中央街に現れた放火犯は、名をデミリーといった。逮捕後、中央部警察は犯行動機を聞き出すべく事情聴取の場を設けたが、他の質疑に対する正当な応答がなく、常に虚空を見つめては意味を持たない言葉を声に発するばかりで、会話が成立しなかった。警察病院にて診察を受けさせたところ、精神を患っている可能性があることが担当医によって明かされた。治療にはある程度の期間が必要になるとのことで、警察は当人への直接的な尋問を諦め、周辺人物への聞きこみ捜査に焦点を絞った。
ユロック東廃棄機関車両最終処分場での事件は町の住民を震撼させた。当然ながら鉄道保安課にもその情報が渡り、レックスはレイが事件現場に居合わせていたことを知った。取り調べを担当したのはレックスではなく、別の課に属する刑事だったが、レイは話に嘘を交えず、すべてを正直に打ち明けた。遅かれ早かれレックスの耳には入ってしまうだろうし、隠す必要がなく、隠し通すこともまた不可能であると考えたからだった。
「レイ。お前、調子に乗ってるだろ」
自分なりに誠実であるよう努めての行動だったから、レイはレックスにそのような評価をされるとは思っていなかった。
「ここに来たばかりの頃は、もうちょっと遠慮ってものをわきまえてて、俺よりずっと物事を深く考えてるなって感心してたのに、なんだよ、学校の友達にそそのかされて冒険ごっこって。しかも、その友達を危険な目に遭わせた。お前になら正しい判断ができたはずだ、それが絶対にやってはいけないことだって」
「第一に、ネルは友達じゃないです。いつかも言ったはずですが、僕に友達はいません。第二に、機関車廃棄処理場に侵入したのは、そそのかされたのではなく僕自身の意思です。ネルがどうとか、関係ありません。第三に、冒険ごっこなどではなく確固とした目的がありました。あの日のことを忘れないようにするためです。だから、絶対にやってはいけないこと、ではありません。むしろ、絶対にやらなければいけないことでした。僕もすっかり忘れかけていて、ネルに言われるまで、そんなの考えたこともなかったから」
「すげえな。俺の発言、真っ向から全否定かよ」
「全否定はしていません。ネルやカレン先生を危ない目に遭わせたというのは紛れもない事実だし、刑事さんにも迷惑をかけてしまいました。それに関しては反省しています。ごめんなさい」
夏の夜、アパート「アップル・ヤード」二〇一号室。レックスとレイは遅めの夕飯にありついていた。「暑い日こそ食べるべきだ」というレックスの持論により、いつもより刺激の強い味付けがされた肉料理が食卓に並んでいる。レックスが食べ進める速度は早いが、レイはまだ、半分以上を残している。不味いわけではない。
「俺はお前の保護者だけど、親ではないから、あんまりとやかく言うのはやめておく。しつけとか、したことないし。それに頭の良いお前なら、今後、派手な行動は俺が何も言わなくても控えてくれるって信じてるからさ」
「すごく言いにくいんですけど、今後も刑事さんに心配をかけるような行動をどんどん取っていくと思います」
「微塵も言いにくそうじゃないよな。自信たっぷりだよな」
「そうですね」
「そうですね、ってお前なあ」
レックスは料理を平らげた。頬はやや火照り、額には数滴の汗を垂らしている。彼の残念そうな表情には似つかわしくなかった。
「そんなに俺って、信用できないか」
「そういうことではないです。僕は僕で、できることを探して、自分から動いていかなきゃと思って」
「それもあれか、孤児院でイーグル先生に教えられた『基本理念』ってやつなのか」
「はい」
頷きながら、レイも進まない食事を無理に進める。一口がレックスと比べて少ない。
「そうか。でもな、さっきとは逆のことを言うけど、俺はお前の親ではないが保護者ではある。お前に何かがあったら、困るんだ。これから夏休みに入って自由な時間が増えるだろうけど、問題として表面化するような行動は慎んでくれ。別に外出禁止とか取り決め事をするつもりはない。ただ『やるならうまくやれ』ってこと」
「都合の良い言葉ですね」
「本当。自分でもそう思うよ」
レイは料理を口の中へ運んでいく。香辛料の刺激で、口の中が痛む。
「僕も目立つのは嫌だし、苦手なので、できる限り静かに、この街で生きていくつもりです」
「おう。頼むぜ。なんてったって夏休みだ。嫌なことなんか忘れて、いっぱい遊べ。遊ぶのが仕事だと思ってな。俺も課長と交渉して、有休をたくさんもぎ取ってやる」
「課長って誰ですか」
「クラーク前室長だよ。クラーク・ロウ。お前の無賃乗車に対する処分を軽くしてくれた人。この前、新しく鉄道保安課長に就任したんだ」
「あの人、課長になったんですか」
「確かにいつものんびりしてるけど、ああ見えて、すごい人なんだぞ。俺らにとっては上の立場の、捜査課の連中とも繋がりがあるみたいだし。何よりこの俺を、鉄道保安課に採用してくれた張本人なんだぜ。つまり、あの人がいなければ俺もここにはいないってわけよ」
「へえ。休み、もらえるといいですね」
ところが、翌日クラークがレックスに言い渡したのは休暇の許可ではなく、仕事の依頼だった。
「南、といっても中央に一番近い街だがね。五日間ほど滞在してもらうことになった」
「出張ですか」
「うん」
放火犯デミリーの出生を調査したところ、南部の街で生まれ育ったことが判明しているという。また、デミリーが北上する以前に住処として使っていたと思われる小屋も発見されているとのことだった。
「中央で起こったことだからね。中央から人間を寄越さないとなると、こちら側としても体面を保てない。向こう側からも要請を貰っている。しかし余所の課は別の事件で手一杯のようだ。そこで、暇そうな我が鉄道保安課の中でも、特に暇そうな君を選任させてもらったよ」
「暇かどうかはともかく、その、いわゆる事後捜査ですよね。俺が出向いて、南部警察と合同で行う必要がありますか。南部だけでもう、人員は足りているような気がするんですが」
「心配は不要だよ。南部の担当もひとりだけなんだって。ふたりで仲良くお仕事頑張ってね」
クラークの屈託のない笑顔を背に受けて、レックスは中央を発つことになった。一緒の時間をなるべく作ると宣言していた手前、レイに伝えるのを少しためらったが、黙って行くわけにもいかないと思い、その夜、同じく食事の時間に出張で数日間、部屋を留守にすると告げた。
レイは特に何も言わなかった。
この日はふたりとも食欲がなかったのか、夕飯を少し残した。
使い慣れない四角の鞄を右手に提げて、レックスは南部行きの列車に乗った。目的の駅に到着するまでの約三時間、レックスは車窓からの景色を眺めるのもそこそこに、レイと初めて出会った時のことを思い返していた。出張からの帰りに、レックスは機関車強奪事件に遭遇した。命に危機が及ぶほどの現場だったが、レックスは犯人を逮捕し、その後も警察官として働いている。
レイと生きていくことを始めた。それはレックスにとって間違いなく、人生において最も大きな分岐点だった。
レックスは南部の街ホープウェーに到着した。陽射しが容赦なく照りつけ、レックスは外に出てものの数分で汗だくになってしまう。街の建物の背は低いが、直射光を長時間浴びることを避けられるように、屋根付きの休憩所が道中に布設されていた。すれ違う人は皆、おしなべて軽装で肌の露出が多く、レックスは目のやり場に困る。
だが、歩いていて落ち着かないというわけでもなかった。むしろレックスは、心安らかに南部の酷暑の中を進んでいった。
南部警察署へ足を踏み入れても、見かける人物の誰もがのんびりとしていて、レックスはこれから仕事だというのに、気を引き締めることができずにいた。外部の人間が侵入したにもかかわらず、警備員や他の警察官も目立った反応をしない。故意に無視しているわけではなく、レックスが建物に出入りしようが何をしようが構わない、というような振る舞いだった。欠伸を噛み殺している者までいる。警察組織でありながら、警戒心が希薄していた。クラークからそれとなく聞かされていた通りの光景で、レックスの脳裏に牧歌的という言葉がよぎる。
待合室の受付員に要件を伝えて少し経つと、レックスと今回、行動を共にすることになっている捜査官が、急ぎも焦りもする様子もなく姿を現した。レックスが南部の地に降り立ってから実に、一時間以上が過ぎてのことだった。
「中央部警察鉄道保安課のレックス・ベイカーだ。よろしく。で、君、名前は」
「あ、えっと、ジョッシュです。ジョッシュ・スターキー巡査であります」
先月に配属されたばかりの新米警察官だった。華奢な体つきで、髪は鮮やかな亜麻色に染められている。元は長髪だったそうだが、さすがに風紀を乱すと上司に指摘され、警察帽からわずかにはみ出す程度に短く刈り上げられていた。
「俺、何も聞かされてないんだけど。詳しい捜査内容を説明してくれるか」
「それが、自分もよく知らないんですよね」
レックスはずっこけそうになるのをこらえて、ジョッシュの顔と立ち姿を見る。目の下に隈がある。身長はレックスよりも高いはずなのに、気だるそうに背中を丸めているせいで、視線の高さはあまり変わらない。
「ただ、中央から遠路はるばるお越しなんだから、くれぐれも失礼のないように、とは言いつけられてます」
「そういうのは、あんまり本人には言わないほうがいいぞ。それより君、なんだか寝不足みたいだけど大丈夫か」
「大丈夫じゃないです。正直、家で寝てたいんですけど、働かないと給料貰えないんで」
「あ、そう。まあ、正直なのは良いことだ」
レックスも実際に口に出したりはしないものの、ジョッシュと似たようなことを思っていたので、特にとがめはせず話を流した。
ジョッシュが上司から渡されたという資料を手に、ふたりは捜査の方針を決定する。放火犯デミリーの犯行動機を探るべく、捜査期間の大半は周辺人物への聞きこみに費やされる。どの区域をどちらが担当するか、どれぐらいの時間をかけるか、情報共有はどこに集まって行うか、などを決めた。ふたりで話し合っている間もジョッシュは、ただでさえ半眼気味の両目を、ほとんど閉じた状態で頭をかくんと垂れさせたり、慌てて持ち上げたりするのを繰り返した。いくら注意しても改善される様子はなく、レックスは諦めて構わずに続けた。ほとんどひとりで喋るだけになってしまったが、ジョッシュの手帳に覚え書きは残されているようだった。
「よろしくお願いします、先輩」
ジョッシュが何気なく発した「先輩」という言葉の響きにレックスはすっかり上機嫌になり、あまり褒められたものではない彼の勤務態度などころっと忘れて、元気いっぱいにホープウェーの街へ繰り出していった。
先行きの明るくなかった捜査状況は、始めれば概ね順調に進んだ。
街にデミリーを知る者は多く、幅広い年代の人物から彼に関する情報を聞き出すことができた。彼は数年前から大酒飲みとして悪名高く、定職に就かず昼間から酒場に入り浸っているような男だった。過去にも警察の世話になったことがあるという。
「学校からの帰り道で、前をふらふら歩いていた。横を通り過ぎたら後ろから声をかけられた。『学校なんか行ってんのか、お前は。やめちまえ、どうにもならねえんだから』と言われた。すごく酔っぱらっていた」
と学校に通う生徒は怖がり、
「昼夜を問わず店で酒を呷っては店員に絡んだり、他の客と揉め事を起こしたりしていた。椅子は投げるし酒瓶は振り回すしで、警察の世話になっても仕方がないような暴れようだった。今回の事件が報じられた時も、あまり驚かなかった。いつかはこのようなことになるだろうと思っていた。これで安心して酒が飲める。捕まってくれて良かった」
酒場の客は軽蔑の意を目撃談にこめていた。
南部出身であるはずのデミリーが、中央部に移動して中央駅で騒ぎを起こしたという点に関して、明確な理由は判明しなかったが、聞きこみの結果からレックスは大体の目星をつける。
「自分の生き方が下手なだけなのに、それを国のせいにして、憎しみを溜めに溜めこんで、それがとうとう爆発しちまったってところかな。なんというか、言ってしまえば、ありがちだよな。やらかしたこと自体が派手だったってだけで。もっとこう、俺たちの想像を絶するような犯行動機とかだったら、捜査にも身が入るってもんだが」
「仕事に面白さを見出すんですか」
「すまん、不謹慎だったな。やりがいを感じられる、と言い直しておく」
「似たようなものじゃないですか。変に追求なんかしたって、上司に余計な仕事を増やされるだけです。そもそも派手でもないっすよ、この事件。単なる酔っ払いのおじさんのひと騒ぎ、大衆の関心も大して集めていない。ただこの辺では久しぶりに舞いこんだ話の種、こぞってありつける酒の肴ってことで、みんな、言いたい放題なんです」
「斜に構えてんな」
「直射光を受け流さないといけないんで」
「なんだそれ。うまいこと言ったつもりかよ」
初日こそ素っ気なかったが、捜査開始から三日も経つとジョッシュはレックスが話しかければ普通に喋り、会話には適度に軽い冗談を含み、時には声を上げて笑うようになった。レックスは初め、ジョッシュと話していてどこかレイに近しいものを感じていたから、その反応を意外に思った。
「先輩、笑いすぎ」
「ああ、悪い。お前が俺のよく知ってるやつに感じが似ててさ」
「どんな風に似てるんですか」
「人生を達観してそうなところ」
「達観はしてませんよ」
「達観は、って、じゃあなんだったらしてるんだ」
「どっちかっていうと、傍観したいです」
「自分の人生なのにか」
「そうっすね。まあ、実際はそうもいかないんで、希望もこめて、なんですけど」
「ふうん。やっぱり、似てるな。あいつもきっと、そんな感じだろうし」
「恋人ですか」
「違うって。孤児院出身でさ、なんというか、その、いろいろあって。アパートの俺の部屋に住まわせてる」
ジョッシュは考えるようにして少し間を取った。
「もしかして、レイ君ですか。無賃乗車したら機関車乗っ取りに巻きこまれたっていう」
レックスはひるんで、再び間を作ってしまった。
「知ってるんだ」
「そりゃあ、知ってますよ。ペンドリオール孤児院からの連絡の担当者、自分だったんで。中央勤務の独身警察官が一時的に引き取ったって噂では聞いてましたけど、先輩のことだったんだ」
「やっぱり、騒がれたのかな」
「いいえ。噂といっても内輪の話で、一般的には機関車強奪事件のほうが有名です。彼の名前や出自には地方の報道機関も一切関与していないようなので、知られているのはせいぜい、人質になった少年がいたってことぐらいでしょう」
「そ、そっか。安心した」
報道機関がレイに手を出さなかった理由を考え始めると、この安心が何か別の良くない感情に変化してしまう気がして、レックスはそこにはあまり注意を向けなかった。
「でも、良かったです」
「良かったって、何がだよ」
「明日を生きようとはしてくれてるみたいなんで、その子」
「お前だってそうだろ。誰だってそうだ」
「どうでしょうね。確かに列車の上から飛び降りようとは思いませんけど。痛そうだし」
「あれは感情が高ぶって衝動的になっちまっただけだ。決して、本気で死のうとしたわけじゃない」
自分のことのように言ってしまい、レックスは苦い顔をする。ジョッシュはそれを一切見ていなかったし、見ようともしなかった。レックスの、というよりも、自分に関係のない、他人の心の機微に興味がなかった。
「衝動的とはいえ、死のうとしたんですよね。本気ではなかったのだとしても、生きることを諦めようとしたのは、事実なんですよね。結構、大変なことだと思いますよ」
「言われるまでもねえよ」
だが、忘れかけていた。
こみ上げてくる情けなさと悔しさを吹き飛ばすように、レックスは勢い良く上着を脱いで片腕に引っかける。爽やかとはいえない汗が、シャツを体にまとわりつかせていた。
捜査期間中、南部、とりわけホープウェーの街の外気温は高度を保ったまま変動を止め、レックスを参らせた。捜査が開始してから五日目、デミリーが潜伏していたとされる小屋の調査に赴いたところ、レックスは軽度の日射病を発症し、小屋の陰でしばらく休むことにした。
小屋は木造りの廃屋だった。南部警察の調べでは、かつての所有者だった老夫婦の死去後、そのままの状態で放置されていたのをデミリーが無許可で使い始めたとみられている。街はずれの岬の先端から少し下ったところに、まるで外部からの干渉を避けるかのようにして、ひっそりと建っている。岬全体も等しく照りつける陽射しを受けているが、小屋の裏側、陸地が突き出ている方向には影が作られている。レックスは海のほうに体の前面を向けて、湿った木の匂いを放つ小屋の壁を背にして休んだ。顔の上半分は汗拭き布で覆った。視界を閉ざすことで、心理的な影響から暑さも少しは和らぐだろうと考えたからだった。実際のところ、吹き出る汗にとどまる様子はない。
レックスが影の落ちる地面にとうとう横になってしまうと、見かねたジョッシュが近場から冷たい水道水を汲んできた。レックスに飲ませようとするが、
「頭が熱い」
と布もどけずに言うので、ジョッシュはためらいなくレックスの頭に水を振りかけた。汗拭き布とシャツの襟元が濡れる。レックスの半開きだった口にも入り、喉を潤した。ジョッシュはさらに水を持ってこようとしたが、レックスはそれだけで、すっかりいつもの元気を取り戻していた。
水気を多分に吸いこんだ汗拭き布を取り去ると、レックスの目の前に一面の青が広がる。空と海だった。境界線は物差しを当てて引かれたかのようにまっすぐで、やわらかく光っている。空は淡く、雲がない。海は色濃く、波はない。絵画だと錯覚するほどに、景色には動きがない。
「やっぱり、じっと見てると落ち着くな、海は」
「そうっすか」
目の前の風景に対するレックスの感想に、ジョッシュが気だるそうな反応を返す。レックスと対照的に、汗はあまりかいておらず、この暑さの中でも平気な顔をしている。
「遠くから見る分には、綺麗ですけどね」
「近くても綺麗だろ」
「近くで見ると綺麗というより、ちょっと怖いです。自分、泳げないんで」
「おい、本当かよそれ。南に住んでるくせに」
「どこに住んでようと関係ないですよ」
「だったら、お前が泳げないってのも関係ないぜ。海の向こうへ行きたいなら、機関車ってもんがある。列車と線路さえあれば、人はどこへでも行けるんだ」
「別に、行きたくないっす」
「そっか。俺は行きたいけどな」
レックスは汗を滴らせながら、夏空を仰ぐ。
影の中でも、彼の瞳は挑戦的な笑みをたたえて、小さく強く輝いている。
「いつか、機関車に乗って遠いどこかを旅するのが夢なんだ。いろんなものを自分の目で見てみたいし、いろんな場所の、いろんな人と話してみたい。警察官やってるくせに何言ってんだって怒られそうだから、あんまり言わないようにしてたけど」
ジョッシュの目が警察帽の鍔に隠れて、レックスからも、誰からも見えなくなる。
「わざわざ機関車に乗らなくったって、あらゆる人と話ができるような時代は来ますよ。この国には」
「それって、たとえば俺がどこにいても、どこかにいる誰かといつでも好きな時に好きなだけ会話ができるってことか」
「注文が多い。でも、そうです。いつかはそうなります」
「俺、そんなの待ってられねえよ。それにさ、ただ話をするだけじゃなくて、会いたいんだよ。相手がどんな顔をしてるのか知りたいし、一緒においしいものを食べたい。話をするってなっても、面と向かって相手の仕草や表情を確認しながらじゃないと、なんか、嫌だな。なんというか、同じ感覚を共有したいんだ」
「自分にはない考え方です」
また、間の多い返答だった。潮の匂いを含む、音のない風がレックスの汗を引かせていく。気分が良くなって自らの夢を語ってみたものの、やはりどこか気恥ずかしくなってしまったのか、話題を転換する。
「ところでその、いつでもどこでも誰とでも話せる時代っていうのはさ、具体的にどういう風に訪れるんだ。電話が進化したりとかするのか」
「根本はそうです。でも、電話回線はいろいろとまどろっこしいので、個人的には好かんです。いちいち電話局経由で交換手に番号を告げないと、相手の声が聞けない。もちろん電話は人類の偉大なる発明と進歩の賜物ではありますが、もっと簡単に実現できる方法があるんです」
「まどろっこしいって言ったって、回線を引かなきゃ通信はできないだろ」
「できるんですよ、それが。先輩や自分の、すぐ横を走っている見えない線を使って」
突然ジョッシュが立ち上がり、小屋の周辺を歩く。レックスもそれについていくと、小屋の入り口、傷だらけの古木の扉が静かにふたりを待ち受けていた。横の小窓には放射状の深い亀裂が入っていて、目を凝らしても向こう側が見えない。
「この廃屋は、まさにその方法に適した場所に建ってますね。周りに障害物もないし、切り立った崖の先端にしては地盤も頑丈。これほどまでに好条件が揃うのって、実はなかなかなかったりします」
ジョッシュは扉を開けて小屋の中へ入った。レックスも後に続いて足を踏み入れる。
家財が散乱している。それらのほとんどには最近動かされた形跡がない。密閉状態だった室内には熱を帯びた空気が充満しており、レックスの汗がぶり返す。
ジョッシュは靴を履いたまま奥の部屋へ進んでいく。小屋には入り口に面する部屋と、ジョッシュが踏みこもうとしているすぐ奥の部屋の、二部屋しかない。デミリーが潜伏していた証拠を得るための捜査だが、ジョッシュが二部屋目の戸を開けた瞬間、レックスの頭からそのことが抜け落ちてしまう。
変わらず使われていない家具で散らかっている。ただし、ある一面はそうではない。部屋の一角に、不自然に片づけられた空間がある。その中心に、さらに不自然なものがある。正面に電子パネルと、複数の円いダイヤル・キーがついた黒い筺体だった。また、その筺体からはおかしな方向に捻じ曲がった導線が伸びており、ヘッド・フォンとマイクロ・フォンが一体化した装着具に繋がっている。
「お、おい。これって」
「ええ。通信機っすね」
ジョッシュは目の前の機械を丹念に観察しながら言った。レックスは邪魔をしてはいけないと思ったが、それよりも好奇心が勝りつい質問を投げかけてしまう。
「えっと、その、なんだ。この通信機は、どういうものなんだ」
「送受信機です。こちらから相手方に信号を送ることもできるし、相手からの信号も受け取れる。信号というか、音声による交信が可能です」
「電話みたいにか」
「少し違います。単信式なので、同時に喋ることはできません。一方が喋って、もう一方は聞くだけ。身近なものでは、ラジオとかもそうですね。ただ、相手方が同じ通信機を持っていれば、当然ですが複信、つまり電話のような双方向の会話ができます」
「へえ。詳しいんだな」
レックスの感嘆に、ジョッシュは嘆息で応じる。
「先輩が知らなさすぎです。警察学校の研修で、携帯型通信機の使い方を教わっているはずなんですけど」
「そうだっけか。すまん、忘れてる。実務でもほとんど使わないしな」
「忘れないでください。いざという時に使えないのでは困ります。先輩に向かってこんなことを言いたくないんですが、ありえねえっす。知ってて当たり前です。まだ普及には時間がかかるかもしれませんが、無線通信はこの国にとって欠かせない技術になるはずなんですから。回線を引かなくてもどうのこうのと言っていた時点で、嫌な予感はしていましたが」
ジョッシュは声こそ荒らげたりはしないが、怒っていた。レックスは自身の知識が浅はかである事実を恥じ、素直に反省の色を見せてジョッシュに謝った。ジョッシュも自分が珍しく怒っていることに自分で驚き、この場を取り繕う。
「ま、まあ、暇な時にでも勉強してください。それより、これ」
「ああ。どうしてこんなものがここにあるんだ」
「普通に考えましょう。デミリーは、この通信機で何者かと連絡を取っていた。つまり、仲間がいるかもしれないってことですよ」
「無職の酒浸り男に、犯罪を共有するような仲間がいるとは思えないけどな。中央駅での事件も、廃棄車両処理場での事件も、計画的犯行には思えなかったし」
「放火という括りはやめたほうがいいかもしれないっすね。たとえば、同じ無職が集まって、それぞれ異なる場所で騒ぎを起こして憂さ晴らしをしてやろうとか、その程度の繋がりだったんじゃないのかと」
「ありえない話ではない、けど。それはデミリーが健常者であれば、という前提の上でしか成り立たない。デミリーは精神疾患者だ。仲間と犯行計画を立てる、なんてこと自体が不可能なはずなんだ。そもそも通信機のような専門知識を要する機器、取り扱えるのかどうかも怪しいところだ」
「取り扱い方法さえ習得してしまえば、簡単な意思疎通ぐらいなら誰でもできるんで、デミリーが精神を患う前に機器操作の習慣を脳と身体に定着させていたとしたら、健常だった頃の記憶に基づいた意識を伴わない行動を取ることだって考えられるんじゃ」
「やけにこだわるんだな。ろくに使っていない可能性のほうが高いのに」
「だって、この現場は通信機が確かに使われていたと雄弁に物語っていますよ。ただ放火犯が寝起きするだけの隠れ家だったとは、自分には到底思えません」
レックスの汗は、いつの間にか再び引いている。
反対に、ジョッシュが汗を滴らせている。それも、暑いという理由ではなく。
「ちなみに聞いておくけどさ。この通信機って、お前から見て、性能的にはどうなんだ」
「わざわざ実際に触ってみるまでもないっすね。固定機ではありますが、外部に持ち出す場合も考慮してか、出力電圧を安定させる装置を内蔵、周波数帯も広範囲に渡り選択可能ときている。高性能の最新式です。そこらの一般人が趣味感覚で手に入れられるようなものじゃない」
「じゃあ、ますますデミリーのものとは考えにくいな。完全に疑いがなくなったってわけでもないけど」
「本件とは全く関係のない第三者の所有物、という線が浮かんできますね」
「誰となんのために何をやり取りしたのかも不明瞭だし、デミリーが関わっていないとするならば、この高性能な機械に現時点での事件性はなくなる。たとえここに置いてあるのがどんなに不自然だとしても、だ。知りたければ俺が帰った後にひとりで勝手に調べてくれ。ただし、お触りは禁止でな」
以降も小屋内部の捜査は続けられたが、通信機以外の不審物は発見されず、デミリーに関する証拠は得られないまま、レックスとジョッシュの南部合同捜査は終了した。明らかになったのは、レックスの警察学校での成績がかなり悪かったことと、ジョッシュは得意分野の話題になると饒舌になるということぐらいだった。
レックスは、小屋に放置された所有者不明の通信機について、何か判明したら連絡するように伝えてから、ジョッシュと別れて中央に戻った。クラークに捜査結果を報告すると、クラークはいつものように口元にだけ笑みを残したまま目を閉じて、椅子の肘掛けを触りながら、
「ご苦労様」
とだけ言って、レックスを帰した。
デミリーが逮捕されてから、同じような手口、身の上の放火犯が現れることはなかった。