雨の休暇

 レックスが「少年」と対峙し、「少女」が捕らえられた、長い夜が明けた。薄明るい朝陽が昇る時、レックスは中央部警察鉄道保安課の仮眠室にいた。横になりはするのだが、まともに睡眠を取ることができずにいた。諦めて洗面所で顔を洗ったり、砂糖をたっぷり入れた甘いコーヒーを飲んだりしているうちに、始業の時刻になっていた。
 昨晩の事件が終息した直後、レックスはアーノルド・エイムズと共にそのままバノック警視庁に戻り、何を見たのか、何を聞かされたのかを洗いざらい報告した。アーノルドは地べたに座りこむレックスと、少女、少年の姿を目撃していた。彼らが何を話しているのかは、途中からしか聞いていなかったのですべてを把握しているわけではないが、少年が《夜鷹》であることと、レックスが危険な状態であることだけは分かったという。アーノルドはダグラス警視総監から下された命令に従い、少年を銃弾で狙った。弾は命中するが、対象を仕留めるまでには至らず、少年は血を滴らせながらその場から逃亡した。結果としてアーノルドは、命令を完全に遵守することよりも、レックスの安全と、もうひとりその場に居合わせた少女の確保を優先し、少年の行方及び生死は不詳という結果に終わらせた。アーノルドは《夜鷹》を仕留められなかったという事実に責任を感じており、しかるべき処罰を受ける覚悟でいた。
 アーノルドは追及の対象にはならなかった。
 むしろ責められたのは、初めに少年と邂逅し、彼が《夜鷹》であると確信を得ていたにもかかわらず銃撃をためらい、かつアーノルドの注意を引いて少年が逃げる隙を作ったレックスだった。中央部警察内ではどちらかというと立場が下のほうである鉄道保安課の、さらに階級の低い巡査に担当官が投げつける言葉は、容赦なく暴力的だった。
 レックスは、何もかもを明かしはしなかった。
 少年がレックスに対して発した「あいつ」が誰を指しているのか、言うまでもないことだった。機関車強奪事件の第三の犯人との対決の後、レックスが「あいつ」から聞いた、父親に関する極めて重大な証言。今までに、誰にも話していない。誰にも話していないことを、少年は知っていた。それどころか少年は、北部渓谷機関車転落事故のすべてを知っている、ただひとりの証人であるという。真偽は定かではないが、銃撃を控える理由としては充分だった。絶対に死なせてはならない、少年こそがすべての謎を解く鍵となるだろうと、レックスはあの場で確信していた。
 何故撃たなかったのかという担当官の詰問に、レックスはひたすらに謝罪するばかりだった。本人から許可を得ていない以上、たとえ同じ警察官相手だとしても、喋りたくはなかった。しかし虚偽の報告をするわけにもいかないので、
「人を撃つ覚悟が足りませんでした」
 と、もうひとつの本音でくらます手に出た。時間はかかったが、最終的に納得はしてもらい、取り調べから解放された。アパートに戻る時間はなく、いつものようにエルシー・グリーンに連絡を入れてから、鉄道保安課へ直行した。シャワーを浴び、軽食を取り、現在に至る。
「失せろ、恥晒しが」
 レックスと一番に顔を合わせたスカーレット・マイヤーが、無表情で発した挨拶がそれだった。硬直したまま何も言い返せないでいると、そこへカイルとジェイミーが駆け寄る。
「マイヤーさん、さすがにそれは言葉が過ぎるんじゃないですか」
「そ、そうですよっ。私だって、もし自分がレックスさんの立場だったら、まともに行動できる自信なんてありません」
「警視総監の命令に違反したのは紛れもない事実だ」
「まあまあ、マイヤーちゃん。朝からそんなにかりかりしないの」
 クラーク・ロウが、彼女の肩を叩く。いつも通りの脳天気さの中に、上司としての「あまりやりすぎるな」という牽制が含まれていた。彼女はまだ何か言いたげにしていたが、最後には引き下がり自席に向かう。
「レックス君。少し、いいかな」
 クラークはレックスを応接室に呼びつけた。背の低い机を挟んで、向かい合わせに椅子に腰かける。
「まず、一番気になっていることだと思うから言っておくね。今回の件に関して、保安課の体面だとか、そういったことを気にする必要は全くないよ。事件の主犯の確保を優先すべきだというあの時の君の判断は正しいし、君が遭遇した人間が本当に《夜鷹》なのか断定できる材料がない。本人がそう名乗っていたっていうだけでしょ。だから撃てなかったといっても、それは決して責められるようなことではない。ダグラス君の命令がどうたらこうたらってマイヤーちゃんは言ってたけどさ、銃殺命令が出たその日の夜に《夜鷹》が出るなんて誰にだって予想できないし、そんなわずかの間に心の準備なんか、できなくても仕方がないと思うよ。結末が綺麗かどうかはともかく、昨晩で事件は終息したし、逃げた少年にだって、アーノルド君がきっちりひと噛みしてくれている。少なくとも今後、彼らが無意味に犯行を重ねたりはしないだろうと、私は踏んでいる」
 レックスは、ぐったりとうなだれていた。クラークの声も、クラークがゆっくりと話していなければ、レックスにはまともに聞き取れていなかっただろう。
「それよりも私が心配しているのは、君自身だ。はっきり言って今の君は、これまで通りの仕事ができそうには見えない」
 そんなことありません、とレックスはとっさに反論しそうになるが、クラークの所感に思い違いなどなかった。レックスは、傷ついていた。少しだけでいいから、警察の仕事から離れたいと思っていた。誰とも顔を合わせたくないというわけではなかったが、ただ、体も心も疲れていた。
「返す言葉がありません」
「そうだろう」
「一日だけ、休みを頂けませんか」
「何を言ってるの。そんなの、だめに決まってるでしょ」
 クラークは、珍しく怒った。
「最低でも一週間、休暇を取りなさい。出勤しなくてもいい、じゃなくて、出勤してはいけない、だよ。これは上司命令だから。言うことを聞かないと保安課を辞めてもらう。私はダグラス君みたいに優しくはないからね」
 すでに上司確認欄に記名のされた休暇申請書が、レックスの手元に舞い落ちる。
「もちろん有休扱いにするので、しっかりだらだらごろごろして、真剣に休むこと。良い機会だから、ひとりでいる時間と、レイ君と一緒に過ごす時間を、少しでも多く作る努力をしなさい。来週、君の元気な顔が見られるのを楽しみにしているよ」



 ひとりでいる時間はいくらでも作れたが、それだけしかできずにいた。
 ラジオから絶え間なく流れる音声や音楽を聞きながら、長椅子に寝転がり本を読む。強制的に取得させられた一週間の有給休暇の大半を、レックスはそのようにして過ごしていた。中央街に居座る雨雲が、彼の外出する気を削いでいた。
「行ってきます、刑事さん」
「雨がひどかったら、連絡してくれれば車で迎えに行くぞ」
「大丈夫です。せっかくのお休みなんだから、ゆっくりしていてください」
「そっか。ありがと」
「いえ」
 傘と通学鞄を手に、レイは部屋を出る。レックスはその姿を、頭だけ起こして見送る。
 レイがいなくなると、ほっとした。
 北部少女親族連続殺害事件の顛末は国内で広く報道されており、当然レイの耳にも入っている。事件に《夜鷹》が関わっていることに、レイは強く興味を示した。彼らが語らずも掲げる鉄道業の撤廃という活動目的は、レイの恩師オズワルド・イーグルに真っ向から反する理念であり、北の大事故に《夜鷹》が一枚噛んでいることは、ほぼ確実だと推測できるからだった。レイは今まで以上に新聞記事を熱心に読みこむようになり、バノックの放送局が毎晩放送するラジオの報道番組も積極的に聴き、不明点があればレックスに質問するようになった。
 おれはすべてを知っている。
 そんな言葉を、レックスは《夜鷹》の統率者であるという、名も知らぬ少年から直接聞かされた。レックスは、少年が何者なのかをずっと考えていた。レイの秘密を知っているということは、南部出身者である可能性がある。以前、ユロックの機関車両廃棄場で起きた放火事件の捜査を共にしたジョッシュ・スターキーに連絡し、何か情報がないか聞いてみようかとも思ったが、個人的な理由で事故を探っていると南部の警察に感づかれるのは避けたい。彼個人の連絡先も聞いておらず、直接会いに行くにしても、今からではもう日が足りなかった。
 長椅子を軋ませて寝返りを打つ。ラジオはバノックの街の今後の天気を予報している。雨は、これからますます強くなるようだった。
 昼過ぎに、雑貨店の仕事をいつもより早く切り上げて帰宅していたエルシー・グリーンが、二〇一号室を訪ねた。
 彼女もまた報道により、昨日、何があったのか、なんとなくではあるものの把握している。
「様子、見に来た。生きてるかどうかの確認に」
「もうちょっとものの言い方を考えろよ」
「冗談。提案があってさ、おいしいものでも食べて、元気出そう。私が作るから、レイ君も誘って三人で」
 レックスは無理に作り笑いをするが、まるでエルシーのようにぎこちなくなる。
「豪勢なやつな。うんと」
「そのつもりだけど、そうするにはこれから買い出しに出かけなきゃいけないの。車、出してくれないかな」
「なんだよ、せっかくの非番だってのに」
「雨だからって部屋に引きこもってたら、気分だって沈んじゃうよ。ほら、支度して」
「ちっ、分かったよ」
 エルシーが自分を気遣っていると察したレックスは、長椅子から体を起こして部屋を出た。駐車場を走り、ふたりは車に乗りこむ。数回かけてエンジンを吹かすと、鈍い起動音が雨の中で響き渡る。
 レックスは窓越しに空を見上げる。どんよりと濁った灰色は遠くまで伸びていて、やはり今日一日は晴れそうにもない。
「休みって、いつまでだっけ」
 エルシーが何気なく聞く。レックスも何気なく答える。
「今日は、えっと、土曜か。明日までだな」
「そうなんだ。あっという間だね」
「そうなんだよ、あっという間なんだよ。なんで休みの日って、こうも過ぎるのが早いのかな。せっかく課長が一週間もくれたのに、なんにもしてないし、なんにもできてない」
「なんにもしなくたっていいじゃない。私なんて、ひと月以上なんにもしなかったし、なんにもできなかった時期があるもの」
「カートライト、か」
 車は雨をくぐり抜け、薄暗いバノックの街を走る。
「悪いな。人捜し、すっかりほったらかしになっちまってる」
「仕事が忙しいんでしょ、仕方ないよ。時間があれば、捜してほしいってだけ。お金は払えないけど、ご飯を作るぐらいのことなら、いくらでもするし」
「現状、俺がエルシーに飯を食わせてもらってるだけになってるよな」
「いいよ、別に。どうせ毎日作るものだし。それに、レックスにレイ君の食事を任せるの、心配だもん」
 雨の強さに比例して、車は加速していく。
「なんだよそれ。あのな、俺は料理ができないわけじゃない、仕事の拘束時間が長すぎて作ってる暇がないんだ。エルシーに頼めない日は俺が作り置きしておいて、レイに食べさせるようにしてる。でも事務所に泊まらなきゃいけなかったり、朝早く出ないといけなかったりで、作り置きすらできない日だってある。そういう場合は、レイにやらせるしかないんだ」
「レイ君、料理できるんだ」
「ああ。俺より上手かもしれん。とはいえ、まだ小さいからさ、いくらしっかりしてるやつだからって、ひとりで火とか使わせるのは、やっぱり怖いし。そもそもそれ以前に、レイに食事の支度とか、あんまりさせたくない」
「いいじゃない。むしろレックスのほうが」
「できそうにないって言うんだろ。今はそういうのは求めてねえし。真面目な話してんだよ、俺は」
「はいはい、ごめんなさい」
「だからさ、週に一度ぐらいは楽したいなって思うんだ。そこでお隣の綺麗なお姉さんこと、エルシー・グリーンさんのご登場ってわけよ」
「どこか真面目な話なんだか。というか、ご飯はレイ君が来る前からさんざん一緒に食べてたでしょうが。週に一度って決めたのも、もう二年前のことだし」
「二年前、か。なんというか、どれもこれもあっという間すぎる。なんでもない日も、なんでもある日も、全部」
「本当にね」
 エルシーはあまり笑わなかった。
 間断なく続いていた会話が、窓を叩く無数の雨音に少しの間、遮られる。
 車は停止信号にさしかかる。
「私は別に、食事の内容を心配してるんじゃなくてさ」
「じゃあ、なんだよ」
「レイ君、ほとんどひとりでご飯食べてるってことでしょ。朝も、夜も。私はもう、レックスに充分すぎるくらい、助けてもらったから、そのお返しっていう意味でも、レイ君と一緒にご飯を食べる時間をね、もっと増やしたいって思ってるの」
 信号が消えて、車は再び走り出す。レックスはぐんぐん加速させていった。
「ありがとな」
「どういたしまして。ま、私にはそれぐらいしかできないし」
「今日さ、肉にしようぜ。俺も食いたいし、レイにはもっと食わせて体力をつけさせないと」
「肉だけじゃなくて、野菜もね」
「やだ」
「だめ」
「やだっての」
「もう。本当、手がかかるなあ」
 今度はエルシーも、笑顔をこぼした。



 言い合っているうちに、車は街一番の広さと品揃えを誇る食料品小売店に到着した。レックスやエルシーだけではなく、近辺に住む者たちのほとんどが頻繁に利用している。雨はなおも止まないが、客の入りは普段と変わらず多い。エルシーが食材を選び、レックスの持つ買い物かごに放りこんでいく。
「おや」
 レックスがエルシーの選ぶ野菜の量の多さに文句を言っているところへ、声をかける男がいた。レックスはその声を不思議とよく聞き覚えていた。
「あなたは、確か」
「モーゼズ・ガフです。先日はどうも」
「ああっ、ユロック大学の。こちらこそ、お世話になりました」
 人が行き交う食品売り場の一角で、ふたりは思わぬ再会を果たした。エルシーは気まずそうにレックスの陰に隠れていたが、モーゼズはそれを見逃さない。
「今日は奥様と一緒にお買い物ですか。独り身の私には羨ましい限りです」
「えっ。あ、いや違いますこれは」
「ちょっと何。『これ』って」
「悪い。紹介するよ、ユロック大学教授のモーゼズさん。事件の聞きこみがきっかけで知り合ったんだ」
「そうなんだ」
「そうなのです。しかし奥様でないとしたら、失礼ながら一体どのようなご関係なのでしょう。ああ、もしや、ごきょうだいですか」
「きょうだいでも、夫婦でも、恋仲でもありません。ただアパートの部屋が隣同士というだけの関係です。今日は、まあ、その、一緒に食事をすることになりまして」
 エルシーは簡単に自己紹介を済ませる。モーゼズは事件の事情聴取の際に、レックスやカイルに渡したものと同じ名刺をエルシーに差し出した。エルシーは恐縮しながらも受け取る。
「ユロック大学ですか。私、イザドラさんっていう子と知り合いなんです」
「ああ、経営学部のイザドラ・ケンドリックですね。町の雑貨店で働いているとか。エルシーさんも、そこにお勤めなのですね」
「ええ、そうなんです。よくご存じで」
「いえ、私は鉄道工学科の担当なのですがね。とある男子学生が彼女と親しいようでして、比較的頻繁に見かけます。もともと社交的で、科外の人間とも積極的に交流してはいますが」
「知ってます。アルフレッド君ですよね。会うたびに彼の話を聞かされていますよ」
「それはそれは。どうやら私だけでなく彼女も、彼の行動には手を焼いているようだ。この前も学外の男の子を勝手に研究室に連れてきていましてね。困ったものです」
「もしかして、その男の子って」
 モーゼズの顔が、ぱっと明るくなる。
「なんと、レイ君のことまでお聞きになられていたとは」
「それが、お聞きになっているどころの話じゃないんですよ。ね、レックス」
 エルシーにレイの行動を説明されてレックスは、目に見えて動揺する。
「え。いやいや、ちょっと待てよ、あいつ、ユロック大学に出入りしてんのか」
「本人から聞いてるんじゃなかったの」
「一言もないぞ、そんな報告は。あいつめ、保護者に秘密なんぞ作りやがって」
「ということは。レックスさん、あなたは彼の父親なのですね」
 弾んでいた会話が途切れた。
 レックスは露骨に表情を曇らせはしないが、愛想笑いでごまかしながらモーゼズから視線を外し、さりげなく肉製品売り場に目を向ける。
 しかし、モーゼズは話をやめようとしない。
「どうか、されましたか」
「あ、あの、今日は肉を買いに来たんですよ。肉、食いたいなと思ってて」
「レイ君も一緒なんですか」
「そ、そうですけど」
 レイの父親か、という質問への回答がされなかったことを、モーゼズは気にも留めていない様子だった。
「実は、彼と大学の外でも会ったことがありまして。以前、国立図書館で調べ物をしていた時に、書棚の上にある本を取ろうとしているのを見かけたんです。彼はイーグルの機関車に大層興味を持ってくれているようでして」
「ま、まあ、機関車って単純にごつくてでかくて、惹かれるものはありますからね」
「私にはそれ以上の熱意を感じましたがね。なんにしても、大学教授としては大変喜ばしいことですな。一度食事でもしながら、じっくり語り合いたいと思っていたところです」
「でも、あいつ結構、気難しいところがあるというか」
「機関車への情熱の前では、そのようなことは無意味です。聞けば彼は将来ユロック大学への進学を希望しているとか。今のうちに学んでおいたほうが良いことや、見たり触れたりしておいてほしいものを教えてあげたいのです、すぐにでも。今夜、私に予定さえなければ、皆様のお食事会にお邪魔しようかとすら考えていたのですが」
 優しげな声色とは裏腹にモーゼズはかなりの饒舌で、レックスたちはたじろいだ。さすがにレックスやエルシーのほうから食事に誘うということもなく、ようやく別れの時が来たかと思いきや、モーゼズは小冊子を一部と三枚の入場整理券を鞄から取り出した。
「おそらく、もうご存じでしょうが、ユロック大学の文化祭がいよいよ来週に開催されます。土曜日と日曜日の二日間に渡って、おいしい食べ物や各種催し物も用意しておりますので、ご都合がつくようでしたら、いらしてください。特にレイ君には是非来てもらいたい。私が強くそう言っていたと、彼にご伝達を願います」
「ありがとうございます。分かりました。きっと喜ぶと思います」
「もちろん、レックスさんとエルシーさんもですよ。私が言うのもなんですが、討論大会はなかなかの見物です」
「討論大会、ですか」
「ええ。実際にご観覧されたことはありますか」
「いえ、ないですね。エルシーはどうだ」
「私もありません」
「なんと。それでしたら今回こそ絶好の機会。ここで私が変に説明してしまうのもつまらないので、どんなものなのかは当日のお楽しみとさせてください」
「は、はあ」
「おっと。つい話しこんでしまった。それでは、レイ君にくれぐれもよろしくお伝えください。失礼します」
 モーゼズは最後まで柔らかな物腰のままで、最後まで困惑したままのふたりのもとを去っていった。レックスは腕時計を確認する。十数分近く、モーゼズの話は続いたようだった。
「大学の教授さんって、もっとお堅い人なのかなと思ってたけど、全然そんなことないんだね。すごく気さくで面白い人」
「あの人が特殊なんだよ。まあ、ある意味、教授って感じではあるかもな。あの教育熱心なところとか、あと、なんていうか、我が道を行っているところとか」
「うん。レイ君はもう、ユロック大学への進学が確定したね」
「あれだけ親身になってもらっちゃうとな。それにしても、何もこんな食品売り場の真ん中で整理券を渡さなくたっていいのにな」
「それぐらい来てほしいってことだよ。でも、ごめん、悪いけど私はたぶん行けそうにないかな。イザドラさんが文化祭で出られない以上、私も休むってわけにはいかないし。うちのお店、週末はそこそこお客さんが入るんだ」
「大学からそこまで遠くないし、客、文化祭に流れちまうんじゃないのか」
「その可能性はあるかも。もしそうなったらセヴァリーさんと相談して、早めにお店を閉めて私も行くよ。とりあえず出勤はする」
「了解。レイは、行くかな。行くよな。きっと」
 レックスは売り場で冷却されている生肉のひとつに手をのばす。弾力があり、冷えている。
 手に掴んだまま、しばらく考えこんだが、結局かごには入れず、陳列の中へと戻してしまった。
「あれ。お肉、買わないの」
「うん。やっぱり今日はやめとく。肉以外で、何か満腹になるものにしようぜ」
「いいけど、私もお肉の気分だったのに。なんでやめちゃうの」
「なんとなく」



 その日の食卓は、肉のように分厚い白身魚のソテーを中心に、普段より盛りつけにも気が配られた、少しだけ贅沢な夕飯で埋まった。レックスとレイはすべて残さずたいらげて、雨で沈みがちだった気分を晴らした。エルシーは食後にワインを一本開けて、葡萄ジュースのふたりと共に乾杯した。
 レックスはレイに、買い物先でモーゼズとばったり会ったことを話した。それまで珍しく上機嫌だったレイの表情が、たちまち強ばっていくのをレックスは見た。
「来週の土日、二日間。せっかく誘ってもらったわけだし、一緒に行かないか」
「は、はい。行きます。行きますけど」
「けど、なんだよ」
「整理券、もう、もらっているんです」
「ああ。ユロック大学の人からか」
 夏休み中のある日にセヴァリー雑貨店を訪れた時、イザドラから受け取っていたのだった。アルフレッドからの頼まれものだった。
 レックスはレイが大学に出入りしているとモーゼズに聞かされたことも話した。レックスは特に腹は立てなかったし、レイも罪悪感を覚えてはいなかった。
「秘密にしていたわけではないんです。むしろ刑事さんにはいつか話そうと考えていました。何か有力な手かがりを掴めたら、ですが」
「手がかりが掴めなくても話してくれよ。むしろ話すことで新しい発見があるかもしれないんだから」
「じゃあ、刑事さんも話してください。この前の事件について」
「それは断る。警察官として、たとえ家族にでも捜査内容は教えられない」
「家族なんですか。僕と刑事さんって」
「ものすごいことを平気で口にするんだな、お前」
「別に、ものすごくないです。そういうんじゃなくて、法的に僕は刑事さんの家族として認められるのかな、と思って。でもきっと、だめですよね。アパートの一緒の部屋に住んでいるだけで、結局は赤の他人ですし」
「寂しいことを言うなよな。まったく」
 寂しいと口にしたら、レックスは、本当に寂しくなってしまった。
 食事会の後、後片付けを全員で済ませた。デザートの剥き林檎をかじりながら、レイはレックスに尋ねる。
「モーゼズさんとは、事件がきっかけで知り合ったんですよね。それぐらいは教えてほしいです」
「ん、ああ、そうだけど。あんなことがあったけど、大丈夫なのかな。いや、大丈夫だったな。むしろ元気になってたかも」
「あんなこと、については、聞いてもいいんですか」
「まあ、簡単になら。ユロック大学の学生が例の事件の被害者のひとりでさ。それで教授に話を聞きに行ったというわけだ」
「それなのに、文化祭は開催されるんですか」
「その被害者本人が、予定通りの開催を強く希望しているそうだ。酷なようだが当然だろ、学生ひとりのために年に一度の一大行事を中止するなんて事態になれば、周りの人間がどういう気持ちになるか、たとえ実際に責められることがなかったしても、本人は嫌でも気にしてしまうだろうからな」
「それは、確かに」
 皿の上に切り分けられた林檎は順調に数を減らしていき、最後のひとつにレックスの手がのびる。水の滴る果実の欠片を、自分ではなくレイの口に持っていく。空いた皿はエルシーが台所に運ぶ。
「被害者の学生さんも、文化祭を楽しめるといいね」
「どうかな。命は助かったとはいえ、犯罪者に襲われたとなると、精神的な衝撃も大きいだろう」
「文化祭に《夜鷹》が干渉してくるなんてことはないですよね」
「ないだろ。やつらは夜にしか行動しないし、大学の文化祭を邪魔する理由もない。それとも、お前は何か思い当たるのか」
「いえ、特には」
「じゃあ、どうしてそんなことを言い出すんだよ」
「予感が、あって。根拠も何もないんですが」
「でも、行くことは行くんだろ。文化祭」
「はい」
「肩の力を抜いて、単純に楽しめよ。大学の中も、ある程度は自由に見て回れるだろうし、なんてったって文化祭だ。出店もたくさんあるだろうな」
「一番楽しみにしてるのはレックスだったりしてね」
「おう。なんだかんだいって、俺も結構楽しみだ。あと、討論大会ってのも見物だってモーゼズ教授が言ってたな」
「ずっと気になっていたんですが、今年は何について討論するんでしょうか」
「知らん。教授からもらった小冊子にも詳しいことは何も書いてなかったし、当日に発表されるんじゃないか」
「レイ君。たぶん、レックスは話が難しすぎて理解できないと思うから、レイ君がちゃんと聴いておいてね」
「こら、何を吹きこんでやがる」
「そのつもりです」
「お前もなんだよ、『そのつもりです』ってよお」
 食事が終わっても、三人の会話はしばらく続いた。いつしか雨も上がっていて、ラジオをかけると、明日以降にはバノックの街にすがすがしい秋晴れが訪れると報じられていた。



「今日、ありがと。元気出たよ」
 二〇二号室を後にする直前、レックスはエルシーにそう伝える。エルシーはにっこり笑って、
「レックスが元気じゃない時なんてあるんだ」
 とからかう。レックスも歯を見せて微笑する。
「なくはないかな」
「へえ」
「でも、もう大丈夫」
「本当でしょうね」
「本当だとも」
「良かった。おやすみなさい。また明日」
「ああ、おやすみ」
 互いに名残惜しさを感じながらも、食事会は終了した。明日でレックスの休暇も終わり、週明けからはまた、事件の事後捜査や鉄道保安業務に追われる毎日が始まる。
 レックスは、エルシーやレイのおかげで疲れから解放された。不安や恐怖は完全には拭いきれていなかったが、もう立ち向かえないと諦めるほどではない。
 これからも、もっと、レイたちと共にある時間を作ろうと心に決めたのだった。