アルフレッド・デイトンに連れられて、北部渓谷機関車転落事故の生き残りではないかとささやかれる少年、ロブ・トウニー・ジョンの母親であるベラとの対話を終えたレイは、アパートに戻り、南部出張から帰ったレックスを迎えるなり、我慢できずに泣き出してしまった。その日は話ができるような状態ではなかったので、日を改めてレックスと、その場に居合わせたエルシーも交えて、ロブのことを話した。どうして泣いていたのか、その理由を説明することはできなかった。エルシーからは説明を求められたが、レイは「言葉では言い表せない」と断った。それは偽りではなかったが、「はっきりと言葉にしたくない」というほうが正しかった。
レックスは出張先でジョッシュ・スターキーという後輩の警察官と仲良くなったことを話した。レックス曰く、「レイに似ているかもしれないと思ったけど、やっぱりそんなには似てなくて、でも、良いやつ」なのだという。詳しい捜査内容は当然ながらレイとエルシーには明かさなかったが、レイが巻きこまれた放火事件の犯人に関する手がかりは得られたとだけ、ふたりに教えた。
「なんだか最近、おかしいよね。この国」
行き詰まる話の流れを変えようとするかのように、エルシーが言う。レックスが固くなったパンをかじりながらそれに応じる。
「おかしいって、何がだよ」
「こういうの、なんて言うんだろう。人の気持ちに、余裕がなくなってる、みたいな感じ。雑貨店で仕事してる時でも、思うもの。お店に来るお客さんとか、町を歩いててすれ違う人とかが、すごく苛立ってたり、怒ってたりしてて、怖いな、って」
「よく言うぜ。お前だって怒ってんだろ」
「それはレックスが怒らせるようなことばかりするからでしょ」
トーストを小さくちぎって口に運びつつ、レイも話に参加する。
「エルシーさんが出会った人が、そういう人だったってだけじゃないですか」
「そうなのかな。そんな風に思ったことなんか、なかったけど」
「いつぐらいから、そう思うように」
なったんですかと言いかけて、レイはすぐに後悔する。もしかするとエルシーは意識してそのことに触れないようにしようとしていたかもしれないのに、レイの質問は彼女の存意を無視してしまったことになる。現に、エルシーは言いよどんでしまう。
「やっぱり、あの事故で変わったのかなあ。俺たちの思ってる以上に」
単純に能天気なだけなのか、あえてはっきりと言葉にするのが彼なりの気遣いなのか、レックスがエルシーの回答を引き取り、エルシーが触れようとしなかったことにあっさりと触れた。しかし場の空気はレイが心配したほどに悪くはならない。レックスがはっきりと言葉にしたおかげで、レイもエルシーも、変に遠慮する必要はないとレックスに気づかされたのだった。
「やっぱりレックスも思ってたんだ」
エルシーが打ち明ける。レックスはパンを口に含み、頬を上下に動かしている。
「そういうのを目の当たりにせざるを得ない職業だからな。警察官として働き始めた頃からは、比べものにならないぐらいに忙しくなった。俺のいる保安課はまだ激務ってわけでもないが、捜査課の連中なんか、いつも大変そうに駆け回ってるぜ。あの事故以来、警察の信用が落ちたのはもちろんだけど、国民の中に、鉄道が主体となって動いている国の体系そのものへの不信感みたいなものが生まれてきてる。レイを人質に取った機関車強奪犯と対決した時もそう感じた。あいつらだって、事故で家族を亡くした被害者なんだ。だからこそ俺も本気で闘ったよ。ちゃんと、罪を償わせてやらなきゃいけないと思った」
「せっかく格好良いこと言うなら、口の中のもの飲みこんでからにしたらいいのに」
「うるせえ」
深刻になりかけた雰囲気は、レックスとエルシーの言い合いによって砕けていく。レイはふたりが落ち着くのを待つ間、機関車強奪犯に車上へ連れこまれた時のことを思い出していた。人間ではない別の生き物なのではないかと思わせるほどの巨漢。あまりに人間らしさにまみれた憎悪の目を持つ細身。レイを人質に取ろうと言い出したのは、細身のほうだった。レイもまた、逆らわなかった。彼らの理念に共感したわけではなく、何も考えることができなくて、ただ、言われるがままについていき、従っただけだった。もしレックスが助けてくれなければ、自分はどうなっていただろうと、レイは考えてみる。それはそれで、レイの求める真実に近づくことはできるのかもしれなかった。しかし、レックスの傍にいるほうがずっと楽しいし、心強いし、気分が良かった。
生きることを諦めるのをやめたのは、正しい選択だったと、レイは信じている。
不意に鳴り響いた部屋の入り口の扉を叩く音によって、レイの回想は霧散した。二〇一号室への来客だ。
「あの、誰か来たみたいですけど」
レックスに知らせようと声をかけるが、レイの声が小さいこともあり、エルシー相手に喋り続けるばかりで気づかない。口論の一歩手前まで過熱しているようで、大声を上げない限り注意を向けることはできそうにない。まごつく間に再度、扉が叩かれる。レイは諦めて自ら応対すべくふたりから離れ、大した警戒もせず扉を開けた。まず目に入るのは、垂れ下がった背広の袖だった。まだ夏の暑さも厳しい中ここまで歩いてきたのか、かなり強い汗の臭いがする。訪問販売者か何かだろうか、どう断ろうか、などと考えながら、視線を持ち上げていく。
心臓が止まるかと思った。
レイが目だけでなく首を少し傾けないと顔が見られないほどの大男だった。がっしりとした体格が淡色のシャツ越しにも見て取れる。カフスボタンの外れた袖口からは、体毛に覆われ、ごつごつとした手がのぞく。まっすぐに結ばれた口と、容赦なくレイを見下げる三白眼が、男の顔をよりいかついものにしている。
男はレイをしばらく見つめたのちに、その口を開いた。
「ここはレックス・ベイカーの住居か」
レイは緊張と恐怖のあまり、すぐには答えられない。男の声はあの日の機関車強奪犯のように低く、威圧感を伴っている。あの巨漢のような薄汚い笑みこそ浮かべていないが、先ほどまで追想していたのもあって、どうしても目の前の男を強奪犯に重ねずにはいられない。
「聞こえなかったか。ここはレックス・ベイカーの住居か。次に、お前は何者だ」
「ぼ、僕は、レイです」
「まず、ひとつめの問いに答えてからだろう」
「ご、ごめんなさい」
「どうしたレイ。勧誘なら黙って追い返せって言っただろ」
入り口の扉が開いていると気がついたレックスが、レイを助けようと訪問者に近づく。男の顔を見るなり、驚きと喜びとが入り混じったような息の吐き方をした。
「なんだよ、アーノルド。どうしたんだ、いきなりこんなところまで」
「なんだ、いるじゃないか。久しぶりだな、レックス。突然ですまないが、事情がある。許せ」
レイはレックスへすがるように涙目を向ける。どうやら男の名はアーノルドといい、レックスも初対面ではないようだ。ならばそうと早く教えてくれと、視線を突き刺して訴える。
レックスは破顔しつつも眉をひそめる。
「お前、汗びっしょりだな。大丈夫かよ」
「これだから、夏に中央へなんか来たくなかったんだ。どこに行っても風通しは悪くて蒸し暑い。駅もその周りの街も、どこもかしこも鉄臭い」
「お前は汗臭いぞ。それに今日は、まだ涼しいほうだ。この程度で音を上げてたら、南部に飛ばされでもしたらやっていけないぜ」
「ふん。そんな異動命令は跳ね返してやる」
胸を張りながら、アーノルドはそれまで見開いていた三白眼を細める。
「ところで。お前、結婚したのか。いつの間に」
レイはアーノルドがレックスと話している隙に部屋の奥に引っこみ、同じく警戒を露わにしているエルシーの後ろに隠れて事の成り行きを見守っていた。アーノルドの質問はレックスたちにしてみればあまりに馬鹿げていたが、確かに第三者から見ると年齢構成は核家族そのものだ。
レックスは苦笑を歓迎代わりに、アーノルドを自分の部屋へと招き入れる。
「事情があるのは俺も同じだよ。とにかく、部屋で話そう。あと、シャワーも貸してやるから浴びていけ」
訪問者は改めてアーノルド・エイムズという自らの名を名乗った。
歳こそ離れているがレックスとは警察学校の同期で、周囲の人間を物怖じさせる見た目と無口で無骨な態度から孤立しがちだったところへ、レックスが声をかけたのが始まりだった。以来、警察官を志す者同士として交流は続き、それぞれ異なる地に配属されるまでの間、互いに競い合い、また、助け合った仲だという。アーノルドは出身も勤務地も北部であり、一年を通して寒さの厳しい環境で育ってきたために、中央より南方向に広がる夏の気候を苦手としていた。部屋に通されてからも、しきりに汗を衣服の袖で拭っている。エルシーがさりげなく差し出した水も、すぐに飲み干してしまった。
アーノルドの汗が引いたところで、レックスは自分の近況を彼に伝える。鉄道保安課に配属され、エルシーとアパートの部屋が隣同士になり、北部渓谷での事故の後にその余波を受け、仕事に忙殺され、やがてレイと出会った。アーノルドは口数が多くないので、腕を組んで黙って聞いているだけだった。目つきも悪く、端から見ればまるでレックスを睨んでいるかのようだった。だがレックスが言うには「不愛想なだけで、人のことはちゃんと見てるし、人の話もしっかり聞くから、良いやつ」らしい。
「要するに、お前たちは他人同士なんだな。だと思った」
レックスの近況報告が終わって、アーノルドが真っ先に述べた感想がそれだった。
「なんでかな。初めはお前もとうとう身の振り方を決めたかと感心しかけたが、話を聞く前から、どういうわけかお前たちは家族ではないと確信を持っていた。家族には見えないと言うべきか」
三人とも、反応に困り口をつぐむ。アーノルドは室内に蔓延する白けた空気などお構いなしにふんぞり返る。彼に場の雰囲気を和ませようだとか、そういった心遣いをする気は毛ほどもない。
「何より、お前は当分、身を固めたりしないだろうと思っていたからだろうな」
「俺なんかが結婚できるわけがない、ってか」
「違う。お前なら、その気になれば女のひとりやふたりは惚れさせられる。だが俺が思うにレックスは、自ら独り身でいることを選ぶだろう、という意味だ」
それは、この場のアーノルド以外の誰にとっても予想外の見解だった。レックスは照れ隠しに大げさな笑い声を上げて茶化そうとする。
「なんなんだよ。褒められてんだか、けなされてんだか」
「どちらでもない。俺の勝手な考えだ」
「普段無口なくせに、言う必要のないことまで言いやがって。なんで中央に降りてきて、しかも俺のアパートにまで来たのかを、さっさと話せよ」
アーノルドは顎を上げ、固く組む腕に力をこめる。
「けんかした」
「また上司に逆らったか」
「いや。あいつと」
レイとエルシーは話が見えない。レックスだけが合点したように失笑する。
「そんな偉そうに言うことかっ」
「なんだ、しおらしくしろとでもいうのか。その必要はない。俺は悪くないからな」
「どっちも『自分は悪くない』って主張するから、けんかっていうんだよ」
「お前こそ、くだらないことばかり言う」
その後の話で、アーノルドには数年前に結婚した妻にあたる女性がいること、その女性は中央に住んでおり、それぞれの職場から離れられないためにやむを得ず別居暮らしをしていること、アーノルドは時折彼女の元へ赴き、仕事を辞めて北部で一緒に暮らそうと持ちかけているが、なかなか首を縦に振ってもらえないこと、それが火種となり口論に発展し、ろくに謝りもせず家を飛び出し、ふらふらとあてもなく街を歩いた末にこのアパートへたどり着いたことなどが明かされた。
「なんだ、『寒いから嫌だ』とは。それが同棲を拒む立派な理由になると本気で思っていやがる」
「怒るなよ。お前がこっちに来たらいいじゃないか。結婚式も中央で挙げろよ。そのほうが俺も顔を出しやすいし」
「簡単に言うな。そもそも俺だって、暑いのは好かん」
「おんなじこと言ってら」
「えっと、結婚はされているけど、挙式はまだなんですね」
「はい。婚姻届だけ、役所に提出しているんです。俺に、金銭的な余裕がないもので。いつかは挙げたいと、ふたりで話してはいるんですがね」
怖い顔のアーノルドから怖くない話が聞けたおかげか、エルシーも話の輪に参加した。互いに語数が少なく、会話は弾まなかったが、アーノルドは悪い気はしていないようで、笑顔こそ見せないものの着実に機嫌を取り戻しつつあるようだった。
レイだけが、盛り上がる三人を離れたところから黙って見ていた。
レイも、アーノルド・エイムズは一般に「怖い」と評されるであろう人間だが、犯罪者のような「怖い」人間ではないと認識を改めてはいた。輪に入るのをためらったのには、別の理由があった。
結局アーノルドは妻女のところへ帰るつもりがないようで、この日の夜はレックスの部屋に泊まるという話になった。体型の通りたくさん食べるアーノルドのために、エルシーが料理を振る舞うという。レックスが車を出し、商店街へ買い物に出かけていった。友人とはいえ客人をひとり待たせるわけにはいかないと、レックスはレイに留守番を命じた。レイが抗議する間もなく、ふたりはアパートの階段を下りていき、そこには途方に暮れたレイと、だんまりを決めこむアーノルドが残された。つい先ほどまで騒がしかった二〇一号室は、痛いほどの静寂に包まれる。
テーブルを挟んで、二台の長椅子がある。レイとアーノルドはそれぞれ片方ずつに腰かけて、視線は合わせないが体は向き合わせる。テーブルには、アーノルドが最後の一滴まで飲み干した空のグラスが置かれている。
「あ、あの。もう一杯、飲みますか。水」
「ああ」
ともすれば永遠に続きかねない沈黙に耐えきれず、レイはグラスを持って台所に逃げた。しかし水を注ぐのはすぐに済み、グラスを差し出した後はまた長椅子に座らざるを得ない。アーノルドも二杯目を一口で空にしてしまい、再び沈黙が始まり、続く、かと思われたが、アーノルドが出し抜けに口を開いた。
「おい」
「は、はい。えっと、なんでしょう」
「黙ってないで、客人をもてなすぐらいはしろよ」
「す、すみません。あの、シャワー、浴びますか。着替えは僕が用意するので」
「俺が言ってるのはそういうんじゃないんだが。まあ、後で浴びるが」
アーノルドは組んでいた腕をほどいて、両手をそれぞれの膝の上に乗せた。
レイも、お前もそうしろと言われたような気がして、アーノルドと同じ体勢を取る。
「何故、レックス・ベイカーを選んだ」
質問の意図が汲み取れず、レイはとりあえず聞き返す。
「え、えっと。選んだ、というのは」
「南部警察の連中から話は聞いている。ホープウェー発の中央行き夜行列車が強奪された事件で、犯人が用意した人質がお前だった、と。孤児院の出身で身寄りも金もないのに、無賃乗車でこの街に来て、知りもしない独身の若い警察官の家に住みついてまで、お前が果たしたいと願う、その目的。警察組織に属する者として、ひとりの人間として、興味がある」
「それは」
「皆まで言うな。正面切って尋ねたところで、お前は拒否するだろうからな。お前にだって黙秘する権利があるし、俺も無理に聞き出すつもりはない。だから別のことを聞いた」
何故、レックス・ベイカーを選んだか。まだ説明不足だが、なんとなくアーノルドがどういう思いからそのような質問をしたのか察することができる。北部渓谷機関車転落事故の真実を追い求めるという目的のために、レイはレックスの住む中央部に留まっている。それは何より、レイを強奪犯の手から救い、彼に一緒に住むことを持ちかけたのがレックスだからだ。しかし単にそう答えたとしても、きっとアーノルドはさらに深いところまで問いただしてくるだろうと、レイは見当をつけている。理由ではなく、気持ちを問われていると、感じた。
「僕は」
切り出しかけて視線を上げると、目の前にアーノルドがいない。次に、レイの座る長椅子が大きく軋む。アーノルドはレイの右隣にどっかりと腰を下ろしていた。レイは思わず体を浮かす。
「お前、人と目を合わせるのが苦手だろう」
図星だった。動揺しながらも、座り直す。
「なんだか、さっきの位置関係だと取り調べみたいだったんでな」
「ごめんなさい。刑事さんには直せって、しつこく言われてるんですけど、全然、直らなくて」
「構いやしねえよ。お前が真剣に喋ってるのは伝わってくるし、俺だって、誰とも合わせるつもりはねえし。好きな女とならともかく、気持ち悪りいだろうが。なんでもないやつの面を、じいっと見つめながら会話なんてよ」
「そこまでは思わないです。それと僕、別に『真剣に喋ってる』ってわけではないんですけど」
「喋ってるだろ。ふん、なるほどな、確かにレックスから聞いた通りだ。内気でおとなしいが、自分の意見はきっぱり言う」
レイとアーノルドは横に並び、互いの顔を見ずに話している。どこを見るでもなく、どこかを見ている。
「そんなお前が、目的を達する手段にあいつを選んだ。不思議で仕方がない。お前があいつを選んだことも、あいつがお前を受け入れようとしたことも。いや、後者のほうが強いか」
「僕も、ずっと疑問に思っています。聞いてみたことはあるんですけど、はぐらかされてしまって、ちゃんと答えてもらっていません」
「俺の勘では、おそらくあいつも答えを準備できていないんだろう。もしもの時に他人に説明するための事務的な理由は用意できても、お前を心から納得させられるような真意は言葉にできなくて、ごまかすしかなかった。答えなかったんじゃなく、答えられなかったんだ。あるいは、答えたくなかったのかもしれんが」
朝から開け放っていた窓から風が吹きこみ、部屋の蒸し暑さを取り除いていく。夏にしては優しい陽射しにグラスの汗が照らされて、宝石のように輝いている。
「本人にもさっき、言ってやったんだが。あいつは当分の間、独身であり続けるだろうと俺は予想していた。これについては、あいつにその能力がないわけではなく、本人の意思だと言い切れる。なんでかっていうと、あいつは良くも悪くも幼いからだ」
「たぶん、エルシーさんとか周りの大半の人も、刑事さんのことをそう言ったり、思ったりしています」
「誤解しないでほしいんだが、俺はあいつを馬鹿にしているわけじゃない。精神的に幼いと評されるのもまた、本当のところではあるだろう。だが、俺はあいつの友人だから、気持ちを受け取ってやりたいと思うんだ。レックス・ベイカーは、ずっと少年のように生きることを望んでいるわけじゃない。自分の生き方を変えることを、拒んでいたんだ」
「それは、少年のように生きることを望んでいるのと同義ではないんですか」
「少し、違う。あいつはこのまま、少年のような男であり続けることも良しとしないだろう」
「どうして言い切れるんですか」
「だから、勘だよ。刑事の勘、とでも言うべきか。本人に直接聞いたわけじゃないし、誰かから聞かされたわけでもない。俺の勝手な考えだ。って、これ、さっきも言ったよな」
レイは、アーノルドも自分と同じように人と会話するのがあまり得意ではないと知った。
「アーノルドさんは僕にそれを伝えて、どうしたいんですか」
「待て。続きがある」
得意ではないが、相手に主導権を握られたくはないらしい。
「しかしながら、だ。今日、数年ぶりにレックスと再会して、俺の考えは間違っていたという結論に達した」
「間違ってないですよ」
「間違っているんだよ。お前がここにいることが、何よりの証左だ」
レイは、アーノルドがどのような表情をしているか、横目で見る。人の顔を盗み見るのは得意だった。扉の外で見せていたいかつさはどこかに消えていて、寂しそうな陰りを作っている。
「レックスはお前を引き取ることを誰にも相談せずに自分で決めたそうだ。誰かの保護者になるだなんて、俺は絶対にありえないと思っていた。酒も煙草もやらない、金や出世に興味がない、女も作らない、そもそも性的な事物に関わろうとしない。それがレックス・ベイカーだった。だがそれでも、あいつは自分が自分じゃなくなるのを拒んでなんかいなかった。お前ひとりの存在だけで、すべてが打ち消される」
レイはまた、過去を見つめる。
機関車強奪事件の主犯二名が逮捕された後、彼らの仲間を名乗る男がレックスとレイを中央駅に呼びつけた。ふたりは事件に、また自分自身に決着をつけるために要求に応じ、中央駅にて男と対面した。男は拳銃を所持していたが、レックスも同じく懐に隠していた拳銃を発砲し、対象に致命傷を負わせ、レイの命を守った。後で聞いた話では、レックスはこの対決にて初めて人間相手に銃を使ったのだという。指に力をこめるだけで人を殺せてしまう道具。それは間違いなく、誰かを守る覚悟のない人間には到底扱えない、危険で、重みのある武器だ。レックスは銃を撃つ時、どんな気持ちでいたのだろう。レイは想像しようとするが、思うような形にならない。助けを求めるように、レイの視線はアーノルドの顔へと向かう。
「俺が何を言いたいかっていうとな」
至近距離で、レイとアーノルドの目が合った。
「あいつのこと、よろしく頼む」
レイはしばらく待ったが、アーノルドはそれ以上、何も語ろうとしない。すぐさま顔を背けてしまう。
「こんなに時間をかけてお話をして、アーノルドさんが僕に言いたかったことって、それだけですか」
「ああ」
「理由を聞きたいです。僕はどちらかっていうと、よろしく頼まれる側じゃないかと」
「レックスよりも、お前のほうがしっかりしている。あいつがこれからもお前の保護者を務められるように、手助けしてやってくれ」
「僕は無力です。自分ひとりでは何もできない。この間も事件に巻きこまれて、刑事さんや、周りの人に助けてもらうしかなかった」
「自覚があるってだけで、お前はもう、無力なんかじゃないよ」
「頑なですね」
「教えてやろうか。お前はきっと、自分の幼さを他人に見透かされるのが嫌いだろうと思ってな」
「それもアーノルドさんの勝手な考えですか」
「なんだ。違うのか」
「いいえ。その通りです」
たとえこの時が、明るく笑ってレイを安心させてあげるべき瞬間だったのだとしても、たとえどんな場面であっても、アーノルドは決して、笑わなかった。
「お前とレックスの、数少ない共通点だろう」
買い物から帰ったレックスとエルシーは、レイとアーノルドが打ち解けているのを見て困惑した。レックスはアーノルドに、エルシーはレイに、それぞれふたりでどんな話をしたのか尋ねてみるが、あらかじめ示し合わせたかのように揃って口を閉ざし、レックスたちをさらに困惑させた。ただ、アーノルドは一言だけ、
「俺たちだけの秘密だ。男同士の約束ってやつだよ」
と言い捨てた。エルシーはますます困ったようにおろおろし、レックスは面白くなさそうにそっぽを向いてしまった。もちろん約束などしていないためアーノルドの嘘なのだが、レックスの反応があまりにおかしかったから、レイは笑いを噛み殺し、否定の言葉も飲みこんだ。また、そんな機転を利かせるアーノルドにレイはすっかり気を許し、まだ話がしたい、もっと一緒にいたいと思うようになっていた。
しかし、アーノルドがレックスの部屋に泊まることはなくなった。
材料も揃い、夕食の支度にとりかかろうという時に、またしても二〇一号室に客人が訪れた。仲違いをしている最中の、アーノルドの妻だった。
奇遇なことに、レイとエルシーはその人物を知っていた。
「ジェイミーさんじゃないですかっ」
「あっ、エルシーさん。それにレイ君も。久しぶりだね」
「もしかして『エイムズ』って」
レックスが得意げに補足する。
「ああ、言ってなかったっけ。アーノルドの奥さん、俺と同じ鉄道保安課のジェイミー・エイムズな。お前らも会ったことあるだろ」
弱気な瞳を眼鏡の奥に隠す彼女は、アーノルドと仲直りをするために、アーノルドが行きそうな場所を予測し、結果、友人のレックスが住むこのアパートに来ているのではないかと見当をつけたらしい。
「おおかた、ほとぼりが冷めるまで泊めてもらおうとか考えてたんでしょう。もう、アーノルド君ったら。いくら仲良しだからって、レックスさんに迷惑かけないでよ」
アーノルドは先行して一同をぎろりと睨みつけ、からかわれるのを事前に阻止する。その鋭利な視線でジェイミーを突き刺すことは、さすがにためらっていた。
「皆さん、お騒がせしました。もうこんな時間ですし、すぐに夫を連れて帰りますので。日を改めて、お詫びの代わりにいつか、みんなで食事でもしましょう。それじゃあ、おやすみなさい」
仲直りのち円満に、というようにはならなかった。ジェイミーは一方的にアーノルドを引っ張って歩いていく。アーノルドは不快感を隠そうともせず顔をしかめているが、足は仕方なさそうに彼女の隣を動いていた。エイムズ夫妻はアパート「アップル・ヤード」を立ち去った。レイは控えめながらもアーノルドに向かって手を振った。アーノルドはもうレイに背中を見せて歩いていたのに、ジェイミーと繋いでいないほうの手をふらりと挙げた。レイは、アーノルドに「またな」と言われたような気になって、嬉しくなった。
「なんだったんだよあいつ。馬鹿じゃねえの」
レックスが吐き捨てる。
その晩、レックスはひどく拗ねていた。数日が過ぎても、彼の機嫌はなかなか直らなかった。