レイがユロックの町の学校に通い始めてから、ひと月以上が経過した。悪目立ちしないようにと必要最低限の交流はしてきていたのだが、他人との交流が苦手であり、何よりネルとほぼ毎日行動を共にしていることから、いつしかレイの周りにネル以外の級友はあまり寄りつかなくなっていた。それはレイが嫌われているというわけではなく、ネルがいるからという理由だけだった。学校の中でネルが、悪い意味で一目置かれているのをレイが知るまでに、大した時間はかかっていない。
レイはこの現状をよろしくないとは思っていたものの、楽だと感じてしまっているのもまた、本当のところだった。学校一の問題児に目をつけられてしまった不幸な子、という自身に対する評価を利用して、ろくに誰とも喋らないまま放課後を迎える日を作れるようになったからだった。第三者から見れば哀れに映るのかもしれないが、レイにとっては毎日を過ごしやすくなったわけであり、むしろ歓迎すべきことだった。
レイは基本的に人が嫌いだ。しかし、人が嫌いだと人に向かって告白するのはさすがに憚られると思っているので、ずっと心に秘めたままにしている。ところが、それをなんの遠慮もなく言い放つ少女がいた。
「教室ってのは、列車の中と同じ。ろくに知りもしない連中と一緒にひとつの箱の中に入れられて、目的地に着くまでずっと一緒にいなきゃいけない。その目的地が、列車はどこかの駅で、学校は知識や技術を身に着けることっていう違いでしかないわけ。でさ、自分以外、誰もいない無人客車に乗ると最高に嬉しいでしょ。次の駅まで誰にも邪魔されずにひとりで楽しめる。教室だって、そうするべきなの。何が、みんなで仲良くしましょう、よ。何が悲しくて、他人同士で寄り固まって勉強なんかしなきゃいけないんだか。ねえ、あんたもそう思うでしょ」
「まず、その喩えは無理があるような」
「まず、後の方の質問に答えなさいよ」
学校の授業が終わった後、レイはネルと共にユロックの町を歩いて帰路に着くのが習慣になっていた。転校初日にいきなり攻撃的な発言を浴びせても、臆せず言葉を投げ返してきたレイを案外気に入っているのか、以来ネルはレイがどんなに避けても執拗につきまとうようになった。レイは初め、嫌でたまらなかったのだが、苦痛な交友を頑張らなくてもいい今の立場を利用していくためには、ネルの隣になるべくいるべきだし、彼女の話に対して相槌のひとつも打ってやらなければならない。当初は極めて打算的な仲ではあったものの、今ではネルに軽口を叩き叩かれるのも案外悪くないという考えになってきて、最近ではレイの方から「一緒に帰ろう」とネルを誘う日もある。
「無人の列車に乗れたら、もちろん嬉しいよ。なんだか、得した気分になる」
「そうよね」
「でも、次の駅でお客さんが乗ってくるよ」
「乗ってこないかもしれないじゃない」
「いや、絶対どこかで乗ってくる。仮にね、ネルだけのための列車があるとするよ。でもネルだけのための終着駅なんかない。必ず、ネルと同じ駅で降りる人がいる。他の駅でだってそうだ。同じ目的地を目指してたくさんの人が列車を乗り降りする。誰かひとりだけしか目指していないものなんて、存在しないから」
たとえば、北の大事故の真実とか。
そこまで出かかって、レイは口をつぐんだ。ネルは言い返せないのが悔しいのか、露骨に顔を背けて、整備道を走っていく車を意味もなく睨んでいる。かつての馬車をかたどっているかのような、鉄板で形作られた四角い車体が数台、駆動音を響かせながら過ぎ去ると、排気がふたりにまとわりつく。レイは無心で、ネルは不快さを露わにしながら、軽く咳をしたり、目の前の空気を手で払ったりする。
そのまま教室と列車の話が再開されることはなく、代わりに別の話が始まる。
「今日来た、新しい先生。どう思う」
「嫌い」
「即答だね」
「特に理由はないけど、いけ好かない、生理的に。コベット先生も別に好きじゃないけど、あの女は本当に嫌。論外」
「せめて先生って呼びなよ」
カレン・メルヴィルと名乗る女性教師だった。主担任ハンナの要望で、副担任としてレイたちの教室にやってきた。主に生活指導を一手に引き受けるが、数学と理科も教えるらしい。背はハンナと同じくらいだが目つきが鋭く、立ち振る舞いも常に毅然としているので、彼女の授業を受ける者たちの多くは威圧感を覚えた。レイとネルが、その例外だった。
カレンはふたりと初めて顔を合わせた時、虚を衝かれたようにわずかに体の動作を止めた。本当にわずかのことだったので、ハンナもネルも、誰も気づいてはいない。ただレイだけは気づいていたが、指摘する勇気も機会もなかったので、何も言っていない。
カレンの瞳の色がこの国で生まれ育つ者のそれとは明らかに異なっている点については、教室にいた全員が気づいていて、全員が触れなかった。本人からの告白も、何もなかった。謎のまま、彼女の素っ気ない自己紹介は終わった。
「僕も特にこれといった理由はないけど、嫌い、ではないかな。厳しい印象はあるけど、頼りがいがありそう、というか」
「あたしも頼りない男は嫌い。あんたのことよ」
「ネルって、嫌いなものがいっぱいあるんだね。そんなネルが一番嫌いなものって」
「何。自分自身、とでも言わせたいの」
「いや、もっとひねくれた答えを予想してた。『そういう質問』」
「あっそ。残念でした、違います。正解はこれ。『そういう予想』」
やがて、謎の新任教師の話題も町に薄く垂れこめる排気の中に消えた。ふたりはユロック駅にたどり着こうとしていた。ところが駅舎が正面に見えてきたところで、ネルが突然レイの手を引っ張り方向転換する。
「ちょっ、どこ行くの」
「道草しよ」
「えっ、だめだよ。刑事さんに心配かける」
「その刑事って、あんたの保護者だっけ。いいじゃない、いくら下っ端でも国のお仕事なんだから、どうせ今日も帰りは遅いに決まってる。日が暮れるまでに戻ればいいの」
ネルが歩けば歩くほど、道は入り組んだ路地ばかりになり、細く狭くなっていく。レイは女の子に手を引かれているのがどうにもきまり悪く、さりげなくほどこうとするのだが、ネルの握る力はかなり強かった。本気でほどこうとすればほどけたのだが、いつしか、諦めていた。つないだ手の過度な痛みが、まるでネルが離したくないと伝えているように、レイには思えたからだった。
「到着。ここ」
狭苦しい路地を抜けた先には、一軒の小店が建っていた。店先の看板には「ブルー・デイジー」という名があるが、何を売っている店なのかは外からだと初見のレイには判断できない。ネルはあっけなくレイの手を放し、いそいそと建物の中に入っていこうとする。レイもついていき、重たい木製の扉をふたりで開けた。からんころん、と間の抜けた鐘の音が鳴る。
店内には横に広い品棚が三つ並んでおり、小規模にまとまっている。小物や装飾品、書籍類に花売場の区画もある。要するに雑貨を売る店だ、とレイは見当をつける。客は少ないながらも入っており、全員が女性だった。
「お、来たね狼少女、っと。何よ、今日は可愛いボーイ・フレンドが一緒じゃない」
ふたりを出迎えたのは、腰回りに紺色の前掛けと頭にはバンダナを装った従業員らしき若い女性だった。足が長く見えるズボンと、底の高い靴を履いている。手の爪は赤く長く装飾され、耳には深緑のピアスが光る。声も女性らしい高さだが、外見に反して若干幼さが残る、少女というよりはむしろ少年らしい声色だった。レイは彼女の胸の名札から、女性がイザドラ・ケンドリックという名であると知る。
ネルはイザドラの前掛けを引きちぎろうとするかのように力をこめて引っ張っていた。
「次にその呼び方したら店中の売り物万引きしてやるって言わなかったっけ」
「できるもんならしてみなさいよ。セヴァリーさんにお説教してもらうんだから」
「その言葉、そっくりそのまま返す。そろそろ起きあがることすらままならないんじゃない、あのおばあちゃん」
「年寄り扱いするんじゃないよ、嬢ちゃん」
年寄り扱いなどされそうにないほど張りのある声と共に、老年の女性が控えの奥から姿を出した。顔も腕も皺が目立ち、頭の毛はすべて白髪だが、立ち上がったり歩いたりといった身のこなしは機敏で、やはり外見以外では年齢を感じさせない。こちらも名札から、デイジー・セヴァリーという名を読み取った。
デイジーはレイの顔を確かめるなり、朗らかな笑顔を浮かべる。
「ようこそ、セヴァリー雑貨店へ。坊ちゃんは、嬢ちゃんのお連れかい」
坊ちゃんという呼ばれ方を気にしつつも、レイは挨拶を返した。声が小さかったのか一度では聞こえず、計三回繰り返した。
「なんであたしの言うことは一発で聞こえるわけ」
「そりゃ、あんたの声が無意味に大きいから」
「誰にも聞こえないような声量で喋るよりかは良いでしょ」
「こら。ボーイ・フレンドのことまで悪く言わないの」
「決めたわ。あんたの乗る列車の運転が、ことごとく遅延する呪いをかけてやる」
いつの間にかネルとイザドラの会話が、まるでいつかのレックスとエルシーのような言い合いにまで発展している。レイは何も感じていない風を装い、店の売り物を見て回ろうと視線を動かしていく。
また、別の店員と目が合う。次の瞬間レイは、息が止まるほどに驚いていた。その店員が付けている名札には、エルシー・グリーンと刻まれているのだ。
「レイ君だ。どうしてここに」
「いや、その、それは僕が聞きたいです」
「あ、そっか。ごめんなさい、教えてなかったよね、私の仕事。この雑貨店で働いてるの。レイ君は今日、ひとりで来てくれたのかな」
「えっと、学校の子と一緒です」
エルシーの栗色の長髪は髪留めで束ねられ、前髪も後ろになでつけられている。普段抱いていた印象とは大きく変わっていたので、レイは初め、エルシーだと気づかなかったほどだった。だが彼女の、ぎこちなさが見え隠れする微笑みはそのままで、レイの心は安定を取り戻していた。
エルシーによって、イザドラとデイジーにレイのことが改めて紹介された。エルシーはレイが中央にやってきた目的をまだ、よく知らない。何か大事なことのために、とだけレックスから聞かされている。エルシーの説明は曖昧になった。詮索されるおそれのある表現は避けられ、アパートの隣の部屋に住んでいる男の子、という簡潔な一文で済まされた。イザドラたちは少しの疑いも持たず、レイを新規顧客として好意的に受け入れた。
一方のレイ本人は、一日のうちに複数の新しい情報が頭に詰めこまれた。級友の誰とも仲良くなれないだろうと見ていたネルが、学校以外に居場所を作っていたことを知った。アパート「アップル・ヤード」の二階に住んでいて、レックスと何か関係があるという程度しか分かっていない、謎多き隣人エルシーが、ネルの居場所に同じく属していることを知った。
まだ、ネルとは本当の友達になれていないことを知った。
レイはネルと他愛ない話を重ねれば重ねるほど、自分のような人間にも、友達というものを新しく作ることが簡単にできるだろうと思うようになっていた。だが今日レイは、イザドラがからかい、ネルが激怒し、エルシーがなだめ、デイジーがにっこり笑う、その楽しげな輪の内側に、なんとなく入っていけなくて、何も言わずに立ち並ぶ棚の中の品物を眺めて回っていった。
ある場所で、機関車を独自の意匠でかたどった、細く短い鎖つきの装飾品が吊り下がっているのを見つけて、レイは目が釘づけになっていた。鎖の反対側の先には金属製の輪が引っかけられている。造形は機関車を簡略化した極めて簡素なもので、これといった特異点があるわけでもないのだが、一目見て、レイの気に入っていた。
「そのキー・チェーンがお気に召されたようでございますね、お客様」
エルシーがレイの隣まで来ていた。
「これは、どういった用途の商品ですか」
「えっとね。家とか、車とかの鍵を束ねるのに使うの。輪っかだけのものもあるけど、これには飾りがついてる。可愛いでしょ」
「車にも、鍵があるんですか」
「そうみたいだよ。エンジンを動かすために、車の中にある鍵穴に、鍵を差しこむんだって。レックスが教えてくれたの。私は車の運転なんか、とてもじゃないけどできないから、よくは知らないんだけどね」
「僕も知りませんでした」
レイはこの機関車のキー・チェーンを買うことにした。所持金では足らず、エルシーに半額を出してもらった。レイは早速、アパートの部屋の鍵を輪に取り付けた。鎖で繋がれる機関車と錆びた鍵が鉄の輪を中心に踊るのを見ながら、レイはほんの少しだけ顔をほころばせる。
「何嬉しそうな顔してるの。ガキじゃあるまいし」
ネルと、イザドラまでもがレイのところにまで近寄ってきていた。デイジーは奥の控えに戻ったのか、売り場にはもういない。
「装飾具で鍵を束ねておけば、失くしにくくもなるんだよ」
「そんなの、鍵をひとつしか持っていないなら意味がないじゃない。あんた、将来は車でも乗り回すつもりでいるわけ」
「乗り回さないよ。僕は自動車よりも機関車のほうが好きだから」
「へえ、君、機関車が好きなの。じゃあ、将来は機関士かな」
まだまともに会話したことのないイザドラの何気ない問いに、レイははっきりと首を横に振り、否定を示す。
「運転は、あんまり。造りたいです」
「ほう、造りたいときたか。つまり車体設計ね。畑は違えど、私と同じ種類の人間ってわけだ」
「どういうことですか」
「私、大学で鉄道経営学を専攻してるの。ざっくり言うと、機関車そのものよりかは、どの場所にどういった形状の線路をどれぐらいのお金と人材を投入して敷設するか、といったような、鉄道の運営を考える分野ね。ついでに自慢すると、ここからすぐ近くのユロック大学の学生なの」
レイは彼女の言う、ユロック大学という学校名に聞き覚えがあった。調べ物のために訪れた国立図書館で出会った、モーゼズという大学教授。彼の勤める大学がそれだった。レイはモーゼズの言葉を思い起こす。君が我が大学の門を叩きに来る日を待っている、と彼は言っていた。
レイは図書館でのモーゼズの件をイザドラに打ち明けた。レイの予想に反し、イザドラはあまり驚きはせず苦笑する。
「もう、教授ったら。どこで油を売ってるのかと思ったら図書館か。しかもまさか、君のような幼気で純朴な少年を大学に勧誘していたとはね」
「大学には、あまり顔を出さない人なんですか」
「まあね。いつもいないってわけじゃないんだけど、ふと気づくと、どこかに行ったきり何日も戻ってこない時が何度もあって。行き先を尋ねても、頑なに教えてくれないのよ。たぶん裏で何か怪しい取引を進めているんだわ、きっとそう」
「えっと。ケンドリックさんは、モーゼズさんにその、鉄道経営学というのを教わっているんですか」
「イザドラでいいよ。そうね、でもそれだけじゃない。特に詳しいのは鉄道工学らしいけど、この国の鉄道に関して知らないことはないってぐらいに、教授は万能なの。なんてったって、あのイーグルの機関車の設計に、オズワルド・イーグル氏と共に尽力したという偉大なる実績をお持ちなんだから」
鎖に繋がれた鍵がレイの手中を飛び出し、金属音を鳴らした。危うく取り落としそうになる。
「あのっ。会いたいです、モーゼズ教授に」
「もしかして、今すぐに」
「可及的速やかに」
「悪いけど、無理だと思うよ。明日なら研究室に来るかもしれないけど」
「では明日の朝、大学に伺ってもいいですか」
「君、見かけによらず結構積極的だね」
イザドラだけでなく、レイをよく知るエルシーやネルも唖然としている。レイ自身すら驚いて、節操のなさに恥ずかしさを覚えるが、それでも懇願をやめようとしない。イザドラも初めから断るつもりはなかったのか、レイの要望通りの時刻に大学の正門の前で待ち合わせる約束を交わした。
帰り際にレイはネルに、大学へ一緒に行かないかと誘ったが、ネルは短い言葉で断り、レイのもとを去っていった。彼女の態度にとげがあるのはいつものことだが、この時はどこか寂しそうだったと、レイは後でなんとなく思った。思ったのだが、あまり深くは考えずに終わった。
翌日、レックスの出勤後、レイは出発予定の時刻より少し早めにアパートの部屋を出た。休校日だが、ユロック大学付近には朝から学生たちの歩く姿がある。のちにレイはイザドラから聞かされることになるが、自主性を重んじる校風であり、教師からこれを学べと強いられるのではなく、学生ひとりひとりが自ら学びたい分野を選択し、いつでも好きな日に講義を受けたり、自己学習に励んだりする学びのあり方が実現しているという。
「私みたいにやりたいことがはっきりしてるんだったらとても素敵なところだけど、そうでない人にとっては、この上なく苦痛でしょうね。誰も何も指針を示してくれないからさ。自由すぎるのよ」
私服姿のイザドラと門扉の前で合流し、レイは興奮を抑えつつ構内へ入っていく。ユロック大学校舎は広大な中庭を囲むように建っている。中庭は中心に噴水を構え、葉をつけた立ち木によって彩られている。庭の面積の約半分を占めるのは、古びた旧式の機関車だった。過去に実際に運行していた車両が経年劣化を受けて、通常であれば廃車にされるところを大学が買い取り、以後は大学の、ひいてはこの国の教育を象徴するものとして飾られている。車体は無数に生い茂る鮮やかな緑の草花に周りを囲まれ、穏やかな陽の光を浴びている。レイはその光景を、強く印象に残した。
レイは紛れもなく部外者なので、必要以上に目立つ行動を取ることは許されず、イザドラによってまっすぐに目的の部屋へと連れていかれる。校舎西側一階の隅を陣取る「鉄道工学第三研究室」という比較的小さな空間だった。室内は研究資料や書籍類で乱雑に散らかっているが、紙よりも鉄の匂いのほうが勝っている。機関車の部品も研究材料としてこの部屋に多数の種類が保管されているようだった。奥の板書は書き殴ったような数式で埋め尽くされているが、レイには少しも理解できない。
見たところ、モーゼズはいない。
ところがレイは人の気配を感じていた。耳を澄ますと、どこからか寝息が聞こえてくる。レイはそれを伝えようと思い、イザドラを見上げた。彼女は顔を片方の掌で覆っている。
「また泊まりか、あいつ」
イザドラは苛立たしげに部屋の奥の机まで歩いていくと、物陰に向かって大声で怒鳴った。
「ちょっと、アルフ。あんた、大概にしなさいよね。そんな生活してたら死ぬよ、冗談じゃなく」
物陰から、青年が姿を現した。
整った顔立ちをしているが、金髪は激しく逆立っていて、服も数か所が煤らしきもので黒く汚れている。イザドラの怒号を彼は、ものともしないようで、大きな欠伸ひとつと共に頭をさすった。
「朝からそんなに声を張り上げることはないじゃないか、イザドラ。僕が何か君に怒られるようなことをしたのかい」
「怒るっていうか、呆れてるんだけど。勉強熱心なのは結構だけど、せめて夜は家に帰りなさいよ。どうせ、ご飯もろくに食べてないんでしょ。なんだか、いつにも増して痩せて見えるし」
「いつにも増して元気だな、君は。って、おや」
青年がレイの存在に気づいた。レイは警戒態勢に入る。レイとしては気配を消していたつもりだったのだが、青年は一瞬で勘づき、だらしなく垂れる髪の間から鋭く光る目をのぞかせていた。
「随分と小さな新入生がいるね」
立ち上がる青年の前に、イザドラが立ちはだかる。
「私の連れよ。レイ君っていうの。前に話したよね、アルバイト先の常連のネルちゃんって子。彼女のボーイ・フレンド」
「違いますけど」
「すぐさま否定されたじゃないか。今の反応速度を見たかい。谷底に銀貨が落ちるよりも遙かに早かったよ」
「馬鹿ね、照れてるのよ」
「どうでもいいが、どうしてここに」
「さっきの新入生っていう表現、あながち間違っちゃいないわね。考えてみれば」
「ふむ、いいだろう」
青年の口角が上がる。レイは青年にじろじろと見続けられ、機嫌を損ねた。同時に、イザドラはどうしてすぐに自分の素性を青年に明かさないのか疑問に思った。考えてみろと要求を出され、青年は青年でそれを素直に受け取り考えている。
「どこの誰かは知らないけど、僕らと同じ機関車が好きな人間であることは間違いなさそうだね」
「根拠は」
「彼、僕に発見されて身構えるために一瞬体を動かした。その時見えたんだ。彼のズボンのサイド・ポケットに繋がれたキー・チェーンに、機関車を模した装飾具が施されているのをね。そもそも、こんな大学に学生でもないのに入ってきている時点で、何か機関車に関する、彼にとって退くことも避けることもできない目的があるのでは、と、とりあえず仮説を立てられる。彼は見た目からして年少者だけど、入学もしていない学校内の敷地に踏み入る行為が普通か否か、判別ができないほど幼いというわけでもないだろうし。イザドラの『新入生という表現、あながち間違っちゃいない』という先ほどの発言も、僕の仮定の確度を上げる手助けをしてくれるだろう。君はきっと彼をこう紹介するつもりだったはずだ。『いつかこのユロック大学の新入生になるであろう少年だ』とね。だから『あながち間違っちゃいない』などという表現を用いた。現在は学生ではないが、未来では学生になっている可能性があるという意味を加味するために。また、この大学に入るからには、ほぼ確実に機関車分野への知的好奇心を多分に持っている。それも入学可能な年齢に達するのを待ちきれず、雑貨店で働く君にこうして連れてきてもらうほどに。おそらく僕や君の想像以上に、彼の状況はかなり差し迫っているだろう。そうして訪れたのが、この『鉄道工学第三研究室』ときた。打ち出される答えはこうだ。彼はこの部屋に頻繁に出入りする人物、つまりモーゼズ・ガフ教授に会いに来た。彼と教授が、どこでどうお近づきになったのかは、材料がないから推測のしようがないけどね」
「他に何か」
「いや。以上だ」
青年の主張が終わると、イザドラは何事もなかったかのようにレイの方へ向き直った。
「どうだった、レイ君。こいつの推論に何か間違いはあるかしら」
呼びかけられてレイはすぐに答えることができず、少しの間ののちに、ようやく声を出せるようになった。
「あ、はい。特にないです」
イザドラが小さく舌打ちをした。
青年は大きく欠伸をしながら、寝癖で乱れた髪を手でさらにかき乱している。
「おい、舌打ちはないだろう、イザドラ。これくらいの組み立ては肩慣らしにもならないよ。本気で大会の優勝を狙うのならね」
「大会って、なんですか」
「討論大会よ。秋の文化祭の一大行事なの。ある議題を二派に分かれて議論し、より論理的な意見を断案として導き出し、議場に出すことのできたほうの勝ち。その議論の判定者がモーゼズ教授、ってことになってるから、こいつも張り切ってるのよね。こいつさ、教授に勉強を教えてもらってるくせに、やたらと教授を敵視しててね」
「いつまでもこいつ呼ばわりはよろしくないし、客人の手前、名乗らせてくれないか。ユロック大学二回生鉄道工学専攻、アルフレッド・デイトンだ。レイ君とは今後、是非とも親しくさせていただきたい」
青年アルフレッドはレイと視線の高さを合わせるためにしゃがみこみ、握手を求める。迷いのない自信に満ちた笑みに、レイはたじろぎつつも右手を返す。
「えっと、僕はレイです。こちらこそ、よろしくお願いします。アルフレッドさん」
「長ったらしいからアルフでいいよ」
「それは本人が言うことであって第三者である君が言うことではないだろう。レイ君を送り届ける以外に用がなければ、早く経営学の教室にでも行ったらどうだ。僕は彼と話がしたいんだ」
「初対面の男の子と何を話すってのよ」
「決まっているだろう。〈落日急行〉だ」
レイは、アルフレッドの言う言葉の意味がよく分からない。イザドラは表情を険しくすることで、苛立ちを剥き出しにする。
「アルフ、もうやめて」
「何をだい」
「遊び半分で首を突っこむようなことじゃないわ。不謹慎よ。大体、どういう流れでレイ君とそんな話をしようと思ったの」
イザドラの鋭い声に、冗談めいたものは含まれていない。しかしアルフレッドも、ふざけているのではなかった。
「誘い掛けのつもりだったんだけど、先ほどのイザドラとのやり取りの中で、僕は故意に『谷底』という単語を使用している。その時の彼の反応を横目で見ていた。動じていないように見せかけてはいたが、明らかに無意識作用が確認できた。顔の筋肉が一瞬強ばったんだ」
「それが何」
「ここまで提示しておいて、まだ分からないというのか。僕は彼が教授に会うためにこの部屋に訪れたと知ってから、ずっと考えていた。彼のような年端もいかない少年が、高名な大学教授に多少強引な手段を取ってでも接触を図ろうとする理由を。試しに即席で簡単に鎌をかけさせてもらった。結果は得られたものの程度は低いし、判断材料としては弱い。話が繋がるように言い直すと、これは僕の想像であり論理的思考に基づく主張ではない。陳腐な表現をすれば僕の直感だ。だから推論には加えなかったが、それはそれ、これはこれ。事実を確認する価値はある。言おう。レイ君はなんらかの目的で、去年、北部渓谷で発生した機関車事故の真相を調べているのではないか。そう考える」
全身を揺さぶるかのような激しい心的衝撃が、レイを襲っていた。反応として表に出すのを隠すこともできず、アルフレッドに無言の肯定を示す。満足そうに同じく無言で頷くアルフレッドに反して、イザドラは疑わしげな態度を保ったままだった。
「こんな小さな子がね」
「初めに理由を確認しておこう。答えたくなければ構わない」
「ごめんなさい」
「了解。即答というところに好感が持てる。今後も無粋な詮索は一切しないから、安心してほしい。何はともあれ、僕とレイ君は同じ目的に向かい歩む者同士だ。やはり交友関係を持っておきたい」
アルフレッドがあまりに早く事を進めるので、レイはしばらく勢いに圧倒されていたが、少しずつ平常心を取り戻していった。
「僕からも発言させてください。いろいろと聞きたいことがあります」
「どうぞ」
「僕は話さないのに尋ねるというのも、おこがましいとは思うのですが。アルフレッドさんは、どのような目的があって、僕と同じことを調べているのですか」
「来ると思っていたよ、その質問。別に、大層な事情はない。感情としては怒りと言い表すのが近いだろうね」
「何に対する怒りですか」
「この国を生きるすべての人たちに、だよ。あれから一年もの月日が経過しているというのに、公表されている事実といえば、渓谷にかかる鉄道橋が崩壊していたことぐらいだ。単に機関車の重さで壊れた、などという信憑性の欠片もない説がひとり歩きしているようだが、それが正しいのか間違っているのかすら明らかになっていない。一体警察はどこをどう捜査しているんだ。仮に、捜査は着実に進行していて新事実も浮上してきてはいるが、国民の混乱を防ぐ目的で今まで公表を控えているのだとしても、やはりおかしい。ラジオや新聞での報道も最近ではすっかり沈静している。叙情的な隠語まで作って、さんざん騒いでおいてこれだよ。まあ、新たに報道することがないだけなのかもしれないが」
「じゃ、じゃあ、〈落日急行〉って」
「そう。警察及び報道関係者間で使われる、北部渓谷機関車転落事故の別称さ。事故が発生したと推定される時刻が、ちょうど日の入り頃、谷は赤い夕景に染まっていたことからその名で呼ばれるようになったらしい。落日、だなんて終局を暗示するような語句に急行とくっつけるあたり、いかにも文学的表現だとは思うけどね」
「その警察や報道関係者が使っている別称を、どうして大学生のアルフレッドさんが知っているんですか」
ここまで絶えず口を動かし続けていたアルフレッドが、初めて黙った。しかし挑戦的な笑みは崩れずに保たれている。イザドラは愉快そうに歯を見せて笑っている。
「残念だったわね、アルフ。レイ君のほうがあんたよりも上だったってわけだ」
「僕は、アルフレッドさんとイザドラさんとの会話を聞いていました。アルフレッドさんだけではなく、イザドラさんもその言葉を以前から知っているみたいに思えました」
「ええ、アルフから聞いたの。私もレイ君と同じように問い詰めたんだけど、なかなか口を割らないんだよ。そういった情報を仕入れてくることができるような、危ないところに出入りしてるんじゃないか、ってね。もし本当にそうなら最悪の場合、退学は避けられないよ」
「どうして君がそんなに嬉しそうなのか、理解に苦しむけど。まあ、その、時期が来たら話すよ」
「あ、そう。自分にだって話せない秘密があるくせに、この国の、大事に隠されているかどうかも定かでない真実とやらを暴こうと勝手に躍起になってるんだ」
「個人と国家を一緒くたにするなよ。とにかく今は話したくない。僕にだって論理的でない時はあるんだ」
「それより気になるんですが、さっきの言葉は、イザドラさん以外に教えたりしていますか」
「教えていない」
「良かったです。一般に広く周知されていない情報は、自分がよく知っている人に対してでもあまり口にしないほうがいいと思います。相手を信用しているかしていないかの話ではなく、事を荒立てるだけですから。あくまでも念のため、ではありますけど。すみません、生意気でした」
「い、いや。問題はない。君の意見の通りだ。忠告ありがとう、気をつけるよ」
アルフレッドが議論の中でひるむ姿を見るのが、イザドラは初めてだったようで、この状況をもっと楽しんでやろうと言わんばかりに、近くの椅子に座り足を組む。
以下、レイとアルフレッドの声量が落ちる。
「ところで、しつこいようですが例の隠語、モーゼズ教授は知っているんでしょうか」
「どうだろう。教授はイーグルの機関車の設計に携わった者のひとりだ。関係者であることは間違いない。耳にしている可能性はあるね。断言するが、僕からは言っていない」
「アルフレッドさんが、イザドラさんとの会話の中で使っているのを偶然聞いた、なんてことは」
「できる限り注意はしていた、としか言えない。大学では口にしていない、学外で何度か。盗聴でもされていたら、この配慮は水泡に帰すが。さすがに空想が過ぎるけど」
「でもさっき、思い切り言い放ってたじゃない」
「そこの書き置きを見ろ。教授は今日、会合で終日、大学には来ない。急遽決まったらしいよ。確かだ」
黒板前の机の上の中央にある一枚の紙を、アルフレッドが指さした。流麗な筆記体で伝言が残されている。
「あら、そうなんだ。ごめんね、レイ君。せっかく教授に会いに来てくれたのに」
「いえ、大丈夫です。それならそれで、アルフレッドさんに確かめたいことがあります。イザドラさんを含めた他人に〈落日急行〉という言葉を口に出す際、第三者に注意を払っていた理由を教えてください。単に対象でない人物に聞かれたくなかっただけなのか、それとも、教授に聞かれたくなかったのか」
アルフレッドは口に手を当ててからしばらく下を向いた。レイとイザドラが何事かと心配し始めると、低い笑いをだんだんと大きくしていった。アルフレッドはイザドラ以上に、この時間を楽しんでいた。
「そこまで、たどり着いているとはね」
「えっ何、どういうこと」
「理解力がないな、君は。面倒だから簡潔にいこう。彼は、僕が知っている情報のうち、教授の知らない情報が教授の耳に入ることを懸念している」
「どこが簡潔なの。もっとまとめて」
「彼は、教授を信用していない」
「会いに来ておいてそれはないでしょ」
「正しくは、教授を信用しようとするのを思いとどまっている。僕の教授に対する態度や行動を見聞きして、それに何か経緯があるのではないか、信用するのはそれを確認してからでも遅くはないのではないかと考えている」
イザドラは足を組み替えた。不機嫌そうな表情を作っている。
「待って。そもそも、なんで教授を信用する、しない、の話になっているのかしら。確かにレイ君にも冗談で言ったことはあるよ。今日みたいに突然どこかに行っちゃうから、私たちの知らないところで何かやってるんじゃないか、とかなんとか」
「それもあるけど、もうひとつ。あの人は何も語らなさすぎる」
「まあ、お喋りな人ではないよね」
「そういう意味じゃないよ。モーゼズ教授は歴とした事故の関係者だ。当時、教授は報道各社から質問責めに遭っている。質問は、事故の発生原因や事件性の有無などといった、核心をつくものだった。ところが教授は、それらすべてに一切答えず完全黙秘を貫いた。『この件に関する、あらゆる質疑への回答を拒否します』と。イーグル氏の事業計画に助力した数少ない人物だ、ある程度の交友はあっただろうし、機関車の設計不備などという当て推量を全否定し、亡き氏の矜持を保つぐらいはするべきだろう。今や本人がそれをすることは不可能なんだから」
アルフレッドの顔を見上げ続けて首が痛くなったレイは、顔を足下に向けて休ませる。首ではない別のところも少し痛む。
「それこそ、レイ君の忠告の通りじゃない。これ以上騒ぎにならないように、余計な発言は控えたってだけの話。矜持だかなんだか知らないけど、発生原因さえ未確定なまま勝手に持論を言い張られても、迷惑よ」
「未確定ではあるが、機関車の重量過多が原因であるという説は間違いなく誤りだ。それを明言してくれるだけでも良かった。現状から一歩か二歩、前には進めていたはずだ。でもこの黙秘は騒ぎを静めるどころではなく、反対に混乱を助長している。討論と同じだよ。先のレイ君の意見を無視するわけじゃないが、いつまでも黙っていては流れを変えられない。意見を述べなきゃ」
レイは首の痛みが増した気がして、後ろから軽くさするが、気のせいだった。
「ある日突然いなくなるし、事故について何も語らない。で、何。結局あんたたちはモーゼズ教授をどう思ってて、どうしたいの」
「気乗りしないが、せっかくレイ君もいるし、ここまで来たんだ、展開しよう。これまで問題なく通行できていたのに、ある日突然鉄道橋が機関車の重さに耐えきれなくなって崩壊した、そんなことはあり得ない。しかし現に橋は崩れている。機関車は橋の崩壊と共に谷底へ転落している。この事実は揺るがない。考えられる可能性はおそらくひとつ。事故は何者かによって故意に引き起こされたんだ」
「まさか、教授がその何者かである、とか言い出すんじゃないでしょうね」
「現時点で、そこまでは断定しない。一気に飛躍しすぎだよ」
「でもそうやって警戒するぐらいには、疑ってるんだ。アルフも、レイ君も」
イザドラとアルフレッドは、レイの言葉を待っていた。レイは依然うつむいていて、次に何を言うべきか慎重に吟味していた。
レイは、この場で選択を迫られていることに気がついていた。
「教授が良くない意味で事故と関わっていると断定できないのは、当たり前です。また、事故が人為的なものであるという断定も、まだ、できないと思います」
「どうして。君まで、事故の真相は鉄道橋の自然崩壊だった、とでも言い出すわけじゃないだろう」
「可能性がないとは限りません。それに、たとえば谷で強い横風が吹いていたとしたらどうですか。北部渓谷鉄道橋には、設計の都合上、防護柵がありません。橋が壊れていたからといって、その壊れた箇所から機関車が転落したと言い切ることはできません。そこへ到達する前に脱線し、落ちたのかもしれない」
「そんなことを言い出したら、推論を組み立てることなどはなから不可能だ。何かひとつ仮定しなければ先へ進めない」
「はい。不可能です。与えられた手がかりが、あまりに少なすぎるから。少なすぎる手がかりをもとにした仮定は無意味です。推論とは、有力な手がかりを集められるだけ集めてから初めて組み立てを始めるべきものだと、僕は思います。それも、誰もがそうであると認める、客観的事実に等しい絶対的な手かがりを使って、です。僕はもちろん、きっとアルフレッドさんも事故が発生した瞬間を目撃したわけではないですよね。あの日、北部渓谷で本当は何が起こったのか、そもそも実際に自分の目で見てもいないのに正しく突きとめられるわけがない。百聞は一見に劣ります。でも事故はもう、過去の出来事です。一見が不可であるならば、残された道は百聞しかない。だからこそ正確を期すべきなんです。一見により近づくための百聞が必要です」
アルフレッドの表情が、とうとう凍りつく。年下に反論された屈辱を隠そうと、わざと髪を前に垂らして視界を遮断した。
「このふたり、面白いわ」
イザドラは事の成り行きを見守っている。レイはその反応でふと我に返り、顔を一気に赤らめて、たどたどしく話した。
「あっ、あの、ごめんなさい。アルフレッドさんの考えを否定しているわけじゃないんです。あくまでこれは、僕の意見なので。要するに僕は、その絶対的な手がかりが欲しいんです。だからモーゼズさんに会いに来たし、こうしてアルフレッドさんとも話をしています。僕は、誰かを頼ることしかできなくて」
「今更、無能ぶるなよ」
アルフレッドの声色は荒ぶっていたが、怒っているのではなく、驚喜していた。垂れ下がっていた前髪が勢いよく振り上げられ、彼の晴れやかな顔が露わになる。挙げ句レイに人差し指を突きつけた。
「決めた。必ず〈落日急行〉の真相を暴いてみせる。無論、君と一緒に。こんなにも僕を奮い立たせてくれたのは君しかいない。心から礼を述べさせてもらう。ありがとう。これからも、よろしく頼むよ」
「は、はい」
「よし、こうしてはいられない。この鉄道工学第三研究室に調査本部を立ち上げる。おそらく長期間に及ぶだろうから、レイ君がいつでも大学に出入りできるよう、大学側と交渉しなければね。幸か不幸か、すでに教授はレイ君と面識があるみたいだし、もっともらしい理由を作ることなど容易だろう」
「その必要はないよ」
優しい声と扉の開かれる重たい音を交えて、モーゼズが研究室に入った。
得意げだったアルフレッドの顔が、元の表情を保持したまま引きつる。
レイは、心臓がどくんと脈打つのを感じる。
何事もないのはイザドラだけで、真っ先にモーゼズへ飛びついた。
「あれっ、教授。会合はどうされたんですか」
「うん、予定では昼過ぎからなんだけど、ちょっと私物を取りにね。どう聞いても大学生諸君にしては幼い声が聞こえてくるものだから、いつ入室しようか迷ってしまったよ。すべての内容を聞いたわけではないけど、熱心に語らっていたようだし」
「つまり、話を中断させるためにこの部屋へ入ってきた、と」
一呼吸置いた後のアルフレッドの牽制に、モーゼズは微塵も動じない。
「そんなことは一言も言っていないだろう。やはりアルフレッド君は人の話を曲解する嫌いがあるね。そんなことでは、討論大会で優勝などできないよ。もっと物事を単純に受け入れるといい」
「すみません。何事も疑ってかかる性分でして」
「相変わらずだね。ともかく、私が不在だからといって勉学を疎かにしてはいけない。無関係の少年を構内に招き入れて談笑している暇はないはずだよ。さあ、イザドラ君、彼の家まで送ってあげなさい」
「それなら僕が」
「送ると言いながら、そのまま話の続きにかこつけるつもりだろう。まだ会合まで時間もあるし、少しだけ勉強を見てあげてもいいよ」
アルフレッドはそれ以降、反抗的な発言をすることはなかった。
イザドラがレイの手を引き、研究室を出ようとする。
すれ違いざま、モーゼズが小さく言った。
「ここに来るのは、まだ早かったね」
レイはもともとモーゼズに会うためにユロック大学へ来たはずだが、彼に対して一言も発せないまま門の外へ出ていた。それどころか、イザドラに手を引っ張ってもらうまで、その場から動くこともできずにいた。呼吸すら少しの間、忘れてしまっていた。
イザドラとレイが研究室に入った直後、扉を閉めたのはイザドラの後に続いたレイだった。
その時、扉を隙間なく閉めたかどうか、どうしても思い出せなかったのだ。
「ああ、面白かった。君、すごいよ。あの論理馬鹿、アルフレッド・デイトンを言葉でねじ伏せるなんて。ねえ、もう一度見たいからさ、また大学に遊びにおいで。教授の大学出欠情報はセヴァリーさんの雑貨店に来てくれれば教えるからさ」
イザドラの楽しそうな言葉を受け流しながら、去り際、レイは再び中庭の機関車に目を向ける。草花のうち一本が長く伸びて、車輪にまとわりつくかのように絡まっているのが見えた。それ以外にも背丈の高い草が、車体の周りに多い気がした。