エルシー・グリーンが「彼」と出会ったのは、中央駅構内の北部方面列車乗り場へ続く階段の近くだった。流れる人の波の勢いに勝てず、切符を取り落としてしまったところへ「彼」は通りかかり、拾ってエルシーに手渡した。彼女が礼を言おうと下がりがちだった顔を上げると、切符の表面が通行人の靴跡で真っ黒く汚れていて、運賃から行き先までほぼすべての情報が判読不能な状態になってしまっていることに気づき、ふたりで顔を見合わせて苦笑した。駅員に切符交換の手続きをしてもらっている間、「彼」から話は切り出された。
「これから、どちらへ向かわれるんですか」
「北へ。コスタノア美術館に、前から行ってみたいと思っていまして」
「そうなんですか。奇遇だな」
「もしかして、あなたも」
「ああ、いえ、違います。北部に行くのではなくて、北部から来たんです。コスタノアに住んでいるんですよ」
「じゃあ、ここへは観光か何かで来られたんですか」
「仕事です。詳しくは伏せますが、鉄道事業の開拓に携わっておりまして。南部の辺境で新規案件が立ち上がったのですが、これからひとりで現地の視察に。寂しいですよね」
「そんなこと、ありません。お仕事で国中を飛び回ってるってことですよね。素敵だと思います。私なんか、まだ中央を出たことがないんですよ。これから初体験です」
エルシーは初対面の見知らぬ男性である「彼」との対話が、どういうわけか煩わしくなかった。元来、彼女の口数は多くなかったのに、会話は途切れることなく続いた。「彼」はエルシーに向かって話す時、常に微笑を浮かべていた。身長が高く、艶のある金髪で、背広も違和感なく着こなしている。何より「彼」のその、意志の強そうな色濃い瞳にエルシーは初め、まともに焦点を合わすことができずにいた。多分の気恥ずかしさと、少しの怖さが入り交じったかのような心地だった。
「よければその初体験、あと一週間だけ先延ばしにしてもらうことは可能でしょうか」
「どういう意味でしょう」
「コスタノア美術館は何度も訪れたことがあるんです。館内の最奥部に巨大な女神像が立っているんですが、それをただじっと、見上げているのが特に好きで。もちろん他の展示物も負けないぐらい魅力的ですし、よければ中をご案内しますよ」
「でも、悪いですよ。会ったばかりの人にそんなことをさせるなんて」
「構いません」
「私が構います。お互いに気を遣いながら美術館を回っても、美術作品を鑑賞するという、本来の目的を見失ってしまうだけです」
「それは、失礼。しかしながら」
強気な「彼」の眼差しが、エルシーの瞳を捕らえた。
「あなたとこのまま、これきりでお別れしたくないのです。困ったことに」
「それはまた随分と、はっきり仰いますね」
そう返すのがやっとで、エルシーは面映ゆくてたまらなかった。通りかかる列車の乗降客に会話を聞かれていないか、そんなことばかりが気になって、赤らむ顔を隠すために片手で視界を覆い隠す。しかしそれでは、視線からは完全には逃れられない。エルシーは押し黙り、次に出す言葉が見つからないのか、「彼」もエルシーを見つめたまま口を閉ざしてしまう。
構内に、列車の運行を告げる案内放送の音声が響く。人の往来が速度を増していく。けたたましい汽笛の音が鳴り渡る。中央駅を頻繁に利用する者にとって、よく見聞きする日常の一場面だった。この時のエルシーには、いやに長く続くように感じられた。それでも列車は駅を発ち、ふたりの横を行き来する人の数も時間の経つごとにまばらにはなってきて、まるでそれが合図であったかのように会話は再開された。
「また、会っていただけませんか」
環境音が静まっているおかげで、「彼」の声をエルシーははっきりと聞きとることができてしまう。答えないわけにはいかなかった。
「私の行きつけの喫茶店があるんですけど、そこで軽くお茶する程度なら。美術館の案内をお願いするかどうかは、それから考えます」
「本当ですか。ありがとうございます。こちらから誘っておいてこんなことを言うのもなんですが、ひと月に一度しかお会いできないとは思いますが、必ずまた、この中央駅で」
「ひと月に一度だけで、いいんですか」
「それを言ったら、毎日でも足りないぐらいですよ。あ、いえ、さすがに調子に乗りました。仕事の都合で、時間が作れるとしたらそれぐらいかな、と」
「お忙しいんですね。じゃあ、えっと、いつにしますか」
勢いに押され、エルシーは「彼」との再会の約束を取りつけた。「彼」がもとの微笑を取り戻して去っていく様子を、エルシーは姿が見えなくなるまで眺めていたが、新しく用意された切符を彼女に渡そうとして、ずっと横で待機していた駅員に声をかけられると、気まずさを隠そうともせず切符代を返金して足早にその場を離れた。構外へ出て、「彼」から受け取っていた約束の日時が記されている紙を、掌に収めて読んだ。
四月二十九日、中央駅改札前にて待つ
カートライト
走り書きされた「彼」の名を、エルシーはひとり、小さくつぶやいてみる。その声もまた、再び音量を上げつつあった中央駅の喧噪に飲みこまれていった。
エルシーと、「彼」ことカートライトとの月に一度の交際は、不確定で不安定な未来を前にして始まりを迎えた。会ったその日に男性と再会の約束を取りつけて、本当にまた会うことになるなど、エルシーは考えてもみなかった。自身がこの状況を無意識のうちに許容しているという事実にも、戸惑うばかりだった。最初はエルシーの提案通り、近くの喫茶店に入って、当たり障りのない会話を途切れ途切れにするだけで終わってしまうような程度の仲だった。しかしふたりは、会って別れる間際に来月また会う約束を忘れなかったし、次の月、それは堅実に果たされた。行動範囲も少しずつ広がっていった。ある月は国立図書館に足を運び、ふたりで静かに本を読んだ。途中、沈黙に耐えられなくなったのか、カートライトが小声でエルシーに話しかけ、エルシーも小声で返し、楽しくてつい声量を大きくしてしまい、司書に怒られた。ある月は映画館へ出かけた。異国の地で男女が出会い、恋に落ちる恋愛映画で、最後にはここで生きていくと決めた場所の選択の違いから別れてしまう、という結末で終わる物語だった。自分たちとは立場も何もかも違う人物の話なのに、ふたりとも互いを映写幕の中の俳優に重ねて、エルシーは鑑賞席を包む暗がりに紛れて涙を流し、カートライトは映画館を出てから別れ際に、エルシーの体を愛おしそうに抱きしめた。ある月はバノックの夜景が一望できるレストランで食事をした。相変わらず話はあまり弾まないが、以前と比べると沈黙が気まずくなくなった。エルシーもカートライトも、話したい時だけ話して、話したくない時は話さなかった。ただ窓からの景色を眺めていた。ふたりとも料理はなかなか減らなかった。すべて食べてしまうと、ふたりの時間が終わってしまうからだった。「早く終わってほしい」から「もっと続いてほしい」に、いつの間にか変化していた。
エルシーはカートライトと一緒にいる時だけ、夢を見ているような感覚でいられた。カートライトの顔を中央駅の待ち合わせの場所で見つける瞬間が一番好きで、来月の約束を交わした後にカートライトが雑踏に消えていくのを見るのが一番嫌いだった。以前からの住まいであるアパート「アップル・ヤード」の二〇二号室に帰ると、寂寥感で押し潰されそうになる。次の約束の日が待ち遠しくてならない。どうして月に一度しか会うことができないのかと、憤りに近い感情で胸の中がいっぱいになる。カートライトとの約束は、エルシーの生活の中心になっていた。次にもし、まとまった時間を取ることができたら、コスタノア美術館を案内してもらうという最初の約束を果たそうと思っていた。永遠にも等しい、長い時間をかけて、果たしてもらおうと思っていた。
だからエルシーは、冬の中央駅でカートライトがはっきりと口にした「もうこれきりで会うのをやめよう」という言葉が、何度も頭の奥で反響しているのに、全く理解できなかった。
「事業が本格的に動き始める。何か月に一度という頻度ですら、こうして顔を合わせるのもままならなくなるだろう」
「どういうこと」
「次にいつ会えるのかも、約束できないってことさ」
「嫌。私、あなたのところへ行く」
「来てはいけない。国家の命運を握る重大な計画の一端を担っているんだ。住処を仕事場に近い地へ移し、これまでの暮らしを一転させる。浮ついた気持ちを整理しなければいけないんだ。家に帰れる日があるのかどうかも、怪しいところではあるんだけどね」
カートライトは、凛とした低い声でエルシーを諭す。対するエルシーの声は、自身の感情への理解を求め、震えていた。
「待って。『浮ついた気持ち』って何。私はね、もう、あなたに会うことが一番の楽しみになってしまっているの。あなたが駅で話しかけてくれて、私、初めは少し驚いたけど、思えば、その時から嬉しかったの。私を対等な人間として扱って、接してくれた。私、あなたのことが本当に好き。好きなの。だから、そんな言葉で汚さないで」
カートライトの声色は、微塵も崩れる素振りを見せない。
「君にとっての一番は愛する人、なのかもしれない。でも愛する誰かを一番には考えない人もいるよ。何事にも優先すべき順位というものがある。金、名誉、仕事。それ、あるいはそれらこそが何より大切だとする人間は、いくらでもいるさ」
「だったら、どうして私を、こんな、こんな気持ちにさせるの」
「自分自身を試したかったんだ。歩く道の先に立ちはだかる数多くの壁。すべからく人は、それを乗り越えるために、それが無理なら破壊するために、生きていかなければならない。でも、本当に挑む資格があるのか、技量があるのか。確かめるためには、己に試練を科すしかないと考えた。やるからには徹底しなければ意味をなさない。その試練に、打ち勝とうとしている重要な段階なんだ。愛する人をも捨て置いてまで、使命を見失わず前に進んでいくことができるのかという、あまりにも過酷で、残酷な試練にね」
以降のカートライトの声を、エルシーは聞き取っていない。
月日が空虚に過ぎていった。
中央駅で出会ったカートライトに、同じ中央駅で別れを宣告されてからエルシーは、その後どうやって帰宅したのか、よく憶えていなかった。意識の底に残っていたのは、部屋の壁にかけられていた来月分のカレンダーを破り取り、次にカートライトと会うはずだった約束の日に付けられていた丸い印を、ペンで真っ黒に塗り潰したという行為の記憶のみだった。数日、食べ物を何も口に入れずに過ごした。部屋の隅に形成される陽だまりに体をうずめて、ひたすらに涙を流したり、床に積もる埃を無心で見つめていたりしていた。一か月のうち会えない間にカートライトから貰っていた手紙は、二度と読み返すことはしなかったが、捨てることもできずに書棚の奥へ押しこんだ。
ようやく食事の時間を作るようにはなっても、アパートの部屋から外には一歩も出ない日がしばらく続いた。カートライトとの交際を始めた頃と同時期に勤めるようになった雑貨店にも一切顔を出さず、連絡も入れずに放置していた。おそらく勤め先のデイジー・セヴァリーからであろう、かかってくる電話もすべて無視した。やがて電話も鳴らなくなり、二〇二号室は虚無に支配された。エルシーの生活から、変化が消えかけていた。
完全に立ち消えることがなかったのは、二〇二号室に来訪者があったからだった。夕方頃、ほぼ決まった時間帯に扉が叩かれる。若い男の声が二、三度部屋の主の存否を問うが、返事がなければ律儀に去っていく。これが毎日のように繰り返された。電話ならまだしも、部屋に直接訪ねてくる人物をいつまでも無視し続けるのはさすがに具合が悪いと考えたエルシーは、ある日、意を決して扉を開けた。どんな用件であろうと最低限の言葉で簡潔に断り、すぐにまた閉じこもるつもりだった。
「あ、やっと出てくれた。こんばんは」
カートライトと比べると背は低く、童顔な男だった。髪は男性らしく短く刈られていて、左手によって頻繁にさすられている。男は少し照れたような、人懐っこい笑顔でエルシーに言った。
「先週、いや、そのさらに前の週ですかね。隣の二〇一号室に越してきた者です。レックス・ベイカーといいます。本当はすぐに挨拶したかったんですけど、不在だったみたいで、遅くなっちゃいました。ただ部屋が隣同士ってだけですけど、もしこの先、何かご迷惑とか、かけてしまったらすみません、って、先に謝っときます。へへ。えっと、まあそんなわけで、これからよろしくお願いします」
犬みたいな人。
それが、エルシーのレックスに対する第一印象だった。
「別に」
「はい」
「別に、挨拶とか、いらないので」
「そうですか。でも、隣にどういう人間が住んでいるかって、明かしておいたほうが安全だと思うんです。お互いに」
だからといって、ただ挨拶するためだけに毎日の同じ時間に訪ねてくるのもどうかと思う、とエルシーは危うく口走りそうになったが、どうにか抑えた。
「ちょっと言いにくいんですけど、手土産とかは用意していないんです。その代わりといってはなんですが、俺、警察官なので。何か相談事があれば、いつでも言ってください。それでは、失礼します」
一際、警察官という言葉が不自然に強調されたレックスの自己紹介は、あっさりと終わった。レックスもエルシーのやつれた姿を見て、あまり長く話しこむのも良くないと思い、この日は早めに引き上げたのだった。エルシーはレックスが去り、無人になったアパート二階の廊下をぼんやりと眺めたのち、また部屋に戻っていった。隣の部屋の住人とはいえ、もう関わることもないだろうと、エルシーはレックスの存在を記憶に留めておくつもりもなく、いつもと変わらない浅い眠りに落ちた。
ところが次の日の朝、エルシーはレックスの怒鳴り声に驚き、目覚めていた。
「このおんぼろ時計め、また遅刻じゃねえかっ」
間もなく何かが床に落ちる音や、レックスが部屋の中をどたばたと走り回る音が、壁越しにエルシーの耳に届く。一回だけならまだしも、それが平日の二、三日おきに続くので、当初は気にも留めていなかったエルシーも苛立ちを覚えるようになり、ある月曜の朝、レックスが慌ただしく外へ出た瞬間、同じく勢い良く部屋を飛び出して、厳しく注意した。レックスは目を点にして驚いたのも束の間、しゅんとした様子で謝ってから、そのあとはまた慌ただしく街路を走っていった。エルシーが久しぶりに、他人に対して大きな声を上げた日だった。
忠告の後も朝寝坊の騒ぎは完全になくなりはしなかったものの、頻度は減った。レックスも反省しているのか、仕事終わりの晩、近場の菓子店で購入した菓子折りを提げて、エルシーの部屋の扉を叩いていた。エルシーは無言で受け取り、レックスの決まりの悪そうな顔を一瞥して、無言で扉を閉めた。菓子には手をつけなかったが、捨てることもしなかった。
エルシーがレックスの人間性を理解できるようになった頃、さらにその理解を進めるような出来事が起きた。
部屋にこもってばかりのエルシーだったが、ずっとそんな生活を続けていれば当然、いつかは食糧が尽きてしまう。買い足しに出かけるために、ある夜に部屋を出た。するとレックスが二〇一号室の扉に腕を組んで、もたれかかっているところへ出くわす。無視して通過しようとすると、レックスはわざとらしく声を上げてため息を吐く。どうすればいいんだ、などとも漏らしている。そのまま街に出てしまえばよかったのだが、エルシーは話しかけてしまった。レックスは一瞬、とても嬉しそうな顔をするも、すぐにそれを隠すように表情を曇らせる。
「仕事が多忙なもので、街の水道局に料金を支払うのをすっかり忘れておりまして」
部屋で、水が使えないのだという。
「だったらさっさと支払いに行けばいいじゃないですか」
「こんな時間ですよ。もう受け付けてもらえません」
「明日まで待てば済む話でしょう。一日くらい水がなくたって、人は死んだりしません」
「それはそうかもしれませんけど、風呂はどうするんです。俺、正直、仕事はあまりできるほうではないんですけど、それならばせめて、身だしなみだけは、と思って、気をつけてきたんです。水がなくても人は死なない、それはその通りかもしれません。でも水がなければ人は、翌日、また翌日と日を追うごとに、社会的に死んでいくんです」
「いや、知りませんけど、そんなこと」
「そんなことって。深刻かつ重大な問題です。このままだと近くの川で体を洗わなければならなくなります」
「悪くないと思いますけどね、たまには」
「たまには、じゃないですよっ。翌日を待たずに社会性を捨てることになるじゃないですか。それに、警察官が不審者のような行動を取って、近隣住民に通報でもされたらたまったものではありません」
「だったら、公衆浴場は」
「俺の故郷にはありましたけど、この近辺には見当たりません。探せば見つかるかもしれませんが、明日も早いので、そんな時間もないのです」
レックスにエルシーをからかう気持ちはないようで、本気でこの問題に悩んでいるらしかった。エルシーはそれがどうしようもなく煩わしく、また、おかしくもあり、少しだけ笑いそうになる。カートライトと別れてから、こんなことは初めてだった。エルシーは疑問に思う。カートライトと性格も人間性も正反対のレックスに、何故、自分は関わっているのだろう。何故、無視すればよかったものを、わざわざどうかしましたかと話しかけてしまったのだろう。
「五分」
「は、はい、なんでしょう」
「五分間だけ、貸してあげてもいいですよ。私の部屋のシャワー」
レックスはエルシーを一点に見つめたまましばらく固まっていたが、やがて顔を真っ赤にして慌てふためく。
「なっ、何をっ、言っているんですか」
「もちろん、あなたが部屋にいる間、あなたが不審な行動を取らないように見張っていますし、何かあれば、すぐに警察に通報します」
「俺がその警察なんですけど、って、そうじゃなくて。エルシーさん、そんなに簡単に人を家に入れようとしないでください。警察官として、厳重注意します」
「そうですか。では、この話はなかったことに」
「あ。えっと、警察官としては反対すべきなんですが、その、これは、ひとりの人間として、といいますか、単なるアパートの隣人としてそこは、是非とも、お言葉に甘えたいといいますか」
「じゃあ、早くしてください」
レックスは俯きがちに二〇一号室に引っこみ、着替えを手に戻ってきた。二〇二号室に入ってからも、すっかりおとなしくなってしまった。
「ああ、そうだ。シャワーを貸す代わりに、お願いがあるの」
「な、なんすか」
「夕飯、ご馳走して。自分で作るのが面倒になったから」
以降、レックスとエルシーは少しずつ交流を深めていくようになった。余った食事を分けたり、本の貸し借りをしたり、あれを買ってきてほしいとか、これをアパートのごみ捨て場に捨ててきてほしいとか、雑事を頼むこともあった。シャワーを借りた日以来、レックスがエルシーの部屋に入ることはなかったが、その逆はあった。エルシーが食事の支度をするのが面倒な日は、レックスの部屋に上がりこみ、作るのを手伝って、一緒に食べた。会話も、だんだんと増えていった。しかしその大半は、レックスが仕事の愚痴をこぼしたり、失敗談を語ったりするのをエルシーが聞いているだけで、エルシーは自分のことをレックスには話さなかった。レックスも、エルシーがどこでどんな仕事をしているのか、どのような経緯で中央街にひとりで住むようになったのか、などといった、素性に関する質問はしなかった。どの食べ物が好きか、どのラジオ番組を聴くか、どの本が面白いと思うのか、そんな質問ばかりだった。エルシーは疑わしく感じながらも、これがレックスなりの配慮、なのかどうかはともかくとして、ありがたかった。エルシーも、話したくなかった。ずっとレックスの話を聞きながら笑っていたかった。しかしエルシーは、どうしても疑うことをやめられなかった。だからふと思いついた風を装い、質問を投げかけてみる。
「ねえ、レックスって本当に警察官なの」
「本当に、って、どういう意味だよ。俺が警察官には見えないってか」
「そういうんじゃないけどさ、そういえば、証拠とか見せてもらってないな、と思って」
怒らせてしまうのでは、とエルシーは懸念したが、不要な心配だった。レックスはためらいもなく警察手帳を取り出し、掲げてみせる。
「どうよ。動かぬ証拠ってやつ」
「ふうん」
「なんだ、反応が薄いな。これならどうだ」
レックスは、金属製の輪がふたつ、鎖で繋がれている物体をエルシーに差し出した。
「手錠だ。こんなものも普段から持ち歩いてるんだね」
「だって、考えてみろよ。警察官は犯罪者が現れた時、一刻も早く捕まえなきゃいけないわけだろ。できるならその場で、すぐにでも。だったら常時、携帯していないとな。いつでもこうやって、手に掛けられるように」
言ってレックスは、エルシーの手首に片方の輪をあてがう。輪は開き、堅く閉じられる。
「犯人に逃げられないように、反対側は自分の手に掛けるんだ」
もう片方の輪には、レックスの右手首が収まった。いくら動かしても、錠が外れる気配はない。
「な。俺は間違いなく警察官だ」
「いいから、早く外してよ」
「おう、待てよ。鍵もちゃんと、ある、はず」
エルシーは手錠が自分の手首に掛かる前から嫌な予感はしていたのだが、それは見事に的中してしまった。結局、部屋のどこを探しても鍵は見つからず、ふたりで人目を避けて中央部警察署へ赴いた。錠はあっさり外してもらったが、レックスは上司に叱られていて、しばらくアパートには帰れそうになかった。応接室で待つ間、エルシーはジェイミー・エイムズという女性警察官に話を聞いてもらった。
「レックスさん、アパートのお隣さんにまで迷惑をかけているんですね」
「ということはやっぱり、皆さんにも」
「お察しの通りです。この間なんて、取り調べ中の被疑者と小説の好みが合ったとかで二時間ぐらい話しこんじゃって、最後には『こいつが犯罪に手を染めるはずがない』とか言い出しちゃうんですから」
ジェイミーはエルシーから見て、おとなしそうだと感じられる女性だったが、レックスの話を語る彼女は楽しそうで、笑顔が絶えなかった。エルシーもレックスが寝坊した時の話などをして、ジェイミーとさらに盛り上がった。
「警察組織って犯罪を追いますから、職場の雰囲気が暗くなりがちなんです。明るさなんて不謹慎だ、必要ない、暗くしていなきゃいけないみたいな脅迫観念があるといいますか。その上、無口な人が多いんです。私もそんなに自分から喋るほうではなくて。でもレックスさんが来てくださってから、ちょっとずつではあるんですけど、明るくなった気がするんです。上司のマイヤーさんの怒る回数は跳ね上がりましたけど」
「きっと、本人は至って真剣だし、不服に思ってますよね」
「そうそう。でも、私は決してレックスさんを馬鹿にはしていないですし、他の皆さんもなんだかんだで好きですよ、レックスさんのこと。マイヤーさんだって、毎日のように怒ってますけど、もし本当に嫌いだったら、その人を怒ることすらしませんから」
ジェイミーにつられて、エルシーも笑ってしまう。エルシーの笑顔はいつまでも、どこか、ぎこちなかった。それでもエルシーはレックスのおかげで笑うこと、人と話すことを取り戻せた。
カートライトのことは忘れられなかった。
部屋の外に出る日数は以前より増えていたが、まだ仕事に復帰できる状態ではなく、貯めた金を切り崩す生活が続いた。中央駅に近づくと、カートライトと出会った時の嬉しさ、その何倍もの別れた時の悲しみが胸の底からせり上がってくる。中央駅に限らず、彼と一緒に訪れた場所に足が向くことはなかった。エルシー自身、忘れたくないわけではない。一刻も早く忘れてしまいたかった。しかし思い出はずっと、彼女の心から消えない。小さいが、確か存在する痛みが時折、電気信号のように彼女の中を走る。毎週木曜日の黄昏時に、痛みは頂点に達する。忘れるな、とでも言っているかのように。
「誰かからの手紙でも待ってるのか」
レックスからそう声をかけられて、エルシーの郵便受けを探る手が止まった。
「なんで、そんなこと聞くの」
「いや、いつも、このぐらいの時間に郵便受け、覗いてるなって思って」
「私のこと、監視してるみたい」
「そんなわけあるか。頻繁に見かけるから、嫌でも頭に残るんだよ。まあ、あれだ。警察官の癖みたいなもんだな。推理小説でも、些細な仕草とか行動とかが、のちのち大事になってきたりするんだぞ」
「レックスに、推理小説なんて理解できないでしょ」
「た、たまには読むぞ。たまに」
「たまに、ねえ」
こうしてまた、普通の会話になって終わるだろうとエルシーは思っていたが、違った。
「でさ」
「うん」
「質問の答えは」
「言わなきゃ、いけないのかな」
このままじゃ、いけないのかな。
と、言いそうになった。
答えてしまうと、レックスに話さなければいけなくなる。仕事をしていない理由、レックスに会うまでアパートの部屋に閉じこもっていた理由を、明かさなければいけなくなる。明かしてしまえばもう、後には戻れない。エルシーにとってのレックスが、ただの隣人ではなくなってしまう。このまま、ではいられなくなる。エルシーは怖くなった。レックスから、この場から、逃げ出してしまいたくなる衝動に駆られた。いつもみたいにぎこちなく笑ってごまかして、話に打ち切ってしまおうかと思った。しかしこの日に限って笑えないし、足も動かなかった。
話すしかないと思った。
「人を、待ってる」
「その手紙の差出人か」
「うん。えっと、違うね。待ってるというか、今どこで何をしてるのか知りたいの」
「知るだけか」
「うん。知ってどうするかは、まだ私も考えていないんだけど。前にね、つきあってた男の人。月に一度だけ会えたの。中央駅で待ち合わせて、映画館に行ったり、一緒にご飯を食べに行ったりした。でも彼、仕事が忙しくなったらしくて、会えなくなっちゃった。連絡先も知らないし、こっちから会いに行くこともできないの」
「名前はなんていうんだ」
「カートライト」
「なんの仕事をしてる男なんだ」
「確か、鉄道関係。鉄道事業の開拓、とか言ってたかな。詳しくは教えてもらってない」
レックスと、同じだった。
食べ物の好み、好きな本の題名、お気に入りのラジオ番組、感動した映画はいくらでも知っているし、いくつでも挙げられる。でも、何故、鉄道の仕事に就いているのか、将来はどうしたいのか、どう生きたいのか、誰と一緒に生きたいのか、何ひとつとして、教えてもらっていない。聞こうともしていない。
大切なことを何も知らなかった。
「探偵を雇うことは考えなかったのか」
「名前と仕事だけじゃ、相手にしてもらえないよ。お金もないし。第一、探偵なんか、知り合いにいないもの。へぼ刑事の知り合いなら、いるけどね」
「誰がへぼ刑事だ。鉄道業のカートライトだろ。情報なんて、それだけあれば、捜そうと思えば俺にだってできるぞ」
「本当に」
聞き返すエルシーの声色に、突然、悲しみが入り混じる。
「捜してくれるの」
誰が相手でもよく喋るレックスの口数が減っていく。
「見返りなしで、捜せってのかよ」
この状況でレックスは、笑っている。
「望みは何」
「普段の仕事と並行して、人をひとり捜すってんだから、それなりの報酬を頂かないとな。そうだな、月に一度は少なすぎるから、俺は、週に一度にしよう」
「だから」
一体なんなの、と続けようとしたが、声が詰まる。次いで、まさか、という言葉がエルシーの頭に浮かぶ。レックスが独身の男性であることを、今更になって思い出す。
「とりあえず、俺の部屋に行くか」
言われるがまま階段で二階へ上がり、レックスに続いて二〇一号室に入る。エルシーがレックスを男として見始めたからなのか、乱雑な室内を目にすると、彼の生活を頭がひとりでに想像してしまう。警察官という職業は厳しい規律の下に成り立っているのだと、レックスが語っていたのを思い出す。帰りも遅く、アパート暮らしということは給料も大した金額をもらっていない。それでいて激務とくれば、鬱憤も溜まるだろう。そのはけ口をレックスは普段、どのような手段で用意しているのか、そんな考えにまで至ってしまう。
「よし。じゃ、まずは今夜だな」
エルシーは、息が苦しくなる。
カートライトを捜すには、レックスに頼るしかないと思った。別の方法を見つける余裕も体力も、エルシーにはない。たとえ何をされようとも、従うと決めた。
背を向けていたレックスが、不意にエルシーへ向き直る。
エルシーは下を向いている。
レックスはエルシーに歩み寄る。
何かを差し出した。
一流料理人が伝授するおいしい肉料理の作り方、と題が掲げられた本の見開きだった。
「これ。作って」
エルシーは言葉が出ない。
が、息はすっかり元の通りに、吸って、吐くことができる。
「ここに載ってる、鶏肉の香辛料煮こみ。俺、これが食いたくてさ、前にひとりで挑戦してみたんだけど、失敗しちゃって。料理が得意なエルシーなら、簡単に作れるんじゃないかって思って。できれば、多めに作ってくれよ。作り置きしておけば、数日は食事の支度をしなくても済むし」
「えっ、あの、じゃあ、さっきの『週に一度』っていうのは」
レックスは悪戯っぽく笑っている。
そこには、ただ体が大きいだけの無邪気な少年がいるようにしか、エルシーには見えない。
「週に一度、俺に夕飯をご馳走するって約束してくれるなら、その人捜し、引き受けてやってもいいぜ。俺だって暇じゃないから、すぐには見つけられないだろうし、長期戦になるだろうから、とりあえず、当分の間はお願いしたいんだけど。どうかな」
犬みたいな人。
エルシーはレックスと初めて出会った時と全く同じことを思っていた。きっと彼が本当に犬だったら今、尻尾を振っているに違いない。そんな想像をしていると、あまりの馬鹿らしさに笑いがこみ上げてくる。
エルシーにとって、レックスは救いだった。他の、何よりも。
「おい、なんで笑ってんだよ」
「ごめん。どんな要求されるのかと身構えてたら、ご飯を作れって。耳を疑ったよ」
「正当かつ合理的な要求だろ。でもな、警察官が個人的に人捜しに協力するなんて、本当はありえないんだよ。ありえないどころか、ばっちり職務規定違反だな。だからさ、このことは誰にも喋るなよ。特に、鉄道保安課のみんなには。もしばれたら俺は、今度こそ銃殺されちまう」
「この前の手錠騒ぎの時に叱られた人ね」
「そう。スカーレット・マイヤー警部補。名前からして怖そうだもんな。参るぜ」
その晩、エルシーはレックスの要求通り、香辛料の煮こみ料理を作ってふたりで食べた。時間はかかったが、レックスは腹を鳴らしながらも律儀に待ち、エルシーは張り切って腕を振るった。
台所にかかりきりだったので、レックスが一瞬だけ見せた寂しげな表情には気づかなかった。
レックスが持ちかけた交渉は成立した。エルシーはレックスに、カートライトに関して知っている情報を記憶の限り話した。カートライトのことがどうしても忘れられずにいて、別れを切り出されて以来、休職中であり、レックスと出会うまではアパートの部屋に引きこもっていたことも、すべてを正直に打ち明けた。レックスはエルシーの話を真剣な態度で聴き、聴いた内容を警察手帳の一番後ろに小さく書き留めた。
エルシーはかつての生活を取り戻すべく、職場に復帰した。無断欠勤の理由についても、「恋人と別れて精神的に落ちこんでいた」と端的に告げた。デイジーは初め、エルシーに厳しい態度を見せたが、謝りに雑貨店を訪れたエルシーを頭ごなしに追い返すようなことはせず、ただ黙って彼女の謝罪の言葉に耳を傾けたのち、エルシーを従業員として迎え入れた。欠勤理由への追及も特にしなかった。以降エルシーは一日も休むことなく、セヴァリー雑貨店で働き続けている。週に一度のレックスとの夕食も欠かさなかった。エルシーは、レックスに捜索の進捗を都度確認するようなことはしなかった。いつか明らかになればそれでいい、という程度の心持ちでいた。レックスを信じて、待ち続けた。
そうして、一年が経過した。
北部渓谷機関車転落事故が発生した。
レックスは直接捜査に関わりはしなかったものの、事故を皮切りに鉄道保安業務に忙殺されるようになった。
約束は未だ、果たされていない。