えられるのは、どのような人物でしょうか」
「その失われた原稿に書かれているのは、具体的にどのような文章なんだ。いきなり動機と言われても、肝心の文章の内容が分からなければ想像のしようがない」
「どのような。ううむ。ここで明かしてしまうと本討論の興趣が削がれてしまいますからねえ。はてさて、どうしたものか」
「興趣って。あなた、どこまで人をもてあそぶつもりなのですかっ」
 どこまでも自分本位で討論を進めたいがために次から次へと繰り出されるアルフレッドの発言は、普段は冷静なはずの参加者たちを昂らせていった。今や個人的感情を表に出していないのは、彼らの中でハーバートのみとなっていた。
「あの、ちょっと。口を挟ませてもらうよ」
 状況を見かねたのか、判定者席のモーゼズが異議を唱える。物腰は柔らかく、参加者たちは大して動じることはない。
 ただひとり、アルフレッドを除いて。
「アルフレッド君は、ここへ討論をしに来たのか、それとも自分の意見をみんなに押しつけに来たのか。どちらかな」
「それは、もちろん討論を」
「聞かせてもらっていたけど、これは討論ではないと思うよ」
 物腰は柔らかいが、この日の声に優しさはなかった。
「確かに討論とは言葉と言葉の勝負、ある種の競技とも言えるだろう。相手の主張内容が正確さに欠けるのならばそれを指摘して、より良い議論にしていくのも時には必要だ。でも、相手の意見に耳を傾けて、自分自身の考えにも正確さを求めることだって、同じくらい大切なことだよね。君は、自分が話したいことを一方的に話しているだけで、対抗派の人たちの言葉をまともに聞こうとしていないみたいだ」
「そんなつもりはありませんでしたが。教授にはそのように見えた、というだけではないでしょうか」
「うん。だから言ったじゃない。討論ではない『と思う』って。あくまで私の所感でしかないから、君にこの場から去れだなんて言うつもりはないよ。ただ私は、感じたことを素直に発言してみただけ。何も、発言できるのは討論参加者だけ、なんて決まり事があるわけでもないし。むしろ二派の主張を客観的視点で捉えられる者の率直な意見こそ、議論を活性化させやすいのではないかな。ね、ハーバート君」
「仰る通りです、モーゼズ教授」
 躊躇なく賛同を示すハーバートだが、モーゼズにだけ特に好意的というわけではない。それ以上は持ち上げることもなく、モーゼズも素直に着席した。
「続けろ、アルフレッド」
 討論が開始されてから初めて、ハーバートはアルフレッドを名で呼んだ。その意図をアルフレッドは察する。察して、下唇をわずかに噛む。
「言われずとも。僕が討論大会へ向けて用意した原稿を盗む動機を持つ者、それはやはり《夜鷹》です。所詮学生が文化祭の催し物のために作った紙切れに過ぎない。しかし、何度も言うようですが事実、原稿は消失した。《夜鷹》が盗み出したのだとしたら、ただの紙切れにも重大な意味が生まれるというものです」
「重大な意味とはなんだ、と問うたところで簡単には答えてくれないのだろうな」
「ご多分に洩れず。ですが永遠に明かさないというわけでもありませんよ」
 アルフレッドは再び犬釘の入れられた袋に手を伸ばした。
「ここで登場するのが、先に提示したこの犬釘です。僕は昨日から今日にかけて調査を行い、ふたつの謎に対する答えに見当をつけるまでに至りました。ひとつは、犬釘が打たれていた場所。もうひとつは、ユロック大学の廃棄物置き場に犬釘を放置した人物の目的です」
「誰が放置したのかは分からないのか」
「《夜鷹》か、その協力者だと推測しています」
「またか。とりあえず《夜鷹》がやったと言っておけばいいと思っているな」
「ええ、思っています。彼らに遠慮する理由もありませんし」
 あまりにも当然のように言うので、参加者や観衆は唖然としてしまう。レックスはやれやれ、という風に首を左右に振った。
 モーゼズの顔だけが、わずかに険しくなった。
「具体的な人物名は明示できないが、その者がどこから犬釘を持ち出し、どのような意思をこめて廃棄場に置いたのかは明らかだというのか。なんともおかしな話だ」
「まあ、そういうことです。とりあえず、判明している事実を公表します」
 レイは、いつしか前のめりになっていた。
 アルフレッドがどうやってこの場を切り抜けるのか、レイにも、レックスにも、イザドラにも、ハーバートや、モーゼズにさえも、誰にも見当などつけられない。
 しかしアルフレッドならなんとかできるのではないか、そんな確証なき予感が、レイにはあった。
「地学部の同期生に協力してもらい、この釘に付着していた土の構成要素を調べました。すると、明らかにこの近辺の土壌とは異なる特徴を持つ成分が検出されたそうです。僕は土質分野に明るくないため詳細は割愛させていただきますが、発見された成分をもとに犬釘の出所に目星をつけることができました。推定された場所は、三か所。では最も単純に考えて、そのうちのひとつはどこでしょうか」
「無論、ここだ」
 地面を指さして、ハーバートが言った。
「正解です。犬釘は廃棄物置き場の土が剥き出しになっているところに、文字通り放置されていました。廃棄場に置かれていたのだから、そこの土が付いているのは当たり前ですね。さて問題は、残りの二か所とはどこか、です。勿体ぶっても仕方がありませんので、答えを言ってしまいます。二か所目は、北部渓谷周辺です」
「北部渓谷、って、まさか」
「ごく自然な連想をして頂ければ結構。犬釘に、北部渓谷とくれば」
「北部鉄道か」
 またしても、ハーバートが鋭く言い放つ。アルフレッドはひゅう、と口笛を鳴らした。
「ご名答。これは、北部鉄道の開通を記念して造られた特別な犬釘なのです」
「黄金ではないようだが」
「ええ。ですが認識票の年号と、当時、現地で撮影された写真資料からも判断するに、北部渓谷を通る鉄路の枕木に打ちこまれたことは間違いありません」
「そんなものが、どうしてここにあるんだ」
 興奮を隠しきれない男子学生が身を乗り出す。アルフレッドは参加者の興味を引いているのが嬉しいのか、にこやかな笑顔を作り応える。
「枕木から引き抜かれて、ここまで持ち出された。そうとしかお答えできません」
「どうせそれも《夜鷹》の仕業と思われるとか言うんだろ」
「良くお分かりで」
「けっ。で、最後の三か所目はどこなんだよ」
 アルフレッドの笑顔から、朗らかさが消える。
「よくぞ聞いてくれました。その最後の三か所目こそが、今回の討論における要点なのです」
「また勿体ぶるのか」
「いいえ、言います。そこはまず、国内の北部、中央部、南部のうち、中央部でした」
「このユロック大学も中央部だ。気候が違う北部と南部を比較するのならともかく、同じ中央でそこまで土質に差異が生じるとは思えんが」
「着眼点を変えてみてはいかがでしょう。同じ中央部で付着した土であるはずが、見る者が見れば明白であるほどに、それぞれ異なる成分が検出された。どのような理由が考えられるでしょうか」
「どのような、って言われてもなあ。犬釘と同じように、別の場所から持ってこられたとか」
「その可能性もありました。しかし今回はそうではありませんでした」
 顎に手を当てて思案していた女子学生が、何かに弾かれたように顔を上げ、小さく口を開く。
「もしかして、地下」
「地下だと」
「はい。私も地学というか、土質のことはほとんど分かりません。ただ、同じ地帯であっても、地表近くの土と地下深くの土とでは、性質に多少の違いが見られるのではないでしょうか」
「そうなのか、アルフレッド」
「ええ、ええ。そうです、そうですよ。さすが個人討論の勝者たちだ、頭の回転が速い」
 段階的に声量を上げていくことで、アルフレッドは喜びを表す。その感情の高ぶりは、観衆の中に少しの失笑をもたらした。レイは笑いが起こっている理由が分からず、周囲を見回した。視界に、モーゼズの姿が映る。
 ごく短い間、モーゼズがアルフレッドを睨みつけているのを、レイは見た。
 すぐにいつもの優しい笑みに戻ったため、レイは見間違いかと思ったが、そうではなかった。モーゼズは一瞬ではあるものの、明らかな敵意をアルフレッドに向けていた。
 狼狽するレイが気持ちを切り換えるのを待つことなく、アルフレッドは口を動かし続ける。
「この犬釘から検出された土の推定地は、次の三か所。一か所目はここ、ユロック大学の廃棄物置き場。二か所目は、北部渓谷周辺。三か所目が、国の中央部の地下深くのどこか、となります」
「その地下とは、どれぐらいの深さを指しているのか」
「はっきりとは分かりません。ただ僕は、この事実はあるひとつの可能性を示しているのではないかと仮説を立てました。まず明確にしておきたいのは、これら三か所の土が犬釘に付着した順番です」
「そんなの簡単だ。その犬釘が本物だとしたら、北部鉄道の開通を祝して、開通式で枕木に打ちつけられるために製造されたものなんだから、一番目は北部渓谷に決まっている」
「犬釘は昨日、アルフレッドによって廃棄物置き場にて発見され、今、こうしてここへ持ってこられている。三番目も言わずもがな、だ」
「迅速な解答に感謝いたします。一番目と三番目が明らかであるならば、おのずと二番目も決定されますね。こうして順番が明確になった時、次に想像すべきはもちろん、二番目の理由です。何故、地下の土が地上近くで打ちつけられた釘に付着しているのか。地上のどこかの土が偶然付いてしまったというなら、まだ納得の余地はあります。ですが、地下深くの土が偶然付いたりするでしょうか。答えは否です。偶然の一言では片付けられない理由が、そこには潜んでいると推測します」
 モーゼズはもう、それまでの穏やかで優しげな表情に戻っていて、討論を黙って見守っている。
 レイも素早く視線を討論の参加者たちに向け直し、努めて平静を装う。敵意に気づいたことを悟られてはならないと、本能が警告を発していたからだ。
 討論が犬釘と地下を結びつける理由を追い求める中、レイはモーゼズの睥睨の理由をひとり、推考せずにはいられない。
「では、その理由ですが。ここで再び、忌まわしき存在の名をこの場へ呼び戻すとしましょう。《夜鷹》が、機関車転落事故を引き起こしたという当初の主張に回帰します。皆さん、想像してみてください。機関車ひと繋ぎを谷底へ落とすなどという大規模な計画、ひとりやふたり程度では実行できるわけがありません。最低でも数十人、多くて数百人でしょうか、相応の人員が配置されていたことでしょう。そんな大勢の人間が行動していたにもかかわらず、誰にも見とがめられることなく計画は実行された。彼らの結束が固ければ秘密裏に動くことは可能だったかもしれませんが、それにしたって不自然ではありませんか」
 推考といっても、極めて単純な論理に終始する。
 彼の敵意が顕現したのは、アルフレッドが「事故と主張する派」の女子学生に「地下」という言葉を捻出させた時だった。それまでは一度口を挟むことはあっても、変わらない微笑で高みの見物をしていたはずの、彼の一瞬のそれは、自身が第三者ではないと明かすに等しい反応だった。
「前に、新聞記事の特集で読んだことがあります。《夜鷹》はただの犯罪組織ではない、と」
 先ほど地下という言葉を導いた女子学生が、呟くように発言する。
「ある特定の地域にだけ根差しているのではなく、この国の至る所に存在していて、普段はどこにでもいる普通の人間でしかない。一目見ただけで《夜鷹》だと判断できないのであれば、事故当時の周囲の人たちを責めるには酷なのではないでしょうか」
「いや、待て。アルフレッドが言いたいのはそういうことではない」
 彼女と同派であるはずのハーバートが、まるでアルフレッドを補助するかのように議論の流れを修正する。アルフレッドはそれを逆に余計だと感じたのか、面白くなさそうな顔をして、語調も和らげる。
「ええ、まあ、はい。僕が言いたかったのは彼らの移動手段に関してですね」
「機関車以外にあるか。地境を跨いでの大移動だぞ。人数分の車を連ねるわけにもいかんだろうし」
「谷底に転落すると分かっている機関車に乗るのですか。なんと命知らずな。落ちる直前に飛び降りたとでもいうのですか」
「計画実行当日になってから暢気に移動を始める馬鹿がいるかっ。誰がどいつとどう動いていたのか俺は知ったこっちゃないが、事前に計画を練ってあったんなら、それぞれの持ち場にあらかじめついておくのが妥当だろ。違うか」
 男子学生が机を乗り越えんとする勢いで激しく反論したが、アルフレッドはやはり動じない。
「なるほど。そういう方法もありますね」
「そういう方法もって、それしかないだろうが」
「問題はないでしょうね。行きは」
「行きは、って」
 男子学生の威勢が、急速に失われていく。
「お気づきのようだ。確かに事故発生当日あるいはその前日に運行する機関車で北部、中央部間を行き来することはできたでしょう。だが事故が起き、機関車は谷底へ落ちた。つまり、計画実行後から新たな車両が用意されるまでは移動手段が絶たれていたということになる。北部渓谷で自分の役目を終えた彼らは、その後どうしたのでしょうか。歩いて北部もしくは中央部へ渡ったのですか。機関車でさえ数時間かかる距離を。不可能と言い切りはできなくとも、現実的ではない。その場で逡巡していれば、事態を察知した警察が現場に到着した際に存在を認識され、初動捜査の時点で事件として扱われ、この場の全員が悩み苦しんでいる謎など、あっけなく解決されていたに違いない。《夜鷹》は《夜鷹》であると一目見ただけでは判別できないというのも分かります。しかし事故現場、それも人通りなど皆無なはずの北部渓谷に居残る人間など、怪しい以外の何物でもありません。警察でなくとも見かけたら、『こんなところで何をしているのですか』と一言尋ねるでしょう」
「北部渓谷周辺に、彼らの潜窟が存在するのではないだろうか」
「谷に潜窟とは。穴でも掘ったと仰いますか。あのような気候変動の激しい地域に拠点を構えるなど、組織として低級であるとしか思えないのですが」
「だったらてめえには分かるのかよっ。犯行を終えた《夜鷹》がどこに消えたのか」
「逆に尋ねます。ここまで提示しておいて、まだ分からないというのですか。僕の立てる仮説が。僕がこの犬釘を討論の材料として持ち出した理由が。僕が《夜鷹》の移動手段などという些末な事柄について、皆さんに疑問を投げかけた目的が」
「野郎っ、馬鹿にしやがって」
「ただの意見交換です。僕は、あなたがどうしてそこまで憤るのか理解不能なのですが。それもこの神聖なる討論の場において」
 男子学生がどんなに大きく声を張り上げても、何度、好戦的な発言を繰り返しても、アルフレッドは事務的に返答するばかりで、彼の攻撃性を歯牙にもかけない。だがその返し方は、時に尊大な印象を相手に与えるのもまた事実だった。
「あり得ない」
 ハーバートが険悪な雰囲気を断ち切るように、不自然な大きさで発声する。
「何がでしょうか」
「貴君の仮説とやらだ。つまり、こう考えているのだろう。【この国の地下に《夜鷹》が移動手段として用いていた、あるいは今も用いているかもしれない鉄道設備がある】」
 みたび大講堂は、騒然となる。
 観覧客同士が顔を見合わせて困惑し、討論の行く末を案じる。
 騒ぎに乗じてレイは、再びモーゼズを一瞥する。さすがに今度は敵意を剥き出しにはしていないが、穏やかという風でもなかった。
「どうして言ってしまうのですか。僕が言いたかったのに」
「そんな反応を見せるということは、やはりそうなのだな」
 アルフレッドの不機嫌な態度が肯定を表す。不機嫌ながらも、陳述は止めない。
「犬釘は通常、鉄路の枕木に打ちこまれるものです。その犬釘に地下深くの土が付着していた。これは、地下に敷設された鉄道の存在を示唆していると考えて良いかと。北部にはありましたかね、地下環状鉄道」
「地下鉄道が、中央部と北部を繋ぐようにして伸びている、か。たかが土ひとつだけでそこまで憶測を発展させるとは」
「確かに、地下鉄道の存在を証明するための証拠として土だけというのは弱いです。ですが、これ以外に理由が考えられますか。否定ばかりするのではなく、反証を挙げて頂きたい。何故ならこれは、個人の意見を発表する場ではなく討論なのだから。そんなことでは、またモーゼズ教授からお叱りが入ってしまいますよ」
 観衆席の数人と、判定者席にいるモーゼズを除いた全教職員が声を上げて笑った。レックスとレイ、イザドラは不安を募らせる。今のアルフレッドに、かいた恥を自ら冗談めかしている余裕などないはずだった。
 反証はなく、議論は時をさかのぼる。
「ちょっと待ってください。もしかして、あなたが《夜鷹》に盗まれたと主張していた、討論大会用の原稿の一部に書かれている内容というのは」
「おや、憶えていてくださったのですね。ありがとう。あなたの予想している通りです。僕は廃棄物置き場で犬釘を見つけていようがなかろうが、今回の討論で《夜鷹》の移動手段として中央と北を結ぶ地下鉄道が存在する可能性を提唱するつもりでいました。別の根拠や証拠資料も、何点か用意していたのですよ。今となっては取るに足らない情報なので省きますが」
「省くのは貴君の自由だが、当初の私の要求を忘れてはいないだろうな。彼らが機関車転落を計画し、実行したとする論理的証明をせよ、と」
「すでにしているのですが」
「何」
「おっと失礼。逆説的なので、きちんと言葉にして明瞭にするべきでした。犬釘が、ユロック大学の廃棄場に落ちていた。犬釘には地下の土が付着していた。つまり、地下に打ちこまれていた。地下には犬釘を打ちこむ枕木がある。枕木があるということは鉄路がある。すなわち、地下鉄道施設が存在する。《夜鷹》は機関車転落を目論み、多くの人間が策動した。転落が起きた時にも現場には《夜鷹》がいたが、警察が駆けつける頃には姿を消していた。人知れず長距離を移動するための手段がいる。それは鉄道。しかし地上の機関車は谷底に消えてなくなっているので地下鉄道以外に手段はない。よって、イーグルの機関車を谷底へ転落させたのは《夜鷹》である。いかがでしょうか」
 ハーバートは黙りこむ。アルフレッドの主張に齟齬がないかを見極めるべく熟思しているのか、単に呆れているのか、彼の表情に変化がないためレイには判別がつかない。
「馬鹿げてやがる。今の妄言を論理だと抜かすつもりかよ」
「もう一度、いいえ、何度でも言いますよ。僕は意見を出しました。それに対して批判だけするのならどうぞ、お帰りください。ここは討論の場なのです。意見には意見で返してもらいたい。それこそ、論理的にね」
「へっ、だったら遠慮なく言わせてもらうぜ。お前が説明したのは、もし《夜鷹》が機関車転落を計画していたとしたら、という仮定の上にしか成り立たない話だろ。そもそもその《夜鷹》が仕組んだっていう仮定はどこから来ているのかを俺は聞きたいし、ここに集まっている全員も同じくだと思うがな」
「それに関しては、冒頭に述べた通りとさせてください。機関車を谷底へ落とすなどという非人道的な行為、機関車を憎む犯罪組織である彼ら以外に容疑のかけられる者など存在しないのではないかと考えています。動機についても同様ですが、あくまで想像でしかなく、計画を実行した当人に直接尋ねなければ、本当のところは分からないでしょう」
「ほら見たことか。結局、お前の憶測だ。論理の欠片もありゃしねえ」
「そちら側の見地ではそうなるでしょうね。しかしながら、適切な指摘です。《夜鷹》が実行犯であるという仮定に対して、これ以上は何も用意できておりません」
 わざとらしく萎れるのも束の間、「ところで」とアルフレッドは切り返す。
「『事故と主張する派』の皆さんはいかがでしょう。これまで僕の考えにさんざん難癖をつけるばかりでしたけど、あれは事件ではなく事故だったという論理的証明はしてもらえるのでしょうか」
「はい。私から、よろしいですか」
 眼鏡の女子学生が発言する。
「第一に、警察の捜査で事故であったとの見解が出されています。国の公的機関が下した結論に、私たちが干渉する筋合いはありません。第二に、こちらも逆説的主張となってしまうのですが、仮に第三者の関与によるものだったとして、当該行為に及ぶに至り道理にかなう動機の欠如が挙げられるかと」
「動機の欠如、ですか。つい二言か三言前に申し上げたはずですが」
 女子学生は「事故と主張する派」の代表として、毅然とした態度を貫く。
「《夜鷹》が反鉄道の理念を掲げていることは私たちも承知しています。ですが、いいえ、むしろそれ故に、犯行の動機としては腑に落ちないというか、不完全ではないかと思うのです。機関車を谷底に落とす。それもその、忌避すべきものであるはずの機関車を計画実行の手段に選び、自己矛盾に陥ってまで。それで国に莫大な損失を被らせることも、国民に多大なる衝撃を与えることもできるでしょうし、事実そうなっています。しかし、果たしてそれはあなたの言う変革を本当にもたらしてくれるのでしょうか。事故から一年が経ちましたが、我が国は今も鉄道業に変わらぬ量の税金を投じています。何故か。失ったものを取り戻すためです。事故を過去の出来事にするために修復しようとしている。何も、変わりはしないのです」
「そんなことをする意味がない。だから彼らの仕業ではない、ということですか。口を慎めと怒られるのを承知で言わせてもらいますけど、意味があるかどうかなどやってみなくては分からないでしょう。国が変わるかもしれない、そんな一縷の望みにかけての計画だった、とは想像できませんか」
「私が《夜鷹》の統率者なら、一縷の望みのために仲間を巻きこむほどの大規模な計画を立てたりはしません」
「いえ、私が、などと言われても。統率者の思考回路があなたに分かるはずがない。だって僕にも分からないのだから。というか、あなたもただの憶測しか語っていませんが、大丈夫ですか。後で隣の男子と喧嘩などしないように」
 鐘の音が鳴った。
 討論終了まで、あとわずかであることを知らせる合図だった。
「おっと、時間か。どうやら僕は喋りすぎてしまったようだ」
 苦笑はこぼしても悪びれることはしないアルフレッドに、ハーバートが沈黙を破り問いかける。
「最後にひとつ、聞かせてもらう」
「どうぞ」
「《夜鷹》が事故を起こした。計画に際して地下鉄道を移動手段に使った。貴君の主張はこうだ。是非はともかくそれは分かった。しかし、その主張に行きつくまでの過程にどうしても気になる点がある」
「ほう。なんでしょうか」
「今回の討論大会のために貴君が用意した原稿の一部が、何者かによって持ち出された。原稿には地下鉄道の存在を仮定する内容が記されていた。今一度問うが、誰がなんのために持ち出したのか」
「《夜鷹》です。いくら仮説であってもこれだけ大勢の人間が集まる場所でそんな主張をされてしまっては、報道や伝聞によりいずれは警察の耳に届く。やがて秘密の移動手段を嗅ぎつかれるかもしれない。しかしさすがに原稿を盗んだからといって僕が主張を断念するとは彼らも思っていないでしょうから、予防策というより、物言わぬ威嚇でしょうね。公言したらただではおかない、という。まあ、僕は別にそんなのは気にしないので、お構いなしに言わせてもらったわけですが」
「『夜鷹』は地下鉄道の露見を案じている、ということだな」
「はい」
「おかしいな」
「何がです」
「廃棄場に落ちていたという犬釘を、どう説明するつもりだ」
 ハーバートは順を追って、アルフレッドにじりじりと詰め寄っていく。
「貴君の主張では、廃棄場に犬釘を捨て置いたのもまた《夜鷹》か、またはその協力者であるということだったな。調査の結果、犬釘には地下によく見られる性質を含む土が付着していると判明した。貴君はその事実を基にして地下鉄道の存在という可能性を打ち出した。これではまるで、発見者を地下鉄道へ導くために犬釘を放置したも同然ではないか。地下鉄道について記された原稿を盗むという行為と照らし合わせてみるがいい、どこからどう見てもこれらの目的は相反している。致命的矛盾、と指摘せざるを得ない」
 決して強い口調ではなかった。だが、もしアルフレッドでなければ、ハーバートの気迫に圧倒されて何も言い返せなくなっていただろう。それほどまでに彼の態度は、学生会長としての実績と学生離れした知力に裏打ちされる、ある種の威光に近いものを帯びていた。
 アルフレッドは、その威光をものともしない。
 怖気づくどころか、周囲の視線すら厭わずに、いきなり笑い出した。
「致命的矛盾ときましたか。それは良かった」
「どうやら、指摘されることなど最初から見越していた上での発言だったようだ」
「そんな、いとも簡単に機嫌を損ねないでください。相容れないふたつの動機。もっともな疑問です。それに、僕も先ほど言いました。犬釘が打たれていた場所と、ユロック大学の廃棄物置き場に犬釘を放置した人物の目的に見当をつけたと。最後にそれを話して、この場は終幕としましょう。名残惜しいですが時間も迫っていますし、どんな討論にも落としどころというものはつけなければいけませんからね」
「落としどころ、だと」
「ええ。犬釘を放置した人物の目的、それはあなたが仰った通りでおそらく間違いないでしょう。地下鉄道の存在を隠匿したがっているはずの彼らが、何故そのような行為に及んだか。この問題に答えを出すには、頭から勝手な思いこみを取り払うことが必要と考えます」
 終幕が近づくが、席を立つ者はいない。
「犬釘は地下鉄道を示唆するものである。注意したいのは、あなたの言う『発見者を地下鉄道へ導くため』という目的で犬釘を大学の敷地内に放置できる人物は、限られてくるということです。その犬釘が地下に敷かれた鉄路の枕木に打ちこまれていたものだと知っていなければ、そんなことはできない。あるいは何も知らない人間に有無を言わさず指示を出し、実行させたとも考えられますが。まあ、些細な違いですよ。さらに付け加えれば、わざわざただの釘ではなく、北部鉄道開通記念の特別な犬釘を示唆の手段に選んだのもきっと、発見者に強い印象を植えつけて、疑問を持たせるため。誰かが、これはおかしいな、と思って調べてくれなければ放置する意味がありませんからね。実際の発見者である僕も、ただの釘であれば見向きもしなかったでしょうし。それほどの意思が、この錆びた犬釘にはこめられているのでしょう。ともかくそういった理由により僕は、犬釘を放置したのは《夜鷹》またはその協力者だと推測したのです。地下鉄道の存在を気づかせようとする者は、地下鉄道の存在を知る者と等号で結ばれる。至極当然な話ですね」
「だが、貴君の主張をそのまま受け取るならばその等式には続きがある。地下鉄道の存在を隠したい者もまた、間に同じ記号を挟む。明らかに破綻しているな」
「そこです。それらをひと繋ぎの式にしてしまうのは何故か。きっと僕が、どちらも《夜鷹》の仕業だと言い張ったからでしょう。では、こう言い換えてみます。地下鉄道の存在を気づかせたい者も、気づかせたくない者も、同じ《夜鷹》の中にいる」
「言い換えたところで矛盾は消えない」
「どうしてそう思うのですか」
 即座に言い返そうとハーバートは口を開きかけた。しかし言葉は出なかった。出ないのではなく、あえて出さなかった。
 アルフレッドがたどり着いた討論の終着点を、理解したからだった。
「僕はもう、地下鉄道があろうとなかろうと、どちらでも構わないとすら思い始めているのです。学生会長には感謝しています。僕が本当に言いたかったことを言わせてもらえる流れを作ってくれたので」
「貴君のためではない。可能性がわずかにでもあるのならば、検討しなければならない。正しい真実へ、少しでも近づくために」
「分かっています。分かっているからこそ、礼を述べたのです。ありがとう」
 ハーバート以外の「事故と主張する派」の者たちも、とうとう口をつぐむ。
 レイは観衆の中から、アルフレッドを見つめた。
 彼の横顔、耳の後ろに垂れ落ちる髪の陰に、滴る汗が隠れる。
「誰もが一口に《夜鷹》と言いますが、彼らは機関車転落を計画し、実行できてしまうほどの大所帯です。それどころか、先の話にもありましたように、ただの犯罪組織ではなく、我が国の至るところに個人として存在する。反鉄道という理念を掲げた、思想集団とでも表現すればいいのでしょうか」
「それだけ大勢の人間が、統率者の下、ひとつの目的に向かって動いている。かくも恐ろしい」
「恐ろしいですよ。背筋が凍ります。本当に誰ひとりとして反発することなく動いているのならね」
 モーゼズの顔が凶悪なまでの敵意に醜く歪んだのを、レイを初め、大講堂にいるすべての者が見逃した。
 高まる緊迫感の中で、ハーバートだけは、それまでまっすぐにアルフレッドを貫いていた目線を下方に落とし、悲しげにうなだれる。
「そうか。それが、貴君の言う、落としどころというやつか」
「《夜鷹》の一員、またはその協力者が、ユロック大学の廃棄物置き場に犬釘を放置した。突き詰めればその行為は、組織に対する反抗を意味しているのではないか。僕にはそう思えてならないのです。おそらく実行者の上の立場に相当する者は、知らずにいたのでしょう。知っていれば止めるはずですから。ただ、機関車転落計画を実行するための道具でしかないものがひとつ明らかになったところで、果たして何がどうなると聞かれると困ってしまいますけど。それでもこの犬釘は、彼らが形作ってきた信頼関係に一筋の亀裂を生じさせるには申し分のない威力を有しているはずです。もともと信頼なんてものがあったかどうかも疑問ですが」
「内部分裂が起きている、または、これから起きようとしていると」
「はい。僕が推論を重ねてたどり着いた、ひとつの答えです。これを踏まえて、この国を護る警察へ強く言いたい。これ以上《夜鷹》を野放しにしないでほしいと。鷹などという名を冠してはいますが、所詮、ただの人間の集まり。いくら同じ思想を有していようと、完全なる信頼を保ち続けることなど不可能なのです。価値観の相違や意見の衝突は必ずあって、それはいつか綻びとして顔を出す。この犬釘もそうなのではないでしょうか。ならば、無視するわけにはいかない。綻びを手に取り、糸をこちら側へ手繰り寄せれば、組織を解体させることができるかもしれない。僕は、その可能性に賭けたい」
「具体的には、どうするつもりなのだ」
「犬釘を事件の証拠品として中央部警察に提出します。警察にはこれを機に、真相究明に向けてより精力的に動いてもらいたい。報道局による拡散にも期待したいところです。今年の討論大会にかけた時間と労力が水泡に帰さぬことを、切に願っています」
「良いのか。本当に」
「良くなければ、発言していません」
「覚悟はできているということか」
「できていなければ、僕は初めからこの場に立っていません」
 これまでの、どの言葉よりも力強く、固い決意に満ちた一声だった。
 ハーバートは彼の決意に、肯定も否定も示さなかった。ただ、まるで苦い液体を口に含んだかのように、沈痛な面持ちを浮かべるばかりだった。最後には、アルフレッドと目も合わせなかった。
 長く二度、鐘の音が再び大講堂に鳴り渡る。
 討論大会は終了した。



 ユロック大学文化祭が閉幕し、一般の来場者や、後片付けを終えた学生たちが帰途についてからも、一部の教職員と討論大会参加者は大学に居残っていた。新聞社や出版社、ラジオの放送局など、各報道機関からの取材を受けなければいけないからだった。取材は便宜上の空き教室に記者を集めて一定の時間を設けた、さながら会見のような形式で執り行われる。討論の末にただの鉄屑から証拠品へと昇格した犬釘の授受は、取材が開始される前に、記者たちの持つ写真機が向けられる中で公的に行われた。渡すのはアルフレッド、受け取るのはたまたま文化祭に来ていたことになっている警察官、レックスだった。レックスは必ず中央部警察に持ち帰ることを約束して、犬釘を受理した。
 取材では記者からの質問に対し、主に学生会長でもあるハーバートが表立って回答した。記者が回答者として指名した場合を除き、教職員はあくまで記者と学生の質疑応答を静観する立場を基本とした。
 モーゼズの意見を求める記者が列を作っていたが、モーゼズは取材の場に初めから姿を見せなかった。
 アルフレッドは真っ先に取材用の教室を訪れて、ハーバートの横で今か今かと待ち構えていたが、彼に質問を投げかける記者はいなかった。
 それだけでも彼の高揚する気分はしっかり損ねられたが、取材が終了して解散となった直後、アルフレッドを複数の人間が包囲した。それは記者ではなかった。
「モーゼズ教授の言葉を聞いていなかったのか。あれはどう贔屓目に見ても討論などではない。探偵の推理劇にしたってお粗末だ。明日の新聞に我が大学の名誉を傷つけるような記事が踊っていたらどうしてくれる」
 と、ハーバート。
「証拠品を受け渡すにしたって、報道の連中の目の前でやるなんて聞いてないぞ。きまりが悪いったらありゃしない。そういう大事なことは最初に教えておいてくれ」
 と、レックス。
「気を揉ませないでよ。檻に入れられた猛獣の見物は、こちらに危害が及ばないからこそ面白がれるんだから」
 と、イザドラ。
 討論大会における自身の振る舞いを入れ替わり立ち替わりたしなめられて、アルフレッ
ドはとうとう不愉快そうに目を細める。
「恰好良かったです」
 しかしレイに一言、そう褒められると、すぐに機嫌を持ち直した。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると報われたようだよ」
「アルフって、意外と単純だよね」
「ああ。なにしろ猛獣だからな」
「ごめんってば。私だって感心したよ。ちょっとだけ見直した」
「ちょっとだけ、か」
「あんまり褒めちぎったら、また調子に乗るでしょ」
 アルフレッドとイザドラのやり取りを横目に、レイはレックスに視線を送った。レックスはその視線の意図を読み取ることができなかった。レイも分からせるつもりはないようで、さっとわざとらしく顔ごと背ける。
 真意を問おうとしたレックスの横に、ハーバートが直立していた。
「レックス・ベイカー殿。犬釘の件、ユロック大学を代表して御礼申し上げます。まさか警察官様に討論を観覧されているとは夢にも思わず、お恥ずかしいところを多数見せてしまいました」
「そんなことはないよ。結論はともかくとして、みんなの討論に対する姿勢は本当に立派だったと思う。俺にはとてもできないな」
「結論の正否ですが、捜査当局は評価してくださるのでしょうか」
「もちろんさ。今日の討論の内容も含めて、重要な手がかりとして扱われるだろう」
 レックスが力強く明言すると、ハーバートは改めて襟を正した。
「実は、お伝えしておかなければならないことがあります」
 ハーバートはアルフレッドとイザドラに目配せしつつ、文化祭の前日、学生会に討論大会の中止を要求する脅迫状が何者かによって届けられていたことをレックスに話した。
「アルフレッド君から聞いたよ。文化祭を中止しろ、ではなく、討論大会を中止しろ、だったよね」
「はい。私の判断で、文化祭が滞りなく終了するまでは、しかるべき機関への事実展開を控えていました。この行為に対する罰則があるのなら、抵抗するつもりはありません」
「ないよ、罰則なんか。あるとすれば厳重注意ぐらいじゃないかな。学生会長として、文化祭をやめさせたくないっていう気持ちは俺にだって分かるし、こうして何事もなく終わったんだから。警察官がこんなこと、言うべきではないかもしれないけどさ。もし上司に説明を求められても、寛大な措置をお願いしようとは思ってる」
 同じく寛大な措置を受けたことのあるレイはなんとなくいたたまれなくなり、アルフレッドたちと別れる時も、もともと多くはない口数をさらに減らして、言葉少なにユロック大学を去った。彼らの姿が見えなくなってから、レックスの手を握った。
「分かっているとは思うが」
 レックスたちを見送った直後、言葉から丁寧な表現を消したハーバートが、今度はアルフレッドに声をかける。
「これで終わりじゃない。むしろ、ここからだ」
 宵闇が迫る大学の中庭で、ハーバートとアルフレッドは向かい合う。闇はまだ、辺りを覆い尽くすほど深くはない。
「貴様の行為は、良くも悪くもこの国に一石を投じたと言える。警察の捜査にも進展が見こめるかもしれん」
「そのつもりで参加したからね。僕は、討論の勝敗なんか気にしていなかった。この国の根底に湧き起こり始めている諦念を、取り払いたかっただけなんだ」
「あの眼鏡の子、言ってたっけ。何も変わりはしない、って」
「そう。『事故と主張する派』である彼女にもその思いがあった。だからこそ、あのような反論が出てきた。根本は同じなんだ。無論、僕もね。《夜鷹》はこの国を変えたかった。でも、できなかったし、やり方も、決して褒められるようなものじゃなかった。だけど、本当に心から変えたいと強く願っているのだとしたら、その願い自体を否定することはできないかな、僕には」
「アルフだって、程度は違うかもしれないけど、とんでもなかったからね。まさにやりたい放題だったよ」
「同意見だ。しかし、あえて言っておいてやる。よくやった。貴様の実力は本物だ」
 ハーバートは一瞬だけ微笑をこぼし、後はそれまでと変わらない厳格な雰囲気をまとい、「残作業がある」と言って悠然と校舎の中へ戻っていった。アルフレッドとイザドラは、彼が本心を押し殺していることに最後まで気づかなかった。消えゆく背中を見届けて、それぞれの家路についた。
 やがて、闇が大学内に立ちこめる。



「どういうことか説明してもらおう」
 ハーバートに残作業などなかった。
 夜、ユロック大学の学生会室には、ハーバート以外にふたりの人間しかいない。ひとりはハーバートがよく知る人物、もうひとりはハーバートがその者の本当の名前すら知らない、初対面の人物だった。
「説明って、何をだよ」
「廃棄場に犬釘を放置したのは君だろう、ヨーク。私が納得できる理由を述べてもらいたいのだがね」
「さあ。なんのことだか分かんないな。そこの会長さんの仕業じゃないの。おれはそいつの教師であるあなたが指示したんだとばかり思ってたけど」
 ヨーク、と呼称される少年に自身が認識されていることをハーバートは理解する。闇の深さに紛れるようにして、室内には息の止まるような緊張感が張りつめている。
「本当に残念だよ。君は、君だけは、私の願いを聞き入れてくれると信じていたのに。言ったはずだ、何かを考えたり、自ら進んで行動を起こしたりする必要はないと」
「ごめんよ、モーゼズおじさん。おれ、馬鹿だからさ。都合の悪いことは全部忘れちゃうんだ」
「痛みで憶えさせてあげようか。二度と大切なことを忘れないように」
「おれはもう、痛みなんか感じないぐらいに傷だらけだよ。どれがいつどこでついたのかも分からない。ただ分かるのは、何もかもあんたがつけやがったってことだけさ」
 モーゼズは少年に歩み寄り、彼の腹を蹴り上げた。浮上する彼の肉体が、今度はモーゼズの拳に叩き飛ばされる。机の下、赤い絨毯の上に唾液が散る。うつ伏せに横たわる少年の背中を、モーゼズは何度も踏み潰した。一方的な暴行の間、双方、言葉を発しなかった。
 暗闇の中で繰り広げられる凄惨な出来事から、ハーバートは目を離したいのに離せない。呼吸は乱れ、喉には激しい乾きが生じ、全身は凍結したかのようにすくみ上がる。
「悪かったね。少しばかり、刺激の強いものを見せてしまって。だが、必要だったんだ。分かるだろう」
 少年が死んだように気を失うと、モーゼズはいつもの優しい教授の顔になり、ハーバートに微笑みかけた。
 学生会室にハーバートを呼びつけたのはモーゼズだった。
「その少年は、一体」
「知らなくていい」
 鋭い針で刺すように突き放され、ハーバートは少年の存在を即座に意識の外へ追いやるしかなかった。
「さて、ハーバート君。討論大会における立ち回り、ご苦労だった。しかし君の役目はまだ終わりじゃない。今後、アルフレッド君の行動を逐一監視し、定期的に私に報告してほしいんだ。できるかな」
「私に諜報の真似事をさせるおつもりですか」
「諜報だなんて、大層な表現をしないでくれたまえよ。私はね、彼が真実を追求するという正義感に飲まれるあまり、引き返せない領域へ立ち入ってしまうことを危惧しているんだ。そんな事態になる前に阻止しなければならない。教職者として、教え子を危機から救ってあげたいと思うのは、そんなにおかしなことだろうか」
「お言葉ですが、あの男はとうの昔にその引き返せない領域とやらに全身で飛びこんでいるかと。はっきり申し上げて、手遅れです。行動を監視して報告するというのも、謹んでお断りさせていただきたい。私にそのような器用な芸当はできません。どうしてもやれと仰るのであればやりますが、本人に私を通じてあなたの思惑が見透かされるのに、大して時間はかからないでしょう。それでも、よろしいですか」
「構わないさ。報告内容に偽りさえなければ、手段の巧拙は不問としよう」
「ならば、いっそ本人に予告してしまおうかとも思いますが。隠し事は嫌いなので」
「嫌いなはずの隠し事に、君はもう手を染めている気がするけどね。まあ、好きにしなさい」
 ハーバートはモーゼズの奇妙な要求に応じることを約束し、学生会室から立ち去った。
 扉が閉じられて、室内が完全なる暗黒に満ちた後。
 モーゼズは少年の傍らで屈みこみ、彼の頭を繰り返しさすった。
 髪の毛の流れをたどり、乱れを整えるように。
 彼の体と心に蓄積する痛みを、少しでも和らげてやろうとするかのように。