中央駅及びユロック東廃棄機関車両最終処分場に現れた放火犯デミリーに関する南部合同捜査のため、レックスは五日間ほどアパート「アップル・ヤード」の部屋を空けることになった。捜査期間はレイの通う学校の夏期休校の初週と重なり、レイはレックスの住む二〇一号室の留守を預かることになった。レイをひとりにしてしまう、というよりも、保護者になると決めて間もない時期に保護者としての役目を放棄するような事態になってしまった間の悪さから、レックスは大手を振って出かけるわけにはいかなくなかった。なるべくひとりでいる時間を少なくすること、何かあればすぐに連絡を寄越すか、隣人のエルシーを頼るようにすること、そのふたつをレイに言い置いて、まるでこの部屋で悪事でも働いたかのように、そそくさと出ていってしまった。
レックスがいなくなってからしばらくしても、レイは特に心細い気持ちにはならなかった。数日後に帰るとは言われていたし、待つのにも慣れていた。昼間は学校から出されていた課題に取り組んだり、レックスの本棚にある本を読んだりして過ごした。夕方になりエルシーがセヴァリー雑貨店の仕事から戻ると、一緒に買い物に行き、一緒に夕飯の支度をして、一緒に食べた。レイもエルシーも、互いに気を遣わせてしまうのではないかと心配したが、会話はふたりが思っていたよりも弾んだ。レックスのこと、学校でのこと、雑貨店でのことなど、話題は尽きなかった。ふたりはふたりでいる時、多く笑った。笑い方はやはり、ぎこちないのだが、それでも、心からの笑顔だった。
しかし、レイには焦りもあった。中央での生活に浸っていると、自分が何のためにここにいるのかを忘れてしまいそうになる。レイという人間は本来、ここにはいてはいけない存在だという事実は、いつまでもレイにつきまとい、決して離れられないのに、気がつくと目をそらして、忘れようとしてしまう。「鉄屑処刑場」でのネルの言葉が、レイの心に重たくのしかかっていた。早く真実を突き止めなければいけない。新たな情報が欲しいが、手段がない。頼みの綱は、ユロック大学で出会った男子学生アルフレッド・デイトンだが、その綱を手繰り寄せようとしても、大学教授モーゼズ・ガフが立ちはだかる。レイはモーゼズの豊かな知識と人脈を認めていたが、頼りたくはなかった。何がそこまで警戒心を煽るのか、レイは考える機会があった。膝を打つような解は出せなかったが、近いものは得られた。モーゼズはレイと初めて出会ってからというもの、レイと対等に接しようとしない。それが幼心に屈辱で、一種の反抗的態度にまで育ったのだろうと、レイは自らを客観視する。
レックスが出張から帰る予定の日になると、課題も終わり、レックスの趣味が強く表れる本棚の顔ぶれにも飽きを感じ始め、ただ何か行動を起こさなければという焦りばかりが強くなっていた。加えて夏の暑さもじわじわとレイを苦しめる。とりあえず国立図書館にでも行こうかと思い立ったところへ、二〇一号室に来客があった。エルシーと、同じくセヴァリー雑貨店で働くユロック大学の女学生イザドラ・ケンドリックに、そのセヴァリー雑貨店の常連客であるネルだった。雑貨店を経営するデイジー・セヴァリーの都合により、この日は昼の前に営業を終了し、店を閉めたのだという。エルシーの提案で、彼女の部屋に集まってみんなでご飯を食べよう、という話になったらしい。レイは若干の緊張を覚えつつも、エルシーの誘いを受けて女性たちの昼食会に参加することにした。
エルシーの住む二〇二号室に入るのは初めてだった。二〇一号室と間取りはすべて一緒のはずなのに、レイにはそこが異空間にしか思えなかった。清掃の行き届いた部屋に敷かれた若草色の絨毯の上には、角の丸い家具が整然と置かれている。書棚には可愛らしい形状の小物が並べられていて、見る者の心を和ませる雰囲気を作っている。レイはその雰囲気に、なかなか馴染めずにいた。自分がここにいていいのかという疑念に苛まれ、落ち着きなく視線を動かしてしまう。
「みっともない」
緊張が頂点に達しかけた時、聞き慣れた悪口が耳に入ってきたので、レイはどうにか精神の平静を取り戻すことができた。
「みっともないって、どういう風に」
「まず、目を泳がせるのをやめなさい。部屋を物色する空き巣か何かかと思ったわ」
「そんなに泳いでる自覚はないんだけど」
「自分自身を簡単に信じすぎね。常に疑ってかかりなさい」
「自分さえ信じられなかったら、一体何を信じればいいのさ」
「何も信じなくていい。この国にひとつでも、本当に信じるに値するものなんて、存在しないんだから」
「ちょっと、あんたたち。やけに物騒な会話してるじゃない。悪ぶっちゃって」
「違うから。あんたには関係ないでしょ」
「ネルちゃん、イザドラさんも話に混ぜてあげてくれないかな。冷たい氷菓子をご馳走するから」
「あたしをもので釣ろうとしないでくれますか」
ネルの語彙豊かな罵りを、レイはのらりくらりとかわしたり、さりげなく反論したりする。次にイザドラがそこへずかずかと入りこみ、ネルの機嫌を悪くする。それをエルシーが微笑と共にたしなめて、最終的に場の空気は和やかなまま保たれる。雑貨店では時折、セヴァリーの朗らかな笑い声が付け足される。レイが何度も目の当たりにした、もはや定型と呼べる流れだった。それは初め、レイを寂しい気持ちにさせるものだったが、この時は逆に、彼の気持ちを紛らわすものになっていた。
ただ寂しさは、レイを逃さない。
寂しいという感情が、レイの心の中から完全に取り払われることは、なかった。
「あ、そうだった。私、レイ君に頼みたいことがあるんだった」
エルシーによって企画された昼食会の最中に、イザドラが突然思い出したように声を上げた。聞けば、来たる考査に向けて同級生のアルフレッド・デイトンから授業の内容を書き取った帳面を借りていたのだが、それをユロック大学の研究室に棲みついているアルフレッド本人に返しに行ってほしいのだという。
お前が借りたんだからお前が返しに行け、と、ネルから攻撃を仕掛けられるより先に、イザドラが事情を説明する。
「レイ君と話したいことがあるんだってさ。でも理由もなく大学の中へ入らせるわけにはいかないでしょう。また、モーゼズ教授に怒られちゃうし。だから、あたしが雑貨店の仕事で忙しくて、どうしても大学に顔を出せなくて、しかもその筆記帳には大事なことが書いてあるからどうしてもすぐに必要だということにしてくれ、って言われたの」
レイはイザドラからアルフレッドの筆記帳を受け取った。受け取りながらも、迷った。筆記帳は使いこまれており、中身も表紙の表と裏もひどく傷んでいる。この日のために急いでこしらえたものには到底見えない。アルフレッドは本気で、レイとの再会を望んでいる。しかし、ユロック大学に足を運ぶということはモーゼズに遭遇する可能性を高めるに等しい。レイは筆記帳を一点に見つめたまま、硬直してしまう。
「アルフね、こう言ってたよ。『必要以上に警戒することはない。悪いことをしているわけではなく、正当な理由を伴った行動なのだから、むしろ公然と門をくぐれ』だと。まったくあの論理馬鹿は、素直に『会って話がしたいから来てほしい』と言えないのかね。言葉の修飾過多も大概にしとけって感じ」
レイの硬直は解かれた。
また、アルフレッドに見抜かれていた。
レイが大学に来ようとしないのは、おそらくモーゼズを警戒しているからだろうと見当をつけて、この筆記帳を寄越したのだろうと、レイは考える。アルフレッドもまた、モーゼズに目をつけられている人間のひとりだが、当の本人はお構いなしのようだ。むしろ好戦的な、対立を待ち望んでいるような気さえする。レイはアルフレッドに会わなければいけないと思った。ここで勇気を出さなければ、自分が欲するものは何ひとつだって手に入らない。
「僕が、届けに行きます」
「ありがとね。よろしく」
筆記帳を鞄にしまい、出かける準備をするレイの隣に、ネルが立った。立っただけで何もしないし、何も言わない。レイはネルに話しかけるというよりかは、独り言をネルに聞こえるようにつぶやいた。
「大丈夫。ちょっとくらい危険を冒さなきゃ、真実を知ることなんかできない。必ず何かを掴んでやる」
やはりネルは何も返さない。ところがその代わりに、レイの決意を聞いていないはずのエルシーが声をかけた。
「あのね。レイ君がひとりで行くのは、さすがにちょっと、やめたほうがいいんじゃないかな。この前はイザドラさんと待ち合わせてたけど、今回はひとりだし、近頃、物騒な事件も多くて、それにレイ君たちも巻きこまれちゃったわけだし。レックスからも出張中にレイ君のことを気をつけて見ていてって言われてるからさ。私が一緒についていこっか」
「付き添いなんか必要ない」
この返事も、投げかけられた当人ではなくネルによるものだった。
「確かにあたしに比べたらまだ幼稚ではあるけど、こいつだってもうそこまでガキじゃない。あんなことがあっても、いえ、あんなことがあったからこそ、引き際をわきまえて、自分の頭で考えて行動ができる。心配するのは勝手だけど、さすがに甘やかしすぎなんじゃないの」
「そ、そっか。そうだよね。ごめんなさい」
エルシーはあっさりと引き下がり、イザドラとの会話に戻った。笑顔を作ってはいるが、今後のネルとの関係性を考えあぐねているのか、あまり晴れやかとはいえない作り笑いだった。
「ああいう過保護な女には、一度きつく言ってあげないとね。過剰な愛情は、相手の主体性を阻害するだけだってことを、教えておかないと」
「ネルにしては、控えめな感じだったけど」
「黙って。道は作ってあげたんだから、後はあんた次第。くだらない情報を掴まされてきたりしたら、その首、締め上げるわよ」
「もちろん、って言いたいところなんだけど、ごめん。あの人にだけは迷惑をかけたくないんだ。いつもなら刑事さんがいてくれるから、まだ安心なんだけど。今回は、ほどほどで手を引いておこうかなって」
「あんた、どうもあの女に弱いのね。何かあるの。もしかして好きなの」
「別にそんなんじゃないよ」
レイ自身はさりげなく自然に否定したつもりだったのだが、実際、その声は誰の耳にも明白なほどに上擦っていた。
昼食会の後、レイはひとりユロック大学に向かった。初めて訪れた日に道順は記憶していたので、迷わず門前へ足を運ぶことができた。なるべく目立たないよう小走りに、「鉄道工学第三研究室」へと歩を進める。震える手で扉を叩くと、中から返事があったので入室し、後ろ手で確かに扉を閉めた。
「来たね。待ちくたびれたよ」
アルフレッドは嬉しさを裏に潜ませた、挑戦的な笑みをレイに向ける。レイは挨拶をする前に部屋を注意深く見渡す。モーゼズの姿はどこにもない。
「教授なら、今日も会合だと言っていたよ。本当に会合に出席しているかどうかは、定かではないけどね」
「すみません。もっと早く、また来たいとは思っていたんですが」
「構わないさ。警戒する気持ちは僕にも理解の余地があるし、日を空けたのは適切な判断だった。僕も、いつ君を呼び出そうかと考えるのに時間を費やしてしまったよ。さあ、調査を始めようじゃないか」
「あの、この筆記帳はどうしますか。一応、持ってきたんですけど」
「要らない。君を呼び出すためだけに用意したものだ。大した内容も書いていないし、君の好きにしてくれ」
「は、はい」
アルフレッドの号令により、研究室は「調査本部」に名を変える。ふたりはまず、互いの情報を共有することにした。レイはいつも以上に声量を落として、「鉄屑処刑場」での一件をアルフレッドに話した。レイが通う学校の同級生であるネルは、ロブ・トウニー・ジョンという少年と親しかった。ロブもまた北部渓谷機関車転落事故の犠牲者のひとりであり、ネルは大切な人をあの日の事故で失ったと思っていた。ところがそれを真っ向から否定する人物が現れる。レイの学校に新しく赴任した女性教師で、名をカレン・メルヴィルといった。カレンは、確かな根拠の下にロブが生存していると断言し、ロブを捜し出すことで、事故にはロブという生き残りが存在していたと証明するべく動いているのだという。また、彼女はレイが事故について調べていることを知っていた。そのことを知らしめた上で、「真実を知る勇気も覚悟もないのに、これ以上危ないことに深入りしようとするのはやめなさい」とレイを戒める。もちろんレイに引く気などなかったが、結果としてネルと共に「鉄屑処刑場」の事件に巻きこまれてしまう。カレンはレイに再び忠告するが、放火犯デミリーを捕らえ、レイたちを危機から救ったのもまた、彼女だった。
「なるほどね。女の子に連れられて立ち入り禁止区域に立ち入るだなんて、君もなかなか向こう見ずなことをするじゃないか」
言葉ではとがめているものの、レイの話に耳を傾けるアルフレッドの表情は、終始楽しげだった。
「事件に関わってしまったことは、仕方がなかったと割り切っています。僕が気になっているのはひとつだけです。どうしてメルヴィル先生は、僕が事故について調べていると知っていたのか。アルフレッドさんの意見を聞きたいです」
「君の中ではすでにもう、答えは出ているだろうに。だがあえて、僕から述べさせてもらおうか。教授とカレン・メルヴィルは繋がっている、そう考えるべきだろうね」
予想通りの答えに、レイは胸をなで下ろす。この研究室でアルフレッドがレイの秘密を明かすのを、モーゼズは見聞きしていたと思われる。だからこそレイは、カレンからの忠告を受けた時、真っ先にモーゼズを疑うに至った。レックスがうっかり言い漏らしてしまった可能性もあったが、本人に確認し否定されており、何よりレックスを信じたいという、ともすれば安易だと指摘されかねない理由により、選択肢から除外していた。案の定、鋭い指摘が飛んだ。
「君は、そのカレン・メルヴィルという女教師の言葉を、あまりに軽んじすぎているようだ」
「どういうことですか」
「『真実を知る勇気も覚悟もないのに、これ以上危ないことに深入りしようとするのはやめなさい』。注視すべきは『これ以上』の部分だ。おそらく彼女は、君が事故を調べている事実だけでなく、どういった目的で調べているのか、それすらも把握している可能性が高い。この僕ですら教えてもらっていないのに、だよ。でなければ『これ以上』なんていう言葉はまず出てこない。君が事故を調査しようと思い立つに至る経緯を知っているからこその忠告なんだよ」
「でも、そんなこと、それこそ刑事さんぐらいにしか話していません」
「そうか。君の言葉を信じるのなら、彼女はモーゼズ教授以外に警察関係者か、もしくは報道関係者か、もしくはその両者か、事故の子細を知る人物と接触する機会があったのかもしれない。とにかく、今後は教授だけでなく彼女の動向にも注意するべきだろう」
本当は、モーゼズはともかくカレンのことは敵視はしていない、むしろ信頼できる人物なのではないかと思い始めているとレイは伝えたかったが、論理的根拠がなく、アルフレッドを落胆させてしまうのではないかと憂慮し、肯定も否定もしなかった。レイは中央に来てから、自分の無力さを痛感することが多かった。先入観は捨てて、余計な感情を一切排除して真実を探し、見据えるべきだと自分自身を律したいのに、実際は誰かの目や言葉を過剰に意識して、考えなくてもいいことを考えてしまう。人が嫌いなのに、人の思いが気になってしまい、疲れる。だからレイは、余計に人が嫌いになる。
レイの情報開示が終わると、次はアルフレッドが手札を切る。彼もロブという生き残りの少年の噂は聞きつけているらしく、この日、ロブの母親と会う約束を取りつけているという。
「君にも同行してもらいたくて、日取りを決めた。ロブ・トウニー・ジョンの生存する確証がないこの段階では、事故の犠牲者遺族、とでも言えばいいのか。そんな人物と話をする機会なんてそうないだろう。たかが一介の学生にそんなことができるのかという心配は不要だ。確かに僕は個人的興味から〈落日急行〉を追っているが、本当にあの事故に生き残りがいるというのなら会ってみたいし、捜すための協力もいとわない。それに、国を支える技術者の育成に力を入れているユロック大学に属する者として、このまま事故が過去のものとなり、国の行く末が暗くなっていくのを黙って見ているというのも、なんだか、気分が良くない。つまるところ双方の利益は一致し、また目的にも社会的意義が含まれる。不純なものも混ざっているとは認めるが、僕は学ぶことが生業の人間だ。知的好奇心に屈するというのも、致し方のないことだよね」
レイはよどみなく口を動かすアルフレッドを見ながら、固まっていた。彼が話し終えているのに気づくと、忘れかけていた呼吸を再開し、息遣いを整える。
「すごいです。アルフレッドさんって」
「何がだい」
「なんというか、自分のやりたいことのために自分の立場とか能力を最大限に利用しているといいますか。本当に、頭が良いんだな、と」
アルフレッドは急に大声を上げて笑いだす。
「自負はないけどね。君に認めてもらえるのなら、それはありがたいし、光栄だよ」
常に何かを疑ってかかるアルフレッドも、この時ばかりはレイの賛辞を信じ、そのままの意味で受け取っていた。
レイは自己嫌悪に陥っていた。
自分に好意を向けてくれている人間の嫌なところを無視できない。でも真っ向から否定することもできそうにない。だから、皮肉を使った。決して真意が露わになることのない、皮の厚い皮肉だった。
ロブ・トウニー・ジョンの母親は名をベラといい、バノックの街の郊外に身を隠すようにして住んでいる。
北部渓谷機関車転落事故発生後、国の鉄道管理局は公的に謝罪し、犠牲者遺族に多額の賠償金を支払った。当然ながらそれで遺族たちの心的外傷が完全に回復することはなく、彼らのうち有志が集まり、事故の真相開示及び鉄道運営の見直し、さらには鉄道事業完全国営化とそれに伴う厳正なる安全管理を求めて、当時の公設民営鉄道会社に対して長期間に渡る示威運動が敢行された。ベラも、その一員に加わっていた。
しかし運動に成果があったかといえばそうではなく、事故発生から一年が経過し、捜査状況に進展が見られなくなると、遺族たちが受けた傷は時の流れという強大な存在によって優しく強制的に騙しこまれて、和らいでいた。悲しみや苦しみ、怒り、虚しさなどの入り乱れていた感情を整理することができ、当初はまともに相手をせず拒絶していた報道各社からの取材依頼にも、少しずつ応じるようになっていった。
アルフレッドはベラの連絡先と家の住所の情報を入手し、「ユロック大学での鉄道事業研究の一環として事故を調べている」という設定で話を通した。レイはどこからベラの情報を仕入れたのか問うが、アルフレッドは言葉を濁して、「僕が信頼し、尊敬するある人物からの提供」とだけ明かした。少なくともモーゼズでないことだけは確かだという。レイはおそらく〈落日急行〉という事故の別称と同じ入手先なのだろうと思い、深く追及はしなかった。
情報交換を終えると、ふたりは大学を出た。列車で二駅ほどの距離で遠くはなかったが、レイは移動時間を長く感じた。ネル以上にロブを大切に思い、愛している人。愛していたのに、突然、永遠の別れを言い渡された人。それも鉄道事故という、己の力の及ばない領域で。目的地に近づけば近づくほどに、レイの足取りは重くなる。連れてこられるわけでもないが、ネルをこの場に連れてこなかったのは正しい判断だったと、レイは省みる。もしベラと会わせて話をしたら、きっとネルは泣いてしまうし、レイもネルの泣くところを見たくはなかった。
ベラの住居はごく普通の小さな一戸建てで、駅から離れた場所に構えられていた。家の前には開けた道が伸びており、その向こうに視線を投げても、鉄路を往く列車の姿は見えない。
「ロブ君を亡くした後、独りでこの地に転居されたそうだよ。彼の父親は事故よりも前に病気で亡くなっているらしい。近隣住民との交流は挨拶すらもろくになく、外出も近場の商店に通うぐらいで、遠出も全くしないようだ」
アルフレッドが意を決して家の門扉に近づこうとすると、不意にその扉が開いた。
「こんにちは。約束していた、アルフレッド・デイトンですが」
臆せず声をかけたアルフレッドだったが、扉の奥から出てきた人物を見るなり、表情をこわばらせた。
ベラではなく、女性ですらない、漆黒の外套をまとう小汚い男がふたりの目前を横切っていく。頭にはハンチング帽を目深に被り、顎には髭が目立つ。レイはすれ違う時、こっそりと男の顔を下から覗きこむ。やつれているようにも見える、冴えない顔だった。それなのにレイは、わずかに身震いした。目が笑っていたのだ。視界に映るすべてをくまなく舐めるように見ていそうな、気味の悪い目だった。
男は何もせず何も言わず、ふたりの存在を無視してふらりと歩き街角に消えた。
「何者でしょうか、あの人。ロブ君のお父さんは亡くなっているはずだから、親類でしょうか」
レイはアルフレッドに尋ねるが、返事はなかった。アルフレッドの顔を覗いてみる。端正な顔立ちだが、目が細まっていた。明らかに男のことを知っている反応であり、それも強い敵対心と恐怖に支配されている目だった。
レイは、何も考えないことにした。
人には誰でも秘密がある。特に誰かの秘密を暴こうとする者ほど、その誰かよりも重大な秘密を持っている。だから、何かを隠しているか隠していないかで人を信じるかどうかを決めるのは愚かなことだと、レイは思っている。アルフレッドには秘密がある。モーゼズにもおそらく秘密がある。レイはモーゼズのことを信用できないが、アルフレッドのことは信用している。誰かの秘密に気づいてしまった時、それを理由もなく暴こうとはしない。レイにもまた、秘密があるからだ。レックスにも、エルシーにも、ネルにも、レイの周りの誰にでもある。誰にでもあるものだから、わざわざそれを取り上げて明らかにするのは良くない、というか、馬鹿らしいと思っている。
でも、馬鹿らしくなどない、レイにとって暴かなければならない秘密もある。
それはどこに隠されているのか、あるいは誰が隠しているのかを、レイは探したい。だからレイはアルフレッドと、この場所へ来た。アルフレッドの秘密に構っている余裕は、なかった。
謎の男の登場に出鼻をくじかれたが、ベラとはその後すぐに会うことができた。話を聞く前に先の男は何者なのかを尋ねると、ユロックの町から来た新聞記者で、レイたちと同じく事故について調べているのだという。ロブが事故の生き残りであるという話は、まだひとつの噂でしかないため、ベラはあくまで単なる犠牲者遺族のひとりとして、しばしば取材に応じているらしい。
ところが、彼女は事故が〈落日急行〉という俗称で呼ばれていることはおろか、自身の息子であるロブが生きているのではないかという噂が流れていることすら知っていた。
「さっきの新聞記者さんに教えてもらったわけじゃないのよ。以前から、そういう話があるとは聞いていました。記者さんも、私が息子の噂を知っている前提で、遠慮なしに根掘り葉掘り聞いてきました。本当は息子の居所を知っているんじゃないのか、すぐにでも公表したいが、何者かに圧力をかけられているから行動を起こすに起こせない状況にあるんじゃないか、噂を流した張本人は、私なんじゃないか、とか。報道記者ってすごいのね。あそこまで神経が図太ければ、私みたいに生きるのに苦労しなさそう」
笑顔に一切の屈託がないのが、レイを逆に苦しめる。アルフレッドも、しめやかな話の場を想像していたために、切り出す質問もどこか歯切れが悪い。
「ロブ君は、なんと言いますか、その、どんな子ですか」
「『どんな子でしたか』じゃないのね。お気遣いありがとう。でも、ごめんなさい、母親の私が、逆に聞きたいぐらいなの。あの子、気持ちというか、自分のことをあまり話さない子だったから。家にも、あまりいなかったし。ご飯を食べるのと寝るためだけに帰ってきてるようなものだった。なんだか、妻をないがしろにする男みたいでしょ、ふふ」
ベラは笑顔を保ち続ける。目の端には、涙の痕がある。髪はつい先ほど、急いでとかしたのか、よく見れば毛先の乱れが残っている。
「では、事故が起きた当日も、彼は家を空けていたのですか」
「そう。北のコスタノアっていう街にある美術館に行くとか言っていたわ。どうしても見たい絵が展示されてるんですって。その絵が美術館に置いてあるかどうか、私は知りませんけど、まあ、あるんじゃないかしら、たぶん。でね、お母さんもついていこっかって声をかけたの。そうしたら『ひとりで行かなきゃ意味がないから』って。ちょっと変ではあったんだけど、その時は、あまり深く考えずに、はいそうですかって言って行かせたの。それで、送り出して数時間後に、あの子の乗った列車が、谷底に落ちたんです」
レイはベラの話の内容に集中できない。ベラの言葉や表情には、感情の起伏が感じられない。生きていくのに必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋に立ちこめる色のない空気も相まって、無が空間を支配している。押し潰されるほどに巨大ではないけれど、部屋の一角を、ベラの心の片隅を、確実に真っ黒に染め上げるような、極小の鋭利な無。
「では事故が起きた時、あなたはロブ君がどこで何をしていたか、客観的に証明はできないということですね。実際に列車に乗りこむところを見たわけではないのだから」
「それがね、警察の実況見分の過程で、あの子がコスタノア行きの急行列車に乗りこむところを見たって、当日に勤務されていた職員さんが証言しているの。ほら、北部まで行くとなると、それなりの運賃になってしまうでしょう。だから切符は私が買いに行ったの。領収書も頂いているので、それが証拠になるかと思って、警察に提出しています。後で鉄道管理局っていうお偉いさんから聞いたお話そのままになっちゃうけど、その領収書に印字されている運行管理番号、っていうのがね、改札を通った切符本体の番号と一致したんですって。だからあの子は確かに列車に乗っているの。その列車は一両残らず、北部渓谷の真下に落ちてしまった。なんだか、突きつけられちゃったのよね、事実というか、現実を」
「し、しかし、その彼が、ロブ君が生きているという噂はどうなるのです」
「さあ。私は知りません。最近になって耳にするようになったけど、どうしてそんな噂が広まり始めているのか、私には見当もつきません。去年の私たちの抗議活動を良く思っていなかった人たちの嫌がらせか何かかしら。おかげでまた、さっきの記者さんやあなたたちみたいに事故の話を聞きに来る人が増えた。やっと、落ち着いてきたところだったのに。やっと、みんな忘れ始めていたのに」
「忘れません」
レイはいつの間にか声を出していた。
ベラは驚きもしない。微笑みをレイに向け、顔を機械的に傾ける。
「僕だって、忘れたいけど、なかったことにしたいけど、できないし、してはいけないと思います。誰かが憶えていなくちゃいけないと思うんです。あんなことはもう、二度と起きてほしくない」
「誰かが憶えているのなら、私には忘れさせてよ」
ベラは手ぐしで永遠に整うことのない髪をいつまでも整える。
「なんで関係のないあなたにまでそんなこと言われなきゃいけないのよ。私はね、もう、疲れたの。たくさん悲しんだし、苦しんだわよ。それでもいつか忘れられるって信じて耐えてきた。だから、埋めたものを掘り返すのは勘弁してよ。何が生き残りよ。私に言わせればただの死に損ないよ。どうして、死んで一年経っても親に迷惑をかけ続けるの。別に本当に死んでなくていいから、実はどこかで生きてるんだったらそれでもいいから、完全に存在を断ち切ってよ。死ぬなら潔く死んでよ。なんで、もしかしたら、って思わせるの。もう終わったことにさせて頂戴。私はこれ以上、何も知りません。なあんにも。はい、これで、おしまい」
手ぐしが髪の乱れに引っかかり、止まった。
話も止まった。
レイの口も止まっていた。
何かを言おうとするのに、苦しすぎて声が出ない。エルシーの昼食会で食べたものをすべて戻してしまいそうになる。アルフレッドがすっくと立ち上がった。
「本日はとても貴重なお話を聴くことができました。時間を割いていただき、ありがとうございました。最後にひとつだけ。もし可能であれば、ロブ君の顔が判別できる写真をお借りしたいのですが。複写でも結構です」
「あの子の写真は警察が全部持っていってしまったから、この家にはもう、一枚も残っていません」
「そうですか。それでは、失礼します」
アルフレッドはレイの手を引っ張り、家を出た。これ以上ないほどに強く、レイの手を握っていた。
「すまなかった」
帰りの列車の中で、アルフレッドが静かに謝罪する。
「本当は、ロブ少年を捜すにあたり、本人を特定できる物証、つまり顔写真があれば手に入れたかっただけなんだけど、率直に用件を切り出せないあたり、僕もまだまだだね。そのせいで、君にはつらい思いをさせてしまった」
「いえ。もとはと言えば、僕がベラさんに余計な発言をしたのが悪いので。アルフレッドさんが謝る必要はないです。それに、何も得られなかったわけじゃない」
「確かに、それはそうだが」
ロブ少年がまだ生きているという噂に反し、警察の捜査では彼の死亡が事実に基づき証明されていた。次に何を考えるべきか、おのずと導き出される。
「何故、彼が生き残っているなどという話が出てきているのか。やはり、噂の出所を探るべきだな。誰が流したのか、なんのために流したのか、どこまで広がっているのか、本当なのか、嘘なのか。もし彼に直接話を聞くことができたなら、僕らは僕らが求める真実へと、一気に近づけるだろう。確か君がその話を聞いたのは、君が通っている学校の教師、カレン・メルヴィルからだったね」
「はい。しかも『確かな根拠がある』と言っていました。もともとメルヴィル先生の教え子だったらしいので、そのあたりも関係しているのかもしれません」
「そうか。だが大学で言ったように、君は彼女には注意していてもらいたい。下手に動いて、こちらの狙いが彼女を通じて教授に割れでもしたら面倒だ。少なくとも、夏期休校中はおとなしくしておいてくれないか。彼女の素行調査は僕に任せてほしい」
「図書室を使いたいとか、勉強を教えてほしいとでも言えば、休みの間でも先生に会う理由なんて、いくらでも作れます」
「いや。君に先手を打つような女だ、そんな小手先ではすぐに見抜かれてしまうだろう」
列車が中央駅に到着した。アルフレッドの後に続いて、レイも降りる。夕刻、夏の暑さは引き、涼しい風が駅舎を吹き抜けて、蒸れた鉄の匂いを運ぶ。
「了解です。おとなしくしてます。というか、ごめんなさい、ちょっと疲れました」
「僕もだ。子を失った悲しみは、僕にだって推し量ることはできる。でもそれは、あれほどまでに人を変えてしまうものなのか」
「もともとだったかもしれませんけどね」
中央駅は、バノックの街とユロックの町の境に、ふたつを隔てるようにして建てられている。レイとアルフレッドは、それぞれ反対の改札を抜けて家路につく。レイは南側改札を挟んで、アルフレッドを見送る。
「事故が起きる前から、あの母親は自分の息子に無関心だった、というのか」
「どちらであるとも言い切れないってだけの話です。何事も勝手な決めつけは良くないですから」
「本当にそれだけなのか」
「初めて会った時、無粋な詮索はしないって約束してくれましたよね。僕、アルフレッドさんのこと信用しているので。くれぐれも、よろしくお願いします。今日は調査に同行させてもらって、ありがとうございました。僕は僕にできることをします。アルフレッドさんも頑張ってください。また、大学に顔を出します」
アルフレッドは何か言いたそうに改札の出口を離れなかったが、レイは構わず背を向けて、北側改札へ早歩きで向かった。改札を通る前に一度だけ振り返ると、アルフレッドはまだレイを見ていて、寂しげに手を振ってから、ようやく帰っていった。改札越しに見えるユロックの町からは、明るい夏の光が消え失せていた。アルフレッドの姿が薄暗い町の中に溶けこんでいくのを見届けると、レイは前を向く。深い夕闇が、レイを出迎えた。
アパートの部屋に戻ってもレックスはいなかったし、エルシーの部屋の扉を叩いても、買い物に出かけているのか返事がなかった。レイはふたりが帰るまでの間、ひとりだった。前にも似たようなことがあったが、この日は、誰もいないほうがむしろ助かると、レイは思った。ロブのことを考えるには、ひとりでないと困るからだった。泣いてしまうかもしれないからだった。
レイは、ひとりでいる時には泣かなかった。泣けなかった。レックスとエルシーが帰ってきた途端、堰を切ったように泣き出してしまい、慌てふためくふたりに長い間、泣き顔を見せることになってしまったのだった。