夜のユロックの町に、男の惨めな叫び声が響き渡る。それはひどく悲痛だが、あまりに小さく、男の傷ついた背をふらりと追う少年以外の、誰の耳にも届かない。
少年は、錆びついた鉄の棒を引きずりながら、まるで機械仕掛けのように歩く。足はゆっくりと、だが確実に男へと向かう。男は少年の襲撃を受けて負傷していた。膝から下を執拗に狙われたために、走ることはおろか、まともに歩くこともままならず、常によろめいて、時に地に手をついてしまうが、それでも必死に逃げる。片方の靴が脱げる。掌は土でざらつく。恐怖と屈辱とで、男の目には涙が溜まる。鼻水をすする余裕もない。顔が、身体が、醜く汚れていく。
男は袋小路に追い詰められていた。
三方を石造りの高い壁に囲われ、男には逃げ場がない。壁を壊す体力も、よじ登る気力も、男にはとうにない。縮こまり、頭を両手で押さえて震える。怯えた声で助けを乞うが、まともな言葉になっていない。ただのうめき声から、喉を潰したような絶叫へと変わる。男の生への執着、もしくは死への拒絶が、急速に強まっていく。
少年はそんな男の姿を見ても、罪の意識にとらわれることはない。無様だと侮蔑したり、同情したりもしない。何かを、思おうとしない。しかしそれは、無感情と等号ではなかった。意識して、何も考えないようにしていた。少しでも気を抜けば、人の命を奪うという行為にまとわりつく罪の重さに押し潰され、とても平常な精神を保ってはいられなくなるからだった。
少年は鉄の棒を男の頭部に振り下ろした。
鈍い音が鳴り、男の肉体の振動が停止する。
男は死んだ。
それを確認すると、少年は迷いなく鉄の棒を放り捨てて、黒服のどこかから鳥の羽根を取り出し、男の体の上に置いた。男が本当に死んでいることを再三確認してから、その場を立ち去った。急ぐでもなく、見知らぬ地をさまよう旅人のように、どこかへと歩いていった。目の端に、透き通る涙の滴を走らせながら。
アーノルド・エイムズは、中央部警察署の休憩室でひとり、コーヒーを飲んでいた。本来は休暇中だったが、ある事件を受けて、北と中央の合同捜査会議が開かれることになり、出席するために中央に訪れていた。
事件の名称は、北部少女親族連続殺害事件といった。
名称に含まれる「少女」とは、モリー・アンダーソンのことを指している。
生まれは北部のコスタノアで、蒸気機関車が走る風景を幻想的に描き出す絵画師と、その妻の間のひとり娘として育てられ、不自由のない裕福な毎日を送っていた。コスタノア美術館の近傍に建てられた洋館に住み、身の回りの世話はすべて付き添いの執事に任せていた。父親の教育方針により、日頃から地元の学校にはあまり足を運ばず、人生の大半を家の中で過ごした。何をしていたのかというと、金で雇われた専門の講師たちに、上流の教養を叩きこまれていた。音楽、舞踊、礼儀作法に、美術。彼女は自分の意思を表に出すことはなかった。たまに我慢がならなくなって放出したとしても、一切相手にされることはなく、数年間、父の言われた通りに生きたという。このまま一生こうなのだろうと彼女自身も諦めかけていたようだが、解放の時は突然に訪れた。
彼女の父親が、何者かに殺害された。
次に開く予定だった個展で披露する絵画の制作のために、殺された日の夜も、アンダーソン家とはまた別の場所にあるアトリエで過ごしていた。父親の死体は、そのアトリエにて発見された。現場では、乱雑に散らかる大量の画材、色とりどりの絵の具、それに混じるかのような鮮血が、死体の周りに広がっていた。また採光用の硝子窓が割られており、被害者以外に外部からアトリエに侵入した人間が存在する可能性が認められ、警察はこれを殺人事件と断定するに至った。
家族のひとりである父親が死に、モリーの人生は一変する。まず彼女の母親が病床に就いた。次に、アンダーソン家の資金が底をついた。洋館は売り払われ、モリーは中央で暮らす親類の家に預けられることになった。突如としてモリーに訪れた家族の死に、周囲の人間は心を痛めた。彼女は気を遣われ、なぐさめられたが、モリーは人前で泣き顔を見せることはなかったという。それどころか報道記者の取材にて「誰がお父さんを殺したのか、どうしてお父さんは死ななければならなかったのか、警察の人たちに、一刻も早く明らかにしてほしい」と決然とした表情で言い切り、人びとは彼女を、なんて強い子だろう、などとたたえるのだった。
事件はこれだけでは終わらなかった。
わずか半年後、今度は母親が殺された。
崩れがちだった体調も安定し、夫の死からも少しずつ立ち直っていた彼女が、コスタノアの病院を出てわずか数日のことだった。洋館を退去した後に本人が個人名義で借り入れていたアパートの一室にて、首を絞められて絶命しているのが発見された。モリー・アンダーソンは「父親を亡くした女の子」から「両親を失った女の子」になり果てた。報道は過熱し、コスタノアの街でモリーの名を知らない者はいなくなっていた。北部警察も犯人確保に注力すべく捜査本部を設置し、前例がないほどに多数の刑事を動員させ、広域に渡る追跡を開始した。
アーノルド・エイムズもまた、当初より本事件の捜査員のひとりとして動いていた。連日開かれる捜査会議には欠かさず参加し、事件現場にも足繁く通った。普段、担当する事件には人一倍、感情移入というものをしないアーノルドだったが、ジェイミーという家族を持つ身として、顔にこそ出さないものの、モリーには哀れみの情を、殺人犯には強い怒りを覚えていた。モリーのために、殺されてしまった彼女の両親のために、彼女を労る周囲のすべての人のために、アーノルドは力の限りを尽くすと決めていた。
しかし、最初の父親の殺害事件から一年以上が経過しても、犯人は捕まらなかった。それどころか、終わりの見えない捜査状況に追い打ちをかけるかのような事態に見舞われる。
中央にて、モリーに関わってきた、あらゆる人間が犯人に襲撃された。それはまるで、モリーを絶望に陥れようとでもしているかのように周到で、徹底された犯行だった。ある者は負傷し、ある者は精神を病み、ある者は命を落とした。成果を上げられない警察は国民に非難され、肉体的にも精神的にも疲労していった。初めは同情を集めていたモリーが、度重なる事件を受けて腫れ物に触れるような扱いをされるようになっていき、いつしかモリーの周りには、誰もいなくなっていた。
アーノルドには、それが何よりも堪えた。なんとしてでもこの事件を解決しなければならないと考えていた。本当は一秒でも早く本部を飛び出したかったが、この日は上司の命令で、捜査会議にて進捗を報告する役目を務めることになっていた。といっても、声を大にして報告できるような情報は何もない。別の捜査員から新しい情報を得られるというわけでもない。ただ何も進展がないという事実を互いに打ち明けるだけの場になるのは、火を見るより明らかだった。
アーノルドがコーヒーを飲み干さないうちに、会議開始の号令がかかる。背広姿の大勢の刑事たちがひとつの部屋に押しこめられ、太い話し声が飛び交う中、会議は始まった。出席人数は百を超えており、これだけの人数を集めた以上、たった数分で終わらせてはならないとでも思っているのか、進行役の刑事が事件の概要を一から説明する。最初の父親の事件、半年後の母親の事件、中央で散発する関係者襲撃事件。これまでに起きたすべての事件の概要が捜査資料にまとめられ、口述でもさらわれる。
「《夜鷹》って呼び名、誰が言い出したんだろうな」
ひとりの中年刑事が何気なく口にする。それは、単なる鳥の名前ではない。
「どこの誰が命名したのか、出所は不明です。彼らの活動改め犯行が、おしなべて夜に行われていることと、故オズワルド・イーグル氏を絶対悪とし、『反鉄道』の理念の下、氏が開発、設計したイーグルの機関車の完全なる退廃を望み暗躍しているということをふまえ、いつしかそう呼ばれるようになった、とされている。つまるところ、『鷲』に対する『鷹』です」
進行役を務める刑事が捜査資料に目を落としながら、書かれている文章をそのまま読むような口調で疑問に答える。中年刑事の求める回答には、なっていなかった。
「皆さんもご存じかと思いますが、彼らが《夜鷹》と呼ばれている所以はもうひとつあります」
進行役の刑事は、事件の証拠品が入れられた透明な袋を片手で掲げ、刑事たちに見せていくが、皆すでにさんざん見ているものだったので、誰も真剣に確認しようとしない。袋の中には、暗褐色の鳥の羽根が封入されている。あらかじめ会議の出席者に配られていた事件資料には、その羽根が落ちている事件現場の写真が印刷されている。
「これまでに確認されているすべての事件において、現場から羽根が発見されています。すでに検討されているように、これは犯行声明であると考えられます。鑑定の結果、この羽根を持つ鳥は我が国のどこにも生息していない、外来種の羽根であることが判明しています。外国には『ヨタカ』なる種類の鳥がいるようです。彼らは国民の安全を脅かし、鉄道業を主とする国の方針に真っ向から反逆の意を示す、言わば異質な存在です。彼らがそのように呼ばれるようになった理由のひとつと言えるでしょう。もはや《夜鷹》は『反鉄道』の象徴となりつつあるのです」
「『反鉄道』ね。やっぱり、例の事故があったからなのか」
先ほどと同じ中年刑事の問いだった。
「関連はしているのかもしれませんが、少なくとも組織結成の契機でないのは確かです。あの事故が起きるずっと前から、彼らは各地で犯行を重ねていましたから」
「図らずも事故は、やつらの理念を後押ししているというわけか。そもそもの目的が不明瞭だから、余計に気味が悪いな。一体、なんのために作られた組織なのか。この事件と、やつらの目的に何か関係があるのか」
「肝心の犯人像についてですが、残念ながら、これに関しても有力な手がかりは上がっていません。目撃情報は数多く寄せられているのですが、それらに共通する事項はひとつもありませんでした。複数犯であることと、先ほども言ったように、犯行の時間帯が夜であることから、決定的な証言が得られにくい状況が続いています」
「具体的には、どんな話がある」
「古いものでは、人間とは思えないほどに大柄の男だとか、痩せ細った華奢な女だとか、最近になってからでは、十代になったばかりぐらいの少年というのも」
「ふざけてやがる。こんな残酷な真似をする人間が、そんなにいてたまるかよ」
殺人事件の捜査会議でありながら話は脱線し、《夜鷹》にまつわる嘘か本当かも怪しい噂が室内のそこかしこでささやかれる。
アーノルドはそれらの輪に、一切加わらない。ひとりで黙って腕を組んでいたが、突然拳で机を叩き、大きな音を立てた。捜査員たちの視線がアーノルドに集まる。
「犯人が男だろうが女だろうが歳がいくつだろうが、やることは同じです。どちらにしろ、ただの殺人者だ。現場を繰り返し回り、目撃者を探る。証拠を集めて容疑者に突き出し、吐かせる。すべての事件はそれで終わる」
もう、捜査の進捗報告などする必要はなくなった。
もともと目つきの悪い目をさらに細めて、アーノルドは凍りついたように動かない進行役の刑事から、突き刺すような視線を彼に浴びせる周りの捜査員たちまでを順番に睨みつけていき、誰の返答も待たず会議室を出ていった。
「もう、やってんだよ。そんなことは。とっくに」
中年の刑事から漏れた独り言は、明らかにアーノルドに向けられたものだった。あまりに重たく降りている沈黙から逃げ出すかのように、捜査員たちはぞろぞろとアーノルドの後に続いた。その中にアーノルドを追って声をかける者は、ひとりもいない。
北部警察の人間が合流し、殺人犯の確保へ向けて捜査網は拡大された。レックスが所属する鉄道保安課にも協力要請が出され、レックスはカイル・フロイドを引き連れてユロック大学へと向かった。モリーの兄が通っていた大学で、彼が犯人に襲撃されたのが大学の近辺だった。
季節は夏を過ぎ、初秋の気配が大学構内にも漂っている。しかしそれを上回るほどの浮ついた空気も、レックスには感じられる。毎年の秋に開催される文化祭の準備が始まりつつあった。そこへ重たい顔をした刑事がふたり混じる。事件自体は学生たちもよく知っているが、レックスたちに協力的な者はごく少なかった。せっかくの高揚した気分に水を差されたからだった。
そんな中、鉄道工学を専攻しているという男子学生、アルフレッド・デイトンだけが、嫌がるどころか我こそはという勢いでふたりの捜査に全面的に協力する姿勢を見せる。
「僕がいながら、犯人を捕らえるどころか、犯人に繋がる手がかりのひとつも得られなかったのは、どうにも苦しい限りです。僕の知っていることであれば、話ができるかと」
あらかじめ話す内容を用意していたのか、アルフレッドの語り口は不自然なまでに流暢だった。
モリーの兄であるクライヴ・アンダーソンは、ユロック大学の鉄道経営学部に所属している。襲撃されたとはいえ命に別状はないようで、事件の騒ぎが落ち着くまで休学することになっているという。大学は文化祭に向けての準備で皆、猫の手も借りたい状況らしいが、クライヴ本人にとってはそれどころではない。彼は当初から準備活動にはあまり積極的でなかったため、文化祭の開催に影響が及ぶようなことはなかった。
「はっきり言わせていただきますが、彼は警察に対してかなりの不信感を抱いているようでした。史上最大の鉄道事故の真相は一年経っても明らかにできない、犯罪組織に幾度となく犯行を許し、いつまでも捕まえられずに被害者ばかりを増やしていく。ああ、僕は思っていませんよ、そんなこと。あくまでこれは、彼の発言ですから」
「おっと、それ以上は教えてもらわなくて結構。そのクライヴ君に警察官らしからぬ感情を持っちまいそうになるからな」
カイル自身は遠回しのつもりでも、アルフレッドは彼の皮肉をまともに受け取り、一度口をつぐむ。だが、すっかり黙ってしまうというわけでもない。
「クライヴの件を話す前にひとつ、どうしても気になることがあるので、お尋ねしたい。モリー少女を中心にして散発している事件ですが、やはり北部渓谷での鉄道事故と何か関係があるのですか」
「どうしてそんなことを聞くんだ」
レックスが警戒を言葉にして表すと、アルフレッドは再び沈黙で答える。先ほどよりもさらに短い沈黙だった。
「ずっと、考えていたんです。僕はクライヴとは違って、国家警察という組織を断じて侮ってなどいません。国を守る一番の公的機関として、尊敬の念を覚えています。事実、皆さんの働きがなければ、事故の後に起きた暴動も、もっと凄惨なものになっていたでしょう。それに、あれだけの大事故ながら、わずか一年で大半が元の暮らしを取り戻し、事故現場である北部渓谷の鉄道橋も完全に復旧している。国の根幹がしっかりと固められていたからでしょう。それ故に、謎なんです。どうして、事故の詳細な原因について一切発表がされないのか。加えて、同一犯による複数の事件。普通に考えて、未だ犯人が逮捕されていないというこの状況は、おかしいと言わざるを得ません。僕がこんなことを言うのもなんですが、一介の大学生にまで聞きこみ範囲を広げている時点で、捜査の進捗が芳しくないと察することができますよ」
カイルが意地の悪い笑みを浮かべる。
「誠に遺憾ながら、君の考えは少し違うよ。俺たちは鉄道保安課。普段は列車内での痴漢とか物盗りとかを取り締まってるだけの、下っ端の中の下っ端さ。刑事事件を調べる連中は捜査課っていうんだぜ。ま、捜査の進捗が芳しくないってのは当たってるけどな。だから俺らにまで捜査協力要請が来てんだし」
「それは、失礼しました。確かに関係各者への聞きこみは重要ではありますが、地味で時間と体力を要する作業、課外の人間が手伝わなければいけないというのも、仕方がありません」
カイルの挑発じみた訂正に、アルフレッドは無自覚な挑発で返す。カイルがますます面白くなさそうな顔をするので、見かねたレックスがその先を引き取る。
「君の質問の答えだけど、関係あるのかもしれないし、ないのかもしれない。つまり、まだはっきりとは答えられない。もちろん一年前の事故も、この事件も、総力を挙げて調べているところだ。どちらも時間はかかってしまっているけど、一日でも早く、いつか必ず、すべてを明らかにする」
「僕は、あなたの言う『いつか』なんて待てないんですよ」
カイルが作り出した緊迫感に対抗しようとしているのか、アルフレッドは険のある態度を示す。
レックスは、彼にどこか幼さを感じた。
学生にしては、質問への受け答えは堅実で余裕を持つ。しかしそれはあくまで、学生にしては、という物差しではかった評価でしかない。自らも決して幼い人間ではないと胸を張っては言えないのに、他人の幼いところは目ざとく見つけてしまう。
苦りそうになるのをこらえ、レックスはネクタイの結び目を正し、呼吸を整える。
「俺からもひとつ、聞いていいか。ちょっと、いや、かなり嫌なことを」
「どうぞ」
「君はあの事故で、誰か大切な人を失ったのか。家族とか、友人とか、恋人とかを」
アルフレッドは眉をひそめる。
「どのような意味で、そのような質問を」
「どうしてそんなに事故のことを知りたがるのかなと思ってね」
「好奇心です。あれほどの大事故です、きっと驚くべき真実が隠されているに違いありません。僕はただ、それを知りたいのです」
「そもそも君の言う『驚くべき真実』って、なんだ。確かにあの事故には不審な点がいくつもある。警察にはそれらを解消し、国民に開示する義務がある。俺だって、明らかになっていないことが明らかになることを望んでいる。警察官としてもそうだし、この国に住むひとりの人間としても。でも、いざ本当に明らかになったところで、俺も、君も、誰も、驚きなんかしないと思う。ただ単にすごく疲れて、虚しくなるだけじゃないかな」
「そんなことはありません。少なくとも僕の心は満たされます。上質な推理小説を読破した瞬間を遙かに上回る高揚感が僕を待っているはずです。だってこれは虚構などではなく紛れもない現実で」
「もういい」
アルフレッドの声に自分の声を重ねて、レックスはほとばしる熱論を遮った。
「君は、君のやり方でやればいい。当然、俺たちだって捜査を続けるが、君のためにじゃない。事故で苦しんだり、悲しんだりしている人たちのために続けるんだ。苦しみや悲しみはきっと、いつまでも終わらないし、完全に消し去ることなんかできないけど、少しでも減らす手伝いはできるかもしれないから、隠れていることを、隠されていることを、ひとつ残らず全部、潰していく。君は、君自身のために真実を追い求めるんだ。正直に言うと俺は、君のこと、変なやつだなって思うけど。でも君がしたいのならすればいい。止める理由はない。君は学生だが、もう物事の善悪を自分で判断できる年齢だ。君を信じて俺は何も言わない。もし君が悪いことをしたら、その時はきっちりとしかるべき処置をさせてもらうってだけ。君はそんなことしないだろ。だって警察に捕まりでもしたら、何もできなくなるんだから」
言いたいことをすべて言い終えると、レックスはへらへらと笑い出し、無理やりに場の空気を和まそうとする。カイルは手を頭の後ろで組み、大学内で賑やかに文化祭の準備を進める学生たちに目を向けている。
アルフレッドは、口元をわなわなと振るわせている。
「ごめん、偉そうなことを長ったらしく。君も文化祭の準備があるだろ、クライヴ君について何か知っていること、どんなに些細な情報でも構わないから、教えてくれるかな。それを聞いたら俺たちは、すぐに退散するからさ」
「話せることは何もありません。僕はクライヴとはあまり親しくないので」
「あれ。さっきと言ってることが違うけど」
「すみません」
カイルが当てつけるかのように調子外れの声をアルフレッドに浴びせる。さすがに面と向かって具体的な言葉で悪態をつくようなことはしないが、失望を隠そうともせずにわざとため息を繰り返す。
「だったらあれだ、教授のいるところに案内してもらえるかい、僕ちゃん。この学校だろ、モーゼズ・ガフ教授がいらっしゃるのって」
アルフレッドがカイルに背を向ける。レックスはそれに気づきつつも、カイルのほうに意識を向ける。
「誰だっけ、それ」
「おい。お前な、それぐらい知っとけ。イーグルの機関車の設計に関わった、お偉いさんだぞ」
「設計したのはオズワルド・イーグルだろ」
「間違っちゃいないがよ。いくら天才だからって、機関車を一からひとりで全部造ることなんかできねえよ。協力者のひとりってことさ。お前も少しは自分の住んでる国の歴史ぐらい勉強しとけってんだ、馬鹿」
「馬鹿で悪かったな」
「まあ、お偉いさんだろうが誰だろうが、俺たちは聞きこみをするだけだしな。で、教授の居場所は」
「職員室です。中庭を突っ切った先に、学内の地図が掲示されているので、そちらをご覧ください。僕は、これで失礼します」
アルフレッドはそのまま振り向きもせず、足早に去っていく。離れてからは、逃げるように走り出していた。
「畜生。頭でっかちクソ野郎のせいで、貴重な時間を浪費しちまった」
「やめろ」
「お前だって言い負かしてたじゃねえか。腹、立ってたんだろ」
「別に言い負かしたわけじゃない。怒ってもいない」
「俺は腹立つというよりも、気味の悪さを感じたな。本気で。好奇心だけで動いてるなんて、どうかしてやがる。不謹慎どころの騒ぎじゃねえぞ。どんな凶悪犯罪者だろうと、裸足で逃げ出すだろうよ」
矢継ぎ早に飛び出すカイルの悪口を途切れさせようと、レックスは話しながら早歩きを始める。
「彼とは遅かれ早かれ、また会うことになるだろう。俺たちと彼の歩いている道は違うけど、目指す場所は一緒だ。こちらから情報を渡すわけにはいかないけど、向こうからもらう必要は出てくるかもしれない。行動力もありそうだし、下手な真似ををすれば、こちらが痛い目を見るかもしれない」
「滅入るぜ」
本当に気が滅入ってきているらしく、カイルは心からの深いため息をついた。大学内に立ちこめる高揚感を、邪魔するかのように。
レックスとカイルはクライヴ・アンダーソンについて話を聞くために、ユロック大学の職員室を訪ねた。文化祭の準備には教員も駆り出されているようで、人の数は少ない。誰か時間を割いてくれるような人がいないかとレックスが初めに話しかけた相手こそが、目当てのモーゼズ・ガフ教授だった。モーゼズもまた、文化祭に対して非干渉的な人間のひとりだった。
訪れた理由をカイルが説明する。アルフレッドのことにも、たっぷりと嫌味を交えて触れるので、レックスを困らせた。
「彼は私の担当する鉄道工学部の学生です。ご迷惑をかけてしまったこと、彼に代わり深くお詫びします。確かに彼はひどく風変わりな性格の持ち主ではありますが、悪気はありません。どうか、ご容赦いただきたい」
モーゼズは聞く者の心を安心させる平静な声で謝罪を述べる。さすがのカイルも自分の発言を恥じ、それ以上、アルフレッドの話は持ち出さなくなった。
前置きもそこそこに、レックスはモーゼズへの聞き取り調査を開始する。モーゼズはクライヴが襲撃される現場を直接目撃したわけではないが、事件の前日に彼と学食を共にする機会があり、そこで奇妙な話を聞いたという。
「こうして思い返してみても、理解しがたいのですが、彼は、彼自身が命を狙われていることを知っていたようなのです」
「クライヴ君本人が、そう言っていたというのですか」
「はい。『俺はそのうち襲われる。でも逃げたりしません。妹のために一矢報います』と、私だけではなく周りに聞こえるような大声で」
「一矢報いるって、まさか彼は犯人に襲われたところを返り討ちにするつもりだったのですか。相手は凶悪な連続殺人犯で、しかも複数存在するというのに」
「真意のほどは、私にも断言はできかねます。事件以後、私はおろか彼の友人や家族ですらも、事の顛末からあの日の発言の意味まで、彼から一切何も聞けていないそうなのです。きっと警察の皆さんも苦心されていると想像します。どれほどの恐怖であったことか。私は彼と特別に親しいわけではありませんが、それでも大切な教え子のひとりです。心情としては、文化祭どころではありませんよ。彼だけではない、これまでに犠牲になられたすべての人を思い、胸を痛めております。一刻も早く事件の犯人が捕まることを、願ってやみません」
モーゼズの声は落ち着いていて優しかったが、終始保たれる沈痛な面持ちには全く釣り合っておらず、ふたりに悲しい違和感を与え続けた。
聞き取りは滞りなく終了し、レックスたちは大学を後にした。未だ警戒態勢が敷かれるクライヴ襲撃の現場を通りかかる。路面には黒い血痕がわずかに残っている。
「良くできた人だったな」
カイルが珍しく人を褒めるので、レックスは耳を疑った。
「こんな時に言うことじゃないかもしれないけどさ。モーゼズ教授って、事故が起きた時に意味もなく国民から責められてただろ。発生原因がどうとか知ったこっちゃねえけど、機関車を造った人間だけが責任を負わされるような問題じゃねえのに。でも、当の開発者がその事故で死んじまったもんだから、国民は怒りの矛先をその周りにいる誰かに向ける。それが、教授だったんだろうな。怒りとかいう感情は無意味に、無限に湧いてきやがるから。教授を批判したって意味なんかないが、誰もが怒りを自分の中で抑制できるわけじゃない。また別の誰かが、受け止めざるを得ない。教授はその大役を全うしてたよ。理不尽だったろうに」
「きっと、悔しかったと思う。人生を賭けて造りあげたものが大事故を起こして、意図せずたくさんの人たちを死なせてしまって、それがどうして起きたのかもはっきりしないまま、ただ、関わってたってだけで非難される。一年が経って、橋は直り、列車は何事もなく国を走ってるけど、重要なことは何ひとつ判明していない。そうして今回の事件だ。状況は違えど、自分の近いところでまた誰かが危険にさらされて、実際に危険な目に遭っている」
「そうさ。一部では、モーゼズ教授の呪いだとか、くだらねえ噂をばらまかれているらしい。これまでにもさんざん言いたい放題言われてるだろうに、まだ、あんなことが言えるんだぜ。俺には真似できねえよ。知るかボケ、勝手にくたばっちまえ、って、平気で言っちまうだろうな、絶対」
警察官らしからぬ発言だが、レックスはカイルをとがめようとしない。襲撃事件の現場を通り越してから、レックスは走っていた。じっとしていられなかった。いてもたってもいられなくなっていた。鉄道保安課の人間にできることは限られているが、それでも、手を、足を、頭を、動かさなければいけないと思っていた。犯人を捕らえ、事件を終わらせたいと強く願っていた。《夜鷹》さえ根絶させることができたなら、この国は良いほうへ向かえるだろうと、信じていた。
陽が落ちかけた頃、レックスたちは国の中央を管轄する警察組織の本部、バノック警視庁へと赴いていた。あらゆる課から多くの人間が招集され、大会議室には喧噪と煙草の臭いが広まっていた。中央部警察署に常勤する鉄道保安課の人間にとっては滅多に訪れる機会のない建物であり、カイルはどこかそわそわとしている。ジェイミー・エイムズは怯えている。所用のために何度も出入りした経験のあるスカーレット・マイヤーは慣れた様子だが、眉根を寄せて苛立ちを顔全体で表現している。クラーク・ロウに至っては、どのような心境でいるのか誰にも判別がつかない。ただ穏やかに着席している。
「ダグラス警視総監が到着された」
若手の刑事が大声を張り上げた直後、招集を発令した張本人が毅然とした歩みで現れた。警察組織の頂点に立つ男だった。顎に、命に関わりそうな巨大で痛ましい傷痕が居座っている。歳は六十を過ぎているが、年齢など微塵も感じさせない強靱な肉体が背広越しにも見て取れる。存在するだけで部屋中の刑事たちに威圧感がのしかかり、ひるんだところを獣のような眼差しで貫かれると、黙らない者はひとりとしていなくなる。
「本日付で、以下の命令を適用する」
まるで大型の機関車から放たれているかのような重低音の声は、必要最低限の言葉数しか発しない。
「【国内において、《夜鷹》あるいはそれに準ずる人間だと確証を得られる者と遭遇した場合、その時点で個人の判断により身柄を確保し、罪に問うものとする。対象が抵抗し、周囲の人間に危害を加える可能性がある場合、射殺による実力の行使に踏み切るものとする】」
人いきれが瞬く間に消え去るほどの凍てつく空気が、刑事たちに降りた。
レックスの感覚が急速に研ぎ澄まされていく。
背広の内側にしまいこんでいるものの形が、はっきりと心の中で思い描けるほどに。
「質疑や異議は受け付けない。私が、どれほどの念でこのような令を発するに至ったか、想像してもらいたい。警察の威信にかけて、我が国の安寧が脅かされ続ける現状を、これ以上看過することはできない」
初めてそれを使った時の記憶は、いつまでも鮮明なままだった。レイを守るために、レイを苦しめる恐怖から救うために、レックスは引き金を引いた。それ以前、あれ以来、使うことがなかった。ところが、再び使う必要を迫られている。目の前に《夜鷹》が現れたら確保する。そのためには、この手でもう一度、弾を撃つことも辞さない。
次は、わざと外すことは許されない。
対象の命を奪わなければならない。
「今後、さらなる辛苦が待ち受けていることだろう。これは組織の信頼はおろか、人間が持つべき正常な倫理観をも否定する最低の命令だ。気休めにもならないかもしれないが、責任はすべて私が取る。嫌なら逃げてくれて構わん。だが、考えてみてほしい。殺人犯に罪を償わせることと、罪のない人間の命を守ること、私たちが本当に遂行するべきは、どちらなのか」
ダグラスは、足首に枷でもかけられているかのような失意に満ちた足取りで、大会議室を出ていった。部屋から威圧感は取り除かれても、一同はまともに口をきけない。
数分が経って、ようやくひとりが何か音を発した。机を拳で叩く音だった。我に返ったレックスが音の方向に視線を向けると、そこには座ったままうつむくアーノルドの姿があった。レックスはそこで初めて、アーノルドもこの集まりに参加していたと知った。
「やめろ。警視庁の備品を壊す気か」
何度も繰り返されるアーノルドの机叩きを制したのは、スカーレット・マイヤーだった。意外にもアーノルドは彼女の呼びかけひとつですぐに手を止めるが、拳は依然として固く握られたままでいる。
「刑事のくだらん自尊心を踏みにじられて、腹いせに物に当たるか。さすが、北の連中は行動が半野生化しているな。愛しの女房を連れて、さっさとコスタノアに帰れ」
露骨な悪態に、アーノルドは反応しなかった。大勢の視線を集めながら席を離れ、無言で部屋の扉を開け、姿を消す。アーノルドの退出を皮切りに、大勢の刑事たちはぞろぞろと動き始める。
鉄道保安課の一同も廊下に出た。「せっかく警視庁まで来たんだから」というカイルの提案により、同階の休憩室で一服入れることになった。煙草を吸わないレックスとジェイミーは喫煙室の外でコーヒーを飲む。バノック警視庁で入れるコーヒーは底なしに黒く澄んでおり、味はとても苦い。近くに砂糖も見当たらず、レックスはすべて飲み干せずに残してしまう。ジェイミーも一口で終わらせてしまい、未だ温かさの残るマグを持て余している。
会話の生まれないレックスとジェイミーのところへ、煙草を吸い終えたカイルたちが戻ったが、ふたりは彼と目を合わせようともしない。そんな険悪な雰囲気を作った張本人が、誰よりも険悪な態度で吐き捨てる。
「あいつの周りに人が寄りつかないわけだ。あれだけ罵られておいて、家族も友人も、何ひとつとして言い返してくれないんだからな。そんな仕打ちを受ければ、誰だって他人と距離を置きたくもなる」
「マイヤーさんの言葉は、過剰ではありましたけど、何も、間違っていませんでした」
コーヒーに立つ湯気が眼鏡を曇らせているせいで、ジェイミーの目が悲哀に満ちていることに、誰も気づかない。
「間違っていないから言い返さなかった、だと」
「はい」
「それが気に食わんと言っているんだ。ジェイミー、あとレックス、貴様もだ。家族や友人が目の前で責められているんだぞ。正しいも間違っているもないだろう。一言ものを申すぐらい、したらどうなんだ」
「それはそうかもしれませんけど、責めた本人が怒ってどうするんですか」
険悪な空気を和ませようとカイルが助けを出すが、効果は表れない。すると次はクラークがやってきて、単に楽しく建物の中を見学しているとでもいうような、何事もなかったかのような様子で一同に加わる。
「諸君、警視庁に来た感想はどうだい。年季の入った我らが中央部警察署の建物もあれはあれで親しみやすいが、やっぱり国の中心部ともなると格が違うよね」
「あのね、おじいちゃん。そんな暢気な話をしている場合じゃないんですよ」
「カイル君さ、おじいちゃんはやめようよ。でも、そうか。そうだよね」
わざとらしく咳払いをしてから、クラークは語り始める。
「ダグラス君はああ言っていたけど、殺さずに捕まえられるなら捕まえればいいじゃない。彼だって、事がそれで済むのなら何も文句はないはずさ。今回はあまりに犯行が続きすぎているから、彼もあんな命令を出さざるを得なかったんだよ」
「ダグラス君、って」
「元後輩だからね。ともかく、あまり気負わないように。それに君たちはあくまで捜査課の補佐だ。仮に銃を向けなければいけないような状況になって、撃てなかったり、逃がしたりしたとしても、そこまで追及はされないし、私が追及なんて、させないから。大体、銃なんて捜査課の皆さんのお道具でしょ、だってみんな弾の撃ち合いっこが大好きなんだからって、言っといてあげる」
「ちょっと。声を潜めてください。それこそ本当に銃殺されますよ、課長が」
「大丈夫だよ。もうろくした年寄りのたわ言なんて誰も聞いてないから」
クラークのいつも通りの冗談で、レックスたちに少しだけ笑顔が戻る。コーヒーはすっかり冷めて、ジェイミーの眼鏡の曇りも消える。瞳から、怯えはなくなっている。
「よし、あとはあの強面大男君だな」
「アーノルドですよ」
「知ってるってば。さっき、すごく怖い顔で外に飛び出していったんだけど、みんな、何があったのか聞いていないかい」
「あいつのことだから、すぐにでも捜査を再開したいんだと思いますよ。あいつ、せっかちだから。なあ、ジェイミー」
「うん、確かに。この前なんて」
ジェイミーがアーノルドとの思い出話を始めようとした、その時だった。警視庁の放送器から雑音を伴って、男刑事の緊迫した声が発された。
「全警官に告ぐ。第四地区より通報あり。《夜鷹》と推定される人物がモリー・アンダーソンを誘拐し逃走中。大通りにて目撃者多数。至急直行せよ」
宵闇が迫るバノックの街は、不気味なほどに閑散としている。道路脇に停められたおびただしい数の警察車両が、通行人の不安と恐怖を煽ったためだった。
レックスたち鉄道保安課の一同も、通報があったという地区に車で駆けつける。道中、会話はなかった。さすがのクラークも普段のとぼけた表情を消している。先の通報により、彼らの間に流れる空気は再び重みを取り戻していた。
現場に到着すると、クラークの指示で一同は散り散りになり、モリー誘拐犯の行方を追った。レックスはひとり、大通りの横に伸びる細い路地裏に入る。捜査員のひとりと目が合い、すぐに顔ごと背ける。捜査員は拳銃に弾丸を装填していた。
いつの間にか、その場から離れていた。
レックスは同じことを二、三度繰り返し、ようやく誰もいない路地を見つけると、打ち捨てられた木箱に腰を下ろした。懐にあるものを弄びながら、雨と土とで汚れた地面を意味もなく見つめる。
月の光が届く、静かな場所だった。空間を形成する三方の建物に人の気配はなく、中に積み上げられた大量の廃材が窓からも確認できる。上空に目をやれば、いくつもの星をばらまいた夜が、いびつな四角に切り取られている。
遠くで、捜査員たちの話し声がする。
いくつもの足音が響いている。
それらはレックスに近づいたり、遠ざかったりを繰り返した。不思議なことに、レックスがうなだれている路地裏の空間には、どの捜査員も進入しない。
レックスはとうとう、背広の内側に自らの手を入れた。護身用の拳銃を一丁、力なく握り、取り出して外気にさらす。弾は、すでにこめられている。
レックスの手は震えていた。
耳元に、ダグラス警視総監の言葉がこびりついている。何十人、何百人も存在するであろう犯罪者たちを、発見次第確保、または射殺する。クラークこそ無理に殺す必要はないとは言っていたが、レックスにとってそれは気休めにもならなかった。時間が経てば、自分が常に人を殺す道具を持ち歩いていることを、どうしても思い出してしまう。国民の安全を脅かす存在は排除しなければならない、そんなダグラスの意志はレックスにも理解できる。だがレックスには、未だに覚悟が芽生えていない。機関車強奪犯の最後のひとりを撃ったのは、相手を殺すためではなく、レイを守るためだった。だからレックスはあの時、迷わずに拳銃を使うことができた。だからレックスはこの時、迷わずに拳銃を使うことができない。ダグラスの命令により、レックスは気づいてしまった。自分は、人を撃つ覚悟を持たないまま警察官になってしまっていたことに。もし誰かに聞けるのならば聞いてみたかった。カイルには覚悟があるのか。ジェイミーにはあるのか。アーノルドには。聞いてみたかったが、聞けるわけがなかった。その質問は、自分には覚悟がないと明かすようなものだからだ。
閉ざされた空間で、レックスは待つ。
誰かが引き金を引き、《夜鷹》を殺してくれることを心の片隅で望んだ。卑屈な考えだと解っていても、望むのをやめられなかった。
もう二度と、銃を使いたくなかった。
「お兄さん」
声の主がいつ現れてこちらに近づいたのか、レックスには全く分からない。無様に視線をさまよわせると、レイと同じくらいの年齢の少年が目の前にいる。レックスは驚きのあまり足で木箱を蹴り、鈍い音を立ててしまう。
「それって、拳銃だよね」
声変わりしかけているようで、顔に残る幼さと一致していない。彼はレックスの手にある拳銃に怯える素振りを見せず、悪戯っ子のような笑みを浮かべている。些細なことだが、それがレックスの精神をさらに乱していく。素早く拳銃を懐にしまい直し、木箱から腰を上げて少年を見下げる。
「き、君はこんなところで何をしているんだ。夜も遅いし、今は特に危険な状況なんだぞ。必要なら車で送ってあげるから、すぐに家に帰りなさい」
「危険な状況って、なんのこと」
「なんだ、知らないのか。《夜鷹》だよ。街に現れたって通報があったんだ」
「ふうん」
「ふうん、って、君、事の重大さを考えろよ。連続殺人犯だ。君だって狙われてしまうかもしれない」
そこでレックスは、異変に気づいた。
少年はずっと、笑っている。長い睫毛を生やす目蓋は、ほとんど目を閉ざすまでに降ろされている。
「お兄さんは、優しいね。優しすぎる」
「なんだ、いきなり」
「人を疑うことを知らないから。警察官なのに」
「何が言いたいんだ」
「その通報した人、目撃したのが《夜鷹》だって、どうやって判断したんだろうって思ってさ。だって、お兄さんみたいな警察の人たちも、どういう格好をしているのか、性別はなんなのか、年齢が大体どれぐらいなのか、何もかも知らないんでしょ。警察が知らないようなことを知ってるのって、変だもん」
「それは、確かにそうだけど」
「どうしてなんだろう。教えてよ、お兄さん」
少年は、とぼけたような顔をする。
「いや、教えてよっていうのはおかしいか」
暗雲が、おもむろに空を覆う。
月が姿を消し、少年の明るい笑顔に影が差していく。
「ごめん、やっぱり、おかしくない。学校の先生とかが使う手だからね。自分は答えを知っているくせに、誰かを指名して答えさせる。なんでかっていうと、自分が用意した問題を自分で解くんじゃなくて、相手に解かせたいから。それと同じだよ。問題を解決しようと必死に考える誰かを観察するのって、すごく楽しいし、面白いと思うんだよね」
少年は目蓋を持ち上げる。
この夜の闇よりも深い、暗黒の瞳が、レックスの視線を一点に吸い寄せる。
レックスは、全身が警戒信号を発しているのを感じた。拳銃を入れたばかりの懐に、再び手を入れていく。そんなわけがない、そんなわけがないと、心の中でひたすらに繰り返しながら。
「どうしたの。胸が痛いの」
「君は、いや、お前は誰だ。名を名乗れ」
「お兄さん。そんな、突然、大声で怒鳴るだなんて。いかにも小物のしがちな行いはやめようよ。そんなんじゃ」
現れた影は、少年の明るかった笑顔を歪ませる。レックスをも丸ごと飲みこみ、夜の檻に閉じこめて逃さない。
「そんなんじゃ、あいつを守れっこないよ」
恐怖と驚愕が喉を閉塞し、声が出ない。
「あいつの父親が〈落日急行〉を引き起こした張本人だってこと、ちゃんと知ってんだよ。完璧に隠し通せてるとか思ってるかもしれないけど、そもそもそういうことでもないから。そういうことでもないっていうのは、隠すとか嘘をつくとかの次元でものを考えたところで無意味、っていう意味」
少年とレックスの距離が急激に縮まる。
暗黒が少年の瞳の奥で渦巻いている。
「おれはすべてを知っている。あの日、本当は何が起きたのかを。〈落日急行〉の真実を。それなのにあんたは、おれが《夜鷹》の一員ってだけで、おれを撃ち殺さなきゃならない。はっきり言って滑稽だよ。間抜けな上司の命令に機械みたいに従って、この国でたったひとりの証人の口を封じてしまう。国民はますます警察を信用しなくなるどころか、真実には永遠にたどり着けなくなる。《夜鷹》は生き続ける。いくらあんたらが殺し続けても、いなくなりはしない。殺したいなら殺したいだけ殺せばいい。気が済むまで。でも《夜鷹》は、そう簡単に壊滅するような組織じゃないんだよ。いや、組織っていう言い表し方自体、適切じゃない」
嘘をついている様子はない。
レックスには、聞きたいことが山ほどある。それなのに質問はひとつとして声に出せない。
「《夜鷹》は、概念なんだ。警察が、この人間は《夜鷹》だと、この人間は《夜鷹》じゃないと断定できないのは、この国の誰しもが《夜鷹》になる可能性を内包しているからだ。白黒つけられない。みんな灰色。おれも、あいつも、あんたもな」
少年はレックスと距離を取る。
無防備に背を向けて、空を見上げる。まるで彼を照らそうとしているかのように、雲が流れて月の光が再び地上に落ちた。
レックスはやっとまともに息ができるようになり、絞り出すように問いかける。といっても、それはレックス・ベイカーが聞きたいことではなかった。警察官として、どうしても問いたださなければならないことだった。
「お前は、モリー・アンダーソンを巡る一連の事件の犯人か」
答えは、あっさりと返される。
「そうだね。実行したのはおれだよ」
「誰かに命令されたってわけだな」
「鋭い」
「からかうな。誰の指示で動いているんだ」
「それは本人から聞きなよ。もうすぐここに来るからさ」
こちらに近づいてくる足音が狭い路地では反響となり、ふたりの耳に届く。レックスは期待する。期待をしてしまう。見るからに凶悪で、残忍で、狡猾そうな犯罪者であればどんなに良かったかと、後になってレックスは思うことになる。
現れた「真犯人」は、凶悪でも、残忍でも、狡猾でも、なんでもなかった。
「さっきから聞いていれば、あなた、ぺらぺら喋りすぎ。私はともかく、あなたは仮にも《夜鷹》の統率者なんだから、余計な発言は控えておいたほうがいいんじゃないかしら」
「だって、あまりに知らなさすぎるから。少しは教えておいてやろうかって気持ちになったんだよ。単なる依頼者が口出ししないでくれるかな。おれにはおれの考えがあるんだよ。それに、おれなんかの心配してる暇は、君にはないだろ。このお兄さんは《夜鷹》あるいはそれに準ずる人間を確保または射殺するように命令を受けているんだ。自分は《夜鷹》じゃないからって安心はできないよ。おれはただの実行犯で、計画を立てた主犯は君なんだから。《夜鷹》に準ずる人間かどうかをどうやって判断するのか、それはお兄さん次第だけど、おれは、君がその条件を満たしていると思ってるよ」
「へえ、銃殺命令なんて出てたの。見た感じ、若いね。まだ就職して数年ってところか。こんなのに人を銃で撃ち殺すなんて無理でしょ」
まるで、演劇のようだった。少年と少女の会話はそう錯覚してしまいそうになるほどに現実離れしていて、レックスの頭に理解する時間を与えない。
「ねえ。なんとか言いなよ。もしかして、もっと丁寧な言葉で喋らないと相手にしてくれないのかな。なんとか仰ってくださいよ」
失笑を伴い、少女はレックスに反応を求める。
レックスは少女の顔を、見据えることができない。わざと目の焦点をずらして、少女の顔を、少年の顔を、現実を、ぼやけさせる。
「私、この男の子に頼んで、いろんな人を痛い目に遭わせてきました。特に不快だった人間は、殺してもらいました。だって、邪魔だったんだもん。目障りだった、って言ったほうが近いかな。なんていうんだろ、視界に入れたくなかったし、存在そのものが許せなかったんだ」
これまでの被害者の名を、少女は順に挙げていく。大嫌い、大嫌いと嬉しそうに、言葉の刃物でひとりずつ丁寧に切りつけていく。
「本当は、まとめて皆殺しにしてほしかったんですけどね。私が指定した標的の中に《夜鷹》の素質がある人間が数人いたらしくって。その《夜鷹》に実行を依頼する以上、彼の『未来ある人たちは殺したくない』という言い分も聞かざるを得なかったってわけ」
「おい。君だって、大事なことをいっぱい喋ってるじゃないか」
「固いこと言わないでよ。どうせ、もうすぐ死ぬんだから」
レックスが半錯乱状態にあると察したのか、少女は諦めたように少年のほうへ体の向きを変える。
「最後の依頼。私をこの場で殺して」
「どうやって」
「なるべく一瞬で逝きたいから、拳銃で頭か心臓を狙って頂戴」
「悪いけど、さすがに銃は持ってない」
「そこの魂が抜け落ちちゃったお兄さんから失敬すれば。きっとあの背広の内側に、小さいのを隠しているはず」
少年はその場から動こうとしない。
「殺すのは構わない、けど」
「けど、何よ」
「報酬をもらっていない。君はもう、他人との繋がりから断絶された存在なんだよ。君が死んだら、誰から受け取れっていうのさ」
「ないわよ、そんなもの。馬鹿なんじゃないの。こんな、他者に人殺しを依頼するような人間が、価値のある何かを持ってるとでも思ったの。お金なんてないし、権力もない。私自身が欲しいだとか、間抜けな要求はやめてよね」
その時、レックスは確かに見た、気がした。真っ黒だった少年の瞳に、わずかな光が宿るのを。
「君にだって、存在価値はあると思うよ。おれなんかとは違って」
「いいえ、私にはない。あんたにもないっていうのには同意する。頼まれたからって平気で人を殺すんだもの。狂ってるわ」
「平気なんかじゃないけど」
少年の声量は、壊れた拡声器を通しているかのように、不規則に大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。それとは対照的に、昏迷を極めていたレックスの精神状態は、不思議と落ち着きを取り戻し始める。
「人を殺すことは、怖くて、悲しくて、気分が良い」
懐にみたび、手を入れる。
拳銃を取り出して、ふたりに銃口を向ける。
撃鉄を起こす音を、ふたりの注意を引くためにわざと大きく響かせる。
少女と少年は銃口に気づく。
彼らの眼差しは、軽蔑と嘲笑とで表面こそ塗り固めてられてはいるが、その奥には、撃たれることを望んでいるのかのような、期待と喜びが満ちていた。レックスにもそれは感じられ、とても悲しいことだと思った。まだ年端もいかないのに、彼らは嘘偽りなく心から死を求めている。そうでなければ、自身に突きつけられる銃口に対し、死と最も縁遠い感情で応えたりはしないだろう。
「撃てるものなら、撃ってみろよ」
少年の強がりにも似た挑発が、レックスに刺激を与える。
「どちらを撃つの。殺さなければならない彼か、殺してはいけない私か。それとも、両方か」
「俺は」
レックスの口から、やっと声が出た。
「俺は、どちらも撃たない」
しかし、銃声は響いた。
少女があざ笑おうと唇を持ち上げた、その瞬間の出来事だった。
血飛沫が闇夜に舞う。
薬莢が路地に転がる。
右肩を押さえてうずくまるのは、少年だった。
少女はレックスを睨みつける。
レックスは、なおも銃を構え続けている。
その銃口から、硝煙は上がっていない。
そもそも彼の銃の向きは、少年を撃ち抜く軌道を描かない。
すべてを悟った少女が、舌打ち混じりに小道の奥の暗がりへ目を向ける。
もうひとつの拳銃が、闇の中から突き出されている。
「アーノルド、こっちだっ」
声を絞り出し、レックスは助けを求める。
弾かれたように、少年は逃げ出す。闇に紛れる直前、レックスを一瞥する。おぼえていろ、という意思表示だった。
月光の下に姿を現したアーノルドは、拳銃をしまってからレックスに駆け寄る。目立った外傷がないことを確認すると、ろくに状況も把握できていないまま、滴り落ちた血の跡をたどり、逃亡した少年を追おうとする。
「待て、アーノルド。あいつの前に、その子を」
レックスがそう叫んだ時には、少女は別の警察官によって拘束されていた。凶暴な獣のような抵抗を見せるが、屈強な男たちに力でかなうはずがない。
アーノルドはレックスの肩を叩き、ごくわずかにうなずく。
「お前はよくやった。俺が保証する」
決して慰めなどではない、力強い肯定だった。
数分も経たないうちに後続の刑事たちが現場に集い、事態は急速に収束へと向かっていった。複数の刑事が追跡を試みたが、結局のところ《夜鷹》の統率者であるという謎の少年は行方をくらまし、警察の元に残ったのは、すべての事件を彼に依頼していたという、首謀者の少女だけだった。
「ねえ、早く死刑にしてよ」
警察車へ連れて行かれるまでの間、彼女は周りの刑事たちにそう言い回る。彼女に怯えや後悔などの感情はなく、そこにはただ続く期待があった。やっと死ねる、やっと誰かが殺してくれる、やっと、生きることを投げ出せる。
彼女の願いは叶えられない。
現場にはスカーレット・マイヤーも立ち会っていて、少女も同じように、彼女に声をかける。怒号が響き渡るのを周辺の刑事たち全員が覚悟する。
少女は、冷徹に見下ろされる。
その迫力に少女は思わず立ち止まるが、ふざけた態度を改めようとはしない。
「刑事さん。私、死刑ですよね。だって、たくさんの人を殺したり、傷つけたりしたんだもん。それもあの《夜鷹》に頼んで。ああ、言っておくけどあいつらのことは何も喋らないよ。そういう契約だし。だから警察は、私を生かしておいたってなんの利益もないんだよ。ね、だから早く殺して」
少女の頬が、平手で打たれた。
その行為に、感情は伴っていない。
少女も叩かれたことに対して、怒りはしなかった。
「その前に、お説教ってわけね。ふふっ。いくらでもどうぞ」
「何を思い上がっている」
少女の胸倉が、粗雑に掴まれる。あまりの気迫に、周りの刑事たちは止めに入ることができない。
「貴様のような人間が、誰かに本気で怒ってもらえるとでも思ったのか。貴様を愛してくれる者など、もうこの国のどこにもいない。怒ってやる意味がない。叱ってやる必要がない。愛してやる価値がない」
少女の身体は、時間が停止したかのように動かない。
「私が貴様に与えるのは罰だけだ。罰として貴様を、生かしてやる。死ぬまで生かしてやる。貴様が貴様の意思で死ぬことを許さない。諦めろ、貴様の生命活動には、なんの意義ももたらされない。ただ罰を受けるためだけに生きろ」
スカーレット・マイヤーは、少女を突き放す。汚物とこれ以上接触し続けることを拒むかのように、乱暴に。
少女は何も言い返さなかった。
車に乗りこむ前、一度だけ後ろを振り向き、そこにいる誰でもないが、どこかにいる誰かの姿を探して目線を左右させる。
その様子はまさに、親との再会を望む迷子だった。
彼女はようやく、年相応の顔になっていた。
痛いほどの沈黙の中、少女を乗せた警察車は留置場への道を走っていった。
北部少女親族連続殺害事件の主犯、モリー・アンダーソンは逮捕された。
未成年である上に、彼女が自ら手を下したわけではないものの、数多くの人間の命を奪い、国民の安全を脅かした罪は重く、以後厳刑に処せられることとなる。
事件の実行犯である少年は、現場から逃亡した後、ある邸宅に身を潜めていた。そこは一般に官舎と呼ばれており、家主がひとりで住んでいる。
「油断したね。現職の刑事に致命傷を負わされるとは」
家主は少年の、アーノルドの銃撃により負傷した体の治療に当たっていた。家主の職業は医師ではない。正式な認可を得ずに、これまでも簡易なものに限るが医療行為に及んでいる。麻酔もなしに傷を手荒く縫合され、少年を激痛が襲うが、文句のひとつもこぼさずに治療が終わるまでじっと耐えていた。少年の肉体には複数の、あまり綺麗でない治療痕がある。
「物陰に別の刑事が隠れていることぐらい、予測しておくべきだ。肩をかすめただけなのが幸いだった。肉体に弾が食いこんでいたりでもしたら、さすがに私の手には負えない。また彼女をトリンゼットから呼び出さなければならなかったところだよ」
治療が終わると、少年は礼も言わずに壁際のツイード・ソファーに寝転がり、毛布を被る。家主は構わないといった様子で、優しい声で語りかける。蝋燭の火が、どこか作り物じみた微笑が貼り付けられている家主の顔を、ぼんやりと照らす。
「君にはまだ、やってもらいたいことがあるのだから、もう少し体を大切にしなさい。第一の計画実行まで、あとわずかだ」
家主はパイプを吹かす。
顔面に付着した微笑が、燻る煙の奥ではがれ落ちる。
「頼りにしているよ。ヨーク」
ヨーク、と呼ばれた少年は、毛布から頭だけを出して家主を睨み、ささやかな仕返しとでも言わんばかりに、家主の名を呼び返す。
「モーゼズ」
「なんだ」
「本当に、本当だな」
「何が」
「あんたの言うことを聞いていれば、この国は生まれ変わるんだな」
「そう不安がるな。君は普通の人間のように、何かを考えたり、自ら進んで行動を起こしたりする必要はないんだ。ただ私の思った通りに動いてもらうためだけに、私は君を生かしたのだから」
「でも、あんたの邪魔になりそうなやつだって、たくさんいるぜ」
家主はわざとらしくため息を吐く。
「そうなんだよ、困ったものだ。いずれ排除しなければならないが、まだ、その時ではない。まずはトマスとキングスの奪還を優先すべきだからね。まあ、探りを入れるぐらいはしておこうかと思っている。近いうちに良い機会もあることだし、明日にでも接触を試みるよ」
「排除って、殺すのか。おれはもう人を殺したくない」
「肉体活動を停止させる以外にも、人を殺す手段はある。たとえば、社会的に存在を抹消したりね。私には、それが可能なのだよ」
「あんたがユロック大学の教授で、イーグルの機関車の設計に関わっていたからか」
「その通りだ。立場というものは、有効に使わなければならん。我が国の未来を創っていく者としても。安心しなさい、私は誰もを守ってあげる。無論、君のことをもだ」
おやすみ、という言葉を最後に、家主は私室に戻っていく。蝋燭の火は吹き消され、少年の眠る部屋は闇に包まれる。
家主は少年を逃がさない。
少年もまた、逃げようという気を起こすことはない。